かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ -54ページ目

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年10月1日(土)19:00開演のキッズ☆クルー&人形劇団なみ『雪わたり』についての劇評です。

10月1日夜、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房でキッズ☆クルー&人形劇団なみによる演劇公演「雪わたり」(宮沢賢治原作、林美智江脚本・演出)を観劇した。大人の芝居を見慣れた者にはセリフのやり取りがのんびりし過ぎるようにも感じられる。厳しい稽古で子どもたちを鍛えて、もっと間を詰めさせることもできただろう。実際にそういう児童劇団は多いはずだ。しかし、この演出家は子どもたちの速度を生かそうとした。好奇心に満ちた二人の少年が世界を少しずつ学んでいくテンポがこの作品を支配している。このゆったりとした時間の流れでなければ、キツネに声をかけてみようなんて突拍子もない思いつきは少年たちの心に芽生えなかったのではないかと信じられてくるから不思議だ。

十一歳の少年ユキオとシロウは「キツネの子は嫁ほしい、キツネの子は嫁ほしい」と森に向かって親密な愛情のこもったからかいの言葉を投げかける。二人はなぜキツネを呼ぼうなんて思ったのか?その日の状況を振り返ってみよう。雪が積もって世界は白一色に覆われ、道はキンキンに凍ってどこまでも歩いて行けそうだ。たそがれ時。澄み切った冬空の下で一緒に遊んだお姉さんたちはもう家路に着いた。普段なら心細くなり、急いでみんなを追いかけるはず。けれども、二人の脳裏にはなぜか、こんな日に森のキツネたちはどのように暮らしているだろうという問いが浮かんだ、世界を知りたいという激しい衝動とともに。一方で人間によってひどい目に遭わされた経験を親から聞かされているはずの子ギツネ・コンザブロウは、なぜ二人の呼びかけに応じて姿を現したのか?さまざまな偶然が重なって実現した出会いの有難さに胸が高鳴る。

森の奥では人間の少年たちを特等席に座らせ、キツネの子どもたちによる学校祭が始まった。鼓笛隊のジャズ演奏、キツネと人間の交流を描いた芝居、そして特別に招いた先生の講演。先生の口からは死に対する鋭い感覚とそれでも四季折々に移り変わる森を見れば絶望しなくてもいいこと。人は森に包まれ、森は光に包まれ、光は宇宙に包まれることなどが語られる。森を仲立ちとして人間とキツネは意外にも世界を共通の感覚で把握しているのではないかと感じさせられる。それなのに人間はキツネが一生懸命に作ったきびだんごを「ウサギの糞」などとバカにすると子ギツネたちは訴える。そこには異文化への差別や相互理解への頑迷な拒否といった深刻な問題もはらまれている。

キツネたちは学校祭に続いて卒業式を執り行う。ここを離れてもっと深い森へ行くのだと二人に別れを告げる。明治維新以降、絶え間なく拡大してきた人間の欲によって野生動物たちの生活圏が脅かされてきた状況が反映されている(だが、時代は反転した。現在の日本では少子高齢化が進み、人に代わって野生動物が再び主役になりつつある山里も出てきたという)。あるいは辺境へ追いやられた少数派の人たちの窮乏も投影されているのかもしれない。大人になるにつれ、(何かもったいぶった理由をつけて)分断されることに疑問を感じなくなるらしい。キツネのきびだんごを口にする勇気はやはり十一歳以下の子どもにしか持てないのだろうか。


<初演時の劇評はこちら>
この文章は、2016年10月1日(土)19:00開演のキッズ☆クルー&人形劇団なみ『雪わたり』についての劇評です。

 金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第1弾(10月1日、2日)として『雪わたり』(作:宮沢賢治、脚本・演出:林美智江)が行われた。

 今作はキッズ☆クルーと人形劇団なみという二つの団体による共作で作られている。人形劇団なみは1993年金沢で結成され、地域のイベントや各地の人形劇フェスティバルを中心に活動しているそうだ。もう一方のキッズ☆クルーは芸術村開設の翌年97年度、演劇を通したコミュニケーションワークを主に年単位の小中学生向けプログラムを行うドラマ工房主催事業として立ち上げられ、翌98年に第1回の公演を行い現在も活動が続いている。まさに20周年記念に相応しい団体と言えるだろう。

 作品は原作そのまま上演するのではなく、狐の子供と人間の子供が出会い交流を通じてわかりあう所を骨格として残しつつ違った内容となっている。
 作中子供たちに請われるという形で2体のパペットを使った人形劇が織り込まれ、原作では幻燈会であった箇所などが狐の学校の発表会、狐たちが違う森に移る卒業式になっており、その出し物として狐たちによる演奏や新見南吉の『手ぶくろを買いに』が劇中劇として演じられた。それらを通し語られたものは自然や生き物、生命といった宮沢賢治の世界観を匂わせるものであり大きく書き換えられているとはいえ一つの作品として成立していたように思える。
 そして何よりも、舞台上の子供たちから上手に演技したいという願望やお芝居していること自体の楽しさ、稽古による蓄積などが見え、一生懸命演じる子供たちに微笑ましいものを感じてしまう。大人達スタッフの努力もあるのだろう、レベルが低いということは決してない。

