Life work is beautiful
ライフワークを見つけることが出来た人は幸運かも知れない。
それを追求している間に人生は充足したまま終わりを迎えるだろう。
ゲーテは若輩の時に「ファウスト」を想起し、
82年の生涯を終える直前に執筆を終え不朽の名作を完成させた。
大袈裟なものでなくてもいい、芸術である必要もない。
自分が「人生を費やす価値ある」とさえ感じることが出来ればなんでもいい。
今回は僕の13年の付き合いになる友人のライフワークの話だ。
彼女の場合はたまたまそれが「いないいないばぁアニマルダンス」だった。
彼女のことを語るには僕らの出会いまで遡らなければならない。
少々長くなるがお付き合い願いたい。
(これでも努力して省いたのだ)
僕が21歳の時だった。
田舎出身高卒フリーターとして東京で貧乏のどん底にいた僕は
テレアポと日雇い労働で生活費を食いつなぐ日々を送っていた。
そんな最中日雇いの方で真面目な勤務態度を評価され、
人材派遣会社の社員にならないかと誘われた。
僕は当時テレアポの方では全く成果が出せずに
毎月解雇の憂き目に遭っていたので、すがる思いで入社した。
そこに僕の1ヶ月前からアルバイトで勤務していたkyonという娘がいた。
彼女はインディーズで名を馳せるバンドのボーカリストだった。
小柄ながらも強烈な個性で目立っていた。
バンド時代のPV
時折彼女のバンドのライブに足を運んだ。
ステージ上での圧巻のパフォーマンスには感動したものだが、
職場における彼女のパフォーマンスも実に見事だった。
最も重要な実務において明らかな結果を出し続けた。
一人の同僚をして「東京にある営業所の中で一番」と言わしめたほどだった。
常にムードメーカーであり、お笑い芸人も顔負けのトークは僕たちの日常を盛り上げた。
当時僕らが勤務していた派遣会社は謂わゆるブラック会社であり、
タイムカードは存在せず、忙しい時は早朝に出勤して終電で帰れればいい方で
職場に寝泊まりすることも多々あった。
劣悪な勤務状況下で苦難を乗り越えた同志達には
いつしか特別な絆が芽生えるものである。
以来彼女は僕が上京してからの最も古く親しい友人だ。
彼女の人生は実にドラマティックだ。
メジャーデビュー直前で時折地上波のテレビ番組にも出演していたバンドは、
リーダーがタイで悪人に貶められ、大麻不法所持で逮捕されたことにより頓挫した。
彼女が20代の大半を費やしたバンドは解散となり、
ブログをやっていた彼女が非難の窓口となってしまった。
どん底の失意の中で本当に自分のやりたいことは何かと問いかけ続け、
時間をかけて見出したのは「子供を楽しませたい」という事だった。
彼女は子供向けのコンサートを企画するようになり、
子供ではないが少年の心を捨てられない僕とその仲間も何度か足を運んだ。
そんな中彼女が思いの先に辿り着いたもう一つの境地、
それが子供と一緒に踊るオリジナルダンスだった。
当時フィラデルフィア在住の映像作家と共同でプロジェクトをスタートする。
その名も「Peekaboo Dance Project」
「ピーカーブー」とは「いないいないばぁ」を意味する。
アメリカでレコーディングし、ビデオを制作し、
日本では大きな公園で子供を集めてピカブーダンスを踊る活動を始めた。
映像作家Naokoによるモンタージュビデオ
僕も時間の許す限りカメラ係として参加させてもらった。
キッズライブとピカブーダンスの活動はkyonが第一子を出産する
直前まで不定期に行われた。
丁度僕が映像を作り始めたときに彼女が出産後最初のキッズライブを
六本木のスターバックスでやるというので撮影に行った。
僕が日本を出る直前にも彼女と第一子を訪ねた。
それから実に2年の年月が経った2017年の年が明けた頃、
kyonからメキシコにいる僕に連絡があった。
「私、メキシコにピカブー踊りに行ってもいいかな?」
かねてから彼女の活動をサポートしたいと考えていた僕には嬉しいサプライズだった。
今の僕になら言語と映像製作の二点で力になれる。
