『平家物語』のカタログ | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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 萩の花、尾花葛花、なでしこが花、をみなえし、また藤袴、朝顔が花

 

   上の短歌は〈五七七〉を繰り返す「旋頭歌(せどうか)」という詩型で書かれています。ただ単に、秋の7種類の山野草を並べただけの和歌ですが、『万葉集』(第8巻)にも収められている奈良時代初期(700年代初頭)の歌人山上憶良による作品です。それは、秋の七草を詠んだ歌ですが、春の七草を詠んだ「せり,なずな,ごぎょう,はこべら,ほとけのざ,すずな,すずしろ,これや七草」と、南北朝時代の四辻善成(よつつじのよしなり)(異説あり)が詠んだと言われている和歌の方が馴染み深いかも知れません。このように、同じ種類の固有名詞を羅列して詩的効果を創出する技法を、西洋文学では「カタログ」と呼んでいます。「商品カタログ」や「カタログギフト」などの語源です。『秋の七草』の詩歌でも分かるように、文学的表現様式としては、直喩法と同じくらい原初的な技法だと言えます。

   「カタログ」という文学的技法は、短歌や抒情詩で使われるときは「洒落」とか「遊び心」というものが感じられます。しかし、叙事詩の中で使われるときは、英雄や神々や偉人の名前などの固有名詞を列挙することによって、勇猛さや威厳を創出することに役立ちます。日本文学においては、『万葉集』と同じ時代に書かれた『古事記』において、カタログ技法は効果的に使われています。その神話叙事詩の『上つ巻』の本文は、次のように書き出されています。

   『古事記』は、八百万の神々の名前の列挙とそれぞれの神にまつわるエピソードから成り立っていますので、典型的な「カタログ文学」に分類することができます。『古事記』を叙事詩と呼ぶことには抵抗を感じる学者がいることは確かです。しかし、古代ギリシアのヘシオドスによって書かれた『神統記』と比べれば、その疑問は解消されることでしょう。

 

   そこ(ヘリコン山頂)から、彼女(ムーサ)たちは出発して、濃霧につつまれ、とても美しい声を張り上げながら夜の中を進んでいた。彼女たちが賞讃する神々は、神楯(アイギス)を持つゼウス、黄金のサンダルを履いて歩くアルゴス(=ギリシア)の女王ヘーレー、神楯を持つゼウスの娘御で輝く眼をしたアテーネー、ポイボス・アポルーン、射手アルテミス。そして大地を支え大地を揺るがすポセイダオーン、威風堂々たるテミス女神、常に瞬きを繰り返しているアプロディーテ、黄金の冠をかぶったヘーベー、見目麗しきディオネー、そしてレートーにイアペトスに手練手管にたけたクロノスに、ヘーオースに巨大なエーエリオスに輝かしいセレーネー、そしてガイアと巨大なオケアノスに真っ黒なニュクス、そして他の不死にして永遠に存在し続ける聖なる種族(をムーサは賞讃した)。   (ヘシオドス『神統記』9~21、筆者訳)原文解読は文末の「添付資料1」。

 

   古代ギリシアの『神統記』はわが国の『古事記』と同様に、神々の名前の列挙と神話と呼ばれるその神々のエピソードを描述したものです。すなわち、「神々のカタログ」を文学にしたものなのです。それでも、その表現に使われている詩型がホメロスと同じヘクサメトロス(長短短六歩格)なので、『神統記』は叙事詩なのです。

 

ホメロスのカタログ

   西洋叙事詩の中で最も有名なカタログは、『イリアス』の中に存在している「アカイア軍船のカタログ(Catalogue of Achaean ships)」と名付けられている箇所です。そこでは、トロイア遠征に参加したギリシアの武将たちの名前が列挙されています。そのカタログは「第2巻」の484行目から759行目(または815行目)までの300行ほどを使って記述されています。さらに、そのギリシア軍のカタログに続いて「トロイア同盟軍のカタログ(Catalogue of Trojan allies)」が62行ほど続いていますので、その巻の半分以上がその技法で占められています。ホメロスのその部分はカタログ文学の原点なので、少し詳しく見ておきましょう。

   「アカイア軍船のカタログ」は、まず詩神ムーサへの次のような「祈願文 (invocation)」から開始されます。

 

