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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

「この文章は、2016年11月5日(土)19:00時開演の演芸列車『東西本線』の『CSG48~48番目の赤穂浪士~』についての劇評です」
 
 男達の別れ際(去り際)の美学を思う。残り香を残して静かに立ち去る背中には憧れを抱くばかりだ。理屈抜きにどうしてあんなに格好良いのかと。哀愁なんて言葉が頭をよぎる間もなく、ダンディズムのマシンガンで射抜かれてしまう。名画『さらば友よ』の影響か、アラン・ドロンの仕業なのか、はたまた主役のドロンを喰ってしまったチャールズ・ブロンソンの風貌のせいなのか--。金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」参加作品、演芸列車「東西本線」の公演『CSG48~48番目の赤穂浪士~』(作・演出:東西本線)を観劇した後、落とし所を探すべく巡らした私の行き着いた先である。

 年末になると、ブラウン管の向こう側に映し出されていた時代劇『忠臣蔵』をベースにした作品。大石内蔵助を旗頭に、47人の浪士たちが播磨赤穂藩の藩主・浅野内匠頭の仇討ちのため、吉良上野介を暗殺する事件のサイドストーリーを上演した。
 大石から討ち入りの起請文(誓約書)を突っ返されたことに納得できず、吉良討つべしと気炎を上げる堀部安兵衛(西本浩明)が萱野三平(東川清文)邸を訪れる。そこに間十次郎(中西弘)と安兵衛の父弥兵衛(新保正)も加わり、4人で「今すぐにでも討つべきか、討たざるべきか」を議論する。
 弥兵衛の提案により、碁石を使って討ち入りへの賛否が決められる。参加が白で不参加が黒。緊張が走る中、2度行われた採決はいずれも白3、黒1の結果に終わる。
 誰が黒を投じたのかと、血相を変えて憤怒する安兵衛をなだめながら、弥兵衛は1度目は様子見のため、敢えて自ら黒を入れたと答える。しかし、2度目は白だったと言う。緊迫した空気がしばらく漂う中、三平が「2度目に黒を選んだのは私」であると告白する。主君への忠義と家督存続との狭間で葛藤し、熟慮の末の選択だったと。
 三平は、大石が吉良邸襲撃を既に予定していることも皆に報告する。束の間思慮した安兵衛は「あっぱれ」と発し、決起する同志の48番目に三平を加えておくと言う。別れる4人。最後、十次郎に「グッドラック」と告げられた三平が舞台奥に去って行く(史実では三平は討ち入り前に自決する)。

 60分間、Jポップミュージックを聞いたような感覚だ。毛嫌いするでもなく、そうかと言って胸に余韻が残るわけでもなく。一種のサスペンス要素を含んだ決を取る場面や、英語を十次郎に度々喋らせること(日本のミュージックシーンで日本語に英語をミックスさせる傾向があるからなのか……)など、観客の興味を削がないような試みがなされていたのであるが、如何せんキレイにまとめようとした印象は拭えない。今作の見せ場であったはずのラストシーンが足早に駆け抜けていった。
 最後に立ち去る三平の背中にアンバー照明を当て、哀愁を感じさせようともしていたが、それだけでは不十分だった。4人の男達が覚悟を胸に、今生の別れ際に悠然とそこに居る様、「どうぞ見てくださいね」ではなく「つべこべ言わずにこの姿を刮目しやがれ!」という気概をぶつけてほしかった。佇まいだけで「もう参りました」と観る者に言わせるほどの。そのためには、演出上、より微細な作り込みが必要となってくるが、十分トライする価値はあったはずだ。

 だからこそ、もう一度思う。男達の別れ際の美学を。彼らの「ダンディズムの逆襲」に期待を込めて。
この文章は、2016年11月5日(土)19:00開演の演芸列車東西本線『CSG48~48番目の赤穂浪士~』についての劇評です。

