かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ -22ページ目

かなざわリージョナルシアター「劇評」ブログ

本ブログは金沢市民芸術村ドラマ工房が2015年度より開催している「かなざわリージョナルシアター」の劇評を掲載しています。
劇評を書くメンバーは関連事業である劇評講座の受講生で、本名または固定ハンドルで投稿します。

 この文章は、2019年11月10日(日)14:00開演のうんダンスぷらうる『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』についての劇評です。

最近のインターネットには若者たちのダンス映像が溢れている。彼らにとってダンスは、歌や楽器演奏以上に重要な自己表現の手段であるようだ。だが、ダンスは若者たちだけのものだろうか? 金沢市民芸術村ドラマ工房で金沢リージョナルシアター2019「げきみる」の参加作品として上演されたうんダンスぷらうる公演『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』(演出:市川幸子、佐成哲夫)を観て、むしろ年輪を刻んだ身体でしか踊れないダンスもあるのではないか、という思いが強まった。

開演直後、天井から下りてきた白いスクリーンにダンス映像が映し出される。一人の背後からたくさんの腕が千手観音のように伸びてきて、シンクロしながらグルグル回る。それ自体はよくある振付だが、先頭のダンサーは御年70歳をとっくに超えている池田むかうんさんではないか、と気付いた。このグループは、コンテンポラリーダンス好きな女性たちが集まって13年前に結成されたもので、今やメンバーの大半は50〜60歳代。皆さん、相変わらずお元気だなあと感心していると、それまでピッ、ピッ、ピッと鳴っていた心電図のような電子音が、いきなりピーッと持続音に変わった。しばらくしてそれが何を意味しているかに気づき、少し焦った。限りある生命が作品のテーマなのだとその瞬間に悟った。

映像が終わり、スクリーンが収納されると、黒装束に黒頭巾を被ったメンバーたちが登場し、日本の伝統的なお囃子太鼓に合わせて踊り始めた。確かに若手ダンサーと比べれば、動きは少ない。身体のキレも物足りない。しかし、退屈だったかと問われれば、実のところ、見飽きなかった。それには演出の巧みさも大きく関わっている。例えば、ゲスト出演した男性陣(ダンサー:佐成哲夫、元井康平、澤田国芳、太鼓奏者:野村俊裕)がメンバーたちとは対照的な激しい世界を創り上げることにより、動と静の対比を生み出していた。あるいは雨傘の骨に地面まで届くほど長いシースルーの布を張り付けた小道具も効果的だった。その傘を男性たちが差して歩き回る姿はクラゲの妖怪じみて見えた。周囲で女性たちが小さな魚のように泳いだり、怖がって逃げたり、傘の中へ呑み込まれたり、這い出したりとさまざまに遊んでいると、まるで水族館の水槽をのぞいているような気分にさせられた。

今回の作品で圧巻はやはり、女性たちがオリンピックの入場行進のように堂々と練り歩くシーンだろう。彼女たち、普段は生活人として家事や仕事や孫の世話(?)などに追われて忙しいだろうが、この時ばかりは背筋を伸ばし、世界中の視線を独り占めするごとき勢いでグングンと突き進む。これまでの人生で経験してきた何事も後悔はしないぞ、と宣言しているような自信が一人一人の身体から満ち溢れていて、圧倒された。

そんな強さだけではない。結末近く、グループで一人だけ異質な若い女性メンバー(澤田ふきの)が白い衣装を着て、しなやかで可憐なソロを踊った。バックにはピチカート・ファイヴのポップナンバー『陽の当たる大通り』が流れる。他のメンバーたちはその場で萎れた植物のように上半身をダラリと前へ落ち込ませている。その時、澤田の姿は、老女たちが白日夢の中で重ね合わせている若かりし頃の自分自身と感じられた。夢だから、儚いとは限らない。「♪死ぬ前に/たった一度だけでいい/思いきり愛されたい」という歌詞さながら、老いさらばえた女たちが心の奥底でひそかに膨らませている大胆不敵な妄想が、そこで一気にさらけ出されているようだった。