   さあ、私に告げてくれ、オリュムポスに住まいを構えるムーサたちよ。――なぜなら、あなたがたは、女神なのだから、その場に居合わせ、すべてを見知っていたから。しかし、我らは報告を聞くだけで、何も確かめることはできないから――ダナオイ勢の指導者たちは誰、首領たちは誰であったか告げてくれ。たとえ舌が十枚、口が十個あっても、疲れを知らぬ声や青銅の心を私が持っていても、オリュムポスに住むムーサたち、すなわち神楯を持つゼウスの娘たちが、イーリオスに来た者たちを告げてくれないならば、この大軍勢では、私にはとても語ることも、名前を挙げることもできないであろう。いざ、告げてくれ、軍船の首領たちを、また船の名を。  (ホメロス『イリアス』第2巻、484~493、筆者訳)原文解読は文末の「添付資料2」。

 

   ムーサたちへの祈願が終わると、いよいよトロイア戦争に遠征してきたギリシアの武将たちとその出身地が紹介されます。最初に紹介されるのは、ギリシアの中心地域であった「ボイオティア」の武将たちで、次のように記述されます。

 

   ボイオティア勢を率いる将軍は、ペーネレオースにレーイトス、それに加えてアルケシラオスにプロトエーノールにクロニオスであった。その将軍たちが率いているのは、ヒュリエーや岩の多いアウリスやスコイノスにスコーロスや山岳の国エテオーノス、さらにテスペイアにグライアと広い舞踏場を持つミュカレーソスを所領とする者たち。はたまた、ハルマ周辺やエイレシオンやエリュトラスを領有する者たち。さらにまた、エレオーンやヒューレーやペテオーンを領有する者たち、またオーカレエーや立派に建造されて国メデオーンを領有する者たち、さらにまたコーパイやエウトレーシス、そして鳩が棲息するティスベーとコローネイアと牧草豊かなハリアルトスを領有する者たち、そしてまたグリーサースを領有する者たち。はたまた立派に建造された国ヒュポテーバイを領有する者たち、神聖なオンケーストスを所領とする者、麗しい森の都ポシデーイオスを所領とする者、また葡萄の房も豊かなアルネーを領有する者、またミデイアやニーサに国境の神聖な国アンテードーンを領有する者たちがいた。そしてその領主たちを乗せて五十隻の軍船が来ていた。そして、それぞれの船には、ボイオティアの百と二十の若武者が乗り込んでいた。  (ホメロス『イリアス』第2巻494~510、筆者訳)原文解読は文末の「添付資料3」

 

ボイオティアの古地図

   『古事記』においても、その中で描かれている内容の史実性と虚構性については問題にされます。それと同様に、ホメロスのカタログに関しても、その記述の歴史的信憑性が議論されてきました。そのカタログを精読して遠征軍の総勢力を算出した結果は、派遣国は29カ国、指揮官は46人、軍船は大小合わせて1186隻、総勢力は約14万人ということになっています。しかし、その多くの固有名詞は、現在においても未確認のままです。たとえば、上に添付しました「ボイオティアのカタログ」には5人の指揮官名が記述されています。アルケシラオスとクロニオスは、第15巻(329~342)に一度だけ登場して、ヘクトルに殺害されます。また、プロトエーノールは、第15巻に同じく一度だけ登場して、トロイアの武将プーリュダマースに槍で刺し殺されます。他の二人の指揮官ペーネレオースとレーイトスは、このカタログに名前が出るだけで物語の中での登場はありません。さらに、地名に関しても、現時点で場所が明らかになっている所もあれば、推測されている所もあります。しかし、アウリスやエテオーノスやエイレシオンやアルネーなどはまったく所在が判明しておりません。もしかすると、架空の地名であったかも知れません。

 