48番目の赤穂浪士と聞いて真っ先に思いついたのは、主君や義士たちとともに港区泉岳寺に墓がある萱野三平重実だ。忠君である浅野長矩や友への義と、吉良の縁者であり家代々の主人大島家への仕官を薦める父の間で板挟みとなり自刃した男。NHKの大河ドラマ『元禄繚乱』や『仮名手本忠臣蔵』などにも描かれており無名ではない。
演芸列車東西本線による『CSG48~48番目の赤穂浪士~』(作・演出:東西本線)は、金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」の第6弾(11月4日~6日)だ。
元禄14年3月、江戸城松之廊下で浅野が吉良上野介に対して刃傷に及び、異例の即日切腹と赤穂浅野家の断絶が決まる。浪人となった旧藩士たちは江戸や上方の各地へ散る中、大石は吉良の処断と赤穂浅野家再興を求める義盟を120を超す者たちと結ぶ。
吉良が家督を譲ったことで喧嘩両成敗の望みも絶たれ、赤穂浅野家再興も命により絶望的となった元禄15年7月、大石は仇討ちを決定。覚悟を確かめるべく義盟への連判状から血判を切り取りそれぞれに返した。
この血判が返されたところから物語は始まる。
血判を返されたことに憤る強硬派の堀部安兵衛はともに大石に討入を嘆願すべく萱野三郎宅を訪れる。安兵衛に招かれた間十次郎、養子である彼を連れ戻すべく訪れる堀部弥兵衛、彼ら4人によって物語は進む。この場にいる全員一致ならば賛同すると弥兵衛は決を取ることを提案する。討入ならば碁石の白石を袋に入れると決め、順に票を入れていく。一度目は黒石が一つ。弥兵衛の進言により再投票となるが、また黒石が一つ混じる。一度目を投じたのは皆の気持ちの揺れを考慮した弥兵衛の企み、しかし二度目は? 安兵衛は討入に対して慎重な発言をしていた十次郎を疑う。しかし……
最後、意を決した三人を見送る三平は十次郎が口にした「グッドラック」の言葉を彼らの背中に送り部屋を後にする。
史実では神文返しが行われたる前に萱野三平は他界しているため、この物語は完全なフィクションではあるが、「グッドラック」と語る雰囲気や照明からは死を感じさせ恐らくは自死を覚悟したことを描いたと思われる。しかし、能楽的な足運びでゆっくりと歩く姿からは自刃を覚悟したようには見えて来なかった。
作品の完成度は悪くない。しかし、敢えて重い話としなかったからだろうか、特段取り立てて語れることも少なく、
可も無く不可も無いというのが率直な気持ちだ
そして、なぜいま自刃した萱野三平なのか、なぜこの作品をいま舞台に乗せたのか。創り手の意図が何かしらあると思われるが、それらは明確に見えてこなかった。「忠義」を「義」を「士官話」をなんと置き換えることができるのか、今も何かしらの暗喩があったのではないかと頭を巡らせる。
この演芸列車は特急だったのだろうか。車窓の風景が一瞬に移り変わるように、心に何かを残す事無く過ぎていった感が残る。
この文章は、2016年11月5日(土)19:00開演の演芸列車東西本線『CSG48~48番目の赤穂浪士~』についての劇評です。

