かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ -52ページ目

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年10月8日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CATドラマリーディング『血の婚礼』についての劇評です。


この作品を今なぜ上演するのか。有名とはいえ過去の戯曲作品をあまりにストレートにリーディングされた時に感じる素朴な疑問だ。過去の偉大な作家を世に知らしめ民草の教養を高めるためなのか。作品の中にある普遍的な感情やテーマといった要素を再発見させるためなのか。そもそも劇団の成長のための挑戦なのか。いずれにしても「ドラマ」なるものに懐疑的な中年男にはあまり興味のないことである。

金沢市民芸術村20周年記念「劇処」の第2週目プログラムとして、演劇ユニットK-CATによるドラマリーディングが行われた。演目は、ガルシーア・ロルカ『血の婚礼』。婚礼の日に花嫁が妻子ある昔の恋人と失踪する。二人を追いかける花婿と花嫁を連れ去った男がナイフを手に決闘し、ハレの日の婚礼は血塗られた喪の葬列となる。詩的なレトリックを駆使して人間の愛憎と悲劇を描いた壮大なスケールの戯曲をK-CAT及び客演の熟練の役者たちが読む。特に、連れ去られたのか自ら馬に乗ったのか記憶が曖昧となる極限状況の花嫁を演じた吉田莉芭は素晴らしかった。

ただ、その演出はドラマをドラマとして読み伝えるだけの平板なものであったという印象が拭えない。17名もの役者が3面に並べられたベンチに座る。ト書きを読む者がおり、その場面に登場する出演者が立ち上がり、観客の前に進んで朗読する。その導線が毎場面繰り返される。いくらこの台本が金沢弁になっていたとしても、常に台本に目を落とす役者が発する言葉は生きた時間の言葉ではなく、そのように書かれたものを読んでいるに過ぎない。

生きた時間や空間がプルーストのコンブレーの教会のように舞台上に立ち現れてくることを望むものにとって、これだけの役者がいるのであれば、声が多層的に発生するパフォーマンス空間をもっと見たかった。たとえば、オペラの合唱隊のように、場面の登場人物とならなかったものたちの動きや声の重なりだけでも、舞台は奥行きをもった生きた空間となりうる。

観劇後に劇場を出ると、偶然、隣の建物で結婚式の二次会が行われておりカラオケの声が聞こえた。もしこの『血の婚礼』が、「スペイン風」ではなく現代的な日本の結婚式の見立てで演出されたならどんな舞台になったのだろうと思わずにはいられなかった。

この文章は、2016108日【土】19時開演の「k-cat 9回公演 ドラマリーディング 血の婚礼」の劇評です。

 

 舞台は、20世紀初頭、荒野の広がるスペインの田舎。登場キャラクターの花婿と花嫁には、結婚式が予定されていた。しかし、結婚式当日、花嫁は元恋人とともに森へ逃げてしまう。そして、花婿は花嫁を追いかけ、事態は花婿と元恋人が殺し合い、なくなってしまうという悲劇的な結末を迎える。

 

 劇が始まってからの約90分間、私は終始、「血の婚礼」の物語にのめりこんでしまった。

その理由としては、次の三つがあげられると考える。

一つ目はト書きの丁寧な読み方。それは、物語の場所、時間帯などの状況が整理できるほどわかりやすく、物語を理解するのに大きく貢献していた。

二つ目は金沢弁による時代演出の成功である。私にとって金沢弁は、日常的に聞きなれない言語であり、それが金沢以外の場所が舞台となっている劇から発せられたため、劇が始まった当初は違和感を抱いていた。だが、その違和感は物語が進むにあたって、消えていった。この変化があったことから、自分の中で「血の婚礼」の世界観と金沢弁がうまく馴染んだということなんだと解釈している。

三つ目は役者たちの会話のテンポの適切さである。最初の場面、家で花婿とその母親が結婚について話している。このような家族間の日常的会話のシーンと結婚式の最中、花嫁が元恋人とともにいなくなってしまい、花婿の母親や花嫁の父親が焦りだす、緊迫したシーン。前者のゆったりしたテンポと後者の緊張感あるテンポのメリハリが付いていて、臨場感が感じられた。役者達はテンポの流れを作り、その流れに自分も流されているような印象である。

 

一方で物足りなさを覚えたところもあった。

それは花嫁の本音と建前の葛藤の欠如である。本音と建前の葛藤、つまり、家を守る道徳観と元恋人との情熱的な恋の葛藤があるはずである。物語を見る限り、20世紀初頭のスペインでは、一般的通念として家を守ることがある種の正義だったように思われる。花嫁もそれを認識していたからこそ、血の通わぬお見合い結婚でありながら、結婚式の途中まで花嫁であろうとしたのである。その正義を打ち砕いたのがレオナルドとの情熱的な恋であり、血の通った愛だった。花嫁は花婿との会話や女中との会話で、この本音と建前が見え隠れしていたものの、この二つが共存し、せめぎ合っている様子は劇を通して見られなかった。動きの伴った劇においては、その動作に葛藤が現れ、劇の一番面白いシーンとなるのだが、このリーディングにおいてはそれが見られなかった。

