#劇評2021
この文章は、2021年12月11日(土)19:00開演の演劇ムーヴメントえみてん『異邦人の庭』についての劇評です。
2021年12月、僕たちは街中にアクリル板が溢れ、映画やドラマの中の刑務所の面会室でしかイメージできなかった光景がどこにでもある日常を生きている。パンデミックの混乱の中で人と人との接触が妨げられることに知らず知らずのうちに慣らされてしまっている漠然とした怖さがある。世界の権力者が国境で建設を進めている巨大な壁や有刺鉄線の映像は、この日常の景色とどこかで繋がっているようにかつてなく感じている。
舞台であらためてアクリル板を見るとその白っぽい冷たい輝きにドキッとする。アクリル板を挟んで向かい合う一対の机と椅子。舞台照明で区切られた光の道がアクリル板を貫いて金沢市民芸術村ドラマ工房の外にまでずっと続いて行くように伸びている。
このシンプルな舞台装置で起こる、拘置所の面会室での静かな会話劇。演劇ムーブメント「えみてん」(富山県出身の俳優天神祐耶とのとえみの2人の演劇ユニット)による金沢初公演『異邦人の庭』(作:刈馬カオス)は、空間の余白と対話の中の「間」にこそ深くて多様な意味が生まれ得るという演劇の価値を再認識する舞台となった。
一(にのまえ/天神祐耶)は舞台作品の創作のために死刑囚の火口(ひぐち/のとえみ)に取材を申し出る。火口は、自殺願望のある7人を自宅のロフトで首を吊らせて殺害した自殺幇助の容疑で死刑が確定している。ただし本人は犯行時の記憶がないと主張。一は、記憶がないにも関わらず死刑を受け入れた理由を知りたいと思っている。
火口が取材を受け入れる条件は一との結婚だった。近未来の日本の死刑囚は、人道上の配慮から親や配偶者などの家族の同意があれば、刑の執行日を自ら決めることができる。火口は一に同意書に署名してもらって自ら選んで死ぬ権利を行使したいと希う。別々の利害と思惑で結婚した2人は、死刑制度や自死する権利などについて時に激しくぶつかりながらも対話を重ねていく。そして、相手への理解が深まることで自らの考えも揺れ動いていく……。
天神は演出に際して、呼吸と間をとても大事にしていると書いている。今作でもとても印象的な「間」があった。火口の求めに応じて、一がある書類を持ってきたと言うシーン。火口は絶句し「そう」と言う。最終的な決定が永久に引き伸ばされことを無意識に望んでいた、生きることを欲している人間の「間」だと僕には聞こえた。その瞬間、平静を保つことで自らの心を閉ざしていた火口の緊張は緩み、溢れ出した生のエネルギーの浸透圧がアクリルの境界面を突破して空間全体に満ちた。
エンターテインメントとして良質な男女の恋愛ドラマであると同時に、死刑制度についてあらためて考えさせる種々の材料を提供してくれる舞台でもあった。一や火口のように、人は他者と関わることで変わりうる。それは国家や法制度も同じではないだろうか。国や法制度が誤りを犯すことは歴史が証明している。将来に誤りを認め変更し得る可能性のある国や正義の基準がその時点で暴力的に生と死の間に境界を引いてしまうことの是非について、観劇後からずっと自分なりに考え続けている。
小峯太郎(劇評講座受講生)
この文章は、2021年12月11日(土)19:00開演の演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』についての劇評です。
演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』(作:刈馬カオス、演出:天神祐耶)が12月11、12日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。この作品は、どこにでもいそうな普通の「いい人」が、まるで善行を施すようなつもりで他人の自殺を幇助し、死刑囚となってしまった姿を描くことにより、我々が今、どのような世の中に生きているのかを浮かび上がらせた。男女二人の俳優は呼吸と間合いのコントロールが素晴らしく、緊迫感溢れる空間を作り出していた。
劇作家の男性・一春(=にのまえはる、天神祐耶)が拘置所で女性死刑囚・火口詞葉(=ひぐちことは、のとえみ)と会う。彼女は7人の女性に対する自殺幇助に殺人罪が適用され、死刑判決を受けた。ところが、面会室に入って来た女は殺人犯のイメージとはほど遠かった。春から取材させてほしいと頼まれた詞葉は、自分と結婚することを条件に承諾する。時代設定は令和6年、人権保護の観点から死刑囚自身が刑の執行日を選択できる制度が施行されている近未来だが、その権利を行使するためには配偶者の同意が必要なのだった。やがて会話の中から、春の元妻が彼女に殺された被害者の一人だったことが浮かび上がる。彼は詞葉の申し出通り死刑日選択同意書にサインすることによって、彼女を殺すこともできた。しかし、彼女は別の事故により、自ら起こした事件の記憶をすっかり無くしていた。彼女はなぜ、自分が覚えてもいない犯罪に対する死刑判決を進んで受け入れようとするのか。春は疑問点を解消しようと何度も通って彼女と対話を繰り返すうち、詞葉の人柄に惹かれていくのだった。
詞葉は、よく気がつき、相手の気持ちを汲み上げて誠実に対応しようと努める人だった。のとえみの演技も、形式的な結婚なのについ浮かれてしまう若い女性の可愛らしさなど、死刑囚の枠に収まりきらないリアリティーを丁寧にすくい上げていた。おそらく世間的には「いい人」と呼ばれるに違いない詞葉の姿を見ていると、彼女は死にたいのに死ねないでいる女性たちを純粋に助けたかったのではないかと思えてくる。むしろ相手の意図を深読みし過ぎ、自殺願望の小さな芽を太い幹と勘違いしたまま先走ってしまったのではないだろうか。
そこから導き出されるのは(芝居の中では明示されなかったが)詞葉自身もまた、自殺願望を抱いていた、という仮説だ。事件前の彼女についてはあまり語られていない。一人暮らしを始めてからも猫に会いたくてよく実家に帰ったなど、普通の人的なエピソードだけだ。しかし、無意識の自殺願望が他者の上へ投影されてしまったからこそ、余計なお節介を焼いたのではないか。もし自分自身の自殺願望に気付いてさっさと実行していたら、境界線上で悩んでいた7人を殺す(幇助する?)悲劇には至らなかっただろう。いや、実はそのことにうすうす感付いていたからこそ、死刑判決を甘んじて受け入れられたのかもしれない。
『罪と罰』のラスコーリニコフ以来、罪を犯した男性のそばに心優しき女性が寄り添うというストーリーはロマンティシズムの定番だった。しかし、今回の作品では、女性の死刑囚に対して男性が接近し、理解しようと努めるのであり、男女逆転の構図が新鮮だった。また、詞葉が死刑日選択同意書と離婚届の両方を春に渡し、好きな方にサインしてと判断を委ねる場面もあった。自分に対する春の復讐心を満足させてやろうとの気遣いなのかもしれないが、春は両方にサインして最終的な決定を再び詞葉へと差し戻す。これもまた、運命の選択を男性任せにせず、女性自らが下すことを促すという意味付けがうかがえた。
劇のクライマックスで春は、二人を隔てる透明なアクリル板に手のひらをピタッとくっ付け、詞葉も反対側から手を重ねてほしいと頼んだのだった。その行為は、死刑囚と面会人という関係性の中で許され得る最大級の愛の表現ではないだろうか。だが、それを聞いた詞葉は、男から少し離れて背中を向けた。自分に好意を寄せて来る男を振り捨てようとする彼女の姿に、私は心の中でカッコいい!とシビレてしまった。従来なら二枚目男優の専売特許だったクールな主人公役を女性が演じたのであり、男女逆転の効果を発揮していた。ただし、ここでの天神の演技は依然として威厳を保っていた。せっかくアクリル板に手を当てるというエモーショナルな行動に自ら出たにもかかわらず、断られてすんなり諦めたのは中途半端な気がした。むしろ春は(この作品における男女逆転のルールに従い)プライドを投げ捨てて泣き崩れるか、せめて取り乱した声で詞葉をうんざりさせてほしかった。この状況の辛さを観客に(理屈ではなく感情として)ヒシヒシと突き付けてほしかった。そうすれば、これが(春の片思いにせよ)男女のラブストーリーであることを明確化できただろうし、あくまでも罪を償おうとする詞葉の強い覚悟をも逆に照らし出せたのではないだろうか。唐突に幕切れを迎えたような印象を与えなくて済んだはずだ。