とはいえ、そのシーンで表現されていたのは、単に男女関係への渇望だけではなかった。1960年代、ポピュラー音楽に革命をもたらした英国のロックバンド、The Beatlesもデビュー曲で「Love Me Do」(僕を愛して)と歌っていた。当時の彼らは20歳前後。愛されたい願望は、性別や年齢の違いを超えて、芸術表現への衝動と深く関わっているのではないだろうか? 今回のダンス公演でも、出演者たち一人一人が私を愛して、すなわち自分という存在をありのままに受け入れて、と観客に向かって全身で叫んでいるように感じられた。

(以下は改稿前の文章です。)

ダンスは若者たちだけのものだろうか? 金沢市民芸術村ドラマ工房で金沢リージョナルシアター2019「げきみる」の参加作品として上演されたうんダンスぷらうる公演『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』(演出:市川幸子、佐成哲夫)を観て、むしろ年輪を刻んだ身体でしか踊れないダンスもあるのではないか、という思いが強まった。

開演直後、天井から下りてきた白いスクリーンにダンス映像が映し出される。一人の背後からたくさんの腕が千手観音のように伸びてきて、シンクロしながらグルグル回る。それ自体はよくある振付だが、先頭のダンサーは御年70歳をとっくに超えている池田むかうんさんではないか、と気付いた。コンテンポラリーダンス好きな女性たちが集まって13年前に結成されたグループであり、今やメンバーの大半は50〜60歳代。皆さん、相変わらずお元気だなあと感心していると、それまでピッ、ピッ、ピッと鳴っていた効果音(心電図のような電子音)が、いきなりピーッと持続音に変わった。しばらくしてそれが何を意味しているかに気づき、少し焦った。限りある生命が作品のテーマなのだとその瞬間に悟った。

映像が終わり、スクリーンが収納されると、黒装束に黒頭巾を被ったメンバーたちが登場し、日本の伝統的なお囃子太鼓に合わせて踊り始めた。確かに若手ダンサーと比べれば、動きは少ない。身体のキレも物足りない。しかし、退屈だったかと問われれば、正直言って、見飽きなかった。それには演出の巧みさも大きく関わっている。例えば、ゲスト出演した男性陣(ダンサー:佐成哲夫、元井康平、澤田国芳、太鼓奏者:野村俊裕)がメンバーたちとは対照的な激しい世界を創り上げることにより、動と静の対比を生み出した。あるいは雨傘の骨に地面まで届くほど長い視線透過性の布を張り付けた小道具も効果的だった。その傘を男性たちが差して歩き回る姿はクラゲの妖怪じみて見えた。周囲で女性たちが小さな魚のように泳いだり、怖がって逃げたり、傘の中へ呑み込まれたり、這い出したりとさまざまに遊んでいると、まるで水族館の水槽をのぞいているような気分にさせられた。

今回の作品で圧巻はやはり、女性たちがオリンピックの入場行進みたいに堂々と練り歩くシーンだろう。彼女たち、普段は生活人として家事や仕事や孫の世話(?)などに追われて忙しいだろうが、この時ばかりは背筋を伸ばし、世界中の視線を独り占めするごとき勢いでグングンと突き進む。これまでの人生で経験してきた何事も後悔はしないぞ、と宣言しているような自信が一人一人の身体から満ち溢れていて、圧倒された。

そんな強さだけではない。結末近く、グループで一人だけ異質な若い女性メンバー(澤田ふきの)が白い衣装を着て、しなやかで可憐なソロを踊った。バックにはPIZZICATO FIVE(ピチカートファイブ)のポップナンバー『陽の当たる大通り』が流れる。他のメンバーたちはその場で萎れた植物のように上半身をダラリと前へ落ち込ませている。その時の澤田は、恍惚とした老女たちが白日夢の中で重ね合わせている自分自身の若かった頃の姿と感じられた。夢だから、儚いとは限らない。「♪死ぬ前に/たった一度だけでいい/思いきり愛されたい」という歌詞さながら、老いさらばえた女たちが心の奥底でひそかに膨らませている大胆不敵な妄想が、そこで一気にさらけ出されているようだった。

