この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
舞台正面奥の壁面に投影される映像の数々。アパートやオフィス、レストランの室内空間、海辺、夜の公園、高台から見下ろす夜景。どれも壁枠に合わせて色彩豊かに緻密に風景を映し出す。転換と同時に瞬時に背景が変わる様を見ていると、その優れた技術力に関心してしまう。東京を中心に映像クリエーターとして幅広く活動する荒川ヒロキが作・演出・映像を手掛けた演劇作品「No Reason Plus」の舞台装置を前に素直にそんな印象を受ける。
2月27~28日に金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房を会場に上演された今作品は、過去に荒川が金沢21世紀美術館シアター21で行った「No Reason」の改訂版。彼氏・イツワ(蜂谷日和)を突然の病で失ってしまう女性編集長・カマタ(美緑トモハル)の葛藤を中心に据え、部下二人を交えた群像劇が描かれている。舞台上では、死んだ彼氏の独白があり、女性編集長に恋心を抱く部下・マナカ(猪島涼介)とのやり取りがあり、若手女性編集員・ノナカ(北川莉子)が絡んだ会話が繰り広げられたりする。
誰もが人生の中で経験する大切な人の死。その死とどう向き合い、了解していくのかというプロセスは、多くの人の共感を呼ぶだろう。と同時に、どこにでもあるような事象なわけで、よほどのドラマが起きない限り「ああ、そうかもね」で終わってしまいかねない。この点で舞台上の4人の俳優たちは、内面を感じさせるやり取りが希薄であったように見え、壁面に投影された舞台奥の背景ほどの緻密さがない。
荒川が映像制作のプロであるが故なのか、自身が意図しない所で彼が作り出した背景の映像作品が自己主張を始める。次第に舞台装置が俳優たちの姿をぼんやりとさせ、ついには壁に取り込みはじめる。客席も舞台上も同じ空気を吸うことのできる共有スペースであるはず。にも関わらず、3次元のあるべき姿はそこにはなく、投影される映像の中で俳優たちが動き、喋りを繰り返すように映る。その時、「劇空間の断絶」を感じてしまう。
テレビを見ている感覚に陥る。そこはもう金沢市民芸術村ドラマ工房ではなく、違う何処かになる。もはや、「いま」「ここに」居る必要性もなくなる。
荒川の所属する企画・制作集団「stack pictures」のホームページ上で紹介されていたツイッターには「舞台映像作家が脚本・演出も担当するとどうなるか?」と書かれている。期待感が膨らむコメントではあるが、結果、自分のフィールドで勝負することに固執してしまった感は否めない。自分の武器は武器として持ちつつも、俳優たちを際立たせる作品創りにもっと注力していれば、舞台空間が2次元に終息することもなかったのではないだろうか。
過ぎ去って行く「いま」というこの瞬間に、日常から離れたある種特別な「ここ」という場所で。観客は舞台上の俳優たちと呼吸を、体を合わせ、文字通り空間全てを共有する。このことこそが、劇場に足を運ぶ喜びではないだろうか。映像を担保にしていても仕方がないのだ。録画や一時停止なんていうボタン一つでどうこうできるシチュエーションはあるはずないのだから。映像と俳優たちを戦わせる作業こそが必要だったはず。
映像も舞台装置の一つではあるけども、それが一方的に勝者となってしまっては、空間はもはやもぬけの殻も同然となってしまう。
緻密さが結果として、稚拙さを露呈しまうことになった今作品。次回作は、映像クリエーターだからこそ造り出せる独創的な舞台空間を観せてほしいと願うばかりだ。
この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
映像作家として活躍する荒川ヒロキが“映像作家が作・演出すると面白い舞台が作れるのではないか?”と考えスタートした演劇ユニットLab.(ラボ)の「No Reason Plus」が2月27~28日、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演された。
元新聞記者のフリーライターであるユウスケと、恋人である彼に対し素直になれずツンデレを超えたツンドラ状態の態度で接する雑誌の編集長であるユメ。一緒に暮らしていた二人だが、ある日突然ユウスケが病で亡くなる。愛する人を失った彼女が、彼との想い出と向き合い次の一歩に踏み出すまでの物語を描いた。