彼女がメキシコを選んだ経緯について説明する必要がある。
第一子の育児が落ち着いてきたので、彼女は夫と第二子を検討し始めた頃だった。
多忙な彼女の夫がゴールデンウィークに休暇を取れることになった。
しかし彼にとって休暇とは個人的な楽しみのために使うものではないようだ。
「君のやりたいことをやって欲しい」
つまり「再び妊娠期間を経て出産、そして乳幼児の育児が始まる。
その前に、休暇中自分が子供の面倒を見てるから好きなことをやって欲しい」と。
こんな事を言う亭主が存在するなんて世の妻たちは驚愕するだろう。
全くもって彼女の夫ほどの人格者を僕は知らない。
夫にそう言われた彼女がやりたいことは
やはり自身のライフワークであるピカブーだった。
そして友人がいる海外の国の中から僕のいるメキシコを選んだのだった。
「ピカブーを世界中の国でそこの言語でやりたい」
いつかそんなことを話していた。
あれから何年経っただろう、現実にする時が来たと思った。
kyonから連絡があってから時間は十分にあったものの、
僕は優先すべきとても大事な仕事とぶつかってしまい、
準備に時間を充てることが出来なかった。
準備というのはPeekaboo Dance の歌をスペイン語に翻訳し、
レコーディングすることだ。
kyonは「日本語でもいい」と言ってくれていたが、
それが出来るのと出来ないのでは成果が大きく違う気がしたので、
個人的にこだわりたい部分だった。
まず僕が自分で日本語からスペイン語に翻訳し、
メキシコ人に添削してもらった。
CASA KASAに時々出入りしているイツェルとヘオルヒナの姉妹が添削してくれた。
結果僕が考えた箇所はほとんど変えることになった、翻訳は難しい。
彼女らのおかげで歌詞は出来たが、
スペイン語圏の子供向けの歌を歌えるボーカリストは見つけることが出来なかった。
知り合いのボーカリストの声はアダルト過ぎたのだ。
結局日本人のボーカリストに頼んでレコーディングを行い
なんとかkyonが来る直前にスペイン語バージョンの歌を準備できた。
時間的に完成度を追求することは難しかった、
あくまで形にするということにこだわった結果だ。
2017年 5月初旬 San cristóbal de las casas,México
標高2100メートルに晴れ渡る空。
正午を過ぎた頃僕は、最高に気持ちのいい気候の街を
バスターミナルまで歩いて向かった。
着いてすぐにバスターミナルの入り口にバックパックを背負った
オロオロしている小柄な日本人を見つけた。
「キョンちゃん」と声を掛けると
僕を見た瞬間に大きな瞳に涙をにじませる。
「うえぽ~ん!」(僕の姓は上田なので東京での通称はうえぽん)
ハグをしながら子供を励ましてるみたいだな、と思った。
「ここまでもう大冒険だったんだよ」
「そうなの?前にアメリカとかカンボジアとか行ってたじゃん」
「あんなの他の人に連れて行ってもらっただけだよ。
私、メキシコに一人で来れたよ~!」
「うん、やれば出来るもんだね」
ちなみに彼女は僕の四つ年上である。
早速タクシーでCASA KASAに移動し、この宿の仲間たちに彼女を紹介した。
その後街を案内しつつ、2年半の出来事を報告し合った。
積もる話は尽きず、宿に戻って夜まで談笑した。
翌日は偶然にもメキシコの子供の日だった。
イツェルが児童公園に子供がたくさん集まるとの情報を教えてくれていたので、
僕らは昼過ぎに児童公園へ繰り出した。
児童公園に着くと本当に多くの子供が遊び回っていた。
メキシコでは英語が出来る人間は非常に限られている。
数字すら通じない中でもkyonは全く臆することなく主に日本語で話しかけていた。
多少通訳を手伝ったが、言葉はあまり重要ではないように思えた。
子供達は少額の硬貨を手に「自分の名前を日本語で書いて欲しい」と次々に訴えていた。
kyonは「お金はいらないから一緒に踊ろう」と答えた。
何も難しいことはない、音楽をかけて踊りだせば
子供達も一緒になって体を動かし出した。
何せ広い公園だ。
いくつか場所を変えてダンスをしていると
