この文章は、2016年10月22日【土】19時開演の「劇団ドリームチョップ 第16回公演 笑ってよゲロ子ちゃん」の劇評です。
舞台はローカルコミュニティラジオ局のスタジオ。そこで放送される番組は誰も聞いていない不人気なものだった。ある時、放送事故が起こってしまったことをきっかけに、ゲロ子という都市伝説をでっち上げ、話題を作る企画【笑ってよゲロ子ちゃん】が実施される。【笑ってよゲロ子ちゃん】では、ディレクターがADのたま子にカエルの被り物を被らせることで、ゲロ子になることを強要し、たま子はゲロ子になりきることを強いられる。企画が始動してから、スタジオにはゲロ子に関するたくさんのはがきが届くようになった。しかし、ある日を境に、ほのぼのとした目撃情報からゲロ子が牛を殺すなどといった異常な内容のはがきが届くようになった。やがて、ゲロ子を作った張本人であるディレクター達でさえ、その噂を信じるようになっていった。そして、AD銀二がアナウンサーになったのをきっかけにゲロ子がスタジオへやってくる。
「笑ってよゲロ子ちゃん」は刈谷東高校演劇部顧問、兵籐友彦創作の高校演劇の作品であり、私はこれを高校演劇の石川県大会で他校が上演しているのを一度見たことがあった。そこでは、ディレクターによるパワハラやプロデューサーの無責任さといった劇に描かれる人間の負の部分はうまく表現されておらず、物足りなさを覚えていた。そこで、今回、高校生ではなく社会人が「笑ってよゲロ子ちゃん」を公演するということで、そういった大人の醜さのようなものがみられるのではないかと期待していた。しかし、それはあっさり裏切られてしまった。劇全体を通して、人間の生々しさを感じることが出来なかった。例えば、放送事故が起こり、ディレクターがADの銀二とたま子をしかりつけているシーンでは、ディレクターの声量が足りず、弱者を罵倒するパワハラの緊迫感が感じられなかった。緊張感を出したくてなのか、女性のディレクターが男性の銀二を投げ飛ばすアクションがあったが、現実のパワハラの現場であんなことが起こると思えず、現実味に欠けていた。また、ラストシーン、ゲロ子がやってくるところでは、BGMのせいなのか、銀二を盾にするディレクターやプロデューサーからは何か危険なものがやってくる危機感、焦りが伝わってこなかった。このように演技は二流画家の描いた風景画ようなリアリティのない物であった。
「笑ってよゲロ子ちゃん」には、前述した負の部分と銀二がアナウンサーになることを応援するゲロ子の想いに代表される正の部分の人間の二面性が描かれている。今回の劇では、そのどちらも強調されておらず、中途半端な印象であった。
今回の劇で新たな発見があったとすれば、それは「笑ってよゲロ子ちゃん」が匿名の二面性を表した作品でもあるということである。匿名性は名前を公表しないことから、責任の所在があいまいにさせる。それをいいことに人は他人を中傷をしたり、虚構の事実を気軽に拡散したりする。これが負の効用である。これは、劇中では、匿名希望のはがきによるデマがそれを表している。現実世界では、ツィッターや2チャンネルの冷ややかなコメントに見受けられるだろう。一方、誰だかわからなくなる性質から、人の個性を開放する。これが正の効用である。カエルのかぶり物を被った際、猫背でおびえていたたま子がダンスを踊り、活き活きしていたのがその例である。この効用は、最近のハロウィンブームにも見られる。ゾンビメイクをしたり、ピエロの仮面をかぶりながら、街を歩く若者はゲロコになりきるたま子と同じ気持ちなのかもしれない。このような二面性から、現代人がいかに匿名性を求めているか再確認できたことが今回の劇の収穫だった。
この文章は、2016年10月22日(土)18:00開演の>劇団ドリームチョップ『笑ってよゲロ子ちゃん』についての劇評です。
ゲロ子が変わらずにいた事に対して胸が苦しくなった。そういう声をいくつか聞いた。