自らの専門である映像を遊び心を加えた変化する書き割りとして用い、雰囲気に依存した脚本や作中の人物が発する言葉のディテールの粗さに問題はあるもののドラマとしてそれらしく、それなりに見れるものを作ってきた。これがYouTubeにウェブドラマとして配信されていたらGOODを押す人もかなり居そうなレベルだ。
しかし、リアルタイムな舞台、演劇の場で行う必要性があったのか。
かつて劇作家 別役実が語った言葉ではあるが、劇空間という場において観客が受信するのではなく何ものかを共有することにより成立する。
それが指すのは受信したものに共感する事ではなく、ライブだからこそある瞬間のみ成立する何ものか、舞台と客席の内面的双方向性みたいなものという事ではないだろうか。舞台と客席を大きく隔てない小劇場は構造として、その何ものかを共有しやすくする為にあるといっても過言ではない。
然しながらこの作品はテレビドラマのように、ストーリーや演技を受信し音楽などと同様の感覚で共感を味わう事はできても、ライブだからこそ得られる共有は作られていない。
その点で演劇、特に小劇場における作品の演出として彼は間違いを犯していたように思う。仮に共有する何ものかを意識していたとするならば、それが見えなかったという点で演出として失敗だったと言わざるを得ない。
ユニットとしての活動であり次の公演がいつか不明ではあるが、次作では共感を得る為の最大公約数のようなテレビドラマ的ストーリーではなく劇作家として劇空間だからこそ活きる作品を、演出家としてただの書き割りではない映像の異なる活かし方と併せて今回感じた「なぜ?」に答えを出してくれる事を願う。
映像作家として活躍する荒川ヒロキが“映像作家が作・演出すると面白い舞台が作れるのではないか?”と考えスタートした演劇ユニットLab.(ラボ)の「No Reason Plus」が2月27~28日、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演された。
元新聞記者のフリーライターであるユウスケと、恋人である彼に対し素直になれずツンデレを超えたツンドラ状態の態度で接する雑誌の編集長であるユメ。一緒に暮らしていた二人だが、ある日突然ユウスケが病で亡くなる。愛する人を失った彼女が、彼との想い出と向き合い次の一歩に踏み出すまでの物語を描いた。
自らの専門である映像を遊び心を加えた変化する書き割りとして用い、雰囲気に依存した脚本や作中の人物が発する言葉のディテールの粗さに問題はあるもののドラマとしてそれらしく、それなりに見れるものを作ってきた。これがYouTubeにウェブドラマとして配信されていたらGOODを押す人もかなり居そうなレベルだ。
しかし、リアルタイムな舞台、演劇の場で行う必要性があったのか。
かつて劇作家 別役実が語った言葉ではあるが、劇空間という場において観客が受信するのではなく何ものかを共有することにより成立する。
それが指すのは受信したものに共感する事ではなく、ライブだからこそある瞬間のみ成立する何ものか、舞台と客席の内面的双方向性みたいなものという事ではないだろうか。舞台と客席を大きく隔てない小劇場は構造として、その何ものかを共有しやすくする為にあるといっても過言ではない。
然しながらこの作品はテレビドラマのように、ストーリーや演技を受信し音楽などと同様の感覚で共感を味わう事はできても、ライブだからこそ得られる共有は作られていない。
その点で演劇、特に小劇場における作品の演出として彼は間違いを犯していたように思う。仮に共有する何ものかを意識していたとするならば、それが見えなかったという点で演出として失敗だったと言わざるを得ない。
ユニットとしての活動であり次の公演がいつか不明ではあるが、次作では共感を得る為の最大公約数のようなテレビドラマ的ストーリーではなく劇作家として劇空間だからこそ活きる作品を、演出家としてただの書き割りではない映像の異なる活かし方と併せて今回感じた「なぜ?」に答えを出してくれる事を願う。
この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
舞台の真ん中にあるのは机と二つの椅子。それ以外には何もない。しかし、いったん、背後の白い平面に映像が映し出されると、その空間は、家の中、職場、夜の公園、海、レストランの各シーンに変貌する。
