(劇評)「美しいレリーフのような・・・」市川幸子 | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
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この文章は、2016年2月27日(土)19:00開演のLab.『No Reason Plus』についての劇評です。

恋をして一緒に住み始めて、だんだん女に我儘が出て来る。それでも男は女を愛している。その中で男は病死する。女は後悔しながら男を忘れられずに苦悩しながらも仕事をし、生活を続けていく。何時しか立ち直り3,4年後に死んだ男とよく似た人に出会い何かが起こるであろうことをほのめかし芝居は終わった。
映像作家 荒川ヒロキ氏の作、演出によるNo Reason Plusを観た。舞台の奥に四角い板を組み合わせた白い壁を作りその壁の両サイドにドアがある。そこに部屋や場所の映像が映し出される。映像のチェンジが場面転換となる。わたしはこの作品を見るのは2回目だが初めて見た時は面白いなぁと思ったが、2回目となるとなぜ時間がいつも同じなのか、とか違うところが気にかかって来る。映像による背景変換の可能性と限界を考えてしまう。そして、その背景が変わるたびにコミックのページをめくっている様な感覚になってしまう。背景にある二つの扉から役者が出てきて所定の位置に来ると台詞が始まり、言い終わると役者が入れ替わるかもしくは所定の場所を変えて再び台詞を喋りだす。何時の間にか、役者たちの言葉までが吹き出しの台詞になって文字化されていってしまうのはなぜだろうと考えて見た、それは其処に肉体の存在が感じられないからではないか。生舞台の醍醐味は其処で演じられる芝居の中で生きている人間の息遣いや存在を感じ、受け取る事ではないだろうか。映像での芝居はちょっとした視線の動きや、細かい表情で充分あらわされる。それはカメラワークによるアップと云う事があるからで、舞台の場合はすべてを見られている。役者はその肉体全てを使って現わさなければならない、それは何も大仰に表現することではなく、日常にある感情の変化による肉体の変化の微細な所を考える事ではないか。今回の芝居は役者たちの肉体の変化を見る事は出来なかった、故に台詞も身体から出て来る言葉とは聞くことが出来なかった。美しい四人の役者たちが三次元の立体から二次元の平面に移り変わる途中のレリーフとしてわたしの記憶の中に残っている。