金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第4弾(10月22日、23日)、昨年のかなざわリージョナルシアター参加作品でも劇評を書いた劇団ドリームチョップによる『笑ってよゲロ子ちゃん』(作:兵藤友彦、潤色・演出:井口時次郎)が上演された。
この戯曲は、愛知県立刈谷東高等学校の教諭で演劇部顧問の兵藤友彦が2013年の高等学校文化連盟の大会に際し書き上げたものであり、高校生が演じた初演は愛知県内の地区、県、そして愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山から選出された中部大会でも上位に評価された作品だ。
放送事故をしてもクレームの一つすら来ない地域コミュニティラジオ局の不人気番組「ウーマンズナウ」は話題作りのために「ゲロ子ちゃん」という都市伝説を生み出すことを画策する。ディレクターに命じられるままセーラー服にカエルの手足と頭の被り物を身に着けたADのたま子は「ゲロ子」として街に出て行く。「笑ってよゲロ子ちゃん」コーナーは人気となるが、いつしかゲロ子を恐怖の存在としたありもしない噂が一人歩きし始める。スタッフすらその噂を信じ始める中、同期である銀二だけはたま子は変わっていないと言い続ける。ゲロ子誕生から半年、スタジオに行くとハガキが届く。復讐として殺されるのではないかと恐怖し立て籠もり、たま子と話すと扉を開けようとする銀二を止めるスタッフたち。扉を開け入ってきたゲロ子。紙袋から花束を取り出すゲロ子に、銀二は咄嗟に椅子を振りかぶる。
オンエア前に準備を含めた曲のチェックもしない、アナウンサーが読むハガキに目を通していない、マイクのボリュームを落としているはずの状況にも関わらずブース側の音声が電波に流れるなど在り得ない事ばかりだが、高校生が演じた事を考えればそのリアリティの無さは許されるのかもしれない。しかし、今回は大人がこれを演じ見るのも大人含めた一般の観客だ。演技自体が雑なことも併せリアリティの無さとディテールの適当さはどうしても思考を立ち止まらせる。
そんな全体が曖昧なまま作られた印象が強いこの舞台の中で、一番鮮明に感じたのは、終演後のアフタートークにて作者が語った市民社会の潜在的悪意(無意識の悪意)ではなく、パワハラやモラハラといった問題を肯定しているように見えたことだった。
姿かたちが変わった人間が、時間を経ても何も変わらない内面性を保ち続けることが出来るのか。家に帰ることも禁じられ、財布を預けたために物を買うことも出来ない人間が、全く同じままで居られるはずは無い。もし居られたとしたならば、それは自らの思考を停止させていたに過ぎないのではないか。つまり自らを殺していただけではないのか。
周囲が狂気に染まっていく中、ゲロ子となった女の想いが変わらずにいた事がまるで素晴らしいことのように描かれたこの作品に気持ち悪さを感じてならなかった。
変わらないというのは留まり続ける事ではなく、一本の芯を通しつつ変わり続けていくことではないのか。その点を作者と演出家に改めて問いたい。
追記:その他演出面などを完全版として別サイトにて書こうと思っております。
ゲロ子が変わらずにいた事に対して胸が苦しくなった。そういう声をいくつか聞いた。
金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第4弾(10月22日、23日)、昨年のかなざわリージョナルシアター参加作品でも劇評を書いた劇団ドリームチョップによる『笑ってよゲロ子ちゃん』(作:兵藤友彦、潤色・演出:井口時次郎)が上演された。
この戯曲は、愛知県立刈谷東高等学校の教諭で演劇部顧問の兵藤友彦が2013年の高等学校文化連盟の大会に際し書き上げたものであり、高校生が演じた初演は愛知県内の地区、県、そして愛知・岐阜・三重・福井・石川・富山から選出された中部大会でも上位に評価された作品だ。
