かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ -49ページ目

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2016年10月28日【土】19時開演の「北陸の劇評 プロデュース公演 赤紙」の劇評です。

 金沢リージョナルシアター 劇処 第五弾「赤紙」は、原 力男が脚本し、劇団110showの高田 伸一が演出した。キャストには、劇団110showを始め、表現集団tone!tone!tone!劇団北陸新協、ステージアウラの俳優が加わった。

 主な物語は第二次世界大戦中、海兵の友をなくした三郎の物語である。彼は出兵を拒否するために、逃亡を図る。ある時、逃げ隠れた家に、ある盲目の女芸人と出会う。そして、旅のお供をするうちに関係を持ち、終戦することが分かると、女と子供を捨てて、家へ帰ってしまう。この物語の間に断片的に戦争に関する物語が挿入されていた。帰還兵の二郎は、赤紙を丸め、花のアートを作る。南京では、若い中国人女性が、進行する日本軍の前を歩かされ、地雷の餌食となる。戦艦武蔵は、不沈艦と呼ばれていたが、爆撃により沈没してしまう。2023年の未来では、奨学金のためアフリカの戦争に参加した若い女がいつまでも、その時の戦争体験に苦しめられていた。

 最も主張したい事は、日本を戦争する国にしてはならないということだろう。
それが最も表れていたのは、若者に赤紙が届けられる二つのシーンだった。一つ目は劇の序盤の配達員によって遺骨が届けられるシーンであり、配達員と家族の会話はシリアスで、両者は悲痛な顔をしており、重い空気がながれていた。しかし、二つ目の劇の後半の同じようなシーンでは、趣が異なっていた。軽快な空気が漂っており、赤紙が来て、出兵しなくてはならないというのに、赤紙を受け取った若者はバイトがあるといって、そのまま署名せずにバイトへ行ってしまう。若者の母親は、配達員に言われるまま、軽いノリで、息子の赤紙に代わりに署名をする。前者と後者は対比の関係にあり、若者を戦争に駆り出す戦時中の赤紙も怖いが、軽いノリで署名される赤紙のほうが恐怖を自覚していない分、たちが悪いと感じた。最近は集団的自衛権の問題もあり、日本が戦争する国になるのか活発に議論されている。そのため、現代版赤紙は単なるフィクションに思えず、少なからず危機感を覚えた。

この他にも、現代の戦争にかかわる問題を連想させることがいくつかあった。例えば、前述の南京のシーンでは、今もなお、たびたび靖国神社参拝などで問題となっている日本と中国の歴史認識の問題が連想できるし、アフリカの戦争に参加した女性の話からは、自衛隊が南スーダンに駆け付け警護する問題が連想でき、いずれも、未来と過去のことを語っているように見えて、実は現代の戦争の問題を思い出してほしかった意図が見出すことが出来る。戦争の断片は過去でも、未来のことでもなく、今、現在の日本の問題を表しているのだ。そういった意味で、私はこの劇が現代に公演される意味はあると思うし、断片として選ばれた物語にも満足している。

しかしながら、ストーリーの展開にやや不満も残る。作者の原 力男は作中の数ある戦争の断片(物語)の中から、何かを拾ってほしかったようだが、その断片はあまりにちりばめられすぎて、拾うのは難しいように思えた。時系列も、場所も一貫しないさまざまな状況に何か戦争以外の共通点を探して、迷宮に陥ってしまったりしなかったか?断片的にした意味を問いたい。
この文章は、2016年10月22日(土)18:30開演の劇団ドリームチョップ『笑ってよゲロ子ちゃん』についての劇評です。

「口裂女」や「トイレの花子さん」の類いの怪奇都市伝説を自ら作り出し、その情報を募ることでリスナーを増やすことを目論むローカルラジオ番組のディレクター加藤千佳(岡本亜沙)。最も立場の弱いAD(アシスタントディレクター)の村山たま子(古林珠実)に精巧なカエルの被り物とセーラー服の衣装を着せ、「ゲロ子」として街を徘徊させるのだが。ゲロ子の目撃情報は、日を追うごとに量が増えるだけでなく内容も過激となり、流言蜚語が加熱して制作サイドにもコントロールができなくなっていく。