カタログ技法に否定的な意見

   武将の名前も地名も歴史的根拠のないものであるならば、叙事詩のカタログという表現法に疑問を投げかける研究者もいます。優れた人が間違えることを「弘法も筆の誤り」と言いますが、英語では「ホメロスでさえ、時には居眠りをする(Even Homer sometimes nods)」と言います。ホメロスは、もう一つの叙事詩『オデュッセイア』においても、冥界を訪問したオデュッセウスの面前に現れた神話上の女性が列挙されている「名婦のカタログ (Catalogue of Heroines)」(第11巻225~327)というカタログ箇所があります。また、ウェルギリウスも、ホメロスを真似て彼の『アエネイス』第6巻の「冥界訪問譚」を長大なカタログ形式に仕立て上げています。さらにまた、英国の叙事詩人ミルトンも、アダムとイブを楽園から追放するために派遣された天使ミカエルが人類の未来をアダムに示す場面(『失楽園』第11巻と12巻)を、大小さまざまなカタログの集合体に仕上げています。後世の詩人たちは、ホメロスを真似て多種多様なカタログを自作の叙事詩の中に挿入しています。にもかかわらず、多くの研究者たちは、両カタログとも「ホメロスも筆の誤り」だと評価しています。なぜならば、カタログで描述されている内容が作品の本筋から遊離していて、芸術的にも無駄な要素である、とそれらの研究者は評価したかれです。またさらに、偉大なホメロスが芸術的に劣った詩行を創作するはずがないので、カタログは後世の詩人によって贋作され、現在の箇所に挿入されたと主張する研究者も多くいます。とくに、前述しましたように、ホメロスの次世代の詩人ヘシオドスにはカタログ形式の詩が多いことを根拠にして、その改ざん者を、彼の影響をうけたボイオティア学派の詩人であると帰結しています。

   多くの学説の中でも、私が最も賛同している意見は、古典学者バウラ(C.M. Bowra)の説です。彼の説を要約すれば、次のようになります。「アカイア軍船のカタログ」の中で描写されているギリシア軍の規模とその武将たちの重要度だけではなく、歴史的記述に関しても作品本体とは相違しています。そして、カタログに描かれた時代は作品本体に描かれた時代よりも以前ですが、ホメロスはその両者の不一致を承知の上で、カタログ技法を高く評価していたので自分の詩の中に取り入れたのです。すなわち、バウラ自身もカタログ技法を高く評価しているので、ホメロスのカタログ表現を肯定的に解釈しているのです。

 

ダンテのカタログ表現

   西洋叙事詩の中で最も優れたカタログの使い手はダンテであると言っても過言ではないでしょう。その中で最も感動的なカタログは、『地獄篇』の中の「辺獄(リンボ)」で描かれた賢者たちの目録です。

   地獄を巡礼するダンテは、ウェルギリウスに先導されて辺獄に入ります。そこで、ダンテは、先導者からホメロスとホラティウスとオウィディウスとルカヌスの四人の古代の詩人を紹介されます。その後、ダンテを交えた六人の詩人たちがさらに奥地へ進むと、見通しの良い高台に辿り着きます。そこから、次々に現れる偉人たちを眺めて、次のようにカタログ技法による描写が行われます。

 

   まっすぐ向こうの方の綠のエメラルドの広場に、偉大な霊魂たちが私の視界に入ってきました。そのとき見た光景を、私は今でも光栄に思っている。

   私は見た、大勢の伴を連れたエレクトラを。その集団の中に、ヘクトルとアエネアスを、また猛禽のような眼をして甲冑で身を固めたカエサルがいるのが見て取れた。また私は見た、カミラとあのペンテシレイア。そして、別の場所にいるラティヌス王を見た。王は娘ラウィーニアと一緒に座っていた。

   私は見た、タルキヌスを追い払ったブルートゥスと、ルクレティアとユーリアとマルキアとコルネーリアを。そしてその集団の中でサルディンが孤独にしているのを私は見た。

   その後、目を少し上げたとき、知識を持つ人々の師範と呼ばれる人(アリストテレス)が、哲学の一門の中に座っているのを私は見た。誰もが彼を注視し、誰もが彼に敬意を表していた。その時、ソクラテスとプラトンを私は見た。その二人は、一門の者たちの先頭に立ち、また師範の一番近くに位置していた。その者たちの中に、世界は偶発によって創られると想定したデモクリトスの他に、ディオゲネス、アナクサゴラス、ターレス、エンペドクレス、ヘラクレイトスそしてゼノンがいた。そしてまた、私は見た、(薬草の)性質を見事にまとめた人ディオスコリデスを。さらに私は見た、オルペウスを、トゥリウス・キケロを、リノスを、そして道徳家のセネカを、さらに幾何学者ユークリッドを、プトレマイオスを、ヒポクラテスを、アヴィチェンナを、ガレノスを、そして(アリストテレスの)大注釈書を著したアヴェロエスを。   

     (ダンテ『地獄篇』第4歌118~144、筆者訳) 原文解読は文末の「添付資料4」

 