 良い演劇の要素を挙げればきりがない。仮に①演技、②脚本、③舞台装置、の三つに絞ってみよう。三拍子揃う人間が滅多にいないのは演劇も同様だ。では何が残ればいいか。私は、敢えて省くなら③を省く。それも許されずもう一つ絞れと言われたら、多分②を省く。時には①を省くこともあろうが(よほど優れた脚本ならばだが)、やはり普通にいけば、②の上位に①を置く。
 それを体験したことがあった。古い話で申し訳ないが、金沢で全国高校演劇大会があった。そこで強烈な印象を残したのは、神奈川カリタス女子の「創作劇のつくりかた」だった。ほとんどセットなど無い状態で、放課後の演劇部員たちの他愛無いやりとりを演じていた。何が良かったか。キャストの溌溂とした演技である。最優秀賞は大掛かりなセット、まともな脚本、大勢のキャストで演じた別な学校だったが、準優勝のそっちの方が記憶に残った。オーソドックスな高校演劇に食傷していたからかも知れない。
 劇処第6作は、演芸列車東西本線による「CSG48~48番目の赤穂浪士~」である。キャストはたった四人。舞台も極めてシンプル。武士が出てくるのに、髷も結ってなければ、刀も帯びていない。手抜きも度が過ぎると非難する人が出てきて不思議はない。しかし、私は全く問題視しなかった。理由はただ一つ、役者四人が溌剌と演技していたからである。演じるのが楽しくてたまらない、そんな風にも見えた。役者四人も適材適所。そして、ある劇団に注文した「上演者はもう少しセリフと演技の緩急・強弱等を心掛けて欲しい。間がとても大事。」も全てクリアーしている。舞台に集中した。
 諸田玲子に「四十八人目の忠臣」という作品がある。今回の劇のタイトルの「48番目の赤穂浪士」はそれに似ている。赤穂浪士と言えば四十七士という既成概念を打ち破る、もしくは揺さぶりをかける意図は共通だ。誰が、どういう理由で四十八番目の義士になるのだろう。私は上演前からすでにそのキャッチに食いついていた。他の三人は義士に入っているから、入るとすれば東川清文演じる萱野三平しかいない。彼は裏切り者の筈である。源氏以来の萱野の家を絶やすわけにはいかないと討ち入りから離脱した。ところが、東京・泉岳寺にある四十七士の墓所には、萱野の供養墓を含め四十八基の墓がある。赤穂の大石神社でも大石と彼が祀られている。とすれば、萱野は裏切り者でありながら忠義を貫いたと認知されていることになる。なぜ?
 起請文を返された浪士四人が、大石内蔵助にあくまで討ち入りを進めるよう求めるか否かを碁石の白黒で確認する場面は面白かった。一回目も二回目も白三個に、黒一個。その意味が劇中の緊迫したやりとりの中で明らかになる。私はこの場面を見ながら、菊池寛の小説「入れ札」を思い出していた。それはさておき、一回目の黒が堀部弥兵衛、二回目の黒が萱野三平と分り、間十次郎に違いないと誘導されていた観客はアッと言わされる。しかも、これらのやりとりを大石内蔵助が裏で全部聞いていた!
 ラストは、三人が去った後、萱野がゆっくりと後ろに退去していく場面である。最初ゆっくりすぎることに違和感を覚えた。しかし、ふと思った、あれは切腹の場へ赴く所作かも知れないと。辻褄が合うと思った。萱野は大石に苦しい胸中を打ち明け、離脱を認めてもらった。その代わりに、彼は大石に協力して浪士の本音を探る手助けをした。特に、間十次郎が離脱しないように周到な準備をした。即ち、彼はある面でユダの役割を果たしたのだ。裏切りながら忠義を果たすという他の誰にもなしえない役目を。
 最初キャストは五名だったという。もし五番目の役者がこの劇に加わったならどんな役柄だったろうか。どんな劇になったか。番外編をつい想像してしまった。

「この文章は、2016年10月29日(土)19:00時開演の北陸の劇評プロデュース公演『赤紙』についての劇評です」
 
 金沢市民芸術村20周年記念演劇祭かなざわリージョナルシアター「劇処」参加5作品目となる今回、「北陸の劇評」プロデュースによる『赤紙』(作:原力雄、演出:高田伸一)が28~30日、同村ピット2ドラマ工房で上演された。
 北陸の劇評は、今作の戯曲を書いた原がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)上に立ち上げた演劇情報紹介サイト。今回、彼がプロデュースする格好で、金沢を拠点に活動する劇団110SHOWの主宰・高田を演出に招聘、同劇団の俳優を中心に上演した。

 第二次世界大戦の最中、日本の軍隊が在郷軍人を召集するために発行していた令状「赤紙」に関わる人たちや、戦争のシーンが描かれる。出兵を拒否し、逃げ惑う男とその家族。南京大虐殺。戦艦武蔵の沈没。舞台四隅に置かれた机を前に、はがき大の紙(赤紙)を作り続ける8人の俳優(コロス)。そのコロスたちが、中央奥から客席に向かってセッティングされた橋のような工事用足場に2、3人ずつ登場し、それぞれの役を演じる。
 アフリカへの紛争に参加し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)を抱えた女性が帰国後に民間サポートセンター(コールセンター)で働く様子。近未来の日本で若者の家に赤紙が届けられる場面も出てくる。軍国主義を礼賛するかのような流れから、いつしか物語は世界の紛争に身を投じ、時間の針が逆戻りしたかのような国家の姿が提示される。誰も戦争状態だと気付かず、徴兵を知らせる赤紙だけが届けられる。
 舞台中央では、血の通っていない人間たちが描かれているように映る。コロスが配役を演じる際のシームレス感。地続き(空間続き)に移行する俳優たちの在り様もあっただろうが、内面の葛藤を探ることができない。結果、ドラマが起きているようで起こらない。語られる戦争の史実も胸の奥底に響いてこない。

