個と全体のエンドレスワールド -5ページ目

大将伝説の幕開け

メキシコシティに来たのは四度目であったが、

それまでゆっくり観光出来たことは一度もなかった。

前回など一週間大学生と遊んで飲んだくれて終わった。

 

メキシコという国は一番高額な紙幣500ペソ札の両面に

国を代表する絵描きの夫婦がそれぞれ描かれているほど美術が盛んな国であり、

メキシコシティは”世界一美術館の多い街”と言われている。

 

僕は旅を中断してこの国にしばらく滞在しようと決めたこともあって、

取材と電化製品の買い出しを兼ねて首都に来ていた。

 

日本人宿の老舗”ペンション・アミーゴ”に宿を取った。

カサカサ創始者の笠置華一郎所縁の地であり、

彼を知る人に取材をするためであった。

 

前回の反省を踏まえてフリーダ・カーロの家や、

国立人類博物館、宿で知り合った韓国人たちとソチミルコなどを観光した。

 

ある日キッチンを通りかかると、一人の若い青年が座っていた。

挨拶を交わすと、メキシコシティに着いてから著しく体調を崩していると告げた。

 

彼の手元にお肉を食べた形跡があったので、

「お腹の調子が悪いのにお肉食べたの?」

と聞くと「食べました」というので、

「お腹を下してる時はなるべく食べない方がいいよ。

脱水症状にならないように水分はしっかり補給して、

食欲が出たらお粥とか腸の負担にならない物を食べるといい。」と助言した。

 

青年は病院に行こうか悩んでいる、と言った。

スペイン語はわかるのか聞いても、話せない、とのことで、

じゃあ病院に行っても何言ってるかわからないね、と話した。

 

メキシコでお腹を壊す人は珍しくないため、

僕は「食生活に気をつけて安静にしていれば治ると思うよ」と言ったが、

彼は細菌などが体に入り込んだことを心配していたので、

僕は持って来ていた抗生物質を手渡した。

 

青年の名は”ユウヤ”と言った。

体調が悪いのに京都弁でよく喋る子だというのが印象に残った。

 

2015年 10月初旬 San cristóbal de las casas,México

 

メキシコシティからサンクリストバル・デ・ラスカサスに戻って数日後、

カサカサに京都弁の青年ユウヤが現れた。

 

彼はラーメン屋で働いた経験があるらしく、ペンションアミーゴにて遭遇した

サンクリのマッサージ師K氏とラーメンの会を企画していたとのことだった。

 

すっかり元気を取り戻したユウヤはK氏と共に着々とラーメンの会を段取りし、

とても器量良くチャーシューや出汁を仕込んでいった。

 

流石、体調不良でも喋り倒すくらいだ、健康なときの戦闘力は計り知れない。

彼の精気にただならぬ気配を感じた僕は何に使うかもわからないのに、ただその様子を撮影した。

 

やがてK氏が手配したサンクリに住む人々が彼のラーメンを食べるためにカサカサを訪れた。

 

 

カサカサの客と合わせて20人超はいただろうか、

小さなキッチンでその人数に次々とラーメンを提供する姿は

まさにプロフェッショナルであった。

 

久しく食べられてなかった日本クオリティのラーメンに次々と舌鼓を打つ人々。

 

これが後にラテンアメリカにその名を轟かす”大将”の伝説の始まりである。

 

後日映像を作品化するために構想していると、ユウヤが篠笛を演奏できることを思い出した。

そしてちょうど良いところに田中孝というジャンベを叩くひょうきんな男がいたので、

二人でセッションしている絵を撮らせて欲しいと願い出た。

 

彼らはまるでジャムセッションに慣れたミュージシャンかのように

わずか2テイクで見事に演奏して見せた。

 

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ジプシーがにわかに奏でる雨の前

雨が轟音を立てる中庭、赤いコンクリートの廊下。

男達は床に座ってそれぞれに楽器を奏でていた。

 