『ローランの歌』のカタログ

   ダンテの『神曲』は、地獄に堕ちて苦しんでいる罪人たちの名前や、罪を浄めながら天に向けて煉獄山を登る巡礼者たちの名前や、天国でさらに善行を積んで光を増している聖人たちの名前が列挙される部分が多いので、カタログ文学の要素の強い作品でもあります。その中でも上の引用したカタログは、古典学に興味をもつ者には偉大な名前の連続する感動的な場面です。しかし、前述したように、長い直喩はホメロスの影響を受けた古典叙事詩人に固有の修辞法でしたが、カタログは原初的な技法なので、古代フランス語の叙事詩『ローランの歌』にも使われています。ただし、そのフランス叙事詩はホメロスの影響をまったく受けないで創作されているので、創作年代が比較的近いダンテの『神曲』よりも単調で、列挙されている人名の数も十人程度です。その中でも比較的多くの名前が登場している「皇帝(シャルル)は松の木の下に来て、評議をするために諸侯を召集する」という導入文で始まる次のカタログです。

 

   オージェ公とチュルパン大司教、リシャール長老とその甥アンリィ、そしてカスコーニュの雄々しき伯爵アスラン、ランスのテボとその従弟ミロン、そしてそこにジュリエとジュランもいた。その者たちと一緒にローラン伯爵が来た。そして雄々しく高貴なオリヴィエも来た。フランス国の中の千人以上のフランス人もそこにいた。裏切りを行うことになるグヌ(ガヌロン)も来た。害をなすことになる評議が今から始まる。  (『ローランの歌』170~179、オックスフォード版テキストにジェラルド・ブラウルトが付けた英語の対訳からの筆者による重訳)

 

   フランス軍による7年間の進攻によってイスラム教国イスパニアは壊滅寸前になり、王マルシルは偽りの降伏を申し出て、フランス軍本隊を撤収させ、その背後を襲撃しようと企てました。上に引用した詩行は、シャルル(後の初代神聖ローマ皇帝カルロ)大帝がその偽の和議の使者を受け入れるかどうかを協議するために召集したフランス諸侯のカタログです。『ローランの歌』には、この他にも多くのカタログが使われていますが、どれもみな表現形式は画一的で、リズムも単調です。例えば、ガヌロンの陰謀によってフランス本国に撤退する本隊を守護するために、殿軍を務めることになったローランに付き従う武将のカタログが第64歌にあり、次のように描写されています。

 

   ローラン伯爵は軍馬にまたがった。同胞オリヴィエが彼の元に馳せ参じた。ジェランと立派なジュリエ伯爵も来た。オテも来た。ベレンジェも来た。アストルと老武者アンセイスも来た。ルッションの剛勇ジェラールも来た、豊かな大公ゲフィエも来た。 (『ローランの歌』792~98、筆者訳)

 

『平家物語』のカタログ

   ここまで、西洋文学のカタログ表現を一通り概観してきました。それでは、日本文学のカタログ表現に目を向けましょう。先述しましたように、カタログ技法に対して否定的な見方をする研究者たちは、それが作品の本筋から遊離していて、芸術的にも無駄な要素であると見なしています。さらに過激な文献学者の中には、ホメロスの作品には適さないと判断して、自分の編纂本からカタログ部分を削除した者もいたと言われています。それ程までにカタログ部分は本筋から遊離しているために、「アカイア軍船のカタログ」、「名婦のカタログ」、「ラティウム勢のカタログ」などと固有の名称で呼ばれることが多くなりました。まさしくそのような本筋とは遊離した独立の形体を持った西洋古典的なカタログを『平家物語』は備えています。