劇団ドリームチョップの第16回公演『笑ってよゲロ子ちゃん』(作:兵藤友彦、潤色・演出:井口時次郎)は、匿名のベールの奥に潜む市民社会の悪意が、ラジオを制作する人たちをゆがめてしまう怖さを社会派サスペンスホラーとして描き出した。

ただこの作品にはリアリティはほぼない。アナウンサーが初見で原稿を読んだり、アナウンサーが辞めたら代わりにADが担当したりする。専業主婦が主なリスナー対象と言いながら、放送時間は日曜の朝と判明する。はがきやFAXが投稿手段の全盛の時代設定かと思いきや、突然現代の曲が流れる。

それでもリアリティを超えて印象的なのは、つるつるとなまめかしくニスを塗られたリアル両生類の頭をもったゲロ子という存在の生々しさやその存在に内包された暴力の構造だ。

アフタートークで原作者は、「ゲロ子こそが希望である。」と語った。いい番組を作りたいというという愚直さや同僚の中村銀二(宮下将稔)への恋心のひたむきさが、悪意に満ちた社会の中で希望となりうると。

しかし、村山たま子は犠牲者ではないのか。一度目はゲロ子になることで、二度目はリスナーの虚言に曝され同僚からも忌避されることで、彼女は二度人格を否定されることになる。彼女への悪意こそが劇中最大の悪意であり、彼女を希望と言ってしまう問題意識の欠如こそが悪意ではないのか。後味の悪さが残った。
この文章は、2016年10月29日(土)19:00開演の「北陸の劇評」プロデュース公演『赤紙』についての劇評です。


 金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第5弾(10月28日~30日)『赤紙』(作:原力雄、演出:高田伸一)は、脚本を務めた原自身が運営する北陸に特化した演劇情報のフェイスブックページ「北陸の劇評」によるプロデュース公演として、演出に劇団110SHOW代表である高田伸一を迎え上演された。
 兄が戦地で無くなったと遺骨が届けられる。そして、赤紙を届けられたが逃げる三男、その男と出会う瞽女、花(球根)を育てる長男。戦艦武蔵の乗組員。奨学金を受け大学へ入り、コールセンターで働く女。赤紙を届ける男。受け取りを拒否する男、代理で受け取る母。
 俳優たちは、写真を現像するかのように赤紙を作るコロス的存在から、舞台中央で繰り広げられるコラージュのような物語の登場人物へと切り替わっていく。
 一般的なストレートプレイではなく現代演劇的な手法が多く取り入れられている。言葉の切断、突飛な節回し、不自然な音の高低、語る身体としてのダンス的表現。しかしそれは結実しなかった。言葉などを浮き立たせることはなく、ただ集中を妨げる不快なノイズにしかならない。俳優の技術的なものもあるだろうが、演出家が方法論を持っておらず、それら表現を用いることに対して明確な意図も無かったように思えた。
 コロスに関して言えば、紙を箱に入れ(浸し)、取り出し吊るす。その行為の中に俳優個人の生理ともいえる生っぽさ、素の部分が見えてしまう。統率性もなく、役を演じている俳優との使い分けが成立しておらず、背景のように作品世界を作っていくべき存在に視線を奪われてしまう。
 もう一点、劇中「マスコミは真実を伝えない」「農民は政治がどういうものか全く知らない」というような言葉が出てきたのだが、それらは俳優に語らせるべきではなかった。それらの言葉は、コロスたちが始終続けている行為を意味のないものとしてしまったように思える。
 もっと集中させられる行為が中で行われ、コロスがコロスとして機能していたならば、視線の主となる中央の演技の外で行われている行為。つまり我々自身の無関心が赤紙を作っているという構図が成り立ったのだろう。
 全体的な印象として、現代演劇として敢えて具体的な表現に踏み込まない冷静さ・客観性といったものがこの舞台には不足していた。構図、表現手段の不完全さなども相まって、観客に一方向の考えを押し付けた感が否めない。タイトルを含め直接的な表現を用いたことにより提示されたものに対して受け入れるか否かという感が強くなる。
 思想信条を演劇で語るなとは言わない。ただ、それは明確な表現として直接的に訴えかけることではなく、観客に何かを考えさせるだけでいいのではないだろうか。観客の持つ多様な考えに何かを投げ込み波紋を起こすように、感じさせるだけで敢えて語らない事こそ観客は自ら考えるのではないだろうか。
 構図からは観る者に感じさせたかったのだろうと思えるが、舞台上で行われた行為は直接的な主張かつコラージュ的な物語と表現手法の羅列、全体として不完全さを感じ、何とも言いがたい煮え切らないものが残った。現状の表現技術であれば中央で行われる演技をフラット化してコロスメインの作品作りの方が良かったかもしれない。