 ただ、全作品同一料金という演劇祭のプログラムとして扱うとなると、子供たちが演じているからとバイアスをかけこの作品だけ別とすることは出来ない。
 冒頭に狐たちが踊る姿は振り付けであり、指示の通りに動いている感が否めない。仕草などの動きも含め似たような状況が作中に幾度となく見られた。遠くを見つめる視線の先が定まっていないのだろうか方向や目から見える距離感がバラバラであったりもする。そして先述した人形劇を見る子供たちの中に客席に目を遣ってしまうという素の姿が垣間見える場面もあった。それらを総合してではあるが「非常に出来のいい学芸会」に見えてしまう。この先上演される他作品のクオリティが高いかまだ不明な段階であり、子供たちが演じるものとしてレベルも低くはないのだが今回のシステムの中に組み込んだことに違和感を覚える。
 活動目的からいえば質を追い求めていないのかもしれないが、同じ土俵に立つからには、子供たちが楽しくやると同時に演技全てを彼ら自身が立ち上げ直し、俳優として舞台上で作品を構築するレベルまで持っていくなどクオリティに対してももっと意識するべきだったのではないだろうか。

この文章は、2016101日(土)19:00開演のキッズ☆クルー&人形劇団なみ『雪わたり』についての劇評です。

 

キッズクルーと人形劇団なみによる、なによりまずは、キッズクルーが演劇で何かを見つけるための芝居。それが、キッズクルーと同じ子ども達と、かつて子どもだったことを忘れている大人達のための芝居にできあがった。

 

キッズクルー&人形劇団なみによる『雪わたり』は、宮沢賢治の童話を元にした作品である。舞台は、通常の演劇公演ならば客席が設置される後方、その右隅から、三角形に作られていた。壁には白い布、二階や、二階へ登る階段からも白い布が下がっていて、それは落ちそうな雪や氷柱のようだ。白く覆われた床の上には、円筒形の椅子のようなものがいくつか見られる。

 

雪を踏みしめて歩く子ども達は、人形使いが操るところの小さなキツネに出会う……と思いきやそれは、本当に人形使いのおじさんと人形のキツネだった。たくさんの子ども達に、飴を配るおじさん。そして、黄色と水色の猫を両手に、笛を口に、言葉の無い人形劇が始まる。笑いながら見ている子ども達。劇が終わるといつのまにか、おじさんは消えていた。キツネに騙されたのではないか。子ども達は不安になる。

おじさんが行くと言っていた森の向こう。そんな遠くに何があるのだろう。シロウとユキオは森へと進む。二人はキツネを呼ぶ歌を歌う。それに応じるように現れたキツネの子。キツネの子は、二人をキツネの学校祭に招待してくれる。人間は、キツネが人を騙すと思っているが、本当のところはどうなのだろうか。少年達とキツネ達との不思議な交流が繰り広げられる。

 

宮沢賢治の話には、彼の思想が色濃く表れている。キツネの学校で語られる話には、素粒子、生と死、絶望など、子どもには難しいのではないかと思える言葉が登場する。それでもキッズクルーの子ども達は、構えすぎることなく、終始自然に演じていたように思う。心配せずとも、子どもには子どもの理解の仕方があるのだろう。

 

演劇は、子どもに対して何ができるのか。観て楽しい、演じて楽しいの他には、通常の生活範囲では出会えない人達との、出会いの楽しさがあるのではないだろうか。そして、出会った人達と、同じ一つの物を作り上げていく体験の楽しさ。演劇は形としては残らない。演じるその瞬間にだけきらめいて消えていく。

子ども達が、演劇を通して見つけられる物を、キッズクルーの子どもも大人も全員で探した結果、そこに生まれていたのが、今日の『雪わたり』なのだ。

 

大人になると忘れてしまう、と、劇中でキツネの先生は言った。確かにそうだろう。キッズクルーの子ども達も、成長する過程で、今日のきらめきを忘れてしまう。でも、確かにこの日に光った瞬間はあったのだ。それを、たくさんの人達と共有したのだ。子ども達が、いつか何かのきっかけで、ふいに今日の芝居を思い出した時、それは、大切な物として、心に返ってくることだろう。

本日、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭・かなざわリージョナルシアター『劇処』が開幕いたしました。11週にわたり、毎週末に上演があります。

本ブログでは、関連事業である「劇評講座」で書かれた劇評を掲載していきます。
なにとぞ宜しくお願い申し上げます。
かなざわリージョナルシアターの関連事業として実施している「劇評講座」。
第6回は、これまで講師をお願いしていた徳永京子さんとの共著『演劇最強論』を書かれた批評家の藤原ちからさんをお招きして開講しました。

前回に引き続き、受講生の劇評を掲載いたします。みなさんからのコメントもお待ちしております。
劇評が定着することでこれまで以上に豊かな作品がドラマ工房から生まれてくることを期待しています。どうぞご協力よろしくお願い申し上げます。

金沢市民芸術村ドラマ工房ディレクター
「劇評講座」担当 井口時次郎

(Lab.『No Reason Plus』への劇評にジャンプ)
「魔法の壁の前で」大場さやか
「演出者の想定からズレた観客の存在」ぽん太
「美しいレリーフのような・・・」市川幸子
「『演劇』の通じないお客様へ」金子翔
「恋人たちの希薄な関係と交換可能性(死んだ元カレの名誉回復のために)」原力雄
「プロジェクターの青白い光のなかで」川守慶之
「映像作家の作った劇空間での方向性」ta96
「映像と劇空間、終息先にあるものは…」山下大輔