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かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

この文章は、2018年12月1日(土)19:00開演の劇団暗黒郷の夢『Whiteout』についての劇評です。

 ディストピア(暗黒郷)とは、ユートピア(理想郷)の反対の世界である。劇団暗黒郷の夢による『Whiteout』(作・演出:木林純太郎)からは、ディストピアの不気味な雰囲気が伝わってきたが、世界観の提示に留まっていた感もある。

 刑事の広野あつし(高田滉己)と妹のさきか(北国歩実)は母親と、三人暮らしをしている。あつしの昇進のお祝いに、自分とお揃いのミサンガを贈るさきか。そんな幸せそうな光景から一転、母親が飲酒運転の車にひかれて亡くなってしまう。葬儀や裁判などで忙しく、さきかの心のケアが行き届かないあつし。ある日、さきかは失踪する。しばらくして、上出警部(田中祐吉)から、さきかを見たと情報が入る。さきかは、新興宗教団体ウルスの信者と共に、団体が所持する島、聖島にいるらしい。あつしは、島への潜入捜査を行うこととなる。

 白い服装をしたウルスの信者達は、シスター(古林絵美)の指導の下、聖歌にも似た雰囲気の歌を歌う。続いて、指導者であるらしいマザー(奈良井伸子)が世界について語る映像を見る。そして社会への思いを断ち切るための儀式を行う。信者(阿部優希、黒田博章)は自分の持ってきた、思い出の詰まった物を捨てるのだ。しかしここで思い出の写真を破けなかった者に、「浄化」と呼ばれるものがなされる。
 さきかに再会できたあつしだが、さきかはすっかりマザーに心酔している。あつしは背後から殴られ、車椅子に手足を拘束される。あつしは頭に、電極の付いた帽子のような物を被せられ、脳に刺激を与えられる。これが浄化だ。ドクター(朱門)によると、そうすることで、マザーの姿を見ただけで幸福感を得られるようになるというのだ。刺激を与えられても必死に意志を保とうとするあつし。彼から少し離れたところでは、さきかが、あつしの大事なミサンガを切り刻んでいる。あつしはぐったりとうなだれる。

 スクリーンにマザーが映し出され話している時に、これは観客にもセミナー的な雰囲気を体験させているのかと感じた。マザーの優しくも怪しさを含んだ語りに、この芝居は観客にも信者の心持ちを体験させようと企んでいるのかと、不安が煽られた。
 振り返ってみると、あつしの正義感に溢れる発言よりも、世界が一つとなることを説くマザーの語りのほうに、力点が置かれていたように感じる。辛い状況でも、現実をしっかり見なくてはならないと語るあつしに、それは強者の意見だとドクターは返した。一つの強制力によって多くの人間が支配されるが、全ての人々に幸せが与えられる世界。弱者であっても幸福感を得られる浄化の、何が悪いのだと彼は語った。
 この世界をもっと描写していくと、現代社会のあたりまえとの違いはもっと出てくるだろう。差異に恐怖を感じられる部分まで表現することができれば、ディストピアについて、より深く考えることができたのではないか。


(以下は更新前の文章です)


 ディストピア(暗黒郷)とは、ユートピア(理想郷)の反対の世界である。主にSFジャンルにおいて、人々が受け入れ難い未来の姿として描かれることが多い。劇団暗黒郷の夢による『Whiteout』(作・演出:木林純太郎)からは、ディストピアの不気味な雰囲気が伝わってきたが、世界観の提示に留まっていた感もある。

 他に何もない舞台には背もたれの高い椅子が一つ。黒い背景には、数珠のような白い円が三連になったものが映し出されている。全身白い服の男性がやってきて、椅子に座り、手にした書類を眺めている。ドクター(朱門)と女(シスター・古林絵美)に呼ばれた男は、計画の遂行をシスターに告げる。