それは、古典的な映画のスクリーンプロセスを連想させた。ヒッチコックの映画などで、流れる車窓風景が合成されることで、まるで車が動いているように感じる映像技法だ。役者たちが演じるドラマは、プロジェクターの発する光によって照らし出され、背景の映像と結ばれる。
このような形態を一般的に「2,5次元芝居」というそうだ。文字通り、2次元と3次元の間にある舞台。主に原作がコミックやアニメの作品を演劇化し、映像の2次元世界と役者が演じる3次元世界を融合した新感覚のエンターテインメントを生み出している。
物語は、フリーライターのイツワ(蜂谷日和)が、仕事で女性雑誌編集長のカマタ(美緑トモハル)と出会い、付き合って結婚する。しかし、イツワは突如として病死してしまう。それでも幽霊的存在となって、カマタに想いを寄せる部下マナカ(猪島涼介)の告白をお膳立てするなど、カマタがイツワの死を乗り越え、新しい人生を歩み始めるまで見守りつづける。
作・演出・映像の荒川ヒロキは、メタレベルでの「小説的な語り」を導入し、死者となったイツワの視点から、物語が再構成される演劇を作った。映像によって場面の切換えが容易であるため、過去やさまざまな場所に飛ぶ複雑なプロット(筋)もわかりやすく、演劇なのに映画を観ているような気分になる。
しかし、肝心の、役者たちが演じるドラマの部分において、人間の心の中への理解が台詞や演出からあまり感じられなかった。たとえば、マナカが、カマタに告白するシーン。夫を亡くした女性に対してあまりにも軽い話し振りと態度。イツワの死をめぐる物語であるはずなのに、死による影響が、マナカはもちろん、カマタやイツワ本人にさえ変化を及ぼしているようには見えない。
演劇では、台詞だけではなくその場にいる役者の身体をトータルで見る。身体から「リアリティ」が感じられないならば、それは演劇である必要がない。その意味において、『No Reason Plus』の登場人物には、コミックやライトノベルに近い「軽さ」を感じた。
舞台の真ん中にあるのは机と二つの椅子。それ以外には何もない。しかし、いったん、背後の白い平面に映像が映し出されると、その空間は、家の中、職場、夜の公園、海、レストランの各シーンに変貌する。
それは、古典的な映画のスクリーンプロセスを連想させた。ヒッチコックの映画などで、流れる車窓風景が合成されることで、まるで車が動いているように感じる映像技法だ。役者たちが演じるドラマは、プロジェクターの発する光によって照らし出され、背景の映像と結ばれる。
このような形態を一般的に「2,5次元芝居」というそうだ。文字通り、2次元と3次元の間にある舞台。主に原作がコミックやアニメの作品を演劇化し、映像の2次元世界と役者が演じる3次元世界を融合した新感覚のエンターテインメントを生み出している。
物語は、フリーライターのイツワ(蜂谷日和)が、仕事で女性雑誌編集長のカマタ(美緑トモハル)と出会い、付き合って結婚する。しかし、イツワは突如として病死してしまう。それでも幽霊的存在となって、カマタに想いを寄せる部下マナカ(猪島涼介)の告白をお膳立てするなど、カマタがイツワの死を乗り越え、新しい人生を歩み始めるまで見守りつづける。
作・演出・映像の荒川ヒロキは、メタレベルでの「小説的な語り」を導入し、死者となったイツワの視点から、物語が再構成される演劇を作った。映像によって場面の切換えが容易であるため、過去やさまざまな場所に飛ぶ複雑なプロット(筋)もわかりやすく、演劇なのに映画を観ているような気分になる。
しかし、肝心の、役者たちが演じるドラマの部分において、人間の心の中への理解が台詞や演出からあまり感じられなかった。たとえば、マナカが、カマタに告白するシーン。夫を亡くした女性に対してあまりにも軽い話し振りと態度。イツワの死をめぐる物語であるはずなのに、死による影響が、マナカはもちろん、カマタやイツワ本人にさえ変化を及ぼしているようには見えない。
演劇では、台詞だけではなくその場にいる役者の身体をトータルで見る。身体から「リアリティ」が感じられないならば、それは演劇である必要がない。その意味において、『No Reason Plus』の登場人物には、コミックやライトノベルに近い「軽さ」を感じた。
この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
移ろいゆく時間、通り過ぎて行く人たち。
私は彼らのことをどれくらい本当にわかっていたのだろうか?
