この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。
舞台正面奥の壁面に投影される映像の数々。アパートやオフィス、レストランの室内空間、海辺、夜の公園、高台から見下ろす夜景。どれも壁枠に合わせて色彩豊かに緻密に風景を映し出す。転換と同時に瞬時に背景が変わる様を見ていると、その優れた技術力に関心してしまう。東京を中心に映像クリエーターとして幅広く活動する荒川ヒロキが作・演出・映像を手掛けた演劇作品「No Reason Plus」の舞台装置を前に素直にそんな印象を受ける。
2月27~28日に金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房を会場に上演された今作品は、過去に荒川が金沢21世紀美術館シアター21で行った「No Reason」の改訂版。彼氏・イツワ(蜂谷日和)を突然の病で失ってしまう女性編集長・カマタ(美緑トモハル)の葛藤を中心に据え、部下二人を交えた群像劇が描かれている。舞台上では、死んだ彼氏の独白があり、女性編集長に恋心を抱く部下・マナカ(猪島涼介)とのやり取りがあり、若手女性編集員・ノナカ(北川莉子)が絡んだ会話が繰り広げられたりする。
誰もが人生の中で経験する大切な人の死。その死とどう向き合い、了解していくのかというプロセスは、多くの人の共感を呼ぶだろう。と同時に、どこにでもあるような事象なわけで、よほどのドラマが起きない限り「ああ、そうかもね」で終わってしまいかねない。この点で舞台上の4人の俳優たちは、内面を感じさせるやり取りが希薄であったように見え、壁面に投影された舞台奥の背景ほどの緻密さがない。
荒川が映像制作のプロであるが故なのか、自身が意図しない所で彼が作り出した背景の映像作品が自己主張を始める。次第に舞台装置が俳優たちの姿をぼんやりとさせ、ついには壁に取り込みはじめる。客席も舞台上も同じ空気を吸うことのできる共有スペースであるはず。にも関わらず、3次元のあるべき姿はそこにはなく、投影される映像の中で俳優たちが動き、喋りを繰り返すように映る。その時、「劇空間の断絶」を感じてしまう。
テレビを見ている感覚に陥る。そこはもう金沢市民芸術村ドラマ工房ではなく、違う何処かになる。もはや、「いま」「ここに」居る必要性もなくなる。
荒川の所属する企画・制作集団「stack pictures」のホームページ上で紹介されていたツイッターには「舞台映像作家が脚本・演出も担当するとどうなるか?」と書かれている。期待感が膨らむコメントではあるが、結果、自分のフィールドで勝負することに固執してしまった感は否めない。自分の武器は武器として持ちつつも、俳優たちを際立たせる作品創りにもっと注力していれば、舞台空間が2次元に終息することもなかったのではないだろうか。
過ぎ去って行く「いま」というこの瞬間に、日常から離れたある種特別な「ここ」という場所で。観客は舞台上の俳優たちと呼吸を、体を合わせ、文字通り空間全てを共有する。このことこそが、劇場に足を運ぶ喜びではないだろうか。映像を担保にしていても仕方がないのだ。録画や一時停止なんていうボタン一つでどうこうできるシチュエーションはあるはずないのだから。映像と俳優たちを戦わせる作業こそが必要だったはず。
映像も舞台装置の一つではあるけども、それが一方的に勝者となってしまっては、空間はもはやもぬけの殻も同然となってしまう。
緻密さが結果として、稚拙さを露呈しまうことになった今作品。次回作は、映像クリエーターだからこそ造り出せる独創的な舞台空間を観せてほしいと願うばかりだ。