放送事故をしてもクレームの一つすら来ない地域コミュニティラジオ局の不人気番組「ウーマンズナウ」は話題作りのために「ゲロ子ちゃん」という都市伝説を生み出すことを画策する。ディレクターに命じられるままセーラー服にカエルの手足と頭の被り物を身に着けたADのたま子は「ゲロ子」として街に出て行く。「笑ってよゲロ子ちゃん」コーナーは人気となるが、いつしかゲロ子を恐怖の存在としたありもしない噂が一人歩きし始める。スタッフすらその噂を信じ始める中、同期である銀二だけはたま子は変わっていないと言い続ける。ゲロ子誕生から半年、スタジオに行くとハガキが届く。復讐として殺されるのではないかと恐怖し立て籠もり、たま子と話すと扉を開けようとする銀二を止めるスタッフたち。扉を開け入ってきたゲロ子。紙袋から花束を取り出すゲロ子に、銀二は咄嗟に椅子を振りかぶる。
オンエア前に準備を含めた曲のチェックもしない、アナウンサーが読むハガキに目を通していない、マイクのボリュームを落としているはずの状況にも関わらずブース側の音声が電波に流れるなど在り得ない事ばかりだが、高校生が演じた事を考えればそのリアリティの無さは許されるのかもしれない。しかし、今回は大人がこれを演じ見るのも大人含めた一般の観客だ。演技自体が雑なことも併せリアリティの無さとディテールの適当さはどうしても思考を立ち止まらせる。
そんな全体が曖昧なまま作られた印象が強いこの舞台の中で、一番鮮明に感じたのは、終演後のアフタートークにて作者が語った市民社会の潜在的悪意(無意識の悪意)ではなく、パワハラやモラハラといった問題を肯定しているように見えたことだった。
姿かたちが変わった人間が、時間を経ても何も変わらない内面性を保ち続けることが出来るのか。家に帰ることも禁じられ、財布を預けたために物を買うことも出来ない人間が、全く同じままで居られるはずは無い。もし居られたとしたならば、それは自らの思考を停止させていたに過ぎないのではないか。つまり自らを殺していただけではないのか。
周囲が狂気に染まっていく中、ゲロ子となった女の想いが変わらずにいた事がまるで素晴らしいことのように描かれたこの作品に気持ち悪さを感じてならなかった。
変わらないというのは留まり続ける事ではなく、一本の芯を通しつつ変わり続けていくことではないのか。その点を作者と演出家に改めて問いたい。
追記:その他演出面などを完全版として別サイトにて書こうと思っております。
この文章は、2016年10月22日(土)18:00開演の劇団ドリームチョップ『笑ってよゲロ子ちゃん』についての劇評です。
俳優の平幹二朗さんが亡くなった。彼はとても内気な人だったそうだ。「僕は自分では自分の言葉で内面を外に出すことができません。そこに役という仮面があると自分の内面が自由に動き出すんです。仮面があることで安心して、悪い衝動も、悲しみも、そういうものが全てマグマのように噴き出してくるんです。(「中日春秋」10/25)。
「劇処」参加作品の四作目は、劇団ドリームチョップによる「笑ってよゲロ子ちゃん」である。ローカルコミュニティラジオ局の番組「ウーマンズナウ」は、あまりの不人気ぶりに打ち切り、そして関係者全員解雇の危機。起死回生の策として都市伝説の「ゲロ子ちゃん」の捏造が案出される。これが大当たりで、一躍人気番組に。だが、噂は一人歩きし、番組制作者視聴者の人間性を崩壊させかねない異常事態へ突き進んでいく。
上演前の期待はとても高いものがあった。タイトルの意味が分らなかったので、その解決も含めて。しかし、上演後は正直なところ裏切られた感が強かった。三点からその理由(逆に見れば、劇団への期待になる)を述べたい。