身体がどれほど衰えても、残念ながら心はずっと若いままだ。つい油断をすれば、愛や理想に憧れてしまう。通常ならそんな自分をもういい年なんだからと笑い飛ばし、かすかに目覚めた願望を押し潰してしまうのではないだろうか。しかし、今回の舞台では、メンバーたち一人一人が老いという残酷さに打ちのめされることなく、私を愛して、と全身で訴えていた。それだけでもうロックであり、革命だった。
この文章は、2019年11月10日(日)14:00開演のうんダンスぷらうる『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』についての劇評です。

 うんダンスぷらうる『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』をそのタイトルに添ってまとめるならば、命が生まれ、活動し、その生を終えるまでの物語だと言えるだろう。だが私には何よりダンサー達の「個性」の発露がこの舞台であると思えた。

 舞台の床は黒のリノリウム張り、壁面はドラマ工房の壁そのままである。暗転の後、明るくなるとそこには、白く大きなスクリーンがあった。真っ白な画面に映し出されたのは、椅子に座った黒い服の人物。一人かと思ったが、両手を伸ばし、足を広げていく人物が、その後ろにも何人もいることがわかってくる。ゆるやかに手足を伸ばしたり、時には椅子を離れたり、人々は自由に動く。最初からピッ、ピッ、と規則正しく続いていた電子音が、ピーと長く鳴り続いた。それらはまるで心電計が発する音のように。人々は椅子のある場所に戻っていき、映像は白く塗りつぶされた。

 祭のような音が聞こえる。黒いノースリーブの服に、頭をすっぽり覆う帽子を付けた女性と、天狗の面を付けて綱を背負った黒い服の子供が登場した。ぐるぐると舞台を回る2人。いつしか上手と下手には4人ずつ、先に登場した女性と同じように黒い服の、女性達がやってきた。彼女らはゆっくり舞台を取り囲む。最初に登場した女性と子供が去ると、太鼓を演奏する男性が1人、そして2人の男性が登場する。彼らは黒い着物のような服を着ている。太鼓のリズムに合わせて、時にはゆるりと、時には激しく躍る2人。女性達はそれを見ている。祭のようなこのシーンは、生命が誕生したことへの喜びだろうか。

 その後のシーンで、黒いオーガンジーのような布を垂らした、クラゲのような傘を持った人物達が登場する。女性達は、その中に入ってみたり、出てみたり、転がったりする。傘の中で、一人が、困惑した表情を浮かべていたように見えた。傘は彼女らにとって、シェルターなのか、檻なのか。

 傘を持った人物が去り、残された彼女達は舞台をぐるぐると歩き回る。やがて一団となって、中腰になって前に進み出てくる。正面真ん中の客席手前まで来たところで彼女達は一斉に、にっと笑った。彼女達は今「楽しい」のだ。楽しみのさなかにある笑顔の、それぞれが魅力的だ。

 音楽が流れた。ピチカート・ファイヴの『陽の当たる大通り』だ。いつしかうつむき、ちぢこまってしまった黒い女性達の間を、白い服の女性が明るい音楽に合わせ、跳ねるように動き回る。やがて黒い女性達は立ち上がり、白い女性と一緒になって踊り出す。もう萎んでしまった? いや、まだだ。それに、例え萎んでいたって踊れる。楽しそうに踊る彼女達から、そんな意志表示を感じた。

 彼女達のダンスは技巧を必要とする類の、強烈に目を引く洗練されたものではない。なのに、一人一人がふと見せる動きに、表情に、引きつけられてしまう。それは彼女らが持つ、ばらばらの個性であり、他の誰かには決して出せない味である。