この作品が伝えたかったのは、今の社会で普通の「いい人」が感じる生きにくさではないだろうか。むしろ我々は「いい人」であることを強制され、「いい人」でなければ生きて行けなくなっている。そして、「いい人」であることに疲れ切った挙句、多くの人々が密かに自殺願望を募らせているのかもしれない。「いい人」だからこそ、自殺願望を抱き、他者の自殺願望をも止めるどころかむしろ共感して叶えてあげようとする。そんな詞葉という女性像の出現に戦慄を覚えてしまうのは私だけだろうか。
(以下は更新前の文章です。)
この文章は、2021年12月11日(土)19:00開演の演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』についての劇評です。
演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』(作:刈馬カオス、演出:天神祐耶)が12月11、12日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。この作品は、どこにでもいそうな普通の「いい人」が、まるで善行を施すようなつもりで他人の自殺を幇助し、死刑囚となってしまった姿を描くことにより、我々が今、どのような世の中に生きているのかを浮かび上がらせた。男女二人の俳優は呼吸と間合いのコントロールが素晴らしく、緊迫感溢れる空間を作り出していた。
劇作家の男性・一春(=にのまえはる、天神祐耶)が拘置所で女性死刑囚・火口詞葉(=ひぐちことは、のとえみ)と会う。彼女は7人の女性に対する自殺幇助に殺人罪が適用され、死刑判決を受けた。ところが、面会室に入って来たのは殺人犯のイメージとはほど遠い女性だった。春から取材させてほしいと頼まれた詞葉は、自分と結婚することを条件に承諾する。時代設定は令和6年、人権保護の観点から死刑囚自身が刑の執行日を選択できる制度が施行されている近未来だが、その権利を行使するには配偶者の同意が必要なのだった。やがて会話の中から、春の元妻が彼女に殺された被害者の一人だったことが浮かび上がる。彼は詞葉の申し出通り死刑日選択同意書にサインすることによって、彼女を殺すこともできた。しかし、彼女は別の事故により、自ら起こした事件の記憶をすっかり無くしていた。彼女はなぜ、自分が覚えてもいない犯罪に対する死刑判決を進んで受け入れようとするのか。春は疑問点を解消しようと何度も通って彼女と対話を繰り返すうち、詞葉の人柄に惹かれていくのだった。
詞葉は、よく気がつき、相手の気持ちを汲み上げて誠実に対応しようと努める人だった。のとえみの演技も、形式的な結婚なのについ浮かれてしまう若い女性の可愛らしさなど、死刑囚の枠に収まりきらないリアリティーを丁寧にすくい上げていた。おそらく世間的には「いい人」と呼ばれるに違いない詞葉の姿を見ていると、彼女は死にたいのに死ねないでいる女性たちを純粋に助けたかったのではないかと思えてくる。むしろ相手の意図を深読みし過ぎ、自殺願望の小さな芽を太い幹と勘違いしたまま先走ってしまったのではないだろうか。
そこから導き出されるのは(芝居の中では明示されなかったが)詞葉自身もまた、自殺願望を抱いていた、という仮説だ。事件前の彼女についてはあまり語られていない。一人暮らしを始めてからも猫に会いたくてよく実家に帰ったなど、普通の人的なエピソードだけだ。しかし、無意識の自殺願望が他者の上へ投影されたからこそ、余計なお節介を焼いてしまったのではないか。もし自分自身の自殺願望に気付いてさっさと実行していたら、境界線上で悩んでいた7人を殺す(幇助する?)悲劇には至らなかっただろう。いや、実はそのことにうすうす感付いていたからこそ、死刑判決を甘んじて受け入れられたのかもしれない。
劇のクライマックスで春は、二人を隔てる透明なアクリル板に手のひらをピタッとくっ付け、詞葉も反対側から手を重ねてほしいと頼んだのだった。その行為は、死刑囚と面会人という関係性の中で許され得る最大級の愛の表現ではないだろうか。だが、それを聞いた詞葉は、男から少し離れて背中を向けた。自分を助けたがっている男を振り捨てようとする彼女の姿に、私は心の中でカッコいい!とシビレてしまった。従来なら二枚目男優の専売特許だったクールな主人公役を女性が演じたのであり、男女逆転の効果を発揮していた。ただし、ここでの天神の演技は依然として威厳を保っていた。せっかくアクリル板に手を当てるというエモーショナルな行動に自ら出たにもかかわらず、断られてすんなり諦めたのは中途半端な気がした。むしろ春は(この作品における男女逆転のルールに従って)プライドを投げ捨てて泣き崩れるか、せめて取り乱した声で詞葉をうんざりさせてほしかった。この状況の辛さを観客に(理屈ではなく感情として)ヒシヒシと突き付けてほしかった。そうすれば、これが(春の片思いにせよ)男女のラブストーリーであることを明確化できただろうし、あくまでも罪を償おうとする詞葉の強い覚悟をも逆に照らし出せたのではないだろうか。唐突に幕切れを迎えたような印象を与えなくて済んだはずだ。
この作品が伝えたかったのは、今の社会で普通の「いい人」が感じる生きにくさではないだろうか。むしろ我々は「いい人」であることを強制され、「いい人」でなければ生きて行けなくなっている。そんな「いい人」であることに疲れ切った挙句、多くの人々が密かに自殺願望を募らせているのかもしれない。この事件はそんな自殺願望が吹き寄せられて集まったるつぼの中で、起こるべくして起こったのではないかと考えさせられた。
演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』(作:刈馬カオス、演出:天神祐耶)が12月11、12日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。この作品は、どこにでもいそうな普通の「いい人」が、まるで善行を施すようなつもりで他人の自殺を幇助し、死刑囚となってしまった姿を描くことにより、我々が今、どのような世の中に生きているのかを浮かび上がらせた。男女二人の俳優は呼吸と間合いのコントロールが素晴らしく、緊迫感溢れる空間を作り出していた。
劇作家の男性・一春(=にのまえはる、天神祐耶)が拘置所で女性死刑囚・火口詞葉(=ひぐちことは、のとえみ)と会う。彼女は7人の女性に対する自殺幇助に殺人罪が適用され、死刑判決を受けた。ところが、面会室に入って来た女は殺人犯のイメージとはほど遠かった。春から取材させてほしいと頼まれた詞葉は、自分と結婚することを条件に承諾する。時代設定は令和6年、人権保護の観点から死刑囚自身が刑の執行日を選択できる制度が施行されている近未来だが、その権利を行使するためには配偶者の同意が必要なのだった。やがて会話の中から、春の元妻が彼女に殺された被害者の一人だったことが浮かび上がる。彼は詞葉の申し出通り死刑日選択同意書にサインすることによって、彼女を殺すこともできた。しかし、彼女は別の事故により、自ら起こした事件の記憶をすっかり無くしていた。彼女はなぜ、自分が覚えてもいない犯罪に対する死刑判決を進んで受け入れようとするのか。春は疑問点を解消しようと何度も通って彼女と対話を繰り返すうち、詞葉の人柄に惹かれていくのだった。
詞葉は、よく気がつき、相手の気持ちを汲み上げて誠実に対応しようと努める人だった。のとえみの演技も、形式的な結婚なのについ浮かれてしまう若い女性の可愛らしさなど、死刑囚の枠に収まりきらないリアリティーを丁寧にすくい上げていた。おそらく世間的には「いい人」と呼ばれるに違いない詞葉の姿を見ていると、彼女は死にたいのに死ねないでいる女性たちを純粋に助けたかったのではないかと思えてくる。むしろ相手の意図を深読みし過ぎ、自殺願望の小さな芽を太い幹と勘違いしたまま先走ってしまったのではないだろうか。
そこから導き出されるのは(芝居の中では明示されなかったが)詞葉自身もまた、自殺願望を抱いていた、という仮説だ。事件前の彼女についてはあまり語られていない。一人暮らしを始めてからも猫に会いたくてよく実家に帰ったなど、普通の人的なエピソードだけだ。しかし、無意識の自殺願望が他者の上へ投影されてしまったからこそ、余計なお節介を焼いたのではないか。もし自分自身の自殺願望に気付いてさっさと実行していたら、境界線上で悩んでいた7人を殺す(幇助する?)悲劇には至らなかっただろう。いや、実はそのことにうすうす感付いていたからこそ、死刑判決を甘んじて受け入れられたのかもしれない。