 刑事の広野あつし(高田滉己)は、妹のさきか(北国歩実)と母親と、3人暮らしをしていた。だが母親が飲酒運転の車にひかれて亡くなってしまう。葬儀や裁判などで忙しく、さきかの心のケアができないあつし。ある日、さきかは失踪する。しばらくして、上出警部(田中祐吉)から、さきかを見たと情報が入る。さきかは、新興宗教団体ウルスの信者と共に、団体が所持する島、聖島にいるらしい。あつしは、島への潜入捜査を行うこととなる。

 ウルスの信者達は皆、白いボトムに、白いフード付きの服を着ている。シスターの指導の下、聖歌にも似た雰囲気の歌を歌い、指導者であるらしいマザー(奈良井伸子)が語る映像を見て、社会への思いを断ち切るために自分の持ってきた写真を破く。写真を破けなかった者には「浄化」と呼ばれるものがなされる。
 さきかに再会できたあつしだが、さきかはすっかりマザーに心酔している。あつしは背後から殴られ、車椅子に手足を拘束される。彼にも浄化が行われるのだ。あつしは頭に、電極の付いた帽子のような物を被せられ、脳に刺激を与えられる。そうすることで、マザーの姿を見ただけで幸福感を得られるようになるという。必死に意志を保とうとするあつしが、ぐったりとして芝居は終わる。

 スクリーンにマザーが映し出され話している時に、これは観客にもセミナー的な雰囲気を体験させているのかと感じた。この芝居は観客に何を追体験させようと企んでいるのかと、不安が煽られた。
 振り返ってみると、世間一般の常識であろう、あつしの正義感に溢れる発言よりも、世界が一つとなることを説くマザーの語りのほうに、力点が置かれていたように感じる。辛い状況でも、現実をしっかり見なくてはならないと語るあつしに、それは強者の意見だとドクターは返す。弱者であっても幸福感を得られる浄化の何が悪いのだと、誰もが幸せな世界のどこが悪いのだと、言われているように感じた。作家は、ディストピア的世界観を悪とは見ていないのではないか。だがその主張は現代社会では受け入れ難いものであるため、強く打ち出すことができなかったのではないか。それが、この芝居が世界観の提示に留まっていたと感じた理由だ。
この文章は、2018年11月24日(土)19:00開演の劇団羅針盤『空ニ浮カブ星ノ名ハ三日月』についての劇評です。

 ヤクザを主人公としたハードボイルド要素のある物語に、コミカルなシーンが随所に盛り込まれ、スピード感のある演出。『空ニ浮カブ星ノ名ハ三日月』(作•演出:平田知大)のアクションエンターテイメントを見た。五条組のヤクザ、一松鉄司(平田知大)は服役を終えて出所し、組の本拠地に戻った。迎えに来た弟分の三郎(能沢秀矢)に、組長や組の人間は何者かにやられ、一松が幼い頃から見守ってきた組長の娘、透子(矢澤あずな)を残し、組はなくなっと告げられる。透子はオカマバーを営み生計を立てながら、交際相手の従業員ナナセに熱を上げていた。そこから、麻薬取引を行う権藤ファミリーや刑事たちが登場し、一松たちとのやりとりが繰り広げられる。ある日、透子が酒に酔って車ごと店に突っ込んだ。どうも様子がおかしい透子。権藤ファミリーから奪った「赤いシャブ」という麻薬を資金源にしていた透子は、自らもその薬を常用していたのだ。

