10月8日夜、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭『劇処』の一環として行われた演劇ユニットK-CATのドラマリーディング公演『血の婚礼』(ガルシーア・ロルカ作、牛島信明訳、西川信廣演出)を金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で観劇した。全5回の公演は葡萄組とオリーブ組のダブルキャストとなっており、この回は葡萄組だった。1933年に初演された名作戯曲による翻訳劇だが、セリフには金沢弁の方言が本格的に取り入れられていた。金沢近郊に生まれ育った私としては、まるで親戚のおじさんおばさんたちが語る身近な出来事のように感じられた。また、舞台となった20世紀初頭らしきスペインの片田舎とは時代や土地が異なっても、狭い社会で醸成されがちな因襲性や息苦しい人間関係を連想させたことにより、方言の採用は作品全体の雰囲気づくりに役立っていた。
この戯曲では血のイメージが強調されている。先祖が人を殺したり、浮き名を流すなどした場合は子孫までもが「悪い血」と決めつけられる。そして、夫と長男をナイフで殺された「花婿の母」(東千絵)は、そのことばかりをボヤきながら毎日を送っている。長男の血に濡れた自分の手を彼女は舐めてきれいにしたという。なぜならそれは「自分の血」だから。結婚することになった次男(岸槌隆至)と一緒に花嫁の家を訪問した際も母は喪服姿で、その黒い装束はすでに数十年も前から肌に張り付いてしまった印象を受ける。
縁談は無事にまとまり、結婚式の日を迎えた。しかし、朝一番に花嫁の前に現れたのは昔の恋人レオナルド(東川清文)だった。彼はすでに結婚していたが、二人目の子を身ごもった妻への愛情を失いかけていた。その日の夜、若い花嫁はレオナルドと一緒に逃げてしまった。かつて夫や長男を殺害したフェリックス家の若者が相手と聞き、母は憤激のあまり村人たちに向かって「(花婿が二人を追いかけるための)馬を貸してくれたら、私の耳でも舌でもあげるよ」と絶叫する。そうなのだ。息子を戦場へ送り出したのは、あれだけわが身の不運をかこっていた母親自身だった。翌朝、森の奥で刺し違えた男たちの遺体が村へ運び込まれた。女たちは肩を寄せ合って祈りを捧げるしかなかった。
人と人はなぜ殺し合うのか、そのメカニズムを解き明かした作品と言える。余計な装飾を省いたリーディング形式により、ドラマの論理的な骨格が明確になった。若い娘や嫁たちを壁の中に囲い込み、世間から遮断することで自分たちの自尊心を守ろうとするあまり、彼女たちを抑圧し、それが予想外の暴発を生み、その結果また名誉を汚されたとかなんとか言って相手を殺そうとする人々。彼らは実は自分たち自身で悲劇の原因を作り出していると気づかず、崇高な犠牲者でもあるかのように一生を嘆きながら過ごしている。そういう欺瞞の構造が現代のあらゆる紛争にも共通するとは言わないが、自ら嬉々として泥沼の状況へ足を突っ込もうとしているどこかの国民には見てほしい作品だ。
葡萄組の花嫁役・吉田莉芭は、結婚を前にした娘の可愛らしさやお転婆ぶりをわずかな仕草で表現した。彼女の心が式の当日に花婿から離れ、昔の恋人に引き寄せられるプロセスは切なく、『ロミオとジュリエット』ばりの情熱的なラブストーリーとなった。しかし、二人の若者が命を落とした後、花婿の母に謝罪するシーンではなぜか棒読みに近かった(私は前日に行われたオリーブ組のゲネプロも目にする機会があった。こちらで花嫁を演じた小川雅美は、禁じられた恋に身を焦がす小娘とは見えなかった。むしろ閉塞感から命がけで脱出しようとする(自意識に目覚めた)女の不条理な衝動が前面に出た。花婿の母に「私は殺されるためにここへ来たのです」と自分の罪を認める終盤では悲しみにリアリティがあった)。結末、絶望した花嫁が村の女たちと一緒に祈りの列に加わる姿を見て、背筋が寒くなった。この女はやがて別の男と結婚して女の子が生まれたら、今度は抑圧する側に回るのかもしれない。そうして救いのない円環はいつまでも続くのだろうか?