「チューニングがバラバラだね」

僕がそう言うと、モヒカンの男は

「トシくん、Aをくれるかい?」

と言った。

 

僕がギターの5番目の弦をポーンと弾くと

男は懐に抱えた赤いギターを鳴らし、

ペグをクルクルと回して音の振動を共鳴させる。

 

調律を終えるとギター3本とシタールによるジャムセッションが始まった。

彼らは音楽理論など知らずにフィーリングのみでプレイする野性の音楽家たちだ。

 

雨季には雨季の人が来る

 

そう言ったのは誰だったか。

 

世界の観光地を周遊している人たちとは全く違う、

個性の強い旅人達が集っていた場所に、

僕は帰ってきた。

 

2015年 8月中旬 San cristóbal de las casas,México

 

3ヶ月のハバナライフ、語学と映像作品作りの修行を終え、再びメキシコの地を踏む。

キューバのスペイン語は早口と訛りで聴き取りが難しかったが、だいぶ理解が出来てほっとしていた。

 

数日カンクンに滞在したのちにサンクリストバル・デ・ラスカサス行きの長距離バスに乘る。

キューバに居ても、毎日恋しさを馳せていた街へと。

 

カサカサに着くとオーナーのKATAとかおりちゃんが迎えてくれた。

カンクンで汗でビショビショのままバスに乗り込んでから実に

22時間が経過しており、かおりちゃんはハグをした直後にシャワーを浴びるよう僕に勧めた。

 

「今ミュージシャンたくさんいますよ」

KATAがそう言った。

すでに中庭から楽器や話し声が聞こえており、

早くそこに加わりたい思いを抑えてシャワーを浴びに行った。

 

日本の梅雨と違い、中米の雨季は6月から10月頃まで続く。

この時期の中米にはハイシーズンに南米を目指して旅をしているような爽やかな旅人は一人もいない。

 

僕が中庭に行くと

長髪で長身のシタールを弾く男

アフリカ発祥のアサラトという打楽器を手元でクルクルと回す好青年

モヒカンに口ひげの男は赤いギターを弾きながら一日中歌っている

 

モヒカンの男は”アキオ”と名乗った。

彼はシタールの男ジュンと北海道で、

アサラトの好青年シュンとはオーストラリアで会ったことがあり、

ここサンクリストバル・デ・ラスカサスで運命的な再会をしたという。

 

3人は”ちんどんや”というユニットを組んで毎日の様に路上演奏をしていた。

 

 

彼らの悩みどころは、天気の様子を伺いながら路上演奏を雨の前に行くか後に行くかだ。

 

連日アキオが歌っているレパートリーの中にジプシーを歌ったものがあった。

その曲は僕の興味を強く引いた。

「アキオ君、その曲はなんて名前なの?」

「曲名はわからないんだ。オーストラリアでえなちゃんという娘が歌ってて、

みんなカバーしててね、それで覚えたんだよ」

 

「その曲をレコーディングさせてもらえないだろうか?

哀愁漂う感じがカサカサのドキュメンタリーのイメージにぴったりなんだ。」

 

彼はレコーディングを快諾してくれた。

土曜の昼前、宿の面々がオーガニックマーケットへ出払っているときに録音と、

その風景の撮影も同時に行った。

 

とてもいい映像が撮影出来たので宿の近くのインディヘナ居住区の風景を加えて編集した。

哀愁漂う自分でも気に入った作品が出来た。

 

曲名がわからなかったので、アキオがオーストラリアで会ったという

”えな”という女性をfacebookで探し出して連絡を取った。

 

突然の連絡に当初怪しまれたものの、彼女はアキオがギターを始めて

自分の曲を歌っていることを喜んでくれた。

そう、その曲は彼女の手によるものだったのだ。

 

曲名を”gypsy lady”と言った。

 

 