誕生日会をやっている大きなグループに出くわす。
やはり女の子の方がダンスに興味があるようで、
天使たちはピカブーダンスを楽しみ、大人たちは微笑ましく見守っていた。
この日の取れ高は十分だった。
翌日再びkyonに街を案内しCASA KASAに戻って”動物タイム”の撮影をしていると、
よく日に焼けた大柄な青年が興味を持って話しかけてきた。
名をケンタと言った。
なんでも、日本で女友達とアイドルのダンスを完コピして
ビデオを作ったりしていたという。
これは打って付けだった。
「はい、やります。僕はなんでもやりますよ」
彼は二つ返事でピカブーダンスビデオへの出演を承諾した。
それにしても「なんでもやる」とは中々言い切れるものではない。
強い精神力を持っているのだろう、と感心した。
軽くリハーサルをして早速日が暮れた繁華街へ繰り出した。
ケンタは歩きながら動画を見てピカブーダンスを予習していた。
ビデオの編集するに当たって実はすごく彼に助けられた。
子供達に難しいパートの部分を彼の踊った素材でカバー出来たからである。
ー翌日。kyonのメキシコ滞在の最終日だ。
僕らは「せっかくメキシコまで来たんだ、
何かもっと撮れる素材はないものか」と模索していた。
僕はCASAKASAの仲間たちに一連の活動をどう思われているか、
みんなに協力を頼んでもいいものかどうかがわからなかった。
いい歳した大人が真剣に「いないいないばぁアニマルダンス」を踊るのは
クレイジーな事だと客観的に自分たちを見ることも出来るがゆえに。
しかし、話して見るとみんな次々と協力を申し出てくれた、むしろノリノリだった。
楽しんでる人たちの仲間には入りたいものだ、これもkyonのバイブスが成せる人徳というものだろう。
晴れた日のCASAKASAのテラスは最高のロケーションだ。
みんなで和気あいあいと撮った最高の画でオープニングとエンディングを飾った。
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kyonの大冒険はあっと言う間にエンディングを迎える。
バスターミナルで再会の時と同じように涙ぐむ彼女とハグをした。
本当によく泣く人だ。
彼女は空港行きのバスに乗り込んだ。
はるばるメキシコまでピカブーを踊るために来て、
本当にそれだけをやって帰って行った。
こんなふざけた大人が今日の世界を平和にしているのかもしれない。
思い立ったが肩書き
ラテンアメリカに「ラウラ」という名前は多い。
この街で僕が知っているラウラはアルテサナ(手工芸職人)である。
マクラメという蝋引き糸で模様を作る手法で、
彼女の場合は天然石を蝋引き糸で包み込み、
その周囲に模様を装飾してアクセサリーを作る。
少し背は高くウェーブがかった艶やな黒髪、
いつも微笑んでいる柔らかい雰囲気のコスタリカ出身の綺麗な女だ。
いつか僕が失恋した時に
「しばらく悲しい時が続くけどまた幸せな時が来るわ、大丈夫よ」
と優しい声を掛けてくれて少し泣きそうになったことがある。
しかし、その少し後で彼女自身もまた恋多き女だったことを思い出した。
時々世の男を泣かせているに違いない。
そしてその恋多き女は
この街ではちょっとした”顔”だ。
2017年 3月中旬 San cristóbal de las casas,México
当時僕は日本で有数のマクラメアーティストと
マクラメレッスンDVDを作る仕事をしていた。
クライアントからDVDの映像特典用に
「実際にマクラメで生計を立てているアルテサナのインタビューを入れたい」
という要望があった。
僕の頭にはすぐラウラが浮かんだ。
「ラウラって娘がいるんだ、彼女に頼んでみるよ」
と言って束の間、歩いていたら早速路上でラウラと会った。
交渉すると彼女は二つ返事で了承してくれた。
後日僕たちは彼女が仲間と共同運営している店を訪れた。
彼女は英語が堪能で実に順調にインタビューは進んでいったのだが、
非常に興味深いやり取りがあった。
ーマクラメ以外に仕事はしていますか?