 安全保障関連法が成立し、自衛隊の海外派遣時の役割も拡大されることになったのは記憶に新しい。こうした国の体制が暴走し、劇中で描かれた結末が待っているかもしれませんよ、と警鐘を鳴らしているのだろうか。人民は無知だから、マスコミは隠蔽するばかりの愚かな存在だからと。しかし、ユーモアなき直接的なセリフの羅列は押し付けがましいだけである。食傷気味になり、舞台との共振を拒んでしまう。
 一方で、コロスたちが黙々と赤紙を作り続ける姿は、舞台中央で描かれるシーン以上に次第に存在感を増していった。天井からかなり低い位置に吊り下げられた照明機材や垂れ下がった無数の紐といった舞台装置が与える圧迫感も相まって。得てして、伝えようとしない存在と対峙した時、観る者は勝手に思考を働かせ、ドラマを描いてしまうものである。敢えて多くを語らずとも。
この文章は、2016年11月5日(土)19:00開演の演芸列車『東西本線』『CSG48~48番目の赤穂浪士~』についての劇評です。

 さあっと風が吹き抜けたように思える芝居だった。しかし、温風、冷風、順風、逆風……何とも形容し難い。この捉え難さの理由はどこにあったのか。

 浅野内匠頭の仇を討つため、吉良上野介邸に討ち入りを果たした赤穂浪士たちの物語が『忠臣蔵』である。討ち入りに参加したのは47人と語られてきたが、実は48番目の赤穂浪士がいたのだ。演芸列車『東西本線』の『CSG48~48番目の赤穂浪士~』(脚本・演出 東川清文 )は、この史実を元にしたフィクションである。

 浅野内匠頭が切腹してから、一年が過ぎた。臣下にあった藩士たちは敵を討とうと、討ち入りの起請文を大石内蔵助に提出するが、これを返されてしまう。納得いかないのが堀部安兵衛武庸(西本浩明)。間十次郎光興(中西弘)と共に、萱野三平重実(東川清文)の家を訪ねる。皆でもう一度大石内蔵助に直談判しようというのだ。息子の安兵衛を追って、堀部弥兵衛金丸(新保正)もやってくる。直談判するかどうか、票を入れて決めようということになり、碁石が用意される。白が多ければ行う。黒ならばあきらめるとする。その結果、白が3つに、黒が1つだった。もう一度投票が行われるが、結果は同じ。黒を入れた者探しが始まる。

 だれが黒を入れたのか? その推理もこの劇の楽しみの一つだろう。だが、歴史に通じた人物ならば見当がつくかもしれない。推理の予測がつく人にも、わからない人にも、見せようとしたものは何なのか。主君への忠義、守るべき家、己の命。今自分は何を大事とするのか。揺れ動く、藩士たちの心の動きではないか。
 生死のかかった決断を前にしているのだが、登場人物たちの言動に重さが足りないように感じた。悲壮さを取り除き、沈鬱にならずとも観られる作品にしたかったがゆえの空気感かもしれない。だが、藩士たちの心の葛藤がテーマであるとするならば、葛藤の原因の多くを占める問題である、命について、より慎重な扱いがなされてほしく思う。また、場面の多くが会話で進むため、ここぞという見せ場が足りなかったように感じる。間の取り方が重要視されていたが、その静を打ち破る動が、もっと強くともよかっただろう。
 重さが伝わらない理由の一つとして、彼らが刀を持っていないことが挙げられる。刀を持たないことで彼らは、制限から自由になっているように見えるのだ。 史実として持っていなかったのか、あえて持たせなかったのかは分からない。どちらにしろ、刀という武器を持たない、丸腰での彼らの心意気を、もっと高い熱量で見せて欲しいと感じた。

 歴史の中において、人の一生は、一陣の風のようなものだろう。さらりと流れるように描くのも手法の一つだ。だが、ここにあえてその生きざまを取り出したのならば、その流れを一時留めおくような、印象的な錘(おもり)が欲しかった。