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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年10月8日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CAT『血の婚礼』についての劇評です。

10月8日夜、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭『劇処』の一環として行われた演劇ユニットK-CATのドラマリーディング公演『血の婚礼』(ガルシーア・ロルカ作、牛島信明訳、西川信廣演出)を金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で観劇した。全5回の公演は葡萄組とオリーブ組のダブルキャストとなっており、この回は葡萄組だった。1933年に初演された名作戯曲による翻訳劇だが、セリフには金沢弁の方言が本格的に取り入れられていた。金沢近郊に生まれ育った私としては、まるで親戚のおじさんおばさんたちが語る身近な出来事のように感じられた。また、舞台となった20世紀初頭らしきスペインの片田舎とは時代や土地が異なっても、狭い社会で醸成されがちな因襲性や息苦しい人間関係を連想させたことにより、方言の採用は作品全体の雰囲気づくりに役立っていた。

この戯曲では血のイメージが強調されている。先祖が人を殺したり、浮き名を流すなどした場合は子孫までもが「悪い血」と決めつけられる。そして、夫と長男をナイフで殺された「花婿の母」(東千絵)は、そのことばかりをボヤきながら毎日を送っている。長男の血に濡れた自分の手を彼女は舐めてきれいにしたという。なぜならそれは「自分の血」だから。結婚することになった次男(岸槌隆至)と一緒に花嫁の家を訪問した際も母は喪服姿で、その黒い装束はすでに数十年も前から肌に張り付いてしまった印象を受ける。

縁談は無事にまとまり、結婚式の日を迎えた。しかし、朝一番に花嫁の前に現れたのは昔の恋人レオナルド(東川清文)だった。彼はすでに結婚していたが、二人目の子を身ごもった妻への愛情を失いかけていた。その日の夜、若い花嫁はレオナルドと一緒に逃げてしまった。かつて夫や長男を殺害したフェリックス家の若者が相手と聞き、母は憤激のあまり村人たちに向かって「(花婿が二人を追いかけるための)馬を貸してくれたら、私の耳でも舌でもあげるよ」と絶叫する。そうなのだ。息子を戦場へ送り出したのは、あれだけわが身の不運をかこっていた母親自身だった。翌朝、森の奥で刺し違えた男たちの遺体が村へ運び込まれた。女たちは肩を寄せ合って祈りを捧げるしかなかった。

人と人はなぜ殺し合うのか、そのメカニズムを解き明かした作品と言える。余計な装飾を省いたリーディング形式により、ドラマの論理的な骨格が明確になった。若い娘や嫁たちを壁の中に囲い込み、世間から遮断することで自分たちの自尊心を守ろうとするあまり、彼女たちを抑圧し、それが予想外の暴発を生み、その結果また名誉を汚されたとかなんとか言って相手を殺そうとする人々。彼らは実は自分たち自身で悲劇の原因を作り出していると気づかず、崇高な犠牲者でもあるかのように一生を嘆きながら過ごしている。そういう欺瞞の構造が現代のあらゆる紛争にも共通するとは言わないが、自ら嬉々として泥沼の状況へ足を突っ込もうとしているどこかの国民には見てほしい作品だ。

葡萄組の花嫁役・吉田莉芭は、結婚を前にした娘の可愛らしさやお転婆ぶりをわずかな仕草で表現した。彼女の心が式の当日に花婿から離れ、昔の恋人に引き寄せられるプロセスは切なく、『ロミオとジュリエット』ばりの情熱的なラブストーリーとなった。しかし、二人の若者が命を落とした後、花婿の母に謝罪するシーンではなぜか棒読みに近かった(私は前日に行われたオリーブ組のゲネプロも目にする機会があった。こちらで花嫁を演じた小川雅美は、禁じられた恋に身を焦がす小娘とは見えなかった。むしろ閉塞感から命がけで脱出しようとする(自意識に目覚めた)女の不条理な衝動が前面に出た。花婿の母に「私は殺されるためにここへ来たのです」と自分の罪を認める終盤では悲しみにリアリティがあった)。結末、絶望した花嫁が村の女たちと一緒に祈りの列に加わる姿を見て、背筋が寒くなった。この女はやがて別の男と結婚して女の子が生まれたら、今度は抑圧する側に回るのかもしれない。そうして救いのない円環はいつまでも続くのだろうか?
この文章は、2016年10月8日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CAT『血の婚礼』についての劇評です。