『罪と罰』のラスコーリニコフ以来、罪を犯した男性のそばに心優しき女性が寄り添うというストーリーはロマンティシズムの定番だった。しかし、今回の作品では、女性の死刑囚に対して男性が接近し、理解しようと努めるのであり、男女逆転の構図が新鮮だった。また、詞葉が死刑日選択同意書と離婚届の両方を春に渡し、好きな方にサインしてと判断を委ねる場面もあった。自分に対する春の復讐心を満足させてやろうとの気遣いなのかもしれないが、春は両方にサインして最終的な決定を再び詞葉へと差し戻す。これもまた、運命の選択を男性任せにせず、女性自らが下すことを促すという意味付けがうかがえた。
劇のクライマックスで春は、二人を隔てる透明なアクリル板に手のひらをピタッとくっ付け、詞葉も反対側から手を重ねてほしいと頼んだのだった。その行為は、死刑囚と面会人という関係性の中で許され得る最大級の愛の表現ではないだろうか。だが、それを聞いた詞葉は、男から少し離れて背中を向けた。自分に好意を寄せて来る男を振り捨てようとする彼女の姿に、私は心の中でカッコいい!とシビレてしまった。従来なら二枚目男優の専売特許だったクールな主人公役を女性が演じたのであり、男女逆転の効果を発揮していた。ただし、ここでの天神の演技は依然として威厳を保っていた。せっかくアクリル板に手を当てるというエモーショナルな行動に自ら出たにもかかわらず、断られてすんなり諦めたのは中途半端な気がした。むしろ春は(この作品における男女逆転のルールに従い)プライドを投げ捨てて泣き崩れるか、せめて取り乱した声で詞葉をうんざりさせてほしかった。この状況の辛さを観客に(理屈ではなく感情として)ヒシヒシと突き付けてほしかった。そうすれば、これが(春の片思いにせよ)男女のラブストーリーであることを明確化できただろうし、あくまでも罪を償おうとする詞葉の強い覚悟をも逆に照らし出せたのではないだろうか。唐突に幕切れを迎えたような印象を与えなくて済んだはずだ。
この作品が伝えたかったのは、今の社会で普通の「いい人」が感じる生きにくさではないだろうか。むしろ我々は「いい人」であることを強制され、「いい人」でなければ生きて行けなくなっている。そして、「いい人」であることに疲れ切った挙句、多くの人々が密かに自殺願望を募らせているのかもしれない。「いい人」だからこそ、自殺願望を抱き、他者の自殺願望をも止めるどころかむしろ共感して叶えてあげようとする。そんな詞葉という女性像の出現に戦慄を覚えてしまうのは私だけだろうか。
(以下は更新前の文章です。)
この文章は、2021年12月11日(土)19:00開演の演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』についての劇評です。
演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』(作:刈馬カオス、演出:天神祐耶)が12月11、12日、金沢市民芸術村ドラマ工房で上演された。この作品は、どこにでもいそうな普通の「いい人」が、まるで善行を施すようなつもりで他人の自殺を幇助し、死刑囚となってしまった姿を描くことにより、我々が今、どのような世の中に生きているのかを浮かび上がらせた。男女二人の俳優は呼吸と間合いのコントロールが素晴らしく、緊迫感溢れる空間を作り出していた。
劇作家の男性・一春(=にのまえはる、天神祐耶)が拘置所で女性死刑囚・火口詞葉(=ひぐちことは、のとえみ)と会う。彼女は7人の女性に対する自殺幇助に殺人罪が適用され、死刑判決を受けた。ところが、面会室に入って来たのは殺人犯のイメージとはほど遠い女性だった。春から取材させてほしいと頼まれた詞葉は、自分と結婚することを条件に承諾する。時代設定は令和6年、人権保護の観点から死刑囚自身が刑の執行日を選択できる制度が施行されている近未来だが、その権利を行使するには配偶者の同意が必要なのだった。やがて会話の中から、春の元妻が彼女に殺された被害者の一人だったことが浮かび上がる。彼は詞葉の申し出通り死刑日選択同意書にサインすることによって、彼女を殺すこともできた。しかし、彼女は別の事故により、自ら起こした事件の記憶をすっかり無くしていた。彼女はなぜ、自分が覚えてもいない犯罪に対する死刑判決を進んで受け入れようとするのか。春は疑問点を解消しようと何度も通って彼女と対話を繰り返すうち、詞葉の人柄に惹かれていくのだった。
詞葉は、よく気がつき、相手の気持ちを汲み上げて誠実に対応しようと努める人だった。のとえみの演技も、形式的な結婚なのについ浮かれてしまう若い女性の可愛らしさなど、死刑囚の枠に収まりきらないリアリティーを丁寧にすくい上げていた。おそらく世間的には「いい人」と呼ばれるに違いない詞葉の姿を見ていると、彼女は死にたいのに死ねないでいる女性たちを純粋に助けたかったのではないかと思えてくる。むしろ相手の意図を深読みし過ぎ、自殺願望の小さな芽を太い幹と勘違いしたまま先走ってしまったのではないだろうか。
そこから導き出されるのは(芝居の中では明示されなかったが)詞葉自身もまた、自殺願望を抱いていた、という仮説だ。事件前の彼女についてはあまり語られていない。一人暮らしを始めてからも猫に会いたくてよく実家に帰ったなど、普通の人的なエピソードだけだ。しかし、無意識の自殺願望が他者の上へ投影されたからこそ、余計なお節介を焼いてしまったのではないか。もし自分自身の自殺願望に気付いてさっさと実行していたら、境界線上で悩んでいた7人を殺す(幇助する?)悲劇には至らなかっただろう。いや、実はそのことにうすうす感付いていたからこそ、死刑判決を甘んじて受け入れられたのかもしれない。
劇のクライマックスで春は、二人を隔てる透明なアクリル板に手のひらをピタッとくっ付け、詞葉も反対側から手を重ねてほしいと頼んだのだった。その行為は、死刑囚と面会人という関係性の中で許され得る最大級の愛の表現ではないだろうか。だが、それを聞いた詞葉は、男から少し離れて背中を向けた。自分を助けたがっている男を振り捨てようとする彼女の姿に、私は心の中でカッコいい!とシビレてしまった。従来なら二枚目男優の専売特許だったクールな主人公役を女性が演じたのであり、男女逆転の効果を発揮していた。ただし、ここでの天神の演技は依然として威厳を保っていた。せっかくアクリル板に手を当てるというエモーショナルな行動に自ら出たにもかかわらず、断られてすんなり諦めたのは中途半端な気がした。むしろ春は(この作品における男女逆転のルールに従って)プライドを投げ捨てて泣き崩れるか、せめて取り乱した声で詞葉をうんざりさせてほしかった。この状況の辛さを観客に(理屈ではなく感情として)ヒシヒシと突き付けてほしかった。そうすれば、これが(春の片思いにせよ)男女のラブストーリーであることを明確化できただろうし、あくまでも罪を償おうとする詞葉の強い覚悟をも逆に照らし出せたのではないだろうか。唐突に幕切れを迎えたような印象を与えなくて済んだはずだ。
この作品が伝えたかったのは、今の社会で普通の「いい人」が感じる生きにくさではないだろうか。むしろ我々は「いい人」であることを強制され、「いい人」でなければ生きて行けなくなっている。そんな「いい人」であることに疲れ切った挙句、多くの人々が密かに自殺願望を募らせているのかもしれない。この事件はそんな自殺願望が吹き寄せられて集まったるつぼの中で、起こるべくして起こったのではないかと考えさせられた。
この文章は、2021年12月11日(土)19:00開演の演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』についての劇評です。
会場に入ると案内の人が「静かなお芝居なので前のほうの席がお勧めです」と教えてくれた。会場のドラマ工房は公演にあわせて座席を設置する。この公演ではパフォーマンススペースを挟んで向かい合うように座席が作られていた。パフォーマンススペースには白いテーブルと向かい合うように置かれたパイプ椅子。間を区切るようにテーブルにはアクリル板が設置してある。富山の劇団「演劇ムーブメントえみてん」は始めてみる劇団だ。この作品の作者は刈馬カオス。物語の舞台は拘置所。死刑囚の火口詞葉(ひぐちことは/演・のとえみ)と面会に来た一春(にのまえはる/演・天神祐耶)がパイプ椅子に座ると、観客は二人の横顔をみつめる。