第一は、原作、もしくは脚本への不満である。番組打ち切りを避けるために、ディレクターの加藤がでっち上げた「ゲロ子ちゃん」。奇怪な蛙の頭を被り、街に出没する役はドジで気の弱そうな、ADのたま子だった。同期入社のAD銀二は彼女に同情するが、上司の決定に逆らえない。その苦肉の策がヒット。ますます全員前のめりになって番組制作が進行する。しかし、フィクションのあまりの肥大・自己増殖に、アナウンサーのあかりは降板してしまう。その代役は何と銀二。不快さと後ろめたさの一方で、彼は生き生きとアナウンサーを務める。脚光を浴び、彼は才能を開花させる。その時に、ゲロ子がスタジオに戻ってくるという。再会した銀二は思わず椅子を振り上げた。周囲の自己中心、保身を激しく嫌悪した彼自身が、正にそのタイプの大人に変身していたのだ。一方、ゲロ子は長い行方不明の後も、黒子役に徹し、番組への、また銀二への思いを失わないでいた。ゲロ子は希望であるとの原作者のトークがあった。脚本・演出担当もそれに共感していた。それがこの劇のアルファであり、オメガであろう。だが、蛙の頭を被り、いわば仮面を帯びたゲロ子に、不変の信実を持たせるのには無理がないか。仮面を付けるという設定は、否が応にも当人を、いや劇までその本質を変えてしまうものなのだ。ドジで気の弱い設定だった彼女が仮面を付けたなら、次に観客が期待するのは変身であろう。その方がはるかに真実味がある。現に、彼女の踊りは原作者が見ても驚くほど上手だったとか。「コスプレすることで人は変わるのよ」という加藤の言葉も蘇る。パワハラをも契機にして大変身するという展開なら、はるかに面白く観たことだろう。タイトルの「笑ってよゲロ子ちゃん」にも本質的に結びつくように思う。ゲロ子も銀二も、いや加藤も荒井も含めてチーム「笑ってよゲロ子ちゃん」の成長・発展劇を観たいは、あまりに突拍子な要求だろうか。高校演劇より出でより青い舞台を観たかった。
第二は、演技への不満である。荒井プロデューサーはヤクザのような強面からスタートした。また、途中ではゲロ子の幻影におびえる小心者、部下に責任転嫁する利己主義者の役柄だったが、大人・社会人のカリカチャとはいえ、現実のプロデューサーとの距離を感じた。もう一人、ADの銀二は青春ドラマを演じているのだろうか。たま子の味方だった彼が、椅子を振り上げるまでに変化する内面の葛藤を演技で観たかった。
第三に、舞台装置の面での不満。スタジオ入口(出口)のドアが無いのが気になった。当然、上演者一人一人は入退出の度に、ドアの開閉を所作で表現する。だが、その所作に統一性が無いので、そこばかりに目が行って劇の展開に集中できなかった(そういう見方しかできなかった自分の非でもあるが)。演劇は共同幻想の世界である。とはいえ、必要な舞台装置が欠け、それを役者の所作で補うとなると、負荷がかかるのは当然だ。というより、その他の本来の所作の重みの方が薄らいでしまうのがこわい。
この劇評も勝手な無い物ねだりだろうか。
俳優の平幹二朗さんが亡くなった。彼はとても内気な人だったそうだ。「僕は自分では自分の言葉で内面を外に出すことができません。そこに役という仮面があると自分の内面が自由に動き出すんです。仮面があることで安心して、悪い衝動も、悲しみも、そういうものが全てマグマのように噴き出してくるんです。(「中日春秋」10/25)。
「劇処」参加作品の四作目は、劇団ドリームチョップによる「笑ってよゲロ子ちゃん」である。ローカルコミュニティラジオ局の番組「ウーマンズナウ」は、あまりの不人気ぶりに打ち切り、そして関係者全員解雇の危機。起死回生の策として都市伝説の「ゲロ子ちゃん」の捏造が案出される。これが大当たりで、一躍人気番組に。だが、噂は一人歩きし、番組制作者視聴者の人間性を崩壊させかねない異常事態へ突き進んでいく。
上演前の期待はとても高いものがあった。タイトルの意味が分らなかったので、その解決も含めて。しかし、上演後は正直なところ裏切られた感が強かった。三点からその理由(逆に見れば、劇団への期待になる)を述べたい。
