この文章は、2016年10月22日(土)18:00開演の劇団ドリームチョップ『笑ってよゲロ子ちゃん』についての劇評です。
俳優の平幹二朗さんが亡くなった。彼はとても内気な人だったそうだ。「僕は自分では自分の言葉で内面を外に出すことができません。そこに役という仮面があると自分の内面が自由に動き出すんです。仮面があることで安心して、悪い衝動も、悲しみも、そういうものが全てマグマのように噴き出してくるんです。(「中日春秋」10/25)。
「劇処」参加作品の四作目は、劇団ドリームチョップによる「笑ってよゲロ子ちゃん」である。ローカルコミュニティラジオ局の番組「ウーマンズナウ」は、あまりの不人気ぶりに打ち切り、そして関係者全員解雇の危機。起死回生の策として都市伝説の「ゲロ子ちゃん」の捏造が案出される。これが大当たりで、一躍人気番組に。だが、噂は一人歩きし、番組制作者視聴者の人間性を崩壊させかねない異常事態へ突き進んでいく。
上演前の期待はとても高いものがあった。タイトルの意味が分らなかったので、その解決も含めて。しかし、上演後は正直なところ裏切られた感が強かった。三点からその理由(逆に見れば、劇団への期待になる)を述べたい。
第一は、原作、もしくは脚本への不満である。番組打ち切りを避けるために、ディレクターの加藤がでっち上げた「ゲロ子ちゃん」。奇怪な蛙の頭を被り、街に出没する役はドジで気の弱そうな、ADのたま子だった。同期入社のAD銀二は彼女に同情するが、上司の決定に逆らえない。その苦肉の策がヒット。ますます全員前のめりになって番組制作が進行する。しかし、フィクションのあまりの肥大・自己増殖に、アナウンサーのあかりは降板してしまう。その代役は何と銀二。不快さと後ろめたさの一方で、彼は生き生きとアナウンサーを務める。脚光を浴び、彼は才能を開花させる。その時に、ゲロ子がスタジオに戻ってくるという。再会した銀二は思わず椅子を振り上げた。周囲の自己中心、保身を激しく嫌悪した彼自身が、正にそのタイプの大人に変身していたのだ。一方、ゲロ子は長い行方不明の後も、黒子役に徹し、番組への、また銀二への思いを失わないでいた。ゲロ子は希望であるとの原作者のトークがあった。脚本・演出担当もそれに共感していた。それがこの劇のアルファであり、オメガであろう。だが、蛙の頭を被り、いわば仮面を帯びたゲロ子に、不変の信実を持たせるのには無理がないか。仮面を付けるという設定は、否が応にも当人を、いや劇までその本質を変えてしまうものなのだ。ドジで気の弱い設定だった彼女が仮面を付けたなら、次に観客が期待するのは変身であろう。その方がはるかに真実味がある。現に、彼女の踊りは原作者が見ても驚くほど上手だったとか。「コスプレすることで人は変わるのよ」という加藤の言葉も蘇る。パワハラをも契機にして大変身するという展開なら、はるかに面白く観たことだろう。タイトルの「笑ってよゲロ子ちゃん」にも本質的に結びつくように思う。ゲロ子も銀二も、いや加藤も荒井も含めてチーム「笑ってよゲロ子ちゃん」の成長・発展劇を観たいは、あまりに突拍子な要求だろうか。高校演劇より出でより青い舞台を観たかった。
第二は、演技への不満である。荒井プロデューサーはヤクザのような強面からスタートした。また、途中ではゲロ子の幻影におびえる小心者、部下に責任転嫁する利己主義者の役柄だったが、大人・社会人のカリカチャとはいえ、現実のプロデューサーとの距離を感じた。もう一人、ADの銀二は青春ドラマを演じているのだろうか。たま子の味方だった彼が、椅子を振り上げるまでに変化する内面の葛藤を演技で観たかった。
第三に、舞台装置の面での不満。スタジオ入口(出口)のドアが無いのが気になった。当然、上演者一人一人は入退出の度に、ドアの開閉を所作で表現する。だが、その所作に統一性が無いので、そこばかりに目が行って劇の展開に集中できなかった(そういう見方しかできなかった自分の非でもあるが)。演劇は共同幻想の世界である。とはいえ、必要な舞台装置が欠け、それを役者の所作で補うとなると、負荷がかかるのは当然だ。というより、その他の本来の所作の重みの方が薄らいでしまうのがこわい。
この劇評も勝手な無い物ねだりだろうか。