 演奏者が電子ピアノの前に座り客席が暗くなる。客席後方の可動式パネルが開く音、差し込む光。客席の間の通路を黒い衣装を纏った俳優たちが一列に舞台へと向かう。
 文学座の演出家である西川信廣の呼び掛けにより、2009年ワイルダーの『わが町』を金沢市大野に置き換えた作品で旗揚げ公演した演劇ユニットK-CATによる金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」第2弾(10月8日~10日)『血の婚礼』(作:ガルシア・ロルカ、訳:牛島信明、演出:西川信廣)はドラマリーディングと銘打ち俳優達の言葉と作曲家上田亨が生演奏する形で上演された。
 17人もの俳優、舞台美術、照明、生演奏と小さい劇場ながら華やかさのある立派な作品を見た気になれるものだった。
 ロルカはスペインの詩人であり劇作家でもある。今回舞台に上げられた血の婚礼のほか『ベルナルダ・アルバの家』『イェルマ』などが戯曲として有名だ。
 恋人同士のアントニオとイザベル、アントニオの父と兄を殺した一族でありイザベルの元恋人で従姉妹の夫となったレオナルドが中心となり物語は進む。アントニオたちの結婚式、その最中、花嫁はレオナルドと逃亡。母親よりナイフを渡され二人を追う花婿。その結末は男二人が命を落とす…というもの。
 今作は1シーンを除いて金沢弁が用いられた。翻訳物を地域に同化させることを意図したのだろう。しかし、なぜ『血の婚礼』…ロルカだったのだろうか。方言のせいでベタベタしたメロドラマと化し、作品に描かれた愛への情熱やロルカである必要性を消してしまったように思える。そしてローカルコミュニティの象徴ともいえる方言を用いたことで、その外に居る人間には疎外感を感じた可能性も否めず、個人的には地域への迎合に思えた。
 リーディングは普通に芝居を作るよりも制約が多い分だけ難しい。作品として成立させるためには、テキスト(台本)をどう扱うかという俳優とテキストの関係性が重要であり、視覚的なものも含め、俳優が読むという行為を通して発せられる「言葉」によって舞台上にドラマを立ち上げる事が必要になる。
 しかしこの舞台において、テキストは読むという形式のための道具でしかなく、俳優とテキストとの関係性や持つ意味が見えてこない。俳優は原則として舞台上に居りシーンに合わせ待機場所と化したベンチから演技の場である中央の空間へ歩み出てくる。移動や振り向く、立つなど多少の動きもあるが位置関係が変わるだけで、表現としての必要性も中央に出てくることによる切り替わりも見えてこない。さらには、読むことで生まれる「言葉」の表現を観るのではなく、事前に用意された演技、音として発せられる「文字」を追わざるを得ず、最後までドラマは立ち上がらなかった。
 "制約の中でこそ成立する演劇"としてのリーディングではなく体裁を整えた読み稽古のような形にしたのかをはじめ多くの疑問が残る作品だった。

この文章は、2016108日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CAT『血の婚礼』についての劇評です。

 

スペインの詩人、劇作家、ガルシーア・ロルカの『血の婚礼』(訳:牛島信明)を、K-CATが、ドラマリーディングの形で上演した。演出は文学座の西川信廣、音楽は上田亨によるキーボードの生演奏である。

 

夫と息子を殺された女は、その苦しみを決して忘れることができない。もう一人の息子がナイフを手にすることすら、嫌悪するほどに。ナイフで二人は殺されてしまったからだ。女の憎しみは、夫達を殺した者だけではなく、ナイフという武器を生み出した男性という種全体にまで及んでいるかのようだ。

 

年頃になった息子は、ある娘との結婚を望んでいる。しかしその娘には、かつて交際していた男がいた。その男の一族の者が、女の夫と息子を殺したという因縁がある。男は現在、娘の従姉妹と結婚して子どももいる。そんな曰く付きの娘と息子の結婚に、女は気が進まないながらも、認めることとなる。 しかし、女の勘は悲しいかな、的中してしまう。男と娘は、互いを思う気持ちを捨てきれてはいなかった。