「えぇ、時々ミュージシャンもやっているの」
ん?僕は多少違和感を覚えた。
彼女の音楽への道はまだ始まったばかりだと知っていたからだ。
しかしそれは僕が日本人だからであり、ラテンアメリカの人々との感覚の違いであるとのちに気付く。
ホドロフスキーという映画監督の作品「エンドレス・ポエトリー」では
主人公アレハンドロは「詩人になりたい」と思い立ち、詩を作ってすぐに
「僕はアーティストで詩人です」と名乗るようになる。
日本人なら名が知れているか、生計が成り立っているかを基準に職業を名乗るだろう。もしその基準にラテンアメリカの人を当てはめたら多くの人が職業を名乗れなくなってしまうに違いない。
なりたいと思ったらすぐになれる。
自分でそう思って行動して自信を持って名乗ればいいだけのことだった、
実にいいことを知った。
以降、僕も自分をアーティストだと自負することにした。
ラウラは「音楽についてはどういう活動をしているの?」という問いに対して
「路上で気の合った仲間と気ままに演奏しているわ」と答えた。
そして「そういえば今度向かいの店でライブがあるんだけど来ない?」
と僕らを誘ってくれた。
僕は「無償でインタビューを受けくれたからには
ライブのビデオの一つでも作ってお返ししようじゃないか」と思い立った。
ライブの日、会場のレストランは多くの客で賑わっていた。
演奏者は全員女性で、ラウラの他に一人知っている顔があった。
名はマヌー、役者や踊りもやる芸達者なブラジル人だ。
この日はフルートを担当していた。
ラウラはカホンを演奏するようだった。
「もう本当に最近始めたばかりじゃないか」と思ってドキドキした。
小さいスペースに客はすし詰め状態で大いに盛り上がっていた。
ステージに立っている娘たちは日頃からみんなに愛される人気者ばかりだ。
何が大切か、それはどこにいても何をしていても普遍のものである。
そんな気づきをくれるコンサートだった。
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アーティストは毎夜革命の夢を見せる
「かくめい」
その噂を耳にしたのはサンクリストバル・デ・ラスカサスに着いて間もない頃だった。
ソーシャルヒッピーを名乗る鯉谷ヨシヒロ氏が主催のプロジェクトで、
何やらメキシコで馬に乗って移動するコミュニティの立ち上げに参加したということだった。その実態を説明することは難しいが、メキシコ、日本のエコビレッジを中心に次々と企画を立案し、それらを通して新たなライフスタイルを提案している。
詳しく理解できなかったが、ざっくり面白そうだなと興味を持った。
ちなみにここメキシコにはエコビレッジが各地に散見される。
僕もサンクリストバルから車で3時間ほどのところにあるハオメッカという
エコビレッジでドキュメンタリービデオを作ったことがある。
それから2年が経過した2016年12月。
この年はお隣の国グアテマラでコズミックコンバージェンスという野外カウントダウンフェスでの招待国が日本、
つまり日本人は入場無料ということで話題になっていた。
世界一美しいとも言われるアティトラン湖のほとりで迎える新年は格別だろう。
そのイベントに出演する日本のアーティストがキャラバンを組んで、
メキシコを首都からツアーしながら東へ、グアテマラを目指すという。
その名も「かくめいキャラバン」
企画者はかくめい主催の鯉谷氏だ。
そしてキャラバンは我が街サンクリストバル・デ・ラスカサスにも立ち寄ることになり、
この街で時々ライブをやっている僕らのバンドが彼らとのイベントをブッキングすることになった。
イベント会場はいくつかの候補の中からWAPANIというカルチャースペースに決まった。
この街で最もディープな、僕の大好きな場所である。
2016年 12月下旬 San cristóbal de las casas,México
イベントが近づいたある日、バンドのリハに行く途中の繁華街にて
個性の突出した日本人女性を見かけた。
服装からしていかにもアーティストっぽい雰囲気を持った親子連れだったが、
僕の連れは「今度イベントやるんで良かった来て」と言ってフライヤーを渡した。
案の定女性は
「これ、私出ますー」
と答えた。
出演者のデータはもらっていたが、一人だけ音源もビデオもない謎のベールに包まれた
女性アーティストがいたのだ。
「ええとお名前は・・・」
「kinaです」
「やっぱり!」
手元にあったプロフィールが過激だった(妊婦の時の裸体の写真)のでどんなエキセントリックな人かと想像していたが、至極まともな柔らかい受け口の印象を受けた。
