この作品を今なぜ上演するのか。有名とはいえ過去の戯曲作品をあまりにストレートにリーディングされた時に感じる素朴な疑問だ。過去の偉大な作家を世に知らしめ民草の教養を高めるためなのか。作品の中にある普遍的な感情やテーマといった要素を再発見させるためなのか。そもそも劇団の成長のための挑戦なのか。いずれにしても「ドラマ」なるものに懐疑的な中年男にはあまり興味のないことである。
金沢市民芸術村20周年記念「劇処」の第2週目プログラムとして、演劇ユニットK-CATによるドラマリーディングが行われた。演目は、ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』。婚礼の日に花嫁が妻子ある昔の恋人と失踪する。二人を追いかける花婿と花嫁を連れ去った男がナイフを手に決闘し、ハレの日の婚礼は血塗られた喪の葬列となる。詩的なレトリックを駆使して人間の愛憎と悲劇を描いた壮大なスケールの戯曲をK-CAT及び客演の熟練の役者たちが読む。特に、連れ去られたのか自ら馬に乗ったのか記憶が曖昧となる極限状況の花嫁を演じた吉田莉芭は素晴らしかった。
ただ、その演出はドラマをドラマとして読み伝えるだけの平板なものであったという印象が拭えない。17名もの役者が3面に並べられたベンチに座る。ト書きを読む者がおり、その場面に登場する出演者が立ち上がり、観客の前に進んで朗読する。その導線が毎場面繰り返される。いくらこの台本が金沢弁になっていたとしても、常に台本に目を落とす役者が発する言葉は生きた時間の言葉ではなく、そのように書かれたものを読んでいるに過ぎない。
生きた時間や空間がプルーストのコンブレーの教会のように舞台上に立ち現れてくることを望むものにとって、これだけの役者がいるのであれば、声が多層的に発生するパフォーマンス空間をもっと見たかった。たとえば、オペラの合唱隊のように、場面の登場人物とならなかったものたちの動きや声の重なりだけでも、舞台は奥行きをもった生きた空間となりうる。
観劇後に劇場を出ると、偶然、隣の建物で結婚式の二次会が行われておりカラオケの声が聞こえた。もしこの『血の婚礼』が、「スペイン風」ではなく現代的な日本の結婚式の見立てで演出されたならどんな舞台になったのだろうと思わずにはいられなかった。