(以下は更新前の文章です)


「不完全だからこそ」

 うんダンスぷらうる『生・遊・萎(うまれる・あそぶ・しほれる)』をそのタイトルに添ってまとめるならば、命が生まれ、活動し、その生を終えるまでの物語だと言えるだろう。だが私には何よりダンサー達の「個性」の発露がこの舞台であると思えた。

 舞台の床は黒のリノリウム張り、壁面はドラマ工房の壁そのままである。暗転の後、明るくなるとそこには、白く大きなスクリーンがあった。真っ白な画面に映し出されたのは、椅子に座った黒い服の人物。一人かと思ったが、両手を伸ばし、足を広げていく人物が、その後ろにも何人もいることがわかってくる。ゆるやかに手足を伸ばしたり、時には椅子を離れたり、人々は自由に動く。最初からピッ、ピッ、と続いていた電子音が、ピーと長く響いた。それはまるで鼓動が止まった心電図のように。人々は椅子のある場所に戻っていき、映像は白く塗りつぶされた。
 なぜそれは実際に躍られるのではなく、映像であったのだろうか。手が届く距離の生(なま)ではなく、一枚フィルターを通した映像で、触れられそうで触れられない完全な存在を表現したのではないか。

 祭のような音が聞こえる。黒いノースリーブの服に、頭をすっぽり覆う帽子を付けた女性と、天狗の面を付けて紐を背負った黒い服の子供が登場した。ぐるぐると舞台を回る二人。いつしか上手と下手には4人ずつ、先に登場した女性と同じように、黒い服の女性達がやってきた。彼女らはゆっくり舞台を取り囲む。最初に登場した女性と子供が去ると、太鼓を演奏する男性と、2人の男性が登場する。彼らは黒い着物のような服を着ている。太鼓のリズムに合わせて、時にはゆるりと、時には激しく二人は躍る。女性達はそれを見ている。祭のようなこのシーンは、生命が誕生したことへの喜びだろうか。

 その後のシーンで、黒いオーガンジーのような布を垂らした、クラゲのような傘を持った人物が登場する。女性達は、その中に入ってみたり、出てみたり、転がったりする。傘の中で、一人が、困惑した表情を浮かべていたように見えた。傘は彼女らにとって、シェルターなのか、檻なのか。

 音楽が流れた。ピチカート・ファイヴの『陽の当たる大通り』だ。いつしかうつむき、ちぢこまってしまった黒い女性達の間を、白い服の女性が明るい音楽に合わせ、跳ねるように動き回る。やがて黒い女性達は立ち上がり、白い女性と一緒になって踊り出す。もう萎んでしまった? いや、まだだ。それに、例え萎んでいたって踊れる。楽しそうに踊る彼女達から、そんな意志表示を感じた。

 彼女達のダンスは技巧を必要とする類の、強烈に目を引く洗練されたものではない。なのに、一人一人がふと見せる動きに、表情に、引きつけられてしまう。それは彼女らが持つ個性であり、他の人には決して出せない味である。最初の映像のように完全なものではない。だが不完全なそれこそが、個性なのである。
今年もかなざわリージョナルシアター「げきみる」が開催されます。
そして、関連事業としての劇評講座も行います!
6名の受講生たちが講師の指導のもと劇評を執筆し、このブログにアップしていきます。
演劇はプレイヤーだけではなく、観客も創り手となって成立するもの。
どうぞお楽しみに!

第1週 ジュニア・クラブ
    ※小学生、中学生による演劇プログラムのため、劇評は非公開となります。
第2週 うんダンスぷらうる
第3週 北陸学院高校演劇部&星稜高校演劇部
第4週 劇団あえない
第5週 北陸つなげて広げるプロジェクト
第6週 劇団ドリームチョップ
第7週 110SHOW++