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楽園の夢

ハニツィオ島からメキシコシティへ戻ると

翌日早速インテルジェットのオフィスまで赴いた。

ペルー行きのチケットを取るためだ。

やはり直前だとエコノミークラスは残っておらず、

11月の下旬まで約20日ほどメキシコシティに滞在することになった。

 

まだメキシコで行ってない名所はたくさんあったが、

孤独な根暗男を引き付けた場所は一つだけだった。

 

サンルイスポトシ州はヒリトラという田舎町。

そこにイギリス王朝の血を引く資産家エドワード・ジェームズが

「エデンの園」をイメージして作った彫刻の庭園があるという。

フランス人の彫刻家から教えてもらい強く興味を持っていた。

旅行者があまり立ち寄らないところだが、僕の心境には合っていると思った。

 

メキシコシティの北バスターミナルから夜行バスでヒリトラへと向かった。

道路は舗装されていたが、激しく曲りくねった上り坂が延々と続いた。

車酔いをする、という意味で人生で最悪の悪路だった。

「この地獄がいつまで続くのだろう…」

そう思うこと数時間、眠っていたというよりは気を失っていたのかもしれない。

ぐったりと横になる僕に運転手が声を掛けた。

「ヒリトラだ」

 

2017年 11月初旬 Xilitla ,San Luis de Potosi

 

吐かずに乗り越えた自分を称えつつ、早朝のまだ誰もいない街を散策する。

田舎過ぎて安いホテルはネットでは見つけられなかったので足で探した。

 

公園でギターを弾きながら夜明けを待ち、目を付けていたホテルへ赴く。

 

ホテル代はさほど安くはなかったが、2泊ほどだったのでそこに決めた。

彫刻の庭園ラスポーサスにはそこから徒歩で行ける。

 

翌日エデンの園へ向かった。

のどかな田舎道を歩くこと40分、道は一本で迷いようがなかった。

 

小川せせらぐ美しいジャングルの入り口にそびえ立つ異形の造形物。

 

 

人は少ないが一応観光地化されており、入場料を支払う必要があった。

 

不意に途中で三脚を没収されてしまう。

観光客が多ければ確かに邪魔だろうが、

これほど空いているのだから融通を利かせてくれてもいいだろうに。

 

小川の奥にある小さな滝壺では泳いでいる家族連れがいた。

天気は曇っており水は少し冷たかったが、気持ち良さそうだ。

 

帰路にて頭の中に音楽のイメージが湧いた。

宿に帰ると早速ラップトップにMIDIキーボードを繋げて曲を形にした。

 

エドワード・ジェームズはエデンの理想を形にしたが、

残ったのは形だけで楽園は人々の心の中にあるだろう。

 

 

僕は叶わなかった夢について考えていた。

例え道の半ばに倒れても

不甲斐無い自分に嘆いてもいい。

悲しみの先にも物語の続きはある。

歩き続ける勇気を持った自分を誇れ。

 

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生者盛る夜(死者の日、ハニツィオ島)

 

 

10月最後の日の早朝にメキシコシティに着くと

友人に教えてもらったホテルまでタクシーで移動した。

 

タクシーは混んでる道を避け迂回していた。

やはり死者の日の期間の影響か。

 

ツーリストの多くは死者の日をオアハカで過ごそうと計画する。

僕は仮装パーティにはあまり興味がなく、

どちらかと言えば伝統的な過ごし方を映像作品にしたい。

 

もう7年くらい前になるだろうか、

今は無き東京は西荻窪で旅人が集まるカフェで出会った人に

その人が撮影した”死者の日”の写真を見せてもらったことがある。

墓に装飾されたガイコツのオブジェと花。

僕はその可愛さと厳かさに魅了されたのだった。

ミチョアカン州のハニツィオ島で撮影されたものだった。

 

ハニツィオはメキシコシティから西にバスで数時間行ったところにある。

僕は住んでいたチアパス州はメキシコの東南で移動に2日はかかるため行けなかった。

メキシコ3年目にして最初で最後のチャンスだった。

 

日にちについて迷っていた。

10月31日、11月1日、11月2日、どれがいいのだろうか。

調べても誰に聞いてもわからなかったので決めうちで行ってみるしかなかった。

湖に浮かぶハニツィオ島にはパツクアロという街から小型船で行く。

パツクアロのホテルは取れないだろうと最初から諦め、首都のホテルに荷物を置いて

11月1日の夕方に発って一晩寝ずに過ごして帰ってくるプランを立てた。

 

首都の北バスターミナルでパツクアロ行きを扱うバス会社従業員に

「ハニツィオ島行きの船は間に合うかな?」

と聞いても「多分あると思うわ」

という自信を持てない返答であった。

「行ってみてダメっだったってこともあるかもしれない」と肚を決めた。

 