第一は、原作、もしくは脚本への不満である。番組打ち切りを避けるために、ディレクターの加藤がでっち上げた「ゲロ子ちゃん」。奇怪な蛙の頭を被り、街に出没する役はドジで気の弱そうな、ADのたま子だった。同期入社のAD銀二は彼女に同情するが、上司の決定に逆らえない。その苦肉の策がヒット。ますます全員前のめりになって番組制作が進行する。しかし、フィクションのあまりの肥大・自己増殖に、アナウンサーのあかりは降板してしまう。その代役は何と銀二。不快さと後ろめたさの一方で、彼は生き生きとアナウンサーを務める。脚光を浴び、彼は才能を開花させる。その時に、ゲロ子がスタジオに戻ってくるという。再会した銀二は思わず椅子を振り上げた。周囲の自己中心、保身を激しく嫌悪した彼自身が、正にそのタイプの大人に変身していたのだ。一方、ゲロ子は長い行方不明の後も、黒子役に徹し、番組への、また銀二への思いを失わないでいた。ゲロ子は希望であるとの原作者のトークがあった。脚本・演出担当もそれに共感していた。それがこの劇のアルファであり、オメガであろう。だが、蛙の頭を被り、いわば仮面を帯びたゲロ子に、不変の信実を持たせるのには無理がないか。仮面を付けるという設定は、否が応にも当人を、いや劇までその本質を変えてしまうものなのだ。ドジで気の弱い設定だった彼女が仮面を付けたなら、次に観客が期待するのは変身であろう。その方がはるかに真実味がある。現に、彼女の踊りは原作者が見ても驚くほど上手だったとか。「コスプレすることで人は変わるのよ」という加藤の言葉も蘇る。パワハラをも契機にして大変身するという展開なら、はるかに面白く観たことだろう。タイトルの「笑ってよゲロ子ちゃん」にも本質的に結びつくように思う。ゲロ子も銀二も、いや加藤も荒井も含めてチーム「笑ってよゲロ子ちゃん」の成長・発展劇を観たいは、あまりに突拍子な要求だろうか。高校演劇より出でより青い舞台を観たかった。
第二は、演技への不満である。荒井プロデューサーはヤクザのような強面からスタートした。また、途中ではゲロ子の幻影におびえる小心者、部下に責任転嫁する利己主義者の役柄だったが、大人・社会人のカリカチャとはいえ、現実のプロデューサーとの距離を感じた。もう一人、ADの銀二は青春ドラマを演じているのだろうか。たま子の味方だった彼が、椅子を振り上げるまでに変化する内面の葛藤を演技で観たかった。
第三に、舞台装置の面での不満。スタジオ入口(出口)のドアが無いのが気になった。当然、上演者一人一人は入退出の度に、ドアの開閉を所作で表現する。だが、その所作に統一性が無いので、そこばかりに目が行って劇の展開に集中できなかった(そういう見方しかできなかった自分の非でもあるが)。演劇は共同幻想の世界である。とはいえ、必要な舞台装置が欠け、それを役者の所作で補うとなると、負荷がかかるのは当然だ。というより、その他の本来の所作の重みの方が薄らいでしまうのがこわい。
この劇評も勝手な無い物ねだりだろうか。
この文章は、2016年10月22日(土)18:00開演の劇団ドリームチョップ『笑ってよゲロ子ちゃん』についての劇評です。
『笑ってよゲロ子ちゃん』は、高校教諭の兵藤友彦によって、高校演劇のための作品として書かれた。その戯曲に井口時次郎が潤色、演出を行い、井口が主催する『劇団ドリームチョップ』の第16回公演作品として上演した。大人の社会を想像するしかない高校生ではなく、社会の現実を知った大人が演じる。このことで、高校演劇コンクールでの上演を前提としていた元々の雰囲気とは、随分違うものになっていたのではないか。
舞台となるのはローカルコミュニティラジオ局。誰も聞いていないことが明らかとなった番組『ウーマンズナウ』は、新井康平(長山裕紀)プロデューサーより打ち切りを宣告される。しかし己の生活がかかっている加藤千佳(岡本亜沙)ディレクターは継続を願い、苦し紛れの新企画を立ち上げる。それが、セーラー服姿にカエルの頭を被った「ゲロ子ちゃん」の都市伝説化である。ゲロ子役には、番組内で失敗し、気弱に謝ることしかできないADの村山たま子(古林珠実)が当てられる。アナウンサーの竹内あかり(根埼麻依)は保身のため加藤ディレクターに追従。たま子と同期入社のAD、中村銀二(宮下将稔)はためらうものの、加藤からのパワハラに逆らうことができない。ラジオが好きで良い番組を作りたいという願いと、上司に立ち向かうことが許されない状況。この二点から、たま子はゲロ子としての生活を始めることになる。