その点物足りなさを覚える。

 

そういうわけで、今回の「血の婚礼」はト書きを読み、場所や時間を容易に伝えられるリーディングによる説明的特性を活かしつつも、通常の劇で表現できる葛藤が見られなかった印象を受ける。リーディングをするということはその特性が得られつつも、通常の劇で表現できるものが失われるトレード・オフするということなんだと感じた。

 

 

この文章は、2016年10月8日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CAT『血の婚礼』についての劇評です。

 「普通」の押し付けは犬も食わない。しかし、自分が押し付けるときは、意外と鈍感になっていることをお許し願いたい。
 金沢市民芸術村20周年記念演劇祭「劇処」の第二作は、演劇ユニットK‐CATによる「血の婚礼」(作G・ロルカ)。結婚式の日に花嫁が忽然と姿を消す。かつて恋人だった男と馬に乗って。二人を追う花婿、両家の一族。ついに深い森の中で二人に追いついた花婿は、また舞台の結末は---。  
先ず驚いたのは、朗読劇だったことだ。意表を突かれた。朗読劇は自分も経験がある。同じ土俵で語るのもおこがましいが、「三年生を送る会」の教師劇で「月光の夏」をやった。加齢と多忙でセリフが覚えられない窮余の一策だった。朗読劇はその程度の位置づけだったのだ。それが堂々と目の前で演じられている。しかも、演劇ユニットK‐CATによって。その朗読劇、何と巧みで、力強く、躍動感溢れること!圧倒された。
 次に驚いたのは、セリフに金沢弁が使われていたことだ。外国の古典劇である。これは想定外だった。当然のことだが、演者は至極当然とばかりに金沢弁を使って、スペインの田舎の婚礼の日を演じていた。舞台との距離が随分近くなったのは間違いない。
 しかしである。「諸刃の剣」という言葉があるが、観劇中もある違和感があった。どうしてこの舞台が朗読劇なのか、またどうして金沢弁なのかというそれである。これだけの役者が揃い、これだけの迫力で、巧みに演じられているのに、なぜ朗読劇なのか。作品の重要なポイントに、二人の男の間で揺れる女心、そして花婿を見限り、男と婚礼の夜に逃亡するという女の究極の選択がある。それはやはり普通の劇の形で演じるしかないと思うのだ。少なくともその方が朗読劇より効果的であるのは明らかだ。
 金沢弁を使うことの親しみやすさは確かにある。スペインという非日常の異国が、すんなり日本の日常に置き換えられた利点はある。だが、パンフレットの“宿命的な業に苦悩する男女を描く”には、金沢弁はかえって邪魔にならないのか。関係者をすべて不幸の渦に巻き込み、とりわけ将来性に富む若い屈強な大事な男たちを殺し合わせる悲劇に、またその悲劇の後も自分を肯定して生き残る女の劇に、身近な金沢弁が効果的とは思えない。無い物ねだりだが、普通の言葉の、普通の劇の「血の婚礼」が見たかった。
 劇評の手がかりを求めて、原作を読んでみた。もう一つの驚きがあった。舞台の役者のセリフと寸分違わないのだ(細かい点で異同はあるだろうが)。「劇処」第一作の「雪わたり」が、原作にないセリフを盛り込むことで現代日本の問題にコミットしようとしたのに対し、これはどういうことか。普通ではない。だが、これはこれでスッキリしている。
「女って、生きてる限り戦い続けるものなのよ」の母親の言葉が目に留まった。
この文章は、2016年10月「1日(土)19:00開演のキッズ☆クルー&人形劇団なみ『雪わたり』についての劇評です。