 

半円状に並べられた6つの長椅子。そこに17人の演者達が全員座る。それぞれの登場の場面になると、立ち上がって中央に出る。下手の柱の影では、キーボードの生演奏が行われる。リーディング公演なので、皆、本を読んでいるのだが、顔が本に向けられたままの話者が多く、こちら側へ台詞が届きにくいように感じられた。

 

俳優は皆、金沢弁を使って話すのだが、ここで、統一された金沢弁指導はあったのだろうか。人によっては古い言葉使いをする者もあり、耳慣れた言葉遣いの者もあった。その個人差は年齢などのキャラクターの個性なのかもしれないが、統一性の無さに違和感が残った。

金沢弁という、金沢に暮らす者には身近な言葉を使われたことで、感情的な言葉がより強い口調で伝わってきた。ただ、そうやって観客の感情を波立たせることが目的での、方言の使用だったのだろうか。そのままでは伝わりづらい古い言葉を、馴染みのある言葉に置き換えることで、物語への導入を容易にしようとしたのではないか。もし、その試みを取ろうとしたのであれば、言葉の一部を方言に置き換える程度ではない、もっと大胆な意訳がなされてもよかったと思える。男と娘が互いの気持ちを打ち明けあうシーンなど、金沢弁が追いついていない場面もあったからだ。

 

結婚式の日に男と逃げた娘は、一人、女の元に戻ることになる。ここで彼女がしつこいくらいに主張するのが、自分は純潔であるということである。自分は息子を裏切った。だが自分の身を汚すことはしなかったと。結婚は、自分達だけのものではなく、家と家を繋ぐ重要な契約でもあった。そして、一人の女性として、その身を男性に捧げることにも重要性がある。自分は、その行為の重さを弁えている普通の女性だと、娘は他の女達に知らしめたかったのであろう。一般的な女性像から外れ、周囲から軽蔑の目を向けられることは何より恐しいことだろう。地域社会の女達という、狭い集団の空気の中では。

 

男達が消え、女達が次々と集まってくる静かなラストシーンは、言葉すら出てこない悲しみを、言葉になる前の抑圧された力を表現していたのであろう。男性はいつも何かを奪うばかりだ。女達は血を流しながら子を産み、育て、時にはその子を奪われる。その身を痛めながら繋いできた血の力は、強い。

この文章は、2016年10月1日19:00開演のキッズ☆クルー&人形劇団なみ『雪わたり』についての劇評です。

月の出た晴れた晩、シロウとユキオは、森の中で行われた狐の学校祭に参加し、その帰り道、美しい月をもう一度見ておこうとして立ち止る。まるで素直で純粋な気持ちを忘れまいとするように。そして、その日の狐たちとの交流の記憶を大人になってもずっと留めておこうとするように。

金沢近郊で活躍する11の劇団・カンパニーが毎週末連続で公演を行う金沢市民芸術村20周年記念「劇処」。その第一週目の演目としてキッズ☆クルーと劇団なみのコラボレーションによる公演が行われた。キッズ☆クルーは1997年に金沢市民芸術村とともに生まれ、子供たちと一緒に様々な活動をしながら演劇作品を作り上げてきた。芸術村と同じく20周年を迎える節目の年に、宮沢賢治原作の『雪わたり』に取り組んだ。

ある雪の村。学校帰りのシロウとユキオが狐の学校祭の招待を受ける。その招待を受けられるのは11歳までだという。二人は街から離れた雪深い森の中にある狐の学校を訪れる。そこで待ち受けたのは、狐の学校の先生と生徒たち。学校祭では、「聖者の行進」の合奏や新美南吉『手袋を買いに』の劇、そしてルンパ・ランパ・ケルルン先生による素粒子と宇宙の成り立ちをめぐる講話が出し物となりシロウとユキオをもてなす。

そこに描かれるのは、人間と狐との交流だ。人間をだます存在として嫌われる狐たちに人間が受け入れられるためには、狐のつくった団子を食する必要がある。それが通過儀礼となって、信頼感が生まれ、人間と狐は相互に他者を理解し、輪になって一緒に踊ることができるのだ。