「ゲロ子ちゃん」はさっそく話題となり、ラジオリスナーからハガキが大量に届くようになる。ゲロ子が誕生してから一週間後、たま子が被り物姿のままスタジオに駆け込んでくる。スタジオに来た理由を尋ねられ、「銀二君の声が聞きたかったから」と返す。彼の声を聞いて安心したのか、たま子はゲロ子になりきるため、自分の財布を銀二に預けて、また外へ出ていく。
最初は単なる目撃情報だった。しかし半年を経て、リスナーからのハガキの内容は、明らかな嘘を交え、エスカレートしていく。「ゲロ子が牛を殺した」「奇形児として生まれたゲロ子は被り物をしている」「レイプされたゲロ子は人を憎んでいる」「ゲロ子は悪魔だ」。大量の反応を喜んでいたラジオ局の人間達も、次第に恐怖を覚えていく。自分たちが生み出した、作り物に後付された情報が、数を増やすごとに本物らしく思えてくる。そして、噂に聞くような恐ろしい化け物になったゲロ子が、自分達の元へ復讐にやってくるのではないかと、怯え始める。
市民社会には小さな悪意が散らばっている。そのままなら些細な棘のような悪意も、多量に集まると大きな威力を持つ。長期間悪意に晒され続ける人間が、冷静さを保つことは難しいだろう。この社会が良心に満ちたクリーンで快適な場所だとは、長く社会人をやるほどに思えなくなっていく。大人達が演じる井口版の『笑ってよゲロ子ちゃん』にはその不快さがにじみ出ている。
半年もの間、気弱な女子が財布を持たず、家にも帰らず、生き延びていけるものだろうか。よっぽどの信念がないと、難しいのではないだろうか。だがたま子はその困難を乗り越えた。そこにあったのは銀二への思いだった。自分がゲロ子であることで、銀二は良い番組が作れる。ラジオ番組の窮地を救う希望にされたたま子にとっては、銀二が唯一の希望だったのだ。すがりつくには弱すぎる恋慕という希望は、思い詰めるほどに、いつしか執念にも似たものになったのではないか。
ラストシーンで、たま子は銀二への素直すぎる好意を表明する。彼は、たま子をゲロ子に変換してしまい怯えていたというのに。彼女は自分の思いを貫くだけで幸せなのだろう。だが、スタジオを立ち去ったたま子が、カエルの被り物を投げ捨てて執着から自由になってくれることを、そして他者から押し付けられ増殖させてしまった悪意を葬り去ってくれることを、願ってやまない。
『笑ってよゲロ子ちゃん』は、高校教諭の兵藤友彦によって、高校演劇のための作品として書かれた。その戯曲に井口時次郎が潤色、演出を行い、井口が主催する『劇団ドリームチョップ』の第16回公演作品として上演した。大人の社会を想像するしかない高校生ではなく、社会の現実を知った大人が演じる。このことで、高校演劇コンクールでの上演を前提としていた元々の雰囲気とは、随分違うものになっていたのではないか。
舞台となるのはローカルコミュニティラジオ局。誰も聞いていないことが明らかとなった番組『ウーマンズナウ』は、新井康平(長山裕紀)プロデューサーより打ち切りを宣告される。しかし己の生活がかかっている加藤千佳(岡本亜沙)ディレクターは継続を願い、苦し紛れの新企画を立ち上げる。それが、セーラー服姿にカエルの頭を被った「ゲロ子ちゃん」の都市伝説化である。ゲロ子役には、番組内で失敗し、気弱に謝ることしかできないADの村山たま子(古林珠実)が当てられる。アナウンサーの竹内あかり(根埼麻依)は保身のため加藤ディレクターに追従。たま子と同期入社のAD、中村銀二(宮下将稔)はためらうものの、加藤からのパワハラに逆らうことができない。ラジオが好きで良い番組を作りたいという願いと、上司に立ち向かうことが許されない状況。この二点から、たま子はゲロ子としての生活を始めることになる。
「ゲロ子ちゃん」はさっそく話題となり、ラジオリスナーからハガキが大量に届くようになる。ゲロ子が誕生してから一週間後、たま子が被り物姿のままスタジオに駆け込んでくる。スタジオに来た理由を尋ねられ、「銀二君の声が聞きたかったから」と返す。彼の声を聞いて安心したのか、たま子はゲロ子になりきるため、自分の財布を銀二に預けて、また外へ出ていく。
