(劇評・12/12更新)「それは果たして悪なのか」大場さやか | かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

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この文章は、2018年12月1日(土)19:00開演の劇団暗黒郷の夢『Whiteout』についての劇評です。

 ディストピア(暗黒郷)とは、ユートピア(理想郷)の反対の世界である。劇団暗黒郷の夢による『Whiteout』(作・演出:木林純太郎)からは、ディストピアの不気味な雰囲気が伝わってきたが、世界観の提示に留まっていた感もある。

 刑事の広野あつし(高田滉己)と妹のさきか(北国歩実)は母親と、三人暮らしをしている。あつしの昇進のお祝いに、自分とお揃いのミサンガを贈るさきか。そんな幸せそうな光景から一転、母親が飲酒運転の車にひかれて亡くなってしまう。葬儀や裁判などで忙しく、さきかの心のケアが行き届かないあつし。ある日、さきかは失踪する。しばらくして、上出警部(田中祐吉)から、さきかを見たと情報が入る。さきかは、新興宗教団体ウルスの信者と共に、団体が所持する島、聖島にいるらしい。あつしは、島への潜入捜査を行うこととなる。

 白い服装をしたウルスの信者達は、シスター(古林絵美)の指導の下、聖歌にも似た雰囲気の歌を歌う。続いて、指導者であるらしいマザー(奈良井伸子)が世界について語る映像を見る。そして社会への思いを断ち切るための儀式を行う。信者(阿部優希、黒田博章)は自分の持ってきた、思い出の詰まった物を捨てるのだ。しかしここで思い出の写真を破けなかった者に、「浄化」と呼ばれるものがなされる。
 さきかに再会できたあつしだが、さきかはすっかりマザーに心酔している。あつしは背後から殴られ、車椅子に手足を拘束される。あつしは頭に、電極の付いた帽子のような物を被せられ、脳に刺激を与えられる。これが浄化だ。ドクター(朱門)によると、そうすることで、マザーの姿を見ただけで幸福感を得られるようになるというのだ。刺激を与えられても必死に意志を保とうとするあつし。彼から少し離れたところでは、さきかが、あつしの大事なミサンガを切り刻んでいる。あつしはぐったりとうなだれる。

 スクリーンにマザーが映し出され話している時に、これは観客にもセミナー的な雰囲気を体験させているのかと感じた。マザーの優しくも怪しさを含んだ語りに、この芝居は観客にも信者の心持ちを体験させようと企んでいるのかと、不安が煽られた。
 振り返ってみると、あつしの正義感に溢れる発言よりも、世界が一つとなることを説くマザーの語りのほうに、力点が置かれていたように感じる。辛い状況でも、現実をしっかり見なくてはならないと語るあつしに、それは強者の意見だとドクターは返した。一つの強制力によって多くの人間が支配されるが、全ての人々に幸せが与えられる世界。弱者であっても幸福感を得られる浄化の、何が悪いのだと彼は語った。
 この世界をもっと描写していくと、現代社会のあたりまえとの違いはもっと出てくるだろう。差異に恐怖を感じられる部分まで表現することができれば、ディストピアについて、より深く考えることができたのではないか。


(以下は更新前の文章です)


 ディストピア(暗黒郷)とは、ユートピア(理想郷)の反対の世界である。主にSFジャンルにおいて、人々が受け入れ難い未来の姿として描かれることが多い。劇団暗黒郷の夢による『Whiteout』(作・演出:木林純太郎)からは、ディストピアの不気味な雰囲気が伝わってきたが、世界観の提示に留まっていた感もある。

 他に何もない舞台には背もたれの高い椅子が一つ。黒い背景には、数珠のような白い円が三連になったものが映し出されている。全身白い服の男性がやってきて、椅子に座り、手にした書類を眺めている。ドクター(朱門)と女(シスター・古林絵美)に呼ばれた男は、計画の遂行をシスターに告げる。

 刑事の広野あつし(高田滉己)は、妹のさきか(北国歩実)と母親と、3人暮らしをしていた。だが母親が飲酒運転の車にひかれて亡くなってしまう。葬儀や裁判などで忙しく、さきかの心のケアができないあつし。ある日、さきかは失踪する。しばらくして、上出警部(田中祐吉)から、さきかを見たと情報が入る。さきかは、新興宗教団体ウルスの信者と共に、団体が所持する島、聖島にいるらしい。あつしは、島への潜入捜査を行うこととなる。

 ウルスの信者達は皆、白いボトムに、白いフード付きの服を着ている。シスターの指導の下、聖歌にも似た雰囲気の歌を歌い、指導者であるらしいマザー(奈良井伸子)が語る映像を見て、社会への思いを断ち切るために自分の持ってきた写真を破く。写真を破けなかった者には「浄化」と呼ばれるものがなされる。
 さきかに再会できたあつしだが、さきかはすっかりマザーに心酔している。あつしは背後から殴られ、車椅子に手足を拘束される。彼にも浄化が行われるのだ。あつしは頭に、電極の付いた帽子のような物を被せられ、脳に刺激を与えられる。そうすることで、マザーの姿を見ただけで幸福感を得られるようになるという。必死に意志を保とうとするあつしが、ぐったりとして芝居は終わる。

 スクリーンにマザーが映し出され話している時に、これは観客にもセミナー的な雰囲気を体験させているのかと感じた。この芝居は観客に何を追体験させようと企んでいるのかと、不安が煽られた。
 振り返ってみると、世間一般の常識であろう、あつしの正義感に溢れる発言よりも、世界が一つとなることを説くマザーの語りのほうに、力点が置かれていたように感じる。辛い状況でも、現実をしっかり見なくてはならないと語るあつしに、それは強者の意見だとドクターは返す。弱者であっても幸福感を得られる浄化の何が悪いのだと、誰もが幸せな世界のどこが悪いのだと、言われているように感じた。作家は、ディストピア的世界観を悪とは見ていないのではないか。だがその主張は現代社会では受け入れ難いものであるため、強く打ち出すことができなかったのではないか。それが、この芝居が世界観の提示に留まっていたと感じた理由だ。