10月1日夜、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房でキッズ☆クルー&人形劇団なみによる演劇公演「雪わたり」(宮沢賢治原作、林美智江脚本・演出)を観劇した。大人の芝居を見慣れた者にはセリフのやり取りがのんびりし過ぎるようにも感じられる。厳しい稽古で子どもたちを鍛えて、もっと間を詰めさせることもできただろう。実際にそういう児童劇団は多いはずだ。しかし、この演出家は子どもたちの速度を生かそうとした。好奇心に満ちた二人の少年が世界を少しずつ学んでいくテンポがこの作品を支配している。このゆったりとした時間の流れでなければ、キツネに声をかけてみようなんて突拍子もない思いつきは少年たちの心に芽生えなかったのではないかと信じられてくるから不思議だ。
十一歳の少年ユキオとシロウは「キツネの子は嫁ほしい、キツネの子は嫁ほしい」と森に向かって親密な愛情のこもったからかいの言葉を投げかける。二人はなぜキツネを呼ぼうなんて思ったのか?その日の状況を振り返ってみよう。雪が積もって世界は白一色に覆われ、道はキンキンに凍ってどこまでも歩いて行けそうだ。たそがれ時。澄み切った冬空の下で一緒に遊んだお姉さんたちはもう家路に着いた。普段なら心細くなり、急いでみんなを追いかけるはず。けれども、二人の脳裏にはなぜか、こんな日に森のキツネたちはどのように暮らしているだろうという問いが浮かんだ、世界を知りたいという激しい衝動とともに。一方で人間によってひどい目に遭わされた経験を親から聞かされているはずの子ギツネ・コンザブロウは、なぜ二人の呼びかけに応じて姿を現したのか?さまざまな偶然が重なって実現した出会いの有難さに胸が高鳴る。
森の奥では人間の少年たちを特等席に座らせ、キツネの子どもたちによる学校祭が始まった。鼓笛隊のジャズ演奏、キツネと人間の交流を描いた芝居、そして特別に招いた先生の講演。先生の口からは死に対する鋭い感覚とそれでも四季折々に移り変わる森を見れば絶望しなくてもいいこと。人は森に包まれ、森は光に包まれ、光は宇宙に包まれることなどが語られる。森を仲立ちとして人間とキツネは意外にも世界を共通の感覚で把握しているのではないかと感じさせられる。それなのに人間はキツネが一生懸命に作ったきびだんごを「ウサギの糞」などとバカにすると子ギツネたちは訴える。そこには異文化への差別や相互理解への頑迷な拒否といった深刻な問題もはらまれている。
キツネたちは学校祭に続いて卒業式を執り行う。ここを離れてもっと深い森へ行くのだと二人に別れを告げる。明治維新以降、絶え間なく拡大してきた人間の欲によって野生動物たちの生活圏が脅かされてきた状況が反映されている(だが、時代は反転した。現在の日本では少子高齢化が進み、人に代わって野生動物が再び主役になりつつある山里も出てきたという)。あるいは辺境へ追いやられた少数派の人たちの窮乏も投影されているのかもしれない。大人になるにつれ、(何かもったいぶった理由をつけて)分断されることに疑問を感じなくなるらしい。キツネのきびだんごを口にする勇気はやはり十一歳以下の子どもにしか持てないのだろうか。
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