勝手が分からず、なぜ自分が呼ばれたかも分からず、緊張した様子でアクリル板に手のひらを押し当ててしまうような春に比べて、詞葉は面会室に入ってくる姿から体に力が入っていないような気がした。特に足元と首の辺りの力のなさは目を引いた。拘置所内なので、素足にサンダルと言うのはわかるが、サンダルは肌の色に近い色で、歩きかたにも力がなかった。白色の襟のないシャツを着ていたが、その襟は着物で言う抜き襟状態だった。これ以上抜けませんというくらい抜けていた。脱力した姿勢のせいでたまたまそうなったのかもしれない。ただ面会室を退出するとき後姿を目で追っていると、背中まで見えそうなくらいの首元は、彼女の諦めたような力の抜け感を強調しているように見えた。
令和6年に死刑制度が変わって、5年以内なら死刑執行日を指定できるという近未来の話だ。執行日を指定するには父母または配偶者の同意が必要で、父母がいない詞葉が権利を行使するには配偶者を作るしかなかった。詞葉が7~8年前に観た芝居で春は脚本を書いていた。実際に起こった事件をモチーフにしたものだった。彼女は自分のことを脚本にする条件として、結婚することを提案する。承諾した春は拘置所に通うようになる。
あるとき春が面会に来ると、死刑執行が行われる日と重なったため面会できず、差し入れだけ置いて帰った。死刑囚には動揺しないように死刑執行があっても知らされない。でも詞葉は気づいてしまった。いつも聞こえる泣き声や経を読む声が聞こえなくなったからだ。その日彼女にとってもう一つ心を乱される問題があった。彼女が殺した7人の中に春の元妻がいたことを知ってしまったのだ。春に事実であることを確認すると「サインしてください。そうすれば私を殺せます」と言って部屋を出て行く。それまで詞葉は何を話すにもなんでもないことのような話し方をしていた。彼女の纏っている衣服のように、薄くて色がない感じのしゃべり方だ。だがこの時は心の揺れが言葉に乗っていた。このときに春は初めて詞葉から感情を投げられたのかもしれない。
春の元妻を殺していたことに気づいたのは、昔見た春の芝居を思い出したくて取り寄せた資料からだった。それから次に二人が会うまで時間がたっていたようだ。その間、春は拘置所に来ていながら会わずに差し入れだけ置いて帰ることを繰り返していた。その春を再び拘置所内に入り詞葉に面会するという行動をとらせたのは、彼女からの2種類の書類だった。詞葉が送ったのは執行日選択権を行使するための書類と離婚届だった。2人の行動は、どちらも相手が自分のことをどう思っているか探りあぐねている行動だと感じた。先に前に進むきっかけを作ったのは詞葉だ。春はそのきっかけに背中を押されて動き出す。ようやく春の感情の動きを見ることができた。その行動は詞葉に寄り添うものだった。初めて面会したときにはアクリル板に手を当てても「冷たいだけなのにね」と冷めた口調で言っていた詞葉が、春の手のひらの意味を受け止めて動揺する。その動揺に隠した詞葉の感情を春は受け止めたように見えた。
導入は「静かな舞台です」という案内の人の言葉だった。その言葉通り、静かに淡々と進んでいた物語だった。静かだったがのとえみも天神祐耶も、声がよかったし、声の通りもよかった。何回もある大きな間にくじけそうになったりもしたが、最後の二人の感情の動きに胸が熱くなった。きっと、詞葉と春、二人の一番いい時間でこの物語は終わったのだ。この時春は脚本を仕上げて詞葉に見せたい、詞葉はどんな脚本か見たいという期待に胸が躍る未来があった。春は詞葉が確実に生きている日(彼女の刑が確定してから5年)までに脚本を仕上げるだろう。だが、5年を超えればいつ死刑が執行されるか分からない。
(以下は更新前の文章です)
会場に入ると案内の人が「静かなお芝居なので前のほうの席がお勧めです」と教えてくれた。会場のドラマ工房は公演にあわせて座席を設置する。この公演ではパフォーマンススペースを挟んで向かい合うように座席が作られていた。パフォーマンススペースには白いテーブルと向かい合うように置かれたパイプ椅子。間を区切るようにテーブルにはアクリル板が設置してある。富山の劇団「演劇ムーブメントえみてん」は始めてみる劇団だ。この作品の作者は刈馬カオス。物語の舞台は拘置所。死刑囚の火口詞葉(ひぐちことは/演・のとえみ)と面会に来た一春(にのまえはる/演・天神祐耶)がパイプ椅子に座ると、観客は二人の横顔をみつめる。
勝手が分からず、なぜ自分が呼ばれたかも分からず、緊張した様子でアクリル板に手のひらを押し当ててしまうような春に比べて、詞葉は面会室に入ってくる姿から体に力が入っていないような気がした。特に足元と首の辺りの力のなさは目を引いた。拘置所内なので、素足にサンダルと言うのはわかるが、サンダルは肌の色に近い色で、歩きかたにも力がなかった。白色の襟のないシャツを着ていたが、その襟は着物で言う抜き襟状態だった。これ以上抜けませんというくらい抜けていた。脱力した姿勢のせいでたまたまそうなったのかもしれない。ただ面会室を退出するとき後姿を目で追っていると、背中まで見えそうなくらいの首元は、彼女の諦めたような力の抜け感を強調しているように見えた。
令和6年に死刑制度が変わって、5年以内なら死刑執行日を指定できるという近未来の話だ。執行日を指定するには父母または配偶者の同意が必要で、父母がいない詞葉が権利を行使するには配偶者を作るしかなかった。詞葉が7~8年前に観た芝居で春は脚本を書いていた。実際に起こった事件をモチーフにしたものだった。彼女は自分のことを脚本にする条件として、結婚することを提案する。承諾した春は拘置所に通うようになる。
あるとき春が面会に来ると、死刑執行が行われる日と重なったため面会できず、差し入れだけ置いて帰った。死刑囚には動揺しないように死刑執行があっても知らされない。でも詞葉は気づいてしまった。いつも聞こえる泣き声や経を読む声が聞こえなくなったからだ。その日彼女にとってもう一つ心を乱される問題があった。彼女が殺した7人の中に春の元妻がいたことを知ってしまったのだ。春に事実であることを確認すると「サインしてください。そうすれば私を殺せます」と言って部屋を出て行く。それまで詞葉は何を話すにもなんでもないことのような話し方をしていた。彼女の纏っている衣服のように、薄くて色がない感じのしゃべり方だ。だがこの時は心の揺れが言葉に乗っていた。このときに春は初めて詞葉から感情を投げられたのかもしれない。
春の元妻を殺していたことに気づいたのは、昔見た春の芝居を思い出したくて取り寄せた資料からだった。それから次に二人が会うまで時間がたっていたようだ。その間、春は拘置所に来ていながら会わずに差し入れだけ置いて帰ることを繰り返していた。その春を再び拘置所内に入り詞葉に面会するという行動をとらせたのは、彼女からの2種類の書類だった。詞葉が送ったのは執行日選択権を行使するための書類と離婚届だった。先に前に進むきっかけを作ったのは詞葉だ。春はそのきっかけに背中を押されて動き出す。ようやく春の感情の動きを見ることができた。その行動は詞葉に寄り添うものだった。初めて面会したときにはアクリル板に手を当てても「冷たいだけなのにね」と冷めた口調で言っていた詞葉が、春の手のひらの意味を受け止めて動揺する。その動揺もまた春は受け止めたように見えた。
導入は「静かな舞台です」という案内の人の言葉だった。その言葉通り、静かに淡々と進んでいた物語だった。静かだったがのとえみも天神祐耶も、声がよかったし、声の通りもよかった。何回もある大きな間にくじけそうになったりもしたが、最後の二人の感情の動きに胸が熱くなった。きっと、詞葉と春、二人の一番いい時間でこの物語は終わったのだ。死刑囚である詞葉の今後はもう決まっている。
会場に入ると案内の人が「静かなお芝居なので前のほうの席がお勧めです」と教えてくれた。会場のドラマ工房は公演にあわせて座席を設置する。この公演ではパフォーマンススペースを挟んで向かい合うように座席が作られていた。パフォーマンススペースには白いテーブルと向かい合うように置かれたパイプ椅子。間を区切るようにテーブルにはアクリル板が設置してある。富山の劇団「演劇ムーブメントえみてん」は始めてみる劇団だ。この作品の作者は刈馬カオス。物語の舞台は拘置所。死刑囚の火口詞葉(ひぐちことは/演・のとえみ)と面会に来た一春(にのまえはる/演・天神祐耶)がパイプ椅子に座ると、観客は二人の横顔をみつめる。