   『平家物語』の成立過程は十分には解明されていません。通説では、『徒然草』226段で書いている吉田兼好の言葉が正しいとするならば、1200年ごろ信濃前司行長によって「原平家」が書かれとされています。その後、貴族の庭先などで琵琶を片手に歌謡を語ることを生業としていた芸能集団の最も得意なレパートリーとなりました。そして長年(125年以上)に渡り、口承を続けている間に熟成され、検校覚一によって文字によって表された完成度の高い『平家物語』が誕生しました。そして、その時に、わが国では「揃物(そろえもの)」と呼ばれる叙事詩的カタログが作品の随所に挿入されました。しかもその中から特に五つのカタログが、それぞれ独自の名称を持つ独立した章段として完成しました。まず最初に、「巻第三」の中で、平清盛の娘で高倉天皇の中宮徳子が安徳天皇を出産したとき、そのお祝いに参上した33人の公卿の名を並べた「公卿揃」が置かれています。次は「巻第四」に「源氏揃」が挿入されて、平氏打倒の謀反に加わるであろうと予想される源氏武者の名前が、以仁王(もちひとおう)にその謀反を勧める源三位頼政の言葉によって列挙されています。三番目の「揃物」は同じく「巻第四」に置かれていて「大衆揃」と名付けられ、頼政の謀反に荷担して三井寺に集結した武者と僧兵の名前が列挙されています。第四番目の揃物は「巻第五」に置かれた「朝敵揃」で、朝廷の権限を奪おうとしたが、結局は自分自身が滅ぼされてしまった者たちの名前が連ねられています。最後の揃物は、『平家物語』という叙事詩の重要な展開を示す「巻第九」に挿入されている「三草勢揃」です。その章段の中では源範賴と義経の兄弟に率いられて一ノ谷合戦の前哨戦にあたる三草山合戦に出陣する源氏武者たちの名前が列挙されています。その「三草勢揃」は、すべてのカタログ描写の中で最も長く、しかも最も文学的に均整が取れた構造体になっています。

 

三草勢揃はカタログ芸術の傑作

   「三草勢揃」の章段は、全体が六つの詩節(poetic stanza)から構成されています。まず第1詩節は「正月廿九日、範賴義経院參して、平氏追討のために西國へ發向すべき由奏聞しける」という威勢の良い詩句(poetic lines)に始まり、後白河法皇より安徳帝の手元にある三種の神器を無事に持ち帰るよう命令を受けます。そして、第2詩節では視点を福原に陣取る平氏へ急転回して、その模様を哀愁の帯びた調子で次のように描写されています。

 

   この章段は、攻める側の意気盛んな描写を英雄調で書き始めたのち、第2詩節で突然に転調して、滅び行く運命を間近にひかえた平氏側の抒情的で悲哀な調子に変わり、そしてその哀調に満ちた平氏描写が第3・第4・第5詩節にまたがって続いています。まず第3詩節では、清盛追善供養のついでに叙位除目が行われ、清盛の実弟でありながらまだ中納言のままであった教盛に対して大納言への昇進がありましたが、「けふまでもあればあるかのわが身かは夢の中にも夢をみるかな(今日まで生きているとは思えない身で、夢の中に夢を見ているようなはかなさ、官階など思いもよりませぬ:冨倉徳次郎訳)」と、歌で詠んで辞退しました。もはや統治能力のない平氏政権が叙位除目を行うこと自体が虚しい行為ではあるが、平家作者は「舊都をこそ落ち給ふといへども、主上三種神器を帯して、萬乘の位にそなはり給へり。敍位除目行はれんも假事(ひがごと)にはあらず(安徳帝は旧都を落ちたとはいえ、三種の神器を持っているので天子の位に就いているので、叙位・除目を行うことは間違いではない)」と平氏に同情し、その叙位除目の行為に憐憫の情にも似た共感を示しています。そして、次の第4詩節では、まず「平氏すでに福原まで攻め上って、都へ帰り入る」との噂が京都に流れ、平氏の関係者に儚い希望を抱かせていることが述べられます。そして次に、京都にいる梶井宮(後白河法皇第七皇子承仁法親王)から昔の修行仲間であった福原にいる二位僧都専親(二位の尼の養子)へ送られた友情の文と「人しれずそなたをしのぶ心をば傾く月にたぐへてぞやる(月の入る方(京都の西方福原)を、そなたのいるとことかと思い、そなたへのわが友情を月に託すことである:冨倉訳)」という和歌について語られ、「僧都これを顔に押當てて、悲の涙せきあへず」と哀感を覚える調子で詩節を閉じています。最後の平氏描写にあたる第5詩節では、平清盛の嫡孫小松中将維盛が京都に残した妻子を偲ぶ様子が語られています。

   『平家物語』の登場人物の中で、平維盛は妻子への愛情が最も深い武将に描かれています。たとえば、平氏都落ちの章段において、忠度は和歌の師藤原俊成との別れのエピソード(巻第七「忠度都落」)が、そして経正は幼少のころ仕えた仁和寺住職覚法親王を訪れて拝領した琵琶の名器青山(せいざん)を返上するエピソード(巻第七「経正都落」)が語られているのに対して、「維盛都落」は、未練を残しながら家族と別れる情景が語られています。さらに、「熊野参詣」(巻第十)では、死を覚悟した維盛が熊野本宮を詣でて、そこの権現の本地(神として現れる前の仏の状態)阿弥陀如来に浄土への導きを乞い、平氏の嫡流であるにも関わらず、平氏一門の安泰よりも「故郷に留め置きし妻子安泰」を祈るほど家族思いの武将でした。さらにまた、「維盛入水」(巻第十)でも、熊野沖へ舟を漕ぎ出し、入水を覚悟して念仏を唱える矢先に妻子への妄念のために死をためらう様子が描かれています。以上のような妻子への執着心の強いイメージを持つ維盛を、このカタログの平氏描写の締めくくり役に使ったことは、平氏の悲劇性を読者(聴衆)に印象づけるのに効果的な方法であったと評価できます。

   英雄調の源氏描写から始まった「三草勢揃」の章段は、しばらく哀調を帯びた悲劇的で抒情的な平氏描写が続いたのち、いよいよ第6詩節で次のような源氏武者勢揃の勇壮な語り口に入ります。

   この「三草勢揃」は、一つの章段として完成度が極めて高く、哀調を帯びた抒情詩的要素と壮大な叙事詩的要素が調和した理想的な構造体になっています。おそらく、西洋のいかなるカタログよりも優れていると評価することができるのではないでしょうか。また、先述したように、ホメロスのカタログに表現されている人物や出来事が歴史的信憑性に欠けていると言われています。それと同様に、平家学者による『百錬抄』、『玉葉』、『吾妻鏡』などとの比較研究から、「三草勢揃」の記事も歴史的正確さには欠けていることは否定できないことかも知れません。すなわち、カタログの部分は、古典学者クラーク(Howard Clarke)のいう「詩と歴史が一致しない場所(area in which poetry and history collide)Homer’s Readers、235頁」なのです。しかしまた、同じく古典学者のカーク(G.S. Kirk)が主張するように、カタログという詩的箇所は、表現内容を学問的に検証しようとする学者には無駄な部分であるかも知れませんが、吟遊詩人や琵琶法師の謡う物語に耳を傾け、詩人と共に芸術体験をする聴衆には邪魔な存在ではありせん。(Homer and the Oral Tradition を参照)。むしろ、「源氏の総勢五万余騎」などと数字だけでその合戦の規模を表現するよりも、カタログ技法を使って参戦した武将の具体名を列挙するほうが聴衆の感動を呼び起こすのに効果的であることは確かです。

 

『平家物語』の他の叙事詩

『保元・平治物語』のカタログ

   カタログ(揃物)は、文学的技法としては確かに原初的で単純な表現法です。それゆえに、わずか数個の名前を並べただけの表現から、ここで言及した西洋古典叙事詩や『平家物語』で使われている長い表現を備えたものまで、多種多様なカタログが世界各国の多数の文献に使われています。わが国においては、『平家物語』と同時代の作品にもカタログ表現を見ることができます。鳥羽帝の生誕(1103年)から清盛による後白河院の幽閉(1179年)までを描いた『保元物語』は、「原平家」と同じ1220年頃の成立ですが、上巻に際立ったカタログが二個存在しています。一つは反乱者の崇徳帝に味方する公家・武将のカタログで、もう一つは源義朝や平清盛などが率いる討伐軍の武将のカタログです。とくに後者は、「三草勢揃」を上回るほどの長い描写ですが、導入文らしき部分は持たず、また合戦参加者の歴史的記述であるかも知れませんが、文学的技巧を凝らした形跡は感じられません。また、『保元物語』と同時代か僅かに後に書かれた叙事詩『平治物語』は、源義朝が藤原信頼に加担して乱を起こしたが平清盛によって制圧された事件と、その事件後の妻常葉御前と子頼朝・牛若の境遇から頼朝挙兵までを描いた作品です。その上巻には、信頼・義朝クーデター政府による流罪宣告者のカタログと、雌雄を決する合戦に臨む義朝軍と清盛軍のカタログなどが存在していますが、どれも短い表現です。

 

『承久記』のカタログ

   前出の二つの作品よりも後に書かれた『承久記』は、源賴朝とその子頼家・実朝の死後に実権を握った執権北条義時の追討を試みた後鳥羽院が敗れて壱岐へ流された物語と、その後の京都に味方した者たちの顛末を描いた作品です。『承久記』の成立は、1240年から1250年頃だと推測されていますので、『平家物語』がまだ文字化されず琵琶法師の口承に頼っていた時期に相当します。その叙事詩には、先の二つの作品よりも少しばかり進化した叙事詩的カタログが共に「上巻」の二箇所に挿入されています。その巻の中頃に後鳥羽院に味方する京都方の武将名が、また同じ巻の後半に北条義時につく鎌倉方の武将名が羅列されています。

 

『太平記』のカタログ

   ここまで述べてきました三篇の作品は、どれも『平家物語』の四分の一程度の小規模な叙事詩です。しかし、『太平記』は、1340年ごろ、足利将軍家の監督のもと、尊氏の建武式目の制定にも参与した学僧玄慧を監修者として、小島法師など複数の作者が創案を持ち寄り、巷で人気の琵琶法師覚一検校の語る『平家物語』を手本にして創作されたと言われています。多くの学者・詩人が携わったので、『太平記』は全40巻から成る『平家物語』を凌ぐ大作になっています。そしてまた、カタログにおいても、『平家物語』並の表現を備えています。たとえば、巻第三においては後醍醐天皇の命で挙兵した楠木正成と桜山四郎入道の軍に対して北条高時が笠置城へ遣わした鎮圧軍の武将名が列挙されています。さらに、その合戦において敗れて捕らえられた京都方の公家や武将たちのカタログが挿入されています。巻第六には、再蜂起した楠木正成を討伐するために送られた鎌倉軍のカタログがあります。そして、凄絶な場面を想像させるカタログが巻第九にあり、京都六波羅を護る北条仲時が足利尊氏の参戦により敗れて鎌倉へ下る途中、近江の番場で仲時をはじめ432人の武者が切腹して果てます。まず、北条仲時が「早く仲時の首を取って源氏(足利氏)の手に渡して咎を補って」罪を逃れよと家臣に言って切腹すると、粕谷宗秋が「宗秋こそ先に自害して冥途の御先をも仕えらん」と言って真っ先に腹を切ります。すると家臣たちが次から次へと追い腹を切ります。その時に切腹した家臣の名前がカタログ技法で並べられます。157人の武者名が連ねられたところで「是等を宗徒の者(主だった者)として、都合四百三十二人、同時に腹を切たりける」とカタログ表現を結んでいます。なんの技巧も加えられることなく延々と、しかも淡々と、157名の固有名詞が羅列されると、文学でも芸術でもなく、単なる死者の名簿に他なりません。

 

   以上、吟味してきた資料から、『平家物語』のカタログ技法は、わが国では「軍記物」と呼ばれる叙事詩の中にあって、追随を許さないほどの高い完成度と卓越した文学性を備えていることが立証できたと信じます。章段に「揃」の着いているカタログは、「公卿揃」、「源氏揃」、「大衆揃」、「朝敵揃」そして「三草勢揃」の五ヶ所です。しかし、その他にも「揃」の名前を冠していないカタログが多く点在しています。たとえば、巻第7「火打合戦」では越前の火打城に立て籠もる木曾義仲軍のカタログと加賀の篠原に勢揃えした平氏軍のカタログが存在し、また同じ巻の「一門都落」には、都落ちする平氏武者のカタログが挿入されています。さらに、巻第9の「宇治川先陣」には、義仲討伐軍のカタログがあい、また同巻の「落足」には、一ノ谷の敗戦の後に退却途中の戦いで命を落とした平氏の武者たちのカタログが存在しています。カタログ技法を、本筋から遊離していて芸術的にも無駄な要素であると、否定的に評価する西洋古典学者もいることは確かです。しかし、研究者側には不評であっても、世界中の多くの詩人がカタログをこぞって使っていますので、創作者側には魅力的な技法なのです。とくに、吟誦を手段する詩歌には、聴取を惹き付ける効果的な技法だと言えます。

 

添付資料1.『神統記』の原文と解読

添付資料2.『イリアス』祈願文の原文と解読

添付資料3.『イリアス』アカイア軍船のカタログの原文と解読

 

添付資料4.『地獄篇』辺獄のカタログ