この文章は、20161029日(土)19:00開演の北陸の劇評プロデュース『赤紙』についての劇評です。

 

『北陸の劇評』は、北陸三県の演劇公演情報や劇評を掲載しているFacebookページである。その運営を行っている原力雄が、『北陸の劇評プロデュース』として、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭 かなざわリージョナルシアター「劇処」にて『赤紙』を上演した。脚本は原、演出は『劇団110SHOW』の高田伸一が担当している。

 

舞台上には照明が低めの位置に吊り下げられ、左右の端から紐が通されている。紐のあちらこちらに、ビニールの白い紐が幾重にもかけられている。白い紐にはクリップが多数付いている。床には学校にあるような机が並べて二台ずつ、上手、下手の前方と後方にそれぞれ置かれている。机の上には小ぶりの箱がいくつかある。舞台中央には金属網でできた、床より二段ほど高くなった通路。背の低い空間は暗く狭く、廃墟のような雰囲気を漂わせている。

 

赤紙とは、国からの軍隊への招集礼状である。それが届いた人物は、病気であるなど重大な事情のない限り、兵役を逃れることができなかった。

一人の男が、入隊の日に逃げ出した。そこに信念があったわけではない。ただ、怖かった。人を殺すことが、人に殺されることが。電車に飛び乗り、降りた先で民家に逃げ込んだ。その家にいた女に、匿ってくれるよう男は頼む。彼女は盲目の旅芸人、瞽女だった。男は彼女と仲間たちの旅に同行することとなる。

この、赤紙招集から逃げた男の話を中心として、『赤紙』には戦争に纏わるエピソードがいくつも挿入されている。戦艦武蔵、南京大虐殺、アフリカでの戦闘行為、赤紙を配る仕事人と、それを受け取る青年。これらのエピソードに直接的な関係はない。戦争に関わった者たちの姿が、断片的に示される。

 

初めに登場した人物たちは「こん、ばんは」「そう、ですか」など、単語の途中で不自然な切り方をする発話を行った。だが別のシーンでは普通の会話が行われる。また、他の登場人物が、機械音声的な発声での会話をするシーンもあった。これらの通常とは異なる発語方法は、聞いている者に違和感を起こさせようとしていると推測するが、違いに気を取られて言葉の内容が素直に受け取れない。それもまた制作者の意図なのかもしれない。ここで語られていることは日常会話ではない、という。

気を取られる原因がもう一つあった。舞台中央部で演じている以外の俳優は、左右に置かれた学校机で作業をしているのだ。箱から箱へ紙を移し、ゆすっているその動作は、赤紙の印刷を模しているのだろう。できあがった赤紙は、垂れ下がっているビニール紐に付いたクリップに留められていく。何かが起こっている背後で、粛々と赤紙が作られている可能性を示しているのだろうか。

 

終盤にこんなシーンがあった。配達人が赤紙を青年に届ける。だが青年は笑っている。その母も。そんなもの冗談だろう、と笑い飛ばす。配達人は淡々と自分の仕事を遂行する。俳優たちの手によって印刷されていた赤紙が、一斉に舞台中にばらまかれる。演者たちの笑い声が響く。笑っていられるのは今のうちだ。赤紙が舞うこの風景を、冗談にできない状況になっているのだ。そう言われた気がした。

 

断片を断片のままに描写することがこの作品の目的だろう。『赤紙』というタイトルから想像していた、戦争に絡むわかりやすい大きな主張は見られなかった。

ここで「戦争反対」を叫んでみたとしよう。何かを声高に主張することで、満足した気分が得られてしまうのではないか。意思を貫くことも大事だが、立ち位置の固定化は、思考をも膠着させてしまうかもしれない。『赤紙』が、わかりやすくポリシーを叫ばないのは、思考停止を避けるためなのか。

反対とも、賛成ともとれないシーンを提示する。それが何を意味し語っているのか、観客に委ねる。そして赤紙について、戦争について考えることを観客に投げかける。しかし、ここまで素材を並べたのなら、叫んで欲しかったのだ。ばらばらのエピソードをまとめあげた一つの主張を。

