(劇評)「映像作家の作った劇空間での方向性」ta96 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。

映像作家として活躍する荒川ヒロキが“映像作家が作・演出すると面白い舞台が作れるのではないか?”と考えスタートした演劇ユニットLab.(ラボ)の「No Reason Plus」が2月27~28日、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演された。
元新聞記者のフリーライターであるユウスケと、恋人である彼に対し素直になれずツンデレを超えたツンドラ状態の態度で接する雑誌の編集長であるユメ。一緒に暮らしていた二人だが、ある日突然ユウスケが病で亡くなる。愛する人を失った彼女が、彼との想い出と向き合い次の一歩に踏み出すまでの物語を描いた。
自らの専門である映像を遊び心を加えた変化する書き割りとして用い、雰囲気に依存した脚本や作中の人物が発する言葉のディテールの粗さに問題はあるもののドラマとしてそれらしく、それなりに見れるものを作ってきた。これがYouTubeにウェブドラマとして配信されていたらGOODを押す人もかなり居そうなレベルだ。
しかし、リアルタイムな舞台、演劇の場で行う必要性があったのか。
かつて劇作家 別役実が語った言葉ではあるが、劇空間という場において観客が受信するのではなく何ものかを共有することにより成立する。
それが指すのは受信したものに共感する事ではなく、ライブだからこそある瞬間のみ成立する何ものか、舞台と客席の内面的双方向性みたいなものという事ではないだろうか。舞台と客席を大きく隔てない小劇場は構造として、その何ものかを共有しやすくする為にあるといっても過言ではない。
然しながらこの作品はテレビドラマのように、ストーリーや演技を受信し音楽などと同様の感覚で共感を味わう事はできても、ライブだからこそ得られる共有は作られていない。
その点で演劇、特に小劇場における作品の演出として彼は間違いを犯していたように思う。仮に共有する何ものかを意識していたとするならば、それが見えなかったという点で演出として失敗だったと言わざるを得ない。
ユニットとしての活動であり次の公演がいつか不明ではあるが、次作では共感を得る為の最大公約数のようなテレビドラマ的ストーリーではなく劇作家として劇空間だからこそ活きる作品を、演出家としてただの書き割りではない映像の異なる活かし方と併せて今回感じた「なぜ?」に答えを出してくれる事を願う。