東大ガイダンスブログ久し振りに執筆
最近、東大ガイダンスのブログの管理人が変わったこともあり
記事の以来がより詳細に来るようになりました。
今回は『あなたにとってのターニングポイント』
だそうです。
高校生が読むことも考えて、このブログではお決まりのフレームワークというかパッケージ化して文章を書くことを心がけています。
ネガティブなことは書かないようにして、できるだけ希望を感じとってもらえるように。
普段別なところで書いているようなことは書かないようにしてます。
新しい執筆者が育ってきていることだし、もう僕が書く必要ないと思うのだけどね。
それでも依頼が来るのは嬉しいものですな。
三重県から帰る新幹線の中でこの文章は書きました。
最近はメールも含めて、電車の中でパソコンで作業することが多くなりました。
明日は行政法か・・・うーん、もっと腰を据えて勉強したいっす。
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僕にとってのターニングポイント
http://blog.livedoor.jp/todai_guidance/
僕にとっての進路のターニングポイントは2つあると思います
最初が医学部から東京大学へと進路を変更したとき
もうひとつが薬学部から法科大学院へと進学したとき
薬学部から法科大学院への進路変更については今度書くことにして、
今回は医学部から東京大学へと進路を変更したことについて書くことにします。
その方がこのブログの主な読者である高校生にとって馴染み深いですよね。
僕は慶應高校卒業後に駿台市ヶ谷校で浪人をしました。医学部に行きたかったからです。
駿台市ヶ谷校で1年間勉強して挑んだセンター試験は見事に失敗。
前期は医学部に出せますが後期は地方の医学部か東大理2に出願するのがやっと。
結果、医学部は全滅して理科2類に後期に合格しました。
めでたく理科2類をエンジョイしたかというと・・・
医学部への夢をあきらめきれず、仮面浪人してもう1度医学部を目指すことになります。
そこでも失敗してしまい、実質2浪扱いで理2の1年生を過ごすことになったのでした。
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僕の小学校・中学校・高校の頃の夢はお医者さんになることでした。
両親や親戚関係にお医者さんがいたから目指したわけでなく、
ブラックジャックに憧れたのと科学(主に生物)に興味があったからです。
テレビや新聞や書籍やらで医学関連の話があると
『僕もいつかこの分野でがんばることになるのだろうなー』
と、医者になることを夢見て勉強をがんばる男の子でした。
高校3年生以降は本当に身を粉にして努力はしたつもりなのですが・・・・
この少年の夢はかないませんでした。
センター試験に失敗したことと、大学選びでくだらないプライドが捨てられなかったのが原因です。
東京大学に滑り込めるくらいの学力はありましたから、
大学に高望をせずに地方の医学部(東京以外の医学部)に出願すれば、
いくらセンター試験の点数が低くても合格できたかもしれません。
それでも僕は志望大学を下げることが当時できませんでした。
僕以外の受験生も同じだとは思いますが、模試の判定でA判定だったとして
そこからさらに安全なところへと志望を下げることは、勢いだけで生きていた男の子としては
難しいものでした。
それに、自己肯定っぽく聞こえてしまうかもしれませんが
僕がやりたいことは地域医療ではなく医療全体への貢献でしたから、
地方に行ってしまったなら僕がやりたいことはできないのではないかという思いもありました。
『医者になればみんな一緒じゃん』
みたいなことを言う人も多かったですけど、
僕は最終的に地方に行くことを選びませんでしたし、選べませんでした。
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数年経ってから当時を振り返ってみるに、
僕は心の底から医者になりたかったのかというと、
そうではなかったのかもしれないなって思います。
本当に医者になりたいのであれば、どんなに模試の結果が良くてもあっさり安全なところを
受けるでしょうから。
当時の僕には覚悟が足りませんでした。
ただ、もう1つ今になって思うことは
僕は自分で自分に対して他の進路も合っているのではないか?と、無意識に考えていた
部分もあったのではないかなと感じています。
後付けかもしれないですけどね。ほんのちょこっとは他の進路のことを
仮面浪人時代に考えていました。
東京大学教養学部は可能性にあふれている空間ですから、少なくない割合で触発されている部分があったかと思います。
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それでも医学部への夢が崩れたことは自分にとって大きかったです。
なんせ小学校の頃から目指してきてましたからね。
一番悲しかったのはテレビなどで医療関連の情報が流れたとき
『なるほどなるほど、医療ではこんなことが問題になってるのか・・・・・・・
あ、でももう俺には関係なかったんだったな・・・』
と、むなしく考えてしまうことでした。
医学部受験に失敗して、改めて東京大学の1年生として過ごすことが決まった3月。
『僕はどうやって生きていけばいいのだろう・・・特にやりたいこともないしな』
東京大学に合格するなんてとっても贅沢なことなのですけど、
そんな感じで無気力に過ごしていました。
どうしていいかわからないけれども腐ることもなかった僕は、
駿台市ヶ谷時代に慕っていた英語の先生のところを訪れます。
何かヒントをもらえないかと思って。
大島先生という人なのですけど、今も元気にしてらっしゃるといいな。
僕はどうしたらいいのでしょうか?
失敗したとはいえ、全てを出し切ったと感じていた僕は真剣に相談しました。
『自分の中の声を聞き逃さないようにしなさい。その自分の声はとっても小さいものだから
注意していないと聞き逃してしまう。小さいけれども、あるときに必ずささやいてくるから。
耳を澄ませていなさい。そうすればやりたいことはみえてくるよ』
はい、わかりました。
たぶん、こんなような会話をして僕は帰りの電車に乗りました。
『小さい声か・・・』
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その後、僕がどんな学生生活を送ったかというと
前にブログに書いた通りです。
がんばってるとそれなりにいいことがあるんだなーって思いました笑
声を聞き逃さないように、努力することと良い意味で積極的でいること、
この2つを心がけました。
数年間の大学生活のうち、何回か声を聞いた気がします。
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受験生は毎日同じことの繰り返しに思える勉強をしているのでしょう。
楽しく乗り切れるのであればそれにこしたことはないですが、
僕は結構つらかった思い出があります。
もしも耐えられるようであれば、その辛さと向き合って続けてほしいなって思います。
僕は毎日自分の足りない才能と向き合って嘆いては、楽しく過ごしています。
結局は自分の嫌な部分からは逃げられませんから、思い切って向き合うべきです。
向き合い続けることにどんな意味があるかはさっぱりわかりませんが、
僕の中の小さい声は
『それでいい、続けろ』
と言ってる気がするので、嘆きつつも毎日楽しく過ごせています。
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何だか辛気くさい内容になってしまいましたね。
僕にとってのターニングポイントは強制的に訪れました。
本気で闘って負けたことです。
それでも東京大学に拾ってもらえたことへの感謝と、努力できることへの喜びで
今まで楽しく過ごすことができました。
ターニングポイントは過去の自分からのメッセージを未来の自分へと送れる
数少ないチャンスです。
20歳前後の僕は未来の自分にこんなメッセージを残しています。
『僕は一度は終わった人間だ。だから、がんばろう』
手帳に当時愛用していたボールペンで書かれてました。
三重県から帰ってきた・サイエンスアゴラ所感
三重県から東京に帰ってきました。
そしてそのままあのポジションに帰ってきました。
インプリ同期の何人かは名古屋に寄って遊んでから帰るみたい。
うらやましいけど、、、、ちょっと無理だな。明日からに備えることを考えると。
そんなわけで行政法なんかをこそこそやってるわけです。
今回のフィールