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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

「この文章は、2016年10月15日(土)19:00開演の劇団nono『七人の』についての劇評です」
 
 言葉。暴力。傷。遮断。社会。関係性。殻。思春期。喪失。心。きっかけ。希望。
 10月15、16日、金沢市市民芸術村PIT2ドラマ工房で上演された野々市市民劇団・劇団nonoによる公演「七人の」(原案:グリム童話『白雪姫』、作・演出:西本浩明)を観て、冒頭の言葉の断片が頭に浮かんだ。
 劇団nonoは金沢市に隣接する野々市市で、09年に地域住民らによって作られたカンパニー。現在、小学低学年の児童から大人まで19人が所属しており、地元に密着した演劇活動などを展開している。座付きの演出家はおらず、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター『劇処』に参加した今回、演芸列車『東西本線』の西本氏が演出を手掛けた。
 
 14歳で不登校になった少女(役名は姫川)の深層心理なのか、想像の世界なのかが、『白雪姫』の物語という形で表出し、描かれる。自らは目を覚ますことのない姫として。彼女の内側の感情やイメージは、擬人化された7人の妖精として。
 物語は、森の中で姫を目覚めさせようと奮起する妖精たちのやり取りを中心に進む。経過する15年の月日。途中登場する王子によるキスでも決して眠りから覚めない姫。だが、最後に「ユウキ(勇気)」という存在の8人目の妖精が姫に触れて終演する。ファンタジー要素の中に、「いじめ」や「引きこもり」といった現代日本の社会問題を内包した作品となっていた。
 
 姫役は白いテントのような幕の内側に居て、客席から見えるのはシルエットだけである。舞台上では、妖精、王子とその従者役の俳優たちがせりふを喋る。
 妖精たちは、ディズニー映画版『白雪姫』の小人をモチーフにしたような、キャラクター設定がなされている。「おこ雪」「ねむ雪」「てれ雪」など。演じる俳優たちは、赤、青、黄、緑、ピンクなどの衣装を身に纏う。顔を黒塗りにしてサングラスとヘッドホンを装着した者(ラッパー口調)や「坂本金七」と名乗る先生がいたり、4、5歳くらいの子どももいる。
 安易なステレオタイプの真似事。中途半端なキャラクター設定。俳優たちの振る舞いが、学芸会のように映る。さらに、彼らの口からは物語とは全く関係のないせりふが頻繁に発せられる。「アピタ~」や「ラウンド・ワン~」であったり、アイドルのことであったり。地域の身近な商業施設の名称やテレビの情報を入れ込む。そうすることで、誰もが親近感を覚え、喜んでくれると思ったのだろうか。下世話な会話が繰り広げられる。ただ、騒がしいだけの失笑。舞台が友達同士の悪ふざけの場でしかなくなる。
 上演時間約70分。この間、冒頭からクライマックスに行き着くまでの60分ほど、こうしたやり取りが続く。結果として、作品の核心がぼやけてしまった。さらに、閉鎖的で迎合的な「ローカリズム」の空気が舞台上に漂っているように感じた。

 冒頭に並べた言葉の断片。観劇後、もう少しでつながりそうだったそれらは、宙に浮かんで消えてしまった。
この文章は、2016年10月15日(土)19:00開演の劇団nono『七人の』についての劇評です。

 『劇処』参加作品第三弾は、野々市市民劇団「劇団nono」による「七人の」である。今回、金沢市では初の公演。
 原案がグリム童話『白雪姫』とあるから、興味関心の第一は、どのように原作(もしくはディズニー等の広く知られた原話)から逸れていき、それがどのような問題意識を反映したものかということになる。第二は、それがどのような舞台で、どのように演じられるかということ。注目点は以下の四点。
①姫は十五年仮死状態である。開始が十四歳だから、姫の現在年齢は29歳。30台目前である。
②七人の小人たちの年齢が様々で、そこに先生まで含まれていること。また、小人たちは姫の崇 拝者でも保護者でもなく、むしろ敵でさえあること。少なくとも、15年間眠り続ける姫が負担
 になっていること。そして、もう一人の小人(「ユウキ」と呼ばれる)が加えられているこ  と。
③白馬にまたがった美男の王子が現れ、美女の姫にキスすることで覚醒するのではないこと。ま してや二人は結婚して幸せにという展開にはならないこと。王子は強いられてイヤイヤキスし たが、姫は覚醒しなかった。姫=美女、王子=美男、も否定されている。
④毒リンゴは実は言葉の暴力であることや、姫の覚醒などといういわゆる奇跡は、さりげない出 会いによって生まれることなどが示唆されている。 
《長期引きこもり》が現代日本の大きな問題になっている。「七人の」は言葉による暴力が原因のこの問題を取り上げたと理解した。タイトルが「七人の」で切れているのは、後に続くのが「小人たち」だけでなく「敵」(外に出れば七人の敵)もあるからだろう。①~④から、劇のメッセージはおのずと明らかだ。元気いっぱい、一生懸命務めてくれた舞台に拍手!特に、ナレーションと下僕を務めた君に拍手!
  蛇足だが三点注文したい。
ⅰ十五年仮死状態である(眠り続ける)姫の十五年をどういう意味づけるか。小人たちの十五年 は描かれていたが、姫(少女、或いは少年)の眠りに踏み込むことも必要だと思う。「三年寝 たろう」の三年は何なのかと問う問題意識である。さらには、夏目漱石の「現代日本の開化」 の問題提起に答える問題意識である。
ⅱ受け狙い見え見えのセリフや演技があったように思う。少し鼻に付いたので残念。 
ⅲ上演者はもう少しセリフと演技の緩急・強弱等を心掛けて欲しい。間がとても大事。
この文章は、2016年10月15日(土)19:00開演の劇団nono『七人の』についての劇評です。

10月15日夜、劇団nono「七人の」(作・演出:西本浩明)を金沢市民芸術村ドラマ工房で観劇した。継母の王妃によって毒リンゴを食べさせられ、眠り続けた白雪姫。グリム童話に基づくディズニー映画などでは、王子のキスで目を覚まし、幸福な結婚で終わっている。この有名なストーリーの舞台を現代日本に置き換え、眠っている間に彼女が見るだろう夢に想像を巡らせたのが今回の作品だ。舞台の後部に設営された白いテントはサーカス小屋を思わせるが、話が進むにつれて白雪姫と小人たちの家だとわかってくる。冒頭の童話部分や後半のキスシーンなどがテントの内部からシルエットとして投影されることで、白雪姫のひきこもり感を醸し出していた。

最初に七人の小人らしき人々が登場するが、一人は武田鉄矢の人気ドラマを連想させる「金七先生」だったり、別の一人は顔を黒塗りしたラッパー(ヒップホップMC)だったりと現代風にアレンジされている。小人たちはお約束に従って王子の登場を待っているが、どこかもう諦めているような気配も漂う。白雪姫が眠り始めてから15年後のある日、道に迷った王子と従者が現れる。小人たちは王子を白雪姫のもとへ連れて行き、キスしろとせがむ。だが、10歳の王子と無理やり唇を重ねさせても、白雪姫には何の変化も生じなかった。

現代の白雪姫は、毒リンゴ(=言葉による毒)に傷つけられ、部屋で眠り(=ひきこもり?)続ける少女らしいことが次第に明らかになってくる。そして、七人の小人は彼女が眠り(ひきこもり?)始めた14歳の時の先生とクラスメートたちらしい。それなら、すべては彼女の夢の中で起こっている出来事ではないのか? 時折まるで座敷童子(わらし)のように姿を現わす白い服の女児が気にかかる。白雪姫の分身とも見えるが、彼女は名前を聞かれて「ゆうき」と答える。それは「勇気」の擬人化だろうか? 確かに小人の一人である「照れ雪」の声が小さ過ぎて聞き取れなかった時、ゆうきが肩を叩いただけで大きな声で喋れるようになった。しかし、白雪姫を救う力はないように感じられる。そんな力がもしあるなら、とっくに使っていたはずだ。

この物語は思い出させる、今この時もこの国のあちこちで無数の白雪姫たち(+王子たち?)が無為に眠り続けている事実を。青春をまるごと棒に振り、夢の中で救いを待つ彼ら彼女らに目覚めの時は訪れるのだろうか? 童話や映画のハッピーエンドとは真逆な現代の残酷物語と見えた。
この文章は、2016年10月15日(土)19:00開演の劇団nono『七人の』についての劇評です。

 金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」第3弾(10月15日、16日)は劇団nono(のの)によるグリム童話『白雪姫』を原案とした『七人の』(作・演出:西本浩明)だった。
 劇団nonoは、2009年野々市町(現:野々市市)の地域住民たちにより作られ、翌年1月宮沢賢治原作の『黄色のトマト』で旗揚げした市民劇団である。
 白い雪のような姫は邪悪な魔女(王妃)の呪いによって眠りについた。姫を慕う七人は姫を目覚めさせてくれる王子を待つ。姫が眠り15回目の誕生日、王子らしき者が従者を連れて森に現れる。
 三角屋根のテント状の白い幕。幕の下、左右に箱馬と木材などが積まれている。前説が終わりしばらくすると、男が一人出てきて劇団について、続けて「むかしむかしとある王国に…」とプロローグを語り出す。呼応するように白い幕に映る魔女らしきシルエット。このシーンを含め魔女と白雪姫は全てシルエットで描かれる。
 続いて幕前に現れる七人、いや八人の小人と思われる俳優たち。小学校低学年かそれ以下かの子供から中年といってもいい者まで年齢層は様々だ。
 隠れるように時々現れる白い小人を除く七人の名前は、ディズニー映画で付けられた名前[先生・怒りんぼう・眠い・恥ずかしがりや・くしゃみっぽい・おとぼけ・幸せ]がベースとなっている。
 姫を孤独の世界閉じ込めたのは魔女の林檎ではなく言葉による毒。この小人たちの居る世界は現実ではなく、14歳であった一人の少女が15年間引き篭った精神世界なのだ。介護、社会情勢、地震、年金…現代を生きる者に突きつけられた拒めない現実。それが余計に外へ出ることを躊躇わせる。
 29歳、三十路を目前にして引き返せなくなるボーダーとしての意味もあるのだろう。15年動かなかった世界に突然現れた従者、それは彼女を訪ねて幼馴染であった男が結婚することを伝えにやってきた現実世界の影響だった。
 小人たちはキスさせようと王子を連れて行く。残された従者は、白い小人を見つけ現実の彼が来た理由を含め言葉を交わす。白い小人はこのままではいけないと思う姫の自我だったのだろう。背中を押された小人は従者に名前を尋ねられ[ゆうき]と名乗った。最後は、見ず知らずの王子によるキスでも目覚めなかった姫に、自ら踏み出すことを決めた勇気が触れるところで幕を閉じる。
 メタファーとして成立しきらず回収もされない種をたくさん蒔いた印象が強い。仮にラスト、勇気が触れたタイミングで白い幕が落ちたならば違った印象になっただろう。また、小人たちが引きこもった少女の精神的側面を思わせる名前であれば、ラストに向けて何人か消えていったことも説明がつく。
 作・演出した西本自身が脚本に関して難産だったと語っているが、演出的な面を含め粗の多さが目立つ未熟児ではなく、難産の末の健康優良児を舞台上に表現して欲しかった。

この文章は、20161015日(土)19:00開演の劇団nono『七人の』についての劇評です。

 

劇団nonoは、平成21年に、野々市市の地域住民が作った市民劇団である。現在は、小学校2年生から幅広い年齢層の団員、19名が活動している。今回が初めての野々市市外、金沢市での公演となった。

上演された『七人の』は、グリム童話の『白雪姫』を原案とし、演劇列車『東西本線』の西本浩明が作・演出を担当している。

 

 三角屋根に四角い部屋の、家のような形の白い布が、舞台に設置されている。家の前の左隅には木箱がいくつか、右隅には木材やほうきが置かれている。物語の案内人らしき男性が登場し、『白雪姫』のお話を語り始める。

 白雪姫の美しさを妬んだ継母は、猟師に彼女を殺すよう命じる。だが猟師は殺すことができず、森の中に白雪姫を置き去りにする。白雪姫は森の中で七人の小人と出会い、小人達の元に身を寄せる。その後、白雪姫が生きている事を知った継母は、自ら森に出向く。継母が渡した呪いのリンゴによって、白雪姫は仮死状態に陥ってしまう。しかし、森を訪れた王子のキスによって、白雪姫は目覚めることができる。

白い家の形をした布の向こうには、人影が現れる。照明の元で揺れる影が幻想的に、童話の世界を表現する。白い家の後ろで影絵の手法が用いられたり、家の前で俳優による演技がなされたりして、物語は進む。

 

『七人の』に登場する小人には、一般的な『白雪姫』の物語とは何か違う者が混じっている。赤・青・黄・緑・橙の服を着た人々の他に、ピンクの服を着て顔を黒く塗ったラッパー風の人物と、青春ドラマに出てきたような長髪の先生がいる。そしてこの七人とは別に、白い服の小さな子がいるのだが、仲間ではないのか、現れてもすぐに立ち去ってしまう。

姫が呪いにかけられてから15年目の誕生日。小人の一人が、王子を見たと報告する。待ちに待った、姫の呪いを解いてくれる王子だ。すったもんだの追跡を繰り広げ、小人達は王子とお連れの者に出会う。王子に姫へのキスを要求するが、王子は抵抗する。気が付くと、小人は一人ずつ消えていく。王子は無理やり姫にキスさせられるも、姫は目覚めない。

 

実はこの物語は、現代の、非常に現実的な話なのではないか。おとぎ話は、姫と呼ばれる存在の心象風景なのであろう。15年、眠り続けるように、外界を拒絶してきたと思われる。待っているだけでは、自分を救い出してくれる王子様は来ない。誰かに頼るだけでは、現状は打破できない、というメッセージがまず一つ、ここに見られる。

影絵として挟み込まれるシーンに、学校らしき風景がある。七人の小人達と同じ演者が、休んでいる生徒の事を非難する。これは、姫のトラウマか。眠った姫を取り囲んでいた小人達は、姫を慕う者達ではなく、姫を卑下し、目覚めることをためらわせる存在だったのではないか。

白い小人に向かい、お連れの者は、昔、自分と仲良くしてくれた子を訪ねてきたこと、もうすぐ結婚すること、おみやげに「しめじ」を持ってきたことを話す。お連れの者に名前を尋ねられた白い小人は、「ユウキ」と答えた。今まで、すぐに逃げ出していた「ユウキ」が、不意の来訪者によって、心を動かされたのかもしれない。「ユウキ」は「勇気」だ。目覚めるための勇気だ。自分の中にあった、起きることをためらわせる七つの要素を、一つずつ消していく。そして、目を開ける。外の世界へと起き上がる。

15年孤独だった姫には、幼馴染の来訪は嬉しかったはずだ。待つだけで、自分を助けてくれる都合の良い存在は現れないが、手を差し伸べる他者はいるのだ。ここにもメッセージがある。

 

この文中、推量形を多く使用した。「そうかな?」と思ったエピソードを「そうだ!」というすっきりした気付きに変える、確証が得られなかったからである。説得力が欲しかった。観客へのヒントをわかりやすく出すこと、演者が脚本をより深く消化すること、メッセージをまっすぐ届けるために、できることはまだまだあるはずだ。