2月27、28日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたLab.「No Reason Plus」(荒川ヒロキ作・演出)。物語は雑誌編集者の女性カマタユメと仕事で知り合ったライターの男性イツワユウスケによる現在進行形の恋愛かと思ったら、実はユウスケはすでに病気で亡くなっていて、ユメの一方的な回想であることにしばらくして気づく。死んだ元カレを思い出しながら、女性が主観的に(すなわち彼女自身に都合の良いように解釈して)会話を再構成していて、どこまでが彼の言葉でどこからが彼女の自問自答なのかは正確に区別できないようだ。
彼女の追憶の中身は、日常会話の断片ばかりであり、そこからはユウスケという男の人間的な核心が(優しかったということ以外には)ほとんど伝わって来ない。一緒にいた3年間は短か過ぎたとしても、これでは彼の人生が報われないと思う。一般論として女性は、愛した男についてさえも、これほど単純で薄っぺらいイメージでしかとらえていないのかと絶望的になる。本当のところ、ユウスケは相当程度に自分を抑圧しながら、彼女と付き合っていたのではないか?もっと言えば、二人の関係は本音をぶつけ合うような瞬間があまりなかったのではないだろうか?
やがてストーリーは、残された彼女が、周囲や自分自身に対して後ろめたさを感じることなしに次の男へと(露骨な言い方だが)乗り換えるためにはどれくらいの冷却期間を置けばいいのかというタイミングの問題に焦点が絞られてくる(生前、ユウスケとの間でもそういう会話を交わしていたことが免罪符になっていく)。どんなに早く乗り換えても、元カレは決して怒らないだろう。なぜなら彼は優しい人だったから、というオチなのだ。そして、次の男となりそうな編集部の部下マナカショウヘイとの出会い方も、同じ仕事関係でまるで右から左へとスライドするような安易さに驚かされる。女性にとって、男は他の男と等価交換可能な消耗品でしかないのではないかという残酷な現実を突きつけられる。
すぐに次の男へ移るのはけしからんなどとユメを責めているのではない。彼女は今の世の中のスタンダードである関係の希薄さや交換可能性に従って行動しているだけであり、その他大勢と同じように常識的な彼女一人を責めても仕方ない。お洒落なレストランや夜の公園でデートを重ねても、お互いに相手の正体が何も見えていなかった(見る必要すら感じなかった、あえて見ない方が良かった)のではないか。ここには現代社会を生きる男女の孤独が剥き出しの状態で表現されている。
この芝居にはドラマがない。恋人が死んだからドラマっぽく見えるけど、実はユメには大した影響を与えていない。彼女の言葉通り「地獄のように」つらいという気分の問題だけ。彼女は平気で毎日、会社へ来て、バリバリと仕事をこなしている。例えば、ユメはユウスケとショウヘイのどちらを本当に好きなのかとあえて考えてみても、どちらでも良いとしか思えない。たまたま先に出会ったユウスケと付き合ったけど、もしショウヘイと先に出会っていたら、そちらと付き合っていた気がする。最初にユウスケと付き合い始めたことに深い理由はないし、彼の死後にショウヘイへ乗り換えることにも強い抵抗がない。ただ浮き草のように状況に流されていく一人の女がいるだけ。だからここには源氏物語的な「もののあはれ」はあるとしても、自分の運命を自ら選び取ろうとする近代人のドラマはないのである。
舞台作品としては無駄がないというか、余計な装飾を削ぎ落として物語の形を浮かび上がらせようという意思を感じさせる。非常にきっちりと作られていて、いろんな見方が可能だと思う。彼女の片寄った主観を通して矮小化されてしまった姿ではなく、元カレのユウスケが本当のところはどういう男だったのか、違う側面も知りたいと思うのは私だけだろうか?もしかしたら、彼には男としての(果たせないで終わった)野望もあったのではないか。そういうことも描くのがフェアではないだろうか?
移ろいゆく時間、通り過ぎて行く人たち。
私は彼らのことをどれくらい本当にわかっていたのだろうか?