勝手が分からず、なぜ自分が呼ばれたかも分からず、緊張した様子でアクリル板に手のひらを押し当ててしまうような春に比べて、詞葉は面会室に入ってくる姿から体に力が入っていないような気がした。特に足元と首の辺りの力のなさは目を引いた。拘置所内なので、素足にサンダルと言うのはわかるが、サンダルは肌の色に近い色で、歩きかたにも力がなかった。白色の襟のないシャツを着ていたが、その襟は着物で言う抜き襟状態だった。これ以上抜けませんというくらい抜けていた。脱力した姿勢のせいでたまたまそうなったのかもしれない。ただ面会室を退出するとき後姿を目で追っていると、背中まで見えそうなくらいの首元は、彼女の諦めたような力の抜け感を強調しているように見えた。
令和6年に死刑制度が変わって、5年以内なら死刑執行日を指定できるという近未来の話だ。執行日を指定するには父母または配偶者の同意が必要で、父母がいない詞葉が権利を行使するには配偶者を作るしかなかった。詞葉が7~8年前に観た芝居で春は脚本を書いていた。実際に起こった事件をモチーフにしたものだった。彼女は自分のことを脚本にする条件として、結婚することを提案する。承諾した春は拘置所に通うようになる。
あるとき春が面会に来ると、死刑執行が行われる日と重なったため面会できず、差し入れだけ置いて帰った。死刑囚には動揺しないように死刑執行があっても知らされない。でも詞葉は気づいてしまった。いつも聞こえる泣き声や経を読む声が聞こえなくなったからだ。その日彼女にとってもう一つ心を乱される問題があった。彼女が殺した7人の中に春の元妻がいたことを知ってしまったのだ。春に事実であることを確認すると「サインしてください。そうすれば私を殺せます」と言って部屋を出て行く。それまで詞葉は何を話すにもなんでもないことのような話し方をしていた。彼女の纏っている衣服のように、薄くて色がない感じのしゃべり方だ。だがこの時は心の揺れが言葉に乗っていた。このときに春は初めて詞葉から感情を投げられたのかもしれない。
春の元妻を殺していたことに気づいたのは、昔見た春の芝居を思い出したくて取り寄せた資料からだった。それから次に二人が会うまで時間がたっていたようだ。その間、春は拘置所に来ていながら会わずに差し入れだけ置いて帰ることを繰り返していた。その春を再び拘置所内に入り詞葉に面会するという行動をとらせたのは、彼女からの2種類の書類だった。詞葉が送ったのは執行日選択権を行使するための書類と離婚届だった。2人の行動は、どちらも相手が自分のことをどう思っているか探りあぐねている行動だと感じた。先に前に進むきっかけを作ったのは詞葉だ。春はそのきっかけに背中を押されて動き出す。ようやく春の感情の動きを見ることができた。その行動は詞葉に寄り添うものだった。初めて面会したときにはアクリル板に手を当てても「冷たいだけなのにね」と冷めた口調で言っていた詞葉が、春の手のひらの意味を受け止めて動揺する。その動揺に隠した詞葉の感情を春は受け止めたように見えた。
導入は「静かな舞台です」という案内の人の言葉だった。その言葉通り、静かに淡々と進んでいた物語だった。静かだったがのとえみも天神祐耶も、声がよかったし、声の通りもよかった。何回もある大きな間にくじけそうになったりもしたが、最後の二人の感情の動きに胸が熱くなった。きっと、詞葉と春、二人の一番いい時間でこの物語は終わったのだ。この時春は脚本を仕上げて詞葉に見せたい、詞葉はどんな脚本か見たいという期待に胸が躍る未来があった。春は詞葉が確実に生きている日(彼女の刑が確定してから5年)までに脚本を仕上げるだろう。だが、5年を超えればいつ死刑が執行されるか分からない。
(以下は更新前の文章です)
会場に入ると案内の人が「静かなお芝居なので前のほうの席がお勧めです」と教えてくれた。会場のドラマ工房は公演にあわせて座席を設置する。この公演ではパフォーマンススペースを挟んで向かい合うように座席が作られていた。パフォーマンススペースには白いテーブルと向かい合うように置かれたパイプ椅子。間を区切るようにテーブルにはアクリル板が設置してある。富山の劇団「演劇ムーブメントえみてん」は始めてみる劇団だ。この作品の作者は刈馬カオス。物語の舞台は拘置所。死刑囚の火口詞葉(ひぐちことは/演・のとえみ)と面会に来た一春(にのまえはる/演・天神祐耶)がパイプ椅子に座ると、観客は二人の横顔をみつめる。
勝手が分からず、なぜ自分が呼ばれたかも分からず、緊張した様子でアクリル板に手のひらを押し当ててしまうような春に比べて、詞葉は面会室に入ってくる姿から体に力が入っていないような気がした。特に足元と首の辺りの力のなさは目を引いた。拘置所内なので、素足にサンダルと言うのはわかるが、サンダルは肌の色に近い色で、歩きかたにも力がなかった。白色の襟のないシャツを着ていたが、その襟は着物で言う抜き襟状態だった。これ以上抜けませんというくらい抜けていた。脱力した姿勢のせいでたまたまそうなったのかもしれない。ただ面会室を退出するとき後姿を目で追っていると、背中まで見えそうなくらいの首元は、彼女の諦めたような力の抜け感を強調しているように見えた。
令和6年に死刑制度が変わって、5年以内なら死刑執行日を指定できるという近未来の話だ。執行日を指定するには父母または配偶者の同意が必要で、父母がいない詞葉が権利を行使するには配偶者を作るしかなかった。詞葉が7~8年前に観た芝居で春は脚本を書いていた。実際に起こった事件をモチーフにしたものだった。彼女は自分のことを脚本にする条件として、結婚することを提案する。承諾した春は拘置所に通うようになる。
あるとき春が面会に来ると、死刑執行が行われる日と重なったため面会できず、差し入れだけ置いて帰った。死刑囚には動揺しないように死刑執行があっても知らされない。でも詞葉は気づいてしまった。いつも聞こえる泣き声や経を読む声が聞こえなくなったからだ。その日彼女にとってもう一つ心を乱される問題があった。彼女が殺した7人の中に春の元妻がいたことを知ってしまったのだ。春に事実であることを確認すると「サインしてください。そうすれば私を殺せます」と言って部屋を出て行く。それまで詞葉は何を話すにもなんでもないことのような話し方をしていた。彼女の纏っている衣服のように、薄くて色がない感じのしゃべり方だ。だがこの時は心の揺れが言葉に乗っていた。このときに春は初めて詞葉から感情を投げられたのかもしれない。
春の元妻を殺していたことに気づいたのは、昔見た春の芝居を思い出したくて取り寄せた資料からだった。それから次に二人が会うまで時間がたっていたようだ。その間、春は拘置所に来ていながら会わずに差し入れだけ置いて帰ることを繰り返していた。その春を再び拘置所内に入り詞葉に面会するという行動をとらせたのは、彼女からの2種類の書類だった。詞葉が送ったのは執行日選択権を行使するための書類と離婚届だった。先に前に進むきっかけを作ったのは詞葉だ。春はそのきっかけに背中を押されて動き出す。ようやく春の感情の動きを見ることができた。その行動は詞葉に寄り添うものだった。初めて面会したときにはアクリル板に手を当てても「冷たいだけなのにね」と冷めた口調で言っていた詞葉が、春の手のひらの意味を受け止めて動揺する。その動揺もまた春は受け止めたように見えた。
導入は「静かな舞台です」という案内の人の言葉だった。その言葉通り、静かに淡々と進んでいた物語だった。静かだったがのとえみも天神祐耶も、声がよかったし、声の通りもよかった。何回もある大きな間にくじけそうになったりもしたが、最後の二人の感情の動きに胸が熱くなった。きっと、詞葉と春、二人の一番いい時間でこの物語は終わったのだ。死刑囚である詞葉の今後はもう決まっている。
この文章は、2021年12月11日(土)19:00開演の演劇ムーブメントえみてん『異邦人の庭』についての劇評です。
息を潜めて二人を見つめている。静まりかえった会場に満ちる緊張の中、彼らが動く瞬間を待っている。短くはない沈黙の時間。二人の些細な動作や表情の変化から、この芝居が何を語りかけているのかを、読み取ろうとしている。発せられる言葉を聞き逃さないように、耳をそばだてている。