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カサカサの中庭には壁画がある。

メキシコ革命の英雄エミリアーノ・サパタを模したと思われるが、

アニメ風にデフォルメされており、髪型はモヒカン風に、

ピアスをしており着物を羽織っているように見える。

大きな目と口髭と髪型、その絵はアキオにそっくりだった。

 

彼は自分で「ここに来る運命だったんだと思ったよ」と言った。

 

その運命とやらはそこに留まることなく更に大きな展開を見せることになる。

ここで近い将来自分の妻となる女性と出会い、この街に住み、新たな能力を切り開いていくことを

この時の彼はまだ知る由もなかったのだ。

 

 

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虹に誓ったリベンジ

2015年 8月上旬 Havana,Cuba

 

7月末より僕にとって大きな問題に頭を悩ませていた。

 

キューバでは通常どこの国でも使えるサービスが規制されていることがある。

自分のウェブページのWixも使えなったが、

僕が映像の編集で使っているAdobeのプログラムの更新が

出来なかったことはかなり深刻な事態だった。

 

キューバの外に出なければ編集が出来ない。

僕は絶望していた。

 

それに加えて先日の現金とSIMカードを盗まれた事件である。

サンティアゴ・デ・クーバ行きもやめることにした。

(2010年に行ったことはある)

 

アメリカ大使館がオープンする8月13日、それを撮影したら出ようと決め、

Interjetのオフィスで8月15日メキシコのカンクン行きのチケットを購入した。

 

その数日後、チエ先生の誘いで

世界的に有名なフルーティスト、マラカのコンサートをみんなで観に行くことになった。

 

チエ先生とアヤさんとみさちゃん親子、文屋宗先生。

僕らはステージに最も近いテーブルに座った。

 

「アメリカ大使館のオープンを見届けて、8月15日にメキシコに戻ることにしたよ。」

「そっかぁ、トシくんもついに行っちゃうんだね・・・」

「何より編集出来ないのは辛いけど、ここ一連の出来事に疲れたってのもあるけど。」

 

マラカのコンサートが始まった。

アメリカでも中々チケットは取れないと聞いたことがある。

そんな世界的に有名なアーティストを僕はいつもの精神で

”勝手に撮影、勝手に編集、勝手にアップロード”させてもらった。

 

 

 

最高の芸術が身近にある。

このコンサートもいつも通り10ドルで観れる。

それがキューバのいいところだ。

 

しかし、何もかもアグレッシブな環境に疲れていたのも確かだ。

穏やかなメキシコが恋しかった。

 

8月13日、アメリカ大使館があるマレコン沿いで

アヤさん、アレクシィ、みさちゃん、宗くん、

そしてそのころアヤさんたちの家に引っ越してきたエリカ、というイタリア人と合流した。

 

米大使館前は多くの主にアメリカ人と思われる人々でごった返していた。

僕らはアメリカ国旗が掲揚されるのを見届け、帰りにエリカお勧めのピザを食べた。

イタリア人のお勧めとあって期待してしまったが、やはりキューバのピザだった。

 

翌日、チエ先生宅にいつものメンバーで集まり、お好み焼きを作った。

お酒を飲みながら他愛のない会話をしていると、

不意に激しいスコールが来てベランダから浸水するのをみんなで協力して防いだ。

スコールは小1時間ほどで止む。

 

チエ先生の部屋はマレコンを臨む高いマンションの上の方だった。

いつもそこからの景観を見ることを楽しみにしていたが、

誰かがそこに七色のアーチがかかっているのに気付いた。

 

 

やりたいことが全て出来たわけじゃない。

自分の行動力や力量は到底満足のいくものではない。

今回はこれが限界、でもいつかリベンジしてやろう。

 

虹を見ながらそんなことを考えていた。

 

翌日、みんなはビーチに行く前にわざわざ僕に会いに来てくれた。

暮らすのに決して快適とは言えないハバナを楽しく生活出来たのは、

紛れもなく彼らが居てくれたお陰だった。

 

特別な場所で過ごした 特別な時間

 

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