 簡単だが頗る示唆に富む事前レクチャーを受け、すぐにドラマ工房で観劇した。金沢市民芸術村二十周年記念演劇祭・かなざわリージョナルシアター「劇処」の第一回参加作品は宮沢賢治作、キッズクルー&人形劇団なみの「雪わたり」である。
 最初が児童劇団の公演、これには正直戸惑った。しかし、宮沢賢治、しかも、「雪わたり」となれば話は別である。作家にも作品にも、さらに「雪わたり」という言葉そのものにも思い入れがある。ちなみに富山の西部に属する我が故里では、「雪わたり」を「そらにのる」と言う。小学校時代の、ただ遊ぶことしか頭になかった幸せな時代はとっくの昔に消え去ったが、この言葉を見聞くと瞬時に当時の風景が眼前に蘇る。
「コン度の晴れた月夜の晩にいらっしゃい」と、渡されたキツネの学校の招待状。キツネたちが待つ森の学校へ二人の男の子がやってくる。一生懸命おもてなしをするキツネの子たちと、その思いを汲もうとする二人。当然、両者はそれぞれの側の大人の影響を受け、互いに不信感を抱き持つ。だが、十二歳以下の両者は、ぎりぎりのところで信頼する心を保持し続ける。「走れメロス」ではないが、相手への疑惑を一掃して、笑顔で両者は別れる。
クマと人間、イノシシと人間、キツネと人間の間に信頼関係は成立するか。元々、利害が対立する不倶戴天の敵同士。だが、性善説に立って、このように信じ合えたらどんなにいいことか。現代の人間同士でも。現実はさておき、しばし賢治ワールドに遊んだ。
 一方で、違和感も拭いきれない。宮沢作品の「雪わたり」に人形劇が出てくるか。しかも、度を越した長さで。もう一つ、キツネの子たちが「せんせい」と呼んでいるルンパ・ランパ・ケルルン。彼(彼女)を通して、四季の巡りの意味が、絶望が、その最たるものとして存在する死に向かって生きる人間のニヒリズムが語られていた(ように記憶する)。いや、順序はその逆か。十二歳を通り過ぎたあとの思春期。そこから誰もがそれらの問題に苦しむ。信じ合う心も含め。古稀を目前にして、私はやっと人は何で生きるかが見えてきた気がする。明快な答えが得られたわけではない。ただ、何となく経験則から、帰納的に何か確かなものを感じつつある。長い時間をかけて少しずつ体得していく生きる意味を「せんせい」を登場させ、その口を通して語らせる構成が果たして良かったかどうか。
 観劇は難しい。読書なら一読して疑問が生じたら再読、三読すればいい。そして、作者と議論を戦わせればいい。だが、観劇は一回きりで、舞台はその瞬間に消滅する。もしかしたら違和感を共感に変えられたかもしれないが、今回はそのまま残ってしまった。
 不意に火災警報が鳴った時(自分は劇の一部と勘違い!)、演者の取った態度は立派だった。さりげなく支えたスタッフも。彼らの戸惑いとキラキラした瞳にもう一度拍手! 
「この文章は、2016年10月8日(土)19:00開演の演劇ユニットK-CAT『血の婚礼』についての劇評です」

 演劇ユニットK-CAT(金沢市民芸術劇場)は10月8~10日、金沢市民芸術村PIT2ドラマ工房で第9回公演『血の婚礼』(作:ガルシーア・ロルカ、訳:牛島信明、演出:西川信廣)を上演した。同村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター第2回参加作品。
 K-CATは、演出の西川氏(文学座)を中心に、金沢で活動する地元演劇人ら数十人が参加して09年に旗揚げ。その後、海外戯曲などの作品を年1、2回のペースで上演している。

 今回の作品は、スペインの詩人で劇作家のロルカ(1898~1936)が書いた戯曲を地元の方言・金沢弁で上演した朗読劇。結婚式の日、妻子持ちで昔の男・レオナルドとともに、森の中へと逃げていく花嫁。彼女らを追いかける花婿。決闘の末、最後に命を落とすレオナルドと花婿の二人。残された花嫁や花婿の母、レオナルドの妻たちは喪に服す。こうした出来事を中心に物語は進む。
 舞台上では、17人の俳優たちが台本を読むのだが、舞台設定はスペインのまま。そのせいでイメージにギャップが生じる。目の前で金沢弁を話す俳優たちと、スペイン(おそらくアンダルシアか)のブドウ畑の情景が結びつかない。思考が置いてけぼりをくらう。脳内を回転させても、イベリア半島と能登半島の「半島つながり」くらいしか共通点を見つけられない。日本語に翻訳された海外作品に日本の一地方の方言というフィルターをかけてしまうことで、「地域限定感」だけが助長され、戯曲の持つ物語の広がりが抑え込まれてしまう。せめて、設定を金沢に変更するだけでも、こうした事態は回避できたはずだ。

 黒い衣装を纏った俳優たちは、舞台中央を囲むように配置された長椅子に座り、自分のパートの時だけ前に出ては読み、読み終わると席に戻るという動作を繰り返す。演じている俳優もそうでない俳優も皆、台本から目をそらさず同じような姿勢を保っている。この状況が病院の待ち合い室を想起させた。まったりとした空気の停滞感。主に個々人の立つ、座る、振り向くといった動きが中心で、俳優同士の直接的なアクションがあるわけでもない。眼前には自己完結に固執した空間があるだけだ。
 途中、読みを待機している俳優の中には、極端に身体が揺れたり、台本が手から落ちそうになったりと明らかに集中力が途切れている者もいた。こんなことがあると、舞台の緊張感は急速になくなる。

 電子ピアノによる生演奏や、壁面の馬が描かれた白い幕、赤青に変化する照明などは、随所にスペインを感じさせる雰囲気を醸し出していた。だが、金沢弁という方言の使い方が不明瞭だったり、状況を説明するト書きまでが読まれたりと、終始、想像過程を剥奪されたような感覚を覚えた。
 スペインの内乱期を生き、自らも銃殺されてしまった作者ロルカは、常に死を携えて生きていただろうと推測する。そんな彼が描く愛や死についての戯曲は、もっとぐちゃぐちゃした人間の内面を感じさせるドラマを内包していたはずだ。しかし、最後までそんなリアリティーに溢れたアンダルシアの情景が私の目の前に広がることはなく、文字通り『アンダルシアに憧れて』(作詞・作曲:真島昌利)終演を迎えた。