2月27、28日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたLab.「No Reason Plus」(荒川ヒロキ作・演出)。物語は雑誌編集者の女性カマタユメと仕事で知り合ったライターの男性イツワユウスケによる現在進行形の恋愛かと思ったら、実はユウスケはすでに病気で亡くなっていて、ユメの一方的な回想であることにしばらくして気づく。死んだ元カレを思い出しながら、女性が主観的に(すなわち彼女自身に都合の良いように解釈して)会話を再構成していて、どこまでが彼の言葉でどこからが彼女の自問自答なのかは正確に区別できないようだ。
彼女の追憶の中身は、日常会話の断片ばかりであり、そこからはユウスケという男の人間的な核心が(優しかったということ以外には)ほとんど伝わって来ない。一緒にいた3年間は短か過ぎたとしても、これでは彼の人生が報われないと思う。一般論として女性は、愛した男についてさえも、これほど単純で薄っぺらいイメージでしかとらえていないのかと絶望的になる。本当のところ、ユウスケは相当程度に自分を抑圧しながら、彼女と付き合っていたのではないか?もっと言えば、二人の関係は本音をぶつけ合うような瞬間があまりなかったのではないだろうか?
やがてストーリーは、残された彼女が、周囲や自分自身に対して後ろめたさを感じることなしに次の男へと(露骨な言い方だが)乗り換えるためにはどれくらいの冷却期間を置けばいいのかというタイミングの問題に焦点が絞られてくる(生前、ユウスケとの間でもそういう会話を交わしていたことが免罪符になっていく)。どんなに早く乗り換えても、元カレは決して怒らないだろう。なぜなら彼は優しい人だったから、というオチなのだ。そして、次の男となりそうな編集部の部下マナカショウヘイとの出会い方も、同じ仕事関係でまるで右から左へとスライドするような安易さに驚かされる。女性にとって、男は他の男と等価交換可能な消耗品でしかないのではないかという残酷な現実を突きつけられる。
すぐに次の男へ移るのはけしからんなどとユメを責めているのではない。彼女は今の世の中のスタンダードである関係の希薄さや交換可能性に従って行動しているだけであり、その他大勢と同じように常識的な彼女一人を責めても仕方ない。お洒落なレストランや夜の公園でデートを重ねても、お互いに相手の正体が何も見えていなかった(見る必要すら感じなかった、あえて見ない方が良かった)のではないか。ここには現代社会を生きる男女の孤独が剥き出しの状態で表現されている。
この芝居にはドラマがない。恋人が死んだからドラマっぽく見えるけど、実はユメには大した影響を与えていない。彼女の言葉通り「地獄のように」つらいという気分の問題だけ。彼女は平気で毎日、会社へ来て、バリバリと仕事をこなしている。例えば、ユメはユウスケとショウヘイのどちらを本当に好きなのかとあえて考えてみても、どちらでも良いとしか思えない。たまたま先に出会ったユウスケと付き合ったけど、もしショウヘイと先に出会っていたら、そちらと付き合っていた気がする。最初にユウスケと付き合い始めたことに深い理由はないし、彼の死後にショウヘイへ乗り換えることにも強い抵抗がない。ただ浮き草のように状況に流されていく一人の女がいるだけ。だからここには源氏物語的な「もののあはれ」はあるとしても、自分の運命を自ら選び取ろうとする近代人のドラマはないのである。
舞台作品としては無駄がないというか、余計な装飾を削ぎ落として物語の形を浮かび上がらせようという意思を感じさせる。非常にきっちりと作られていて、いろんな見方が可能だと思う。彼女の片寄った主観を通して矮小化されてしまった姿ではなく、元カレのユウスケが本当のところはどういう男だったのか、違う側面も知りたいと思うのは私だけだろうか?もしかしたら、彼には男としての(果たせないで終わった)野望もあったのではないか。そういうことも描くのがフェアではないだろうか?