最初は単なる目撃情報だった。しかし半年を経て、リスナーからのハガキの内容は、明らかな嘘を交え、エスカレートしていく。「ゲロ子が牛を殺した」「奇形児として生まれたゲロ子は被り物をしている」「レイプされたゲロ子は人を憎んでいる」「ゲロ子は悪魔だ」。大量の反応を喜んでいたラジオ局の人間達も、次第に恐怖を覚えていく。自分たちが生み出した、作り物に後付された情報が、数を増やすごとに本物らしく思えてくる。そして、噂に聞くような恐ろしい化け物になったゲロ子が、自分達の元へ復讐にやってくるのではないかと、怯え始める。
市民社会には小さな悪意が散らばっている。そのままなら些細な棘のような悪意も、多量に集まると大きな威力を持つ。長期間悪意に晒され続ける人間が、冷静さを保つことは難しいだろう。この社会が良心に満ちたクリーンで快適な場所だとは、長く社会人をやるほどに思えなくなっていく。大人達が演じる井口版の『笑ってよゲロ子ちゃん』にはその不快さがにじみ出ている。
半年もの間、気弱な女子が財布を持たず、家にも帰らず、生き延びていけるものだろうか。よっぽどの信念がないと、難しいのではないだろうか。だがたま子はその困難を乗り越えた。そこにあったのは銀二への思いだった。自分がゲロ子であることで、銀二は良い番組が作れる。ラジオ番組の窮地を救う希望にされたたま子にとっては、銀二が唯一の希望だったのだ。すがりつくには弱すぎる恋慕という希望は、思い詰めるほどに、いつしか執念にも似たものになったのではないか。
ラストシーンで、たま子は銀二への素直すぎる好意を表明する。彼は、たま子をゲロ子に変換してしまい怯えていたというのに。彼女は自分の思いを貫くだけで幸せなのだろう。だが、スタジオを立ち去ったたま子が、カエルの被り物を投げ捨てて執着から自由になってくれることを、そして他者から押し付けられ増殖させてしまった悪意を葬り去ってくれることを、願ってやまない。
この文章は、2016年10月15日(土)19:00開演の劇団nono『七人の』についての劇評です。
誰もが知っている『白雪姫』の物語。その美しさゆえに継母から疎まれ殺されかけた白雪姫は、森に住む七人の妖精たちに救われる。その後、継母が自ら渡した毒りんごを食べて永遠の眠りについてしまうが、王子にキスをされることで目覚めて大団円を迎える。しかし、もし王子が15年間も現れなかったら。14歳だった白雪姫は29歳になっている。30代も目前だ。焦る七人の妖精の前に、ようやく王子と思しき一行が現れる。
劇団nonoによる「七人の」は、そのような仮定の設定により原作から逸脱していく。同劇団は、平成21年に野々市市の地域住民たちで作った市民劇団で、現在小学2年生から幅広い年齢層の団員が活動している。今作は、作・演出に外部から西本浩明(演芸列車東西本線)を迎えて、児童劇ではない大人のブラックなテイストを盛り込んだ。
15年ぶりに登場した王子は、理想の白馬の王子にはほど遠い。王冠に白いタイツを身に着け、いかにも王族な装いだが、どこか不恰好で優柔不断である。七人の妖精たちによって半ば強制的に姫にキスするのだが、姫が目覚めることはない。ここで物語は思わぬ展開となり、どうやら姫は、自らの意志で目覚めようとしてこなかったことが明らかとなる。そもそも姫なども存在せず、現実は、白馬の王子様という救いを待ち続けて15年間、一人で物語を紡ぎ続けた引きこもりの女性がいるだけ。七人の妖精たちも、毒のある言葉の暴力によって登校拒否と引きこもりを余儀なくされた彼女のクラスメイトや先生が物語内世界に反映された夢に過ぎない。結局、彼女が現実に戻るためには、新たな妖精に具現化された「勇気」よって目覚めるしかないという、唖然とするしかない唐突な展開で幕が下りる。
世界のすべてが、引きこもった人間が創出した夢物語であり、その人物が目覚めることによって物語も瓦解するというSF的な展開はありがちなのかもしれない。問題は、その目覚め方であって、15年間も引きこもっていた人が、「勇気」さえあれば目覚めるなどとする展開に共感する者は恐らく誰一人いないだろう。そして、付言しておかなくてはならないのは、七人の妖精のキャラクターである。人間の「怒り」や「照れ」などの感情や気質を具現化した存在として、七人はそれぞれわかりやすくキャラ付がされている。しかし、金八先生をモデルにした「金七先生」はひたすら苦笑で済むかもしれないが、顔を黒塗りにしてセリフをヒップホップ風に語る存在は、ミンストレルショーであるまいし、偏見に満ちており見るに度し難い。
