(劇評)「恋人たちの希薄な関係と交換可能性(死んだ元カレの名誉回復のために)」原力雄 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。

移ろいゆく時間、通り過ぎて行く人たち。

私は彼らのことをどれくらい本当にわかっていたのだろうか?

2月27、28日に金沢市民芸術村ドラマ工房で上演されたLab.「No Reason Plus」(荒川ヒロキ作・演出)。物語は雑誌編集者の女性カマタユメと仕事で知り合ったライターの男性イツワユウスケによる現在進行形の恋愛かと思ったら、実はユウスケはすでに病気で亡くなっていて、ユメの一方的な回想であることにしばらくして気づく。死んだ元カレを思い出しながら、女性が主観的に(すなわち彼女自身に都合の良いように解釈して)会話を再構成していて、どこまでが彼の言葉でどこからが彼女の自問自答なのかは正確に区別できないようだ。

彼女の追憶の中身は、日常会話の断片ばかりであり、そこからはユウスケという男の人間的な核心が(優しかったということ以外には)ほとんど伝わって来ない。一緒にいた3年間は短か過ぎたとしても、これでは彼の人生が報われないと思う。一般論として女性は、愛した男についてさえも、これほど単純で薄っぺらいイメージでしかとらえていないのかと絶望的になる。本当のところ、ユウスケは相当程度に自分を抑圧しながら、彼女と付き合っていたのではないか?もっと言えば、二人の関係は本音をぶつけ合うような瞬間があまりなかったのではないだろうか?

やがてストーリーは、残された彼女が、周囲や自分自身に対して後ろめたさを感じることなしに次の男へと(露骨な言い方だが)乗り換えるためにはどれくらいの冷却期間を置けばいいのかというタイミングの問題に焦点が絞られてくる(生前、ユウスケとの間でもそういう会話を交わしていたことが免罪符になっていく)。どんなに早く乗り換えても、元カレは決して怒らないだろう。なぜなら彼は優しい人だったから、というオチなのだ。そして、次の男となりそうな編集部の部下マナカショウヘイとの出会い方も、同じ仕事関係でまるで右から左へとスライドするような安易さに驚かされる。女性にとって、男は他の男と等価交換可能な消耗品でしかないのではないかという残酷な現実を突きつけられる。

すぐに次の男へ移るのはけしからんなどとユメを責めているのではない。彼女は今の世の中のスタンダードである関係の希薄さや交換可能性に従って行動しているだけであり、その他大勢と同じように常識的な彼女一人を責めても仕方ない。お洒落なレストランや夜の公園でデートを重ねても、お互いに相手の正体が何も見えていなかった(見る必要すら感じなかった、あえて見ない方が良かった)のではないか。ここには現代社会を生きる男女の孤独が剥き出しの状態で表現されている。

この芝居にはドラマがない。恋人が死んだからドラマっぽく見えるけど、実はユメには大した影響を与えていない。彼女の言葉通り「地獄のように」つらいという気分の問題だけ。彼女は平気で毎日、会社へ来て、バリバリと仕事をこなしている。例えば、ユメはユウスケとショウヘイのどちらを本当に好きなのかとあえて考えてみても、どちらでも良いとしか思えない。たまたま先に出会ったユウスケと付き合ったけど、もしショウヘイと先に出会っていたら、そちらと付き合っていた気がする。最初にユウスケと付き合い始めたことに深い理由はないし、彼の死後にショウヘイへ乗り換えることにも強い抵抗がない。ただ浮き草のように状況に流されていく一人の女がいるだけ。だからここには源氏物語的な「もののあはれ」はあるとしても、自分の運命を自ら選び取ろうとする近代人のドラマはないのである。

舞台作品としては無駄がないというか、余計な装飾を削ぎ落として物語の形を浮かび上がらせようという意思を感じさせる。非常にきっちりと作られていて、いろんな見方が可能だと思う。彼女の片寄った主観を通して矮小化されてしまった姿ではなく、元カレのユウスケが本当のところはどういう男だったのか、違う側面も知りたいと思うのは私だけだろうか?もしかしたら、彼には男としての(果たせないで終わった)野望もあったのではないか。そういうことも描くのがフェアではないだろうか?