 劇団羅針盤は多作で、今年は月に一度公演を行っている。作品も子ども向けのものがあり、一概には言えないが、今回のようなエンターテイメント系の作品で、設定が複雑、一人何役も演じる、スピード感があり早口ということが挙げられるようだ。今回も例に漏れず、話の内容をつかむことができなかった。途中、刑事たちが麻雀をするシーンや、港のシーン、高校時代の透子の回想シーンなどを経て、終盤は権藤ファミリーのアジトのシーンで物語の全貌が明らかになる。透子が薬に依存するようになった秘密は恋人ナナセ(能沢秀矢)に扮した、権藤ファミリーの一員シノミヤによるもので、さらに、そのシノミヤの正体はカガミという刑事だったのだ。カガミはマフィアやヤクザの中に入り込み、麻薬を利用して彼らを始末するという、警察による闇の企ての実行役だった。「赤いシャブ」という、投薬された者が血に飢えるようになる恐ろしい薬を、カガミは透子に投与し、彼女に人殺しをさせていたのだ。さらに、透子はこの麻薬によって一松をも殺めようとするが、透子の目を覚まさせようとした一松は、自ら透子に刺される。一松の愛情に気付いた透子は、一命を取り留めた一松とともに、復讐に立ち上がるところで終演する。

 一松はTシャツにジーパンの上に、長袖の袖のない和服をはおり、透子も和服テイストな衣装にミニスカート(?)を合わせた衣装。権藤ファミリーは毛皮のコートや洋風なテイストで揃えられ、全体的にマンガやゲームの想像上のキャラクターのようだった。派手に切り替わる照明や音楽の中、芝居が進められた。舞台セットはほぼなく、麻雀シーンで雀卓が出てきたのと、何度か三日月が舞台後方上部に映し出されたくらいだった。次々と変わる場面は、照明、音響と演技だけで一瞬でその切り替わりが表現され、テンポの良さを作り出していた。そのスピード感が仇となり、切り替わった後の場面がどこなのか、一人何役もやっていたこともあり、誰が何の役を演じているのかもわかりづらい部分があった。役者が必死に演じているのに、見ている側がそれが何の役かわからない。また、劇団羅針盤の作品に対するこれまでの劇評のいくつかにおいて、早口で物語がわかりづらいという意見が少なからず見られる。それは劇評を書いてない多くの人の中にもそう思う人がいるという可能性が高いこと、そしてこのスタイルがあえて貫き通されているということを示す。当日パンフレットにも「え?誰が誰か分からなくなる?大丈夫です。我々だって分からないんですから」と書かれていた。この演出のスピード感や一人で何役もこなすドタバタ感をもって、観客に対してあらすじや、人物や場面などの最低限必要な情報を提示することができていたら、私はもっと楽しめたと思う。今回見た公演では、私には疾走感が不親切さとなった。
 この文章は2018年10月20日(土)17:00開演のワンネス一座「わたしの名は月の輪」についての劇評です。

 舞台中央には、四角い赤紫色の雲のようなセットが置かれ、右奥には和太鼓がいくつかおいてある。手前にはきつねのお面を被ったギターを持つ青年がいて、左奥にはピアノ奏者やフルートの奏者がスタンバイしている。

 チラシに「お母さまよく見て、十字架は数え切れないほどたっているわ」という言葉とともに着物を着た少女の絵が描かれている。

 南光太朗さんが演出する舞台には、いつも思春期特有の不安定さを持ちあせた少女が登場する。繊細な感情を吐露する、独特のセリフが魅力的で、以前「オズの魔法使い」という作品を見た時に心惹かれた。今回は東北民話をモチーフとしているということで、民話に出てくるような少女をどのように「南色」に染めていくのか、とても興味があった。

 しかし上演開始から数十分たっても、筋書きが見えてこない。芝居をすることでつけてしまった分厚い仮面を取りはがし、ほんとうの気持ちを叫んでほしいとの思いから、急遽即興劇に変更したそうだ。ワンネスのフリースクールの演者の方の、フリースクールに入ったこれまでの経緯や、心ない言葉の数々、悔しい思いなどを口に出す演者たち。確かに自分の言葉で思いをぶつけているのだろうが、観客としてはそれをどう見たらいいのか。まるでなにかのワークショップを見学しにきたような気持ちになる。

そのとき着物を着た男性演者が、私の気持ちを叫んでくれた。

想定外!想定外!

そうまさにわたしにとって、この舞台が想定外ですっ!