バスで行く途中に豪雨に合った。

色々不安だったが「どうなってもいいや」とやけくそ気味に考えた。

 

2017年11月1日  Janizuio,Michoacán

 

到着前に雨は止んだ。

バス停でタクシーの運転手に船はあるか聞くと

「今日は一晩中あるよ」とのことだった。

バス会社の人が知らなかったことの方が不思議だ。

恐らく行ったことがないのだろう。

 

船乗り場の前は歩くにも難儀なほど大規模なお祭りバカ騒ぎだった。

先祖や家族の霊と共にパーティを楽しもうという趣旨ならいいのだが、

もはや馬鹿騒ぎがしたいだけにしか見えなかった。

 

船は頻繁に出ており、30分ほどで乗ることが出来て大変安心した。

 

ハニツィオは小さな島だ。

僕は初めて江ノ島に行った時のような気分で探索した。

 

高台から墓場を見下ろした。

オレンジ色の花に装飾されロウソクの炎でライトアップされた空間。

島には大規模な墓場があるのかと勝手に思い込んでいたがそんなはずはなかった。

小さな島に必要な大きさの墓場のサイズだ、当たり前だが。

この日は一晩中小さな墓墓に人が溢れ返っている。

 

 

観光客を一切介気にしない様子で墓の前で先祖と亡き家族に寄り添う人もたくさんいる。

そんな人を見てると観光客の一人として申し訳ない気持ちにすらなる。

そして美しい姿を作品にさせてくださいとばかりに撮影を重ねた。

 

明け方の船の数は夜間ほど多くないため船に乗るまで2時間弱は待った。

首都行きのバスも途中乗り換えが必要で、流石に疲労困憊だった。

昼過ぎにメキシコシティのホテルに帰ると泥のように眠った。

 

僕には昔から

「自作の詩と音楽を織り交ぜた映像作品を作りたい」と言う思いがあった。

さらに旅の要素も加え「Calle Infinita」(終わりなき道)

と名付けたショートムービーシリーズを作っていくことを構想していた。

 

ハニツィオの死者の日は世界的にも有名だし

作品にはスペイン語詩を取り入れたいと考えていたが

やはり人の助けが必要だった。

身近に頼れる人間がいなかったため、曲を作るにとどめた。

 

それから約2ヶ月が経った時

僕はボリビア人の友人宅に部屋を借りていた。

 

僕は死者の気持ちを一遍の短い詩にしてスペイン語に訳し、

大家の娘に添削をお願いした。

 

カルラというその娘は役者であり大学院卒業見込みで

日本語学校で最もレベルの高いクラスに在籍している。

高い教養を持ち芸術にも精通する逸材だった。

 

 

小一時間で添削を終えてくれたカルラに朗読もお願いした。

落ち着きある美しい声で演じてくれた、

彼女のお陰で作品は完璧に仕上がったと言える。

 

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生者のためのフェスティバル

僕の作品も生きる人に向けてのものだ。

 

 

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夢与え得るバイレ

人は失ったもので形成される

人生は失うことの連続だ

失うことでなりたかった自分になるのではなく

本当の自分になれるのだ

 

ーアレハンドロ・ゴンサレス・イリャニトゥ(映画監督)ー

 

北半球に初夏が近づく頃、メキシコには雨季が訪れ

標高2100メートルに位置するサンクリストバル・デ・ラスカサスは少し肌寒くなる。

 

僕はある「喪失」のためにこの街を離れる決心をした。

しかし最後までやり遂げたい大切な仕事が残っていたため、

少なくとも3ヶ月、すぐに離れるわけにはいかない状況だった。

 

僕はイリャニトゥの言葉を思い出していた。

「喪失」が僕に行き場のないエネルギーをもたらしていた。

何かを創りたくて苦しんでいた…そうしないと気が狂ってしまいそうだった。

 

僕はこの街を出る決意をしたことを

今まで世話になって人達に説明する必要があると思った。

 

最初に「Raku」という革靴のブランドを手がけるミキという女性を訪ね、

街を出る決心をしたこと、そしてそうなった経緯について説明した。

 

不意にCASAKAのオーナーKATAがRakuを訪問した。

「おう、トシくん来とったんや」

 

彼は一人宿の女性客を連れて来ていた。

 

大きな目と果実のような厚い唇に特徴のある綺麗な娘だ。

ターバンのように布を頭に巻き、ゆったりとしたパンツを履いていた。

容姿から個性が溢れ出ていたが、ダンサーと聞いて納得した。

名をayacaと言った。

 

僕は自分が映像作家であることを伝えた上で

「ダンスビデオとか作ってみたいですね」

と提案すると彼女は

「やりたいです!コラボしましょ」

と二つ返事で答えた。

 

東京出身の彼女は沖縄県の石垣島で子供たちを相手にダンススクールの講師をやっていた。

今回は石垣島の自宅を引き払って、ダンス修行も兼ねてラテンアメリカを旅していた。

 

「大好きな教え子たちに自分が海外で踊っている姿を見せたい」

それが彼女の願いだった。

 

その後僕は滞在ビザを更新するため一旦グアテマラへ、

ayacaは知り合いの結婚式に出席するためアメリカへ行く必要があり、

サンクリストバルでの再会と共作を約束してそれぞれ国を発った。

 

2017年 7月中旬 San cristóbal de las casas,México

 

一足先にグアテマラからサンクリストバルに帰っていた僕には

別の課題が訪れていた。

 

以前から親交のあるメキシコ人のイツェルたち姉妹が

この街でアジア文化のコンベンションをやるというのだ。

 

サンクリストバルにいるアジア人なんてたかが知れている。

そして20歳そこそこのメキシコ人の娘たちに協力する

日本人など少ないだろう。

 

CASAKASAとしてはたこ焼き屋を出店することになっていたが、

宿泊客を含め多くの人を巻き込む必要があると考えた。

彼女らを助けられるのはCASAKASA以外にない。

 

お客さんの中から、折り紙、てるてる坊主、習字、

日本語の各種ワークショップをやってもらうことになった。

 

さらに食べ物もたい焼きとおにぎり、チラシ寿司が追加された。

 

そしてアメリカからメキシコに戻って来たayacaと

CASAKASAの面々でコンベンションのプロモーションビデオを作成した。

この撮影の時に僕ははじめて生で彼女の踊りを見た。

 

それはもう、”美しい”の一言に尽きる。

 

 

 

当日は会場が広過ぎるのが気になったが、まずまずの盛況振りだったと言える。

全てのワークショップが人気で、てるてる坊主まで定員を超えたのには驚いた。

ayacaは思いつきで急遽東京音頭のワークショップを行った。

食べ物に関してはCASAKASA以外には一人の韓国人がチヂミを出しただけだったので、

我々が食べ物を出したのは大正解だった。

 

 

コンベンションの準備で多忙を極めてしまったが、

僕にとってはダンスビデオが肝心だった。

残された時間はわずかだった、僕は7月末からドミニカ共和国での撮影が入っていたのだ。

 

ビデオ用の曲はKATAと共作した。

まだ未完成だったが、時間がなかったため仮の状態でayacaに聴いてもらった。

 

「曲の名前を考えるにあたって、あやかちゃんがSNSに投稿している記事を遡ってたくさん読んだんだ。」

 

それは彼女が愛する地を後にして起こした行動や葛藤を

自分の愛する者たちへ向けて発信しているものだった。

教え子の子供達に夢を与える存在であるために輝き続ける

強さと弱さ、優しさと切なさが詰まった多くの思い。

 

「それであやかちゃんに相応しい言葉を考えたんだ」

 

彼女は真剣な面持ちでこくりと頷く。

 

「”Dador(ダドール) 意味は”与える者”」

 

踊っていない時の彼女の表現は豊かとは言えない。

一見リアクションは小さいようだったが、

僕は彼女の大きな目の奥が輝いたのを見逃さなかった。

「いいですね…!嬉しいです。それでいきましょう」

 

曲自体はまだ感想を求められる段階ではなかったので、

名前だけでも気に入ってもらえて良かった。

その夜僕は自室で夜な夜なレコーディングをし、

なんとか撮影前日に1曲を形にした。

 

翌日、曲を直前に聴いてもらうことになったため、

彼女には申し訳なかったが、アドリブで踊ってもらわざるを得なくなった。

 

CASAKASAの近所と墓地で撮影を行った。

メキシコの墓地はカラフルで可愛らしい。

サンクリストバルの墓地は僕の中で街1番のおすすめスポットである。

天候に恵まれ、なんとか1日で撮影を終えることができた。

 

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僕がドミニカ共和国に向けて発つ前夜、CASAKASAにてアジアコンベンションの打ち上げが行われた。

不運にもayacaは体調が悪くなって部屋で休んでおり、ロクに話すことが出来なかった。

最後に体調不良を押して挨拶に来た。

僕らは短い言葉を交わして握手をして別れを告げた。

 

僕がドミニカ共和国からメキシコシティへ帰って来る日に

彼女はメキシコからコロンビアへ飛び立って数時間の差で入れ違ってしまい、

再会は叶わなかった。

 

数ヶ月後、帰国した彼女からメッセージが届いた。

 

ネットショップをやろうと思ってるんですが

ショップ名をDADORにしました

としさんにつけてもらった名前大事にします

 

彼女は本当の自分になりつつあるようだ。

 

世界のハンドメイド雑貨webショップ DADOR

 

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