 

「この文章は、2016年10月22日(土)18:00時開演の劇団ドリームチョップ『笑ってよゲロ子ちゃん』についての劇評です」

 金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の参加作品、劇団ドリームチョップ第16回公演「笑ってよゲロ子ちゃん」(作:兵藤友彦、潤色・演出:井口時次郎)が22、23日、同村ピット2ドラマ工房で上演された。
 ドリームチョップは2000年に旗揚げした劇団。これまで井口氏のオリジナル脚本を中心に、人間模様を描いた作品を上演している。今作は、愛知県立刈谷東高校の教諭兵藤氏が高校演劇用に書いた戯曲がベースとなっている。

 舞台は石川県のローカルコミュニティーラジオ局。リスナーが皆無の番組「ウーマンズナウ」は放送事故が決め手となり、プロデューサー新井康平(長山裕紀)から番組打ち切りと、編成スタッフの解雇が告げられる。この決定を覆そうと自己保身に走るディレクター加藤千佳(岡本亜沙)は、都市伝説に出てくる「口裂け女」のような存在として「ゲロ子ちゃん」を作り出し、街中に出没させることを考案。加藤は、後輩のAD村山たま子(古林珠実)にカエルの顔の被り物と水掻きのついた手袋、セーラー服を着て、ゲロ子になることを強引に納得させる。
 番組の新企画となった「ゲロ子ちゃん」コーナーは、リスナーから好評を得る。時が経つにつれ、ラジオ局にはゲロ子の目撃情報が書かれたはがきが続々届く。リスナーが増えて、喜ぶ加藤や新井たち。しかし、はがきの中身は「ゲロ子が水掻きに潜ませたカミソリで牛を殺した」「ゲロ子は奇形」「ゲロ子は昔犯された」といった内容にエスカレートしていく。嘘が嘘を呼び、得体の知れない恐怖が助長される。アナウンサー竹内あかり(根﨑麻依)はこうした状況に耐えきれず、番組を降板。その後、たま子と同期の中村銀二(宮下将稔)がパーソナリティーを務める。
 加藤らは次第に、自らが作り上げたゲロ子に殺されるかもしれないという恐れを抱き始める。半年後、ゲロ子として街中を彷徨い続けていたたま子は、ついにラジオ局に戻ってくる。怯える加藤や新井たち。たま子は袋から花束を取り出して、銀二に渡そうとする。刹那、銀二は反射的にたま子目掛けて椅子を振り上げる。銀二のアナウンサー就任を祝う横断幕を出すたま子。呆然とする銀二を最後に終演する。

 冒頭から最後まで、ゲロ子役を演じたに過ぎなかったたま子。半年もの間、被り物を脱ぐことを禁止され、それを頑なに守ろうとする姿は、健気なのか愚鈍なのか。むしろ後者に思えてならない。パワハラやモラハラ、過度の残業などが原因でうつ病や自殺が問題となっている現代社会を鑑みると、このような人物設定を是なるものとして捉えることが容易にできない。財布も持たず、半年間も被り物をしたまま、生きていたことがまさに奇跡。常人ならとっくに自己が崩壊し、それこそ別の何者かに変身してしまいそうだ。純粋無垢な女の子は何をされても平気なのか。アニメの世界観を強引に現代に持ち込んだ感は否めない。歪められたリアリティーが際立ってしまっていた。
 さらに、リアリティーという点では、理性を失った加藤らがただの作り物だったゲロ子をモンスターとして認識するようになる変化が、見えてこない。慌てふためく身振り手振りや、焦るように喋る言葉ばかりが強調される。だが、恐れ戦く目をしていない。身体が強張っていない。言葉にしないこうした在り様が舞台空間に緊迫感や緊張感を生み出すのに、と考えてしまう。
 別段、リアリティーにばかり固執しているわけではないのだが、人間の内部の微細な変化を観察したかったという欲求が滲み出てしまう。いっそのこと、と思う。たま子が心身ともに、カエルのゲロ子に少しずつ変身する様が描かれていたとしたら。フランツ・カフカの小説「変身」のような展開を勝手に妄想してみたり。そんな自分を現実に引き戻して、筆を置いた。