『白雪姫』の物語では、真実を語る鏡が登場する。その役を担っていたメタレベルの語り手が、物語内では王子の侍従として登場する。どうやら彼だけが現実の存在で、引きこもった「姫」に実際に会いにいくことで彼女の「勇気」を呼び起こし目覚めのきっかけとなる。そう考えると、引きこもりの彼女が、白雪姫であるはずの自分が実は30歳手前の若さを失った単なる一女性に過ぎないことを認識し、そこから自己同一性を再び獲得するという俗流な鏡像段階の物語と読めないこともない。様々な解釈を喚起して不思議な感覚を残す舞台だった。
誰もが知っている『白雪姫』の物語。その美しさゆえに継母から疎まれ殺されかけた白雪姫は、森に住む七人の妖精たちに救われる。その後、継母が自ら渡した毒りんごを食べて永遠の眠りについてしまうが、王子にキスをされることで目覚めて大団円を迎える。しかし、もし王子が15年間も現れなかったら。14歳だった白雪姫は29歳になっている。30代も目前だ。焦る七人の妖精の前に、ようやく王子と思しき一行が現れる。
劇団nonoによる「七人の」は、そのような仮定の設定により原作から逸脱していく。同劇団は、平成21年に野々市市の地域住民たちで作った市民劇団で、現在小学2年生から幅広い年齢層の団員が活動している。今作は、作・演出に外部から西本浩明(演芸列車東西本線)を迎えて、児童劇ではない大人のブラックなテイストを盛り込んだ。
15年ぶりに登場した王子は、理想の白馬の王子にはほど遠い。王冠に白いタイツを身に着け、いかにも王族な装いだが、どこか不恰好で優柔不断である。七人の妖精たちによって半ば強制的に姫にキスするのだが、姫が目覚めることはない。ここで物語は思わぬ展開となり、どうやら姫は、自らの意志で目覚めようとしてこなかったことが明らかとなる。そもそも姫なども存在せず、現実は、白馬の王子様という救いを待ち続けて15年間、一人で物語を紡ぎ続けた引きこもりの女性がいるだけ。七人の妖精たちも、毒のある言葉の暴力によって登校拒否と引きこもりを余儀なくされた彼女のクラスメイトや先生が物語内世界に反映された夢に過ぎない。結局、彼女が現実に戻るためには、新たな妖精に具現化された「勇気」よって目覚めるしかないという、唖然とするしかない唐突な展開で幕が下りる。
世界のすべてが、引きこもった人間が創出した夢物語であり、その人物が目覚めることによって物語も瓦解するというSF的な展開はありがちなのかもしれない。問題は、その目覚め方であって、15年間も引きこもっていた人が、「勇気」さえあれば目覚めるなどとする展開に共感する者は恐らく誰一人いないだろう。そして、付言しておかなくてはならないのは、七人の妖精のキャラクターである。人間の「怒り」や「照れ」などの感情や気質を具現化した存在として、七人はそれぞれわかりやすくキャラ付がされている。しかし、金八先生をモデルにした「金七先生」はひたすら苦笑で済むかもしれないが、顔を黒塗りにしてセリフをヒップホップ風に語る存在は、ミンストレルショーであるまいし、偏見に満ちており見るに度し難い。
『白雪姫』の物語では、真実を語る鏡が登場する。その役を担っていたメタレベルの語り手が、物語内では王子の侍従として登場する。どうやら彼だけが現実の存在で、引きこもった「姫」に実際に会いにいくことで彼女の「勇気」を呼び起こし目覚めのきっかけとなる。そう考えると、引きこもりの彼女が、白雪姫であるはずの自分が実は30歳手前の若さを失った単なる一女性に過ぎないことを認識し、そこから自己同一性を再び獲得するという俗流な鏡像段階の物語と読めないこともない。様々な解釈を喚起して不思議な感覚を残す舞台だった。