この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
新しい技術は必ずしも作品をおもしろくするとは限らない。も今回に限り「演劇」が通じない客にとっては新鮮に映る舞台だったのかもしれない。
LAB.『No Reason plus』は、舞台映像作家として活躍の荒川ヒロキが作・演出も担当。劇団というよりはプロデュース公演の形で、俳優も地元石川でテレビやCMに出演しているので素人に比べれば美男美女が揃い、小ぎれいで男優のファン一同から立派な花が届くほどの人気ぶり。暗転後の開演もファッションイベントで流れるようなアップテンポな曲に合わせ、とにかくおしゃれなオープニング映像は凡百のアマチュア劇団とは違う、あか抜けた開幕。
出版社で女性紙の編集長のユメ(美緑トモハル)は、亡くなった恋人のユウスケ(蜂谷日和)を忘れられずにいた。その一組のカップルを軸に、編集長が次第に気になっていく部下・ショウヘイ(猪島涼介)、ショウヘイが手を焼く同僚・アイリ(北川莉子)と登場するのは四人のみ。そしてほぼ前編この四人中二人での会話のシーンにて物語は描かれる。 出版社のオフィスや思い出の九十九里浜、夜景の見える丘など劇中のシーンの設定がプロジェクションマッピングを用いて俳優の背後に投影される。要は「電子書き割り」である。舞台を見慣れている観客は、衣装や台詞の端々で設定を理解し、イメージを補って想像できるかもしれない。しかし舞台を見慣れないビギナーな客にとってはこの仕掛けが観劇の敷居を下げてくれている。大仰で悪いイメージとして伝わっている類の演劇的な演技や演出ではなく、映像っぽい台詞まわしや無駄に動かない舞台の見せ方もその人達への配慮からなのだろう。
ここまでは「演劇」の通じない人の立場を踏まえてみてきたが、いかんせん見栄えはよくても、物語を通じての味わいが乏しすぎた。地方タレントをキャスティングして、最新技術で洗練した舞台に見えても脚本や演出に関しては及第点に達しているとは言い難い。劇中の人物達の台詞がすべて心情の説明に終始し、会話のおもしろさがまるでなかった。「好き」や「忘れられない」思いを直接台詞にしても共感は呼べない。映像作家として荒川氏の腕は確か。だからこそ作・演出への挑戦を続けてほしい。この舞台を機に少しでも観劇人口の裾野が広がってくれることが、かなざわリージョナルシアターの役割であってほしい。
新しい技術は必ずしも作品をおもしろくするとは限らない。も今回に限り「演劇」が通じない客にとっては新鮮に映る舞台だったのかもしれない。
LAB.『No Reason plus』は、舞台映像作家として活躍の荒川ヒロキが作・演出も担当。劇団というよりはプロデュース公演の形で、俳優も地元石川でテレビやCMに出演しているので素人に比べれば美男美女が揃い、小ぎれいで男優のファン一同から立派な花が届くほどの人気ぶり。暗転後の開演もファッションイベントで流れるようなアップテンポな曲に合わせ、とにかくおしゃれなオープニング映像は凡百のアマチュア劇団とは違う、あか抜けた開幕。
出版社で女性紙の編集長のユメ(美緑トモハル)は、亡くなった恋人のユウスケ(蜂谷日和)を忘れられずにいた。その一組のカップルを軸に、編集長が次第に気になっていく部下・ショウヘイ(猪島涼介)、ショウヘイが手を焼く同僚・アイリ(北川莉子)と登場するのは四人のみ。そしてほぼ前編この四人中二人での会話のシーンにて物語は描かれる。 出版社のオフィスや思い出の九十九里浜、夜景の見える丘など劇中のシーンの設定がプロジェクションマッピングを用いて俳優の背後に投影される。要は「電子書き割り」である。舞台を見慣れている観客は、衣装や台詞の端々で設定を理解し、イメージを補って想像できるかもしれない。しかし舞台を見慣れないビギナーな客にとってはこの仕掛けが観劇の敷居を下げてくれている。大仰で悪いイメージとして伝わっている類の演劇的な演技や演出ではなく、映像っぽい台詞まわしや無駄に動かない舞台の見せ方もその人達への配慮からなのだろう。
ここまでは「演劇」の通じない人の立場を踏まえてみてきたが、いかんせん見栄えはよくても、物語を通じての味わいが乏しすぎた。地方タレントをキャスティングして、最新技術で洗練した舞台に見えても脚本や演出に関しては及第点に達しているとは言い難い。劇中の人物達の台詞がすべて心情の説明に終始し、会話のおもしろさがまるでなかった。「好き」や「忘れられない」思いを直接台詞にしても共感は呼べない。映像作家として荒川氏の腕は確か。だからこそ作・演出への挑戦を続けてほしい。この舞台を機に少しでも観劇人口の裾野が広がってくれることが、かなざわリージョナルシアターの役割であってほしい。