キッズ☆クルーのメンバーが落ち着いて、しかもあまり力みがなく自然に演じていることで、人間の子供と動物の交流という童話の無垢な世界に微笑ましく浸ることができた。しかし、逆に言えばおとなしすぎるようにも見え、子供たちにとって劇を演じるとはそもそも自然のことなのかと考えてしまう。原作には登場しないケルルン先生が大人を代表して語り出す道徳や妙に覚めたコメントにも、この作品をつくった大人たちの影が透けて見えた。

学校祭に引き続き、狐の卒業式が行われ、狐たちはさらなる深い森へと去って行く。それは、狐たちが人間から遠ざかるのではなく、むしろ人間の方が大人になることで自ら狐たちから遠ざかることを象徴的に表している。「ふたりはそこで見たもの感じたものを大人になっても心に留めておくことができるのでしょうか。」パンフレットのメッセージはこのように語りかける。ふと、自分にも美しい月を目に焼き付けようとずっと眺め続けていた記憶があるように思えてくる。一緒にいたのは誰だっただろう。
「この文章は、2016年10月1日(土)19:00開演のキッズ☆クルー&人形劇団なみ『雪わたり』についての劇評です」

 演劇をツールにコミュニケーションワークを通じた創作活動を展開する「キッズ☆クルー」と「人形劇団なみ」による合同公演「雪わたり」(作:宮沢賢治、脚本・演出:林美智江)が10月1、2両日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。同村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」(10~12月、11週連続)の第1回参加作品となる。

 雪深い森の中、キツネの学校祭に招待された少年二人とキツネの子どもたちとの交流体験を描いた童話ベースの作品。人間も動物もこの世にあるものはすべて素粒子の集まりでできていたり、春夏秋冬があって生と死が訪れたり。キツネの先生は子どもたちにこんなことを伝える。原作通りではないものの、そこにはしっかりと宮沢賢治ワールドが垣間見える。自然科学、哲学、思想。何だか宇宙の中の極小な自分自身の存在がちょっぴり恥ずかしく思えてくる。
 そんなことなんかお構いなしといった様子で、雪をイメージした白い布が敷き詰められた舞台上では歳若い役者たちが楽しそうに演じている。冒頭のシーンには、キツネが化けた人形使いのおじさん(人形劇団なみ:はとうとおる)が笛を鳴らし、猫のパペットを両手に「だるまさんが転んだ」などの劇を披露する。客席からは温かな笑い声。緊張感はないが、妙な一体感が醸成され始める。そうして、僕の脳内にある「ほのぼの指数」のインジケーターは、未だかつてないほどの高数値を指し示す。
 キツネの耳や手の形を模した衣装を身につけ、可愛らしいヒゲや鼻のメイクを施した子どもたちが踊り、ピアニカなどを手に「聖者の行進」を演奏する。劇中劇として途中、キツネの男の子を主人公にした「手袋を買いに」(作:新美南吉)も挿入される。まさにキツネのオンパレードだ。

 等身大の子どもたちがおよそ70分間の上演時間を精一杯駆け抜けた。純粋で汚れなき者。「子供」であるという存在それ自体が武器となり、賢治の言葉が素直に胸に響く。
 ただ、そんな賢治の世界観を感じるにつれ、過度にデフォルメされたあのキツネの衣装が邪魔をする。違う生物・存在だけれど、本質は同じなんだというために、外見的な分かりやすさはそれほど必要なかったはずだ。見た目の愛らしさばかりが誇張されると、舞台空間が仮想した学芸会の発表の場にも見えてくる。
 説明的な部分を極力排除して、せめてポイントを絞って少しだけ身につけてみる。そうすることで、少年たちとキツネとの関係がよりリアルに身近に感じられたのではないか。子どもたちも衣装という装飾物を身に纏っているせいで、各人の個性がぼやけてしまう。「子供」という最大限に生かすべきせっかくの武器がオブラートに包まれてしまった印象も受けた。

 途中、火災探知機が誤作動するというアクシデントも発生したが、中断後には自分たちでシーンを立ち上げ、つなげていった姿には素直に感心した。別の意味でのハイライトだ。