幕を終え、戸惑いながらも晴れやかに感想を言い合う演者たちは、確かにいい表情をしていた。だが、2週間前の稽古前提のアフタートークでは、うん、で、その2週間前の舞台はどんなだったの?と首をかしげさるを得ない。崩した先に作り上げた舞台が見たかった。

 演者らが皆、今月で東京へ行ってしまう南さんに気を使っているようで、彼のためのはなむけのようなこの即興劇も単なるパフォーマンスのように思え、それが少し可愛そうに思えた
 この文章は、2018年11月17日(土)18:30開演の北陸学院高校演劇部『修学旅行』についての劇評です。

 ある高校の沖縄への修学旅行の夜、女子部屋にて。宿泊先の旅館の和室に並ぶ5枚の布団。自分たちの部屋でどんな楽しい夜を過ごそうか、トランプか、枕投げかとわくわくする女子生徒。他の部屋に行って、同じ部の仲間で集まって盛り上がる生徒たち。就寝時間に部屋の見回りに来る教師。就寝前の恋バナ。好きな男子生徒の話題になった途端、隠そうとする優等生女子。好きな女子生徒に告白しようと、窓から3階の部屋に侵入する男子生徒。恋バナが原因で一人のメンバーがイライラし始め、そこから女の戦いが勃発し、枕投げへと発展。教師に見つかり部屋のメンバー全員が正座させられる。北陸学院高校演劇部によって上演された『修学旅行』(作・畑澤聖悟/演出・井口時次郎)は、ありふれた修学旅行のでの出来事を題材にした学園コメディだった。

 この『修学旅行』が、青森の高校演劇部のために書かれ、全国で最優秀賞を獲得したのが2005年。当時の高校生がそのまま描かれたような作品だったが、13年経った今の高校生と大きく異なる部分はなく、北陸学院高校演劇部員たちが、同世代の登場人物たちをのびのびと演じ、リアリティがあった。特に好きな男子がかぶっていたことから、徐々に会話がトゲトゲした感じになるノミヤ(荒井莉子)とシャトミ(岡中杏珠)のやり取りでは、相手を直視せずにチクチクとつつき合う演技に臨場感があった。

 この作品の初演はイラク戦争の時期だ。『修学旅行』は単なる学園コメディではなく、当時の社会情勢が直接的にも暗喩としても表現されていた。例えば、生徒の何気ない会話の中に、沖縄から大量のアメリカ兵がイラクへ向かっていると話すシーンがあった。また、自分の布団を踏まれるのを嫌がるノミヤが、私の領土に入らないでほしいと言う表現を使った。彼女にとっては布団を踏まれたくないという以上の意味はなかっただろう。また、ノミヤは、隣で幾度となく素振りをするソフトボール部のカキザキ(小杉恵生)に、素振りをする度に怖い思いをしていると訴える。カキザキは大丈夫だと言い張る。これは「キナ臭い」と言われていた時代の他国に対する恐怖感を表していたと思われる。一見学園コメディであるかのように見えるこの『修学旅行』には、随所にこのような仕掛けがなされていた。
 
 コミカルさと当時の社会風刺とがうまく組み合わさった作品だが、2018年の今見ると違和感を覚える箇所があった。ラスト、並んで正座をさせられた同室の女子生徒がそのまま古今東西ゲームを始めるシーン。古今東西ゲームは同じテーマで名詞を一人ずつ挙げてゆくゲームだが、彼女たちは国の名前でゲームを始める。脚本上の指示だろうか、一人が「イラク」と言った途端、場が静まり、しばらくするとゲームが再開する。初演当時の社会背景を表した「イラク」の後の沈黙が、今の自分には、ぴんと来なかった。初演時、当時のイラク情勢を背景に上演されたことを想像すると、国名から受け取る深刻な印象が薄れてしまっているからだろう。この違和感は、イラク戦争を忘れかけている私への警鐘だったのだろうか。