「娘ちゃんも可愛いねー」
連れが彼女の子供に話しかける。
「息子ですー」
「男の子!?」
未だ声変わりする前で、線は細くつややかな髪は長い。
中性的で綺麗な顔立ちだった、少女と間違えるのも無理はない。
彼女らと別れて遊歩道を歩いていると、映像で見たことのある
ハットを被り黒縁メガネをかけ、派手なシャツの男を発見した。
かくめいキャラバンのアーティストだ。
「Kenta Hayashiさんですね」
彼はループマシンを駆使してソロで重厚な音の波を作る。
フジロックにも出演経験のある、世界で活躍する有名なギタリストだ。
また近々改めて打ち合わせしましょうと話して別れる。
さらにセントロの広場にて写真で見たことのある家族連れを発見する。
「工藤さん」
アーティスト工藤真工一家だ。
愛娘のアリちゃんを肩に乗せ、細君と仲睦まじく歩いていた。
彼はプロジェクションマッピングとDJのアーティストとしてツアーに参加しているが、
作曲やアニメーションだけでなく、デザインや漫画まで描けるスケールの大きいクリエイターだ。前述した「かくめい」のウェブデザインやPVなども手がけている。
さらには熊本県でエコビレッジ「サイハテ」を発起して現在に至るまで継続している。
僕にとっては自分のやりたいことを全てハイレベルで実践している尊敬に値する人物である。
工藤真工の手掛けたサイハテのビデオ
この日は出会さなかったが、この3組に加えもう一人のアーティストがキャラバンにいる。
パーカッション、ディジリドゥ、ハンドパン、ハープ、ウォータードラムを駆使する
波動ビジュアルサウンドアーティストという壮大な肩書きのAki-ra sunriseだ。
自然と調和するようなオーガニックな音は聴くものを時にリラクゼーションへと導き、
時に地球のバイブレーションと一体化させてくれる。
彼らの日程に1日余裕があったため、サンクリストバルの日本人との顔合わせを兼ねて
川辺でのピクニックをすることになった。
Aki-ra sunriseとKenta Hayashiがカリンバとギターでセッションを始めたので、
その演奏をベースにごく簡単なビデオを作った。
※恥ずかしながらpicnicの綴りに誤りがあります。
イベント当日、僕は人知れずトラブルに見舞われていた。
会場でいつもメインで活動しているスタッフ2名が休暇でいなかったのだ。
残されたスタッフはいつも調理や接客はあまりしていない、
カウンターの中でオロオロしているじゃないか。
そのせいでイベントのことは一切段取られておらず、
僕らの収益になるはずのドリンクの材料が無かった。
「何が必要なんだ?」
「ポッシュ(地酒)と砂糖があれば出来る」
「わかった、探してくるよ」
僕が呑んだくれで本当によかった。
行きつけのポッシュを売っている民家でポッシュを購入して急いで戻った。
「ポッシュと、砂糖、これでどうだ!」
僕はどかっとカウンターの上に品物を置いてドヤ顔をした。
「完璧ね!」
ネグラが出勤していた。「黒い女」を意味するショートカットの美女だ。
賢明で働き者の彼女ならなんとかしてくれるだろう。
オープンにはギリギリ間に合った。
イベントはコスタリカ人ウィスのマントラに始まった。
Aki-ra sunriseも飛び入りでジャンベで参加した。
そして遂に解かれるヴェール、kinaのパフォーマンス。
正直もっとヨーコ・オノみたいな前衛的なものを想像していたが、
むしろとても高度な楽曲で、独特の雰囲気にはカリスマ性さえ感じた。
工藤真工のプロジェクション・マッピングとの相性もすごく良かった。
Kenta Hayashiのパフォーマンスは圧巻の一言に尽きる。
流石に世界中で多くのライブをこなしているだけあった。
楽曲のセンスも最高だ、僕は一目で大ファンになってしまった。
かくめいキャラバンと僕らは翌々日にも急遽別の会場でイベントをやった。
そこはアトリエで、当然コンサート用の設備など何もない。
しかしミュージシャンたちは臆するどころか
「ここ面白い!」と言ってみんなそれぞれに自らの演出を手掛け、
自分の空間に変えてしまったのだ。
彼らには真のアーティスト魂を見せられた。
小さな街で中1日を空けてイベントが行われたが、
僕の懸念を覆しての大盛況だった。
そうしてかくめいの芸術家たちはサンクリストバルを去り、
グアテマラへと旅立って行った。
彼らと共にアティトラン湖で新年を迎えた人々は最高だったに違いない。
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