演劇ムーブメントえみてんによる『異邦人の庭』(作:刈馬カオス・演出:天神祐耶)は、のとえみと天神祐耶の二人による会話劇だ。会場に入ると、3段の客席が左右に分かれて設置されていて、その間の床面が舞台となっている。中央に白い四角の机と、2脚のパイプ椅子が置かれている。机の真ん中には、アクリル板が立てられている。男性が登場し、観劇の注意事項を説明する。彼はアクリル板と机の上をアルコール消毒して拭いたことを確認し、去る。
一春(にのまえ・はる:天神祐耶)は火口詞葉(ひぐち・ことは:のとえみ)に会うため、拘置所を訪れた。落ち着かない様子で、春が目の前のアクリル板に触れてみていると、詞葉が現れる。劇作家である春の目的は、詞葉を取材し、彼女に関する脚本を書くこと。詞葉は7人を殺害した死刑囚であった。しかし、彼女は警察からの逃走時に事故に遭い、数カ月の記憶を失っている。自分が殺人を犯したことも覚えていないのだ。詞葉は取材を受ける条件として、「結婚してください」と春に告げる。その理由は「執行日選択権」だ。法改正により、死刑確定から5年以内に父母か配偶者の同意があれば、自分が死刑に処される日を選べるようになっていたのだ。「私を殺してください」と詞葉は言う。春は全ての取材が終わったあとに同意することを条件に。詞葉は脚本の上演は自分が死んでからとすることを条件に。二人は形式上の婚姻関係を結ぶことになる。それから春は拘置所を訪れ、詞葉と会話を重ねていく。自分が殺人を犯した記憶はない、しかし多くの証拠から詞葉が犯人であることは明らかだ。詞葉が殺した7人は自ら死を望んでいたという。それでは、7人に死を与えた詞葉は、彼らにとって救いであったのか。
死を巡る二人の会話に引きつけられているうちに、物語は幕を閉じた。ラストで詞葉は選択を迫られる。詞葉は春に2枚の書類を送っていた。執行日選択権の同意書と、離婚届。春はその両方にサインをして持ってきたのだ。詞葉はどちらを取るのか。明確な答えは示されない。同意書を選べば、彼女は自らの意志で死刑に処される。離婚届ならば、いつ訪れるともわからない処刑の日を待つことになる。どちらを選んでも死からは逃れられない。
アクリル板越しに手を合わせてみようと春は言った。だが、詞葉はそれを拒んだ。記憶にない罪を死刑で償うことの矛盾も、残された人には復讐を願う気持ちがあることも、苦しみから逃れたい心情も、同時に存在する死への恐怖も、そもそも死刑制度の是非も、死ぬ権利と生きる権利についても。様々な葛藤があることを理解した上で、春は、詞葉に少しでも長く生きてほしかったのではないか。手を合わせたくなるような情を持ってしまっていたのではないか。詞葉は手を合わせることで、情が深まることを恐れたのではないか。決めた心が揺らぐから。二人の静かな、しかし沈黙にも耐えるだけの存在感を持った演技が、想像力をかき立てた。そのような心の動きを観客に起こすことが、演者の目的の一つであっただろう。この簡単には答えの出ない問題を、複雑なまま受け取って、考えてみてほしいと。だから詞葉の最後の選択は、暗示はされても明示はされなかった。
終演後、もう少し二人を観ていたかった気持ちが残った。考えてもらうために余韻を残す、それもまた彼らの狙いであったかもしれない。しかし少々物足りない思いがあった。全体に淡々と進む雰囲気が強かった。多くの問題点を正確に伝えるために、二人は冷静である必要があったのだろう。だが、抑えきれない感情が漏れ出てしまうような瞬間を、ラストシーン付近以外でも観られるとよりよかったと感じる。
誰にだって突然、死が訪れる可能性はある。死を思うことは同時に、生を思うことである。その生が例え苦しいものであっても、自らの手で終える権利は、今はまだほとんどの人が持てない。いつか死の日を誰もが選べるようになる未来が訪れるのかもしれない。そうなれば、詞葉が犯したような嘱託殺人は減るだろう。自殺が罪ではなくなるとしたら、私もそちらを選んでしまいそうだ。危うい問題を突き付けられて、心が揺さぶられる。
春は戯曲を書き始めた。彼が詞葉に戯曲を読んでほしいと言うと、彼女は「早くしてくださいね」と返した。詞葉の死亡後でないと戯曲の上演はできない。それでも、春には書くことしかできないのだ。生きている者として、死者を悼みながら、自分のやるべきことを行っていくしかないのだ。そうすることしかできない春の姿に、彼らが直面した問題について、考えることしかできないもどかしさを重ねた。
(以下は更新前の文章です)
息を潜めて二人を見つめている。静まりかえった会場に満ちる緊張の中、彼らが動く瞬間を待っている。短くはない沈黙の時間。二人の些細な動作や表情の変化から、この芝居が何を語りかけているのかを、読み取ろうとしている。発せられる言葉を聞き逃さないように、耳をそばだてている。
演劇ムーブメントえみてんによる『異邦人の庭』(作:刈馬カオス・演出:天神祐耶)は、のとえみと天神祐耶の二人による会話劇だ。会場に入ると、3段の客席が左右に分かれて設置されていて、その間の床面が舞台となっている。中央に白い四角の机と、2脚のパイプ椅子が置かれている。机の真ん中には、アクリル板が立てられている。男性が登場し、観劇の注意事項を説明する。彼はアクリル板と机の上をアルコール消毒して拭いたことを確認し、去る。
一春(にのまえ・はる:天神祐耶)は火口詞葉(ひぐち・ことは:のとえみ)に会うため、拘置所を訪れた。落ち着かない様子で、春が目の前のアクリル板に触れてみていると、詞葉が現れる。劇作家である春の目的は、詞葉を取材し、彼女に関する脚本を書くこと。詞葉は7人を殺害した死刑囚であった。しかし、彼女は警察からの逃走時に事故に遭い、数カ月の記憶を失っている。自分が殺人を犯したことも覚えていないのだ。詞葉は取材を受ける条件として、「結婚してください」と春に告げる。その理由は「執行日選択権」だ。法改正により、死刑確定から5年以内に父母か配偶者の同意があれば、自分が死刑に処される日を選べるようになっていたのだ。「私を殺してください」と詞葉は言う。春は全ての取材が終わったあとに同意することを条件に。詞葉は脚本の上演は自分が死んでからとすることを条件に。二人は形式上の婚姻関係を結ぶことになる。それから春は拘置所を訪れ、詞葉と会話を重ねていく。自分が殺人を犯した記憶はない、しかし多くの証拠から詞葉が犯人であることは明らかだ。詞葉が殺した7人は自ら死を望んでいたという。それでは、7人に死を与えた詞葉は、彼らにとって救いであったのか。
死を巡る二人の会話に引きつけられているうちに、物語は幕を閉じた。ラストで詞葉は選択を迫られる。詞葉は春に2枚の書類を送っていた。執行日選択権の同意書と、離婚届。春はその両方にサインをして持ってきたのだ。詞葉はどちらを取るのか。明確な答えは示されない。同意書を選べば、彼女は自らの意志で死刑に処される。離婚届ならば、いつ訪れるともわからない処刑の日を待つことになる。どちらを選んでも死からは逃れられない。
アクリル板越しに手を合わせてみようと春は言った。だが、詞葉はそれを拒んだ。記憶にない罪を死刑で償うことの矛盾も、残された人には復讐を願う気持ちがあることも、苦しみから逃れたい心情も、同時に存在する死への恐怖も、そもそも死刑制度の是非も、死ぬ権利と生きる権利についても。様々な葛藤があることを理解した上で、春は、詞葉に少しでも長く生きてほしかったのではないか。手を合わせたくなるような情を持ってしまっていたのではないか。詞葉は手を合わせることで、情が深まることを恐れたのではないか。決めた心が揺らぐから。二人の静かな、しかし沈黙にも耐えるだけの存在感を持った演技が、想像力をかき立てた。そのような心の動きを観客に起こすことが、演者の目的の一つであっただろう。この簡単には答えの出ない問題を、複雑なまま受け取って、考えてみてほしいと。だから詞葉の最後の選択は、暗示はされても明示はされなかった。
終演後、もう少し二人を観ていたかった気持ちが残った。考えてもらうために余韻を残す、それもまた彼らの狙いであったかもしれない。しかし少々物足りない思いがあった。全体に淡々と進む雰囲気が強かった。多くの問題点を正確に伝えるために、二人は冷静である必要があったのだろう。だが、抑えきれない感情が漏れ出てしまうような瞬間を、ラストシーン付近以外でも観られるとよりよかったと感じる。
生きていることは当たり前のことではない。誰にだって突然、死が訪れる可能性はある。死を思うことは生を思うことである。その生が苦しいものであっても、自らの手で終える権利は、今はまだほとんどの人が持てない。いつか死の日を誰もが選べるようになる未来が訪れるのかもしれない。しかしそこに至るまでには、もっと多くの議論が必要だろう。
春は戯曲を書き始めた。詞葉に戯曲を読んでほしいと言うと、彼女は「早くしてくださいね」と返した。詞葉の死亡後でないと戯曲の上演はできない。それでも、春には書くことしかできないのだ。生きている者として、死者を悼みながら、自分のやるべきことを行っていくしかないのだ。死の存在を無視することなく、今ある生を実感して、いつか必ず来る死の日まで生きて行くこと。そうすることしか、できないのだ。
息を潜めて二人を見つめている。静まりかえった会場に満ちる緊張の中、彼らが動く瞬間を待っている。短くはない沈黙の時間。二人の些細な動作や表情の変化から、この芝居が何を語りかけているのかを、読み取ろうとしている。発せられる言葉を聞き逃さないように、耳をそばだてている。
演劇ムーブメントえみてんによる『異邦人の庭』(作:刈馬カオス・演出:天神祐耶)は、のとえみと天神祐耶の二人による会話劇だ。会場に入ると、3段の客席が左右に分かれて設置されていて、その間の床面が舞台となっている。中央に白い四角の机と、2脚のパイプ椅子が置かれている。机の真ん中には、アクリル板が立てられている。男性が登場し、観劇の注意事項を説明する。彼はアクリル板と机の上をアルコール消毒して拭いたことを確認し、去る。
一春(にのまえ・はる:天神祐耶)は火口詞葉(ひぐち・ことは:のとえみ)に会うため、拘置所を訪れた。落ち着かない様子で、春が目の前のアクリル板に触れてみていると、詞葉が現れる。劇作家である春の目的は、詞葉を取材し、彼女に関する脚本を書くこと。詞葉は7人を殺害した死刑囚であった。しかし、彼女は警察からの逃走時に事故に遭い、数カ月の記憶を失っている。自分が殺人を犯したことも覚えていないのだ。詞葉は取材を受ける条件として、「結婚してください」と春に告げる。その理由は「執行日選択権」だ。法改正により、死刑確定から5年以内に父母か配偶者の同意があれば、自分が死刑に処される日を選べるようになっていたのだ。「私を殺してください」と詞葉は言う。春は全ての取材が終わったあとに同意することを条件に。詞葉は脚本の上演は自分が死んでからとすることを条件に。二人は形式上の婚姻関係を結ぶことになる。それから春は拘置所を訪れ、詞葉と会話を重ねていく。自分が殺人を犯した記憶はない、しかし多くの証拠から詞葉が犯人であることは明らかだ。詞葉が殺した7人は自ら死を望んでいたという。それでは、7人に死を与えた詞葉は、彼らにとって救いであったのか。
死を巡る二人の会話に引きつけられているうちに、物語は幕を閉じた。ラストで詞葉は選択を迫られる。詞葉は春に2枚の書類を送っていた。執行日選択権の同意書と、離婚届。春はその両方にサインをして持ってきたのだ。詞葉はどちらを取るのか。明確な答えは示されない。同意書を選べば、彼女は自らの意志で死刑に処される。離婚届ならば、いつ訪れるともわからない処刑の日を待つことになる。どちらを選んでも死からは逃れられない。
アクリル板越しに手を合わせてみようと春は言った。だが、詞葉はそれを拒んだ。記憶にない罪を死刑で償うことの矛盾も、残された人には復讐を願う気持ちがあることも、苦しみから逃れたい心情も、同時に存在する死への恐怖も、そもそも死刑制度の是非も、死ぬ権利と生きる権利についても。様々な葛藤があることを理解した上で、春は、詞葉に少しでも長く生きてほしかったのではないか。手を合わせたくなるような情を持ってしまっていたのではないか。詞葉は手を合わせることで、情が深まることを恐れたのではないか。決めた心が揺らぐから。二人の静かな、しかし沈黙にも耐えるだけの存在感を持った演技が、想像力をかき立てた。そのような心の動きを観客に起こすことが、演者の目的の一つであっただろう。この簡単には答えの出ない問題を、複雑なまま受け取って、考えてみてほしいと。だから詞葉の最後の選択は、暗示はされても明示はされなかった。
終演後、もう少し二人を観ていたかった気持ちが残った。考えてもらうために余韻を残す、それもまた彼らの狙いであったかもしれない。しかし少々物足りない思いがあった。全体に淡々と進む雰囲気が強かった。多くの問題点を正確に伝えるために、二人は冷静である必要があったのだろう。だが、抑えきれない感情が漏れ出てしまうような瞬間を、ラストシーン付近以外でも観られるとよりよかったと感じる。
誰にだって突然、死が訪れる可能性はある。死を思うことは同時に、生を思うことである。その生が例え苦しいものであっても、自らの手で終える権利は、今はまだほとんどの人が持てない。いつか死の日を誰もが選べるようになる未来が訪れるのかもしれない。そうなれば、詞葉が犯したような嘱託殺人は減るだろう。自殺が罪ではなくなるとしたら、私もそちらを選んでしまいそうだ。危うい問題を突き付けられて、心が揺さぶられる。
春は戯曲を書き始めた。彼が詞葉に戯曲を読んでほしいと言うと、彼女は「早くしてくださいね」と返した。詞葉の死亡後でないと戯曲の上演はできない。それでも、春には書くことしかできないのだ。生きている者として、死者を悼みながら、自分のやるべきことを行っていくしかないのだ。そうすることしかできない春の姿に、彼らが直面した問題について、考えることしかできないもどかしさを重ねた。
(以下は更新前の文章です)
息を潜めて二人を見つめている。静まりかえった会場に満ちる緊張の中、彼らが動く瞬間を待っている。短くはない沈黙の時間。二人の些細な動作や表情の変化から、この芝居が何を語りかけているのかを、読み取ろうとしている。発せられる言葉を聞き逃さないように、耳をそばだてている。
演劇ムーブメントえみてんによる『異邦人の庭』(作:刈馬カオス・演出:天神祐耶)は、のとえみと天神祐耶の二人による会話劇だ。会場に入ると、3段の客席が左右に分かれて設置されていて、その間の床面が舞台となっている。中央に白い四角の机と、2脚のパイプ椅子が置かれている。机の真ん中には、アクリル板が立てられている。男性が登場し、観劇の注意事項を説明する。彼はアクリル板と机の上をアルコール消毒して拭いたことを確認し、去る。
一春(にのまえ・はる:天神祐耶)は火口詞葉(ひぐち・ことは:のとえみ)に会うため、拘置所を訪れた。落ち着かない様子で、春が目の前のアクリル板に触れてみていると、詞葉が現れる。劇作家である春の目的は、詞葉を取材し、彼女に関する脚本を書くこと。詞葉は7人を殺害した死刑囚であった。しかし、彼女は警察からの逃走時に事故に遭い、数カ月の記憶を失っている。自分が殺人を犯したことも覚えていないのだ。詞葉は取材を受ける条件として、「結婚してください」と春に告げる。その理由は「執行日選択権」だ。法改正により、死刑確定から5年以内に父母か配偶者の同意があれば、自分が死刑に処される日を選べるようになっていたのだ。「私を殺してください」と詞葉は言う。春は全ての取材が終わったあとに同意することを条件に。詞葉は脚本の上演は自分が死んでからとすることを条件に。二人は形式上の婚姻関係を結ぶことになる。それから春は拘置所を訪れ、詞葉と会話を重ねていく。自分が殺人を犯した記憶はない、しかし多くの証拠から詞葉が犯人であることは明らかだ。詞葉が殺した7人は自ら死を望んでいたという。それでは、7人に死を与えた詞葉は、彼らにとって救いであったのか。
死を巡る二人の会話に引きつけられているうちに、物語は幕を閉じた。ラストで詞葉は選択を迫られる。詞葉は春に2枚の書類を送っていた。執行日選択権の同意書と、離婚届。春はその両方にサインをして持ってきたのだ。詞葉はどちらを取るのか。明確な答えは示されない。同意書を選べば、彼女は自らの意志で死刑に処される。離婚届ならば、いつ訪れるともわからない処刑の日を待つことになる。どちらを選んでも死からは逃れられない。
アクリル板越しに手を合わせてみようと春は言った。だが、詞葉はそれを拒んだ。記憶にない罪を死刑で償うことの矛盾も、残された人には復讐を願う気持ちがあることも、苦しみから逃れたい心情も、同時に存在する死への恐怖も、そもそも死刑制度の是非も、死ぬ権利と生きる権利についても。様々な葛藤があることを理解した上で、春は、詞葉に少しでも長く生きてほしかったのではないか。手を合わせたくなるような情を持ってしまっていたのではないか。詞葉は手を合わせることで、情が深まることを恐れたのではないか。決めた心が揺らぐから。二人の静かな、しかし沈黙にも耐えるだけの存在感を持った演技が、想像力をかき立てた。そのような心の動きを観客に起こすことが、演者の目的の一つであっただろう。この簡単には答えの出ない問題を、複雑なまま受け取って、考えてみてほしいと。だから詞葉の最後の選択は、暗示はされても明示はされなかった。
終演後、もう少し二人を観ていたかった気持ちが残った。考えてもらうために余韻を残す、それもまた彼らの狙いであったかもしれない。しかし少々物足りない思いがあった。全体に淡々と進む雰囲気が強かった。多くの問題点を正確に伝えるために、二人は冷静である必要があったのだろう。だが、抑えきれない感情が漏れ出てしまうような瞬間を、ラストシーン付近以外でも観られるとよりよかったと感じる。
生きていることは当たり前のことではない。誰にだって突然、死が訪れる可能性はある。死を思うことは生を思うことである。その生が苦しいものであっても、自らの手で終える権利は、今はまだほとんどの人が持てない。いつか死の日を誰もが選べるようになる未来が訪れるのかもしれない。しかしそこに至るまでには、もっと多くの議論が必要だろう。
春は戯曲を書き始めた。詞葉に戯曲を読んでほしいと言うと、彼女は「早くしてくださいね」と返した。詞葉の死亡後でないと戯曲の上演はできない。それでも、春には書くことしかできないのだ。生きている者として、死者を悼みながら、自分のやるべきことを行っていくしかないのだ。死の存在を無視することなく、今ある生を実感して、いつか必ず来る死の日まで生きて行くこと。そうすることしか、できないのだ。
#劇評講座2021
この文章は、2021年12月4日(土)19:00開演の LAVIT『404 NOT FOUND』についての劇評です。
映画「マトリックス」のようなサングラス型デバイスにインパクトがある。舞台背後のスクリーンには、パスワードを入力してサイバー空間にログインする近未来的な映像。このデバイスはVRのディスプレイで、装着したダンサーのLAVIT(ラビ)が見ている仮想現実がスクリーンに映し出される演出に見える。
だが、この小さなデバイスはLEDで発光する電光掲示板としても機能する。正面、つまり客席に向けて「ERROR」などの文字や心電図の波形などの形象が次々と現れる。そのメッセージの意味は時にあいまいで、移りゆく文脈の中で観客に委ねられる。
スクリーン上では、5名ほどのダンサーによる群舞の映像が始まる。舞台には上、斜め、横からの射し込む赤、青、黄のサーチライトが明滅する。大音量のトランス系エレクトロニック音楽に合わせてLAVITは一人、仮想現実の映像と同じ振付をタイミング的に完璧にシンクロさせながら踊るのだ。
スクリーンの映像とメガネ型デバイスの表示との間に挟まれて、ストリートダンスをベースに激しく踊る身体。関係者の証言から、群舞の映像は、LAVIT自身が10年前に振付・出演した過去の作品であるという。過去の自分と現在の自分がシンクロするように、複数のレイヤーが時空を越えて重なり合うマルチメディア化された身体性がとても新鮮に映った。
まさに10年ほど前から金沢を拠点にマルチな表現活動を続けているLAVIT。トータル40分ほどの今回のソロダンス公演(会場:金沢市民芸術村)では、赤いライトを浴びた戦闘や強迫観念を連想する激しいダンスシーンもあれば、青の舞台照明の中で、ピタッとしたトップにシースルー質感のパンツの衣装でゆったりと妖艶に舞うシーンもある。ダンススタイルの変遷や多様性を表していると同時に、LAVIT自身のジェンダーを含めたアイデンティティの揺らぎや多様性をも想起させる。
激しい動きとは対照的に、ラストシーンのLAVITは不動で、木村弓「いつも何度でも」をあまり抑揚をつけずに淡々と無伴奏で歌う。歌の最後はこの歌詞で締め括られる:「海の彼方にはもう探さない、輝くものはいつもここに、私の中に見つけられたから」。
コロナ禍の期間、鬱々とした巣篭もりの中でサイバー空間に耽溺した時間。過去作品の映像の中に自分のスタイル、ダンサーとしてのLAVITのアイデンティティを模索する日々だったのかもしれない。しかし、過去のログは消え去るものであり、答えは見つからない。そもそもLAVITという存在自体、表現者として作られたフィクショナルな存在なのだ。
スクリーンに404 NOT FOUNDと表示され、デバイスを外すという印象的なシーンがある。仮想現実を出て、再び現実の舞台に立ち、観客を含む他者との交流の中で一緒にLet’s Danceすることが自分のダンスであるという新たな再生の歓びと決意が表れていた。
ただ、VRで過去や異空間とシンクロしながら踊るシーンが、僕にはタイムリーで一番興味深かったというのは何とも皮肉ではある。
小峯太郎(劇評講座受講生)
この文章は、2021年12月4日(土)19:00開演の LAVIT『404 NOT FOUND』についての劇評です。
映画「マトリックス」のようなサングラス型デバイスにインパクトがある。舞台背後のスクリーンには、パスワードを入力してサイバー空間にログインする近未来的な映像。このデバイスはVRのディスプレイで、装着したダンサーのLAVIT(ラビ)が見ている仮想現実がスクリーンに映し出される演出に見える。
だが、この小さなデバイスはLEDで発光する電光掲示板としても機能する。正面、つまり客席に向けて「ERROR」などの文字や心電図の波形などの形象が次々と現れる。そのメッセージの意味は時にあいまいで、移りゆく文脈の中で観客に委ねられる。
スクリーン上では、5名ほどのダンサーによる群舞の映像が始まる。舞台には上、斜め、横からの射し込む赤、青、黄のサーチライトが明滅する。大音量のトランス系エレクトロニック音楽に合わせてLAVITは一人、仮想現実の映像と同じ振付をタイミング的に完璧にシンクロさせながら踊るのだ。
スクリーンの映像とメガネ型デバイスの表示との間に挟まれて、ストリートダンスをベースに激しく踊る身体。関係者の証言から、群舞の映像は、LAVIT自身が10年前に振付・出演した過去の作品であるという。過去の自分と現在の自分がシンクロするように、複数のレイヤーが時空を越えて重なり合うマルチメディア化された身体性がとても新鮮に映った。
まさに10年ほど前から金沢を拠点にマルチな表現活動を続けているLAVIT。トータル40分ほどの今回のソロダンス公演(会場:金沢市民芸術村)では、赤いライトを浴びた戦闘や強迫観念を連想する激しいダンスシーンもあれば、青の舞台照明の中で、ピタッとしたトップにシースルー質感のパンツの衣装でゆったりと妖艶に舞うシーンもある。ダンススタイルの変遷や多様性を表していると同時に、LAVIT自身のジェンダーを含めたアイデンティティの揺らぎや多様性をも想起させる。
激しい動きとは対照的に、ラストシーンのLAVITは不動で、木村弓「いつも何度でも」をあまり抑揚をつけずに淡々と無伴奏で歌う。歌の最後はこの歌詞で締め括られる:「海の彼方にはもう探さない、輝くものはいつもここに、私の中に見つけられたから」。
コロナ禍の期間、鬱々とした巣篭もりの中でサイバー空間に耽溺した時間。過去作品の映像の中に自分のスタイル、ダンサーとしてのLAVITのアイデンティティを模索する日々だったのかもしれない。しかし、過去のログは消え去るものであり、答えは見つからない。そもそもLAVITという存在自体、表現者として作られたフィクショナルな存在なのだ。
スクリーンに404 NOT FOUNDと表示され、デバイスを外すという印象的なシーンがある。仮想現実を出て、再び現実の舞台に立ち、観客を含む他者との交流の中で一緒にLet’s Danceすることが自分のダンスであるという新たな再生の歓びと決意が表れていた。
ただ、VRで過去や異空間とシンクロしながら踊るシーンが、僕にはタイムリーで一番興味深かったというのは何とも皮肉ではある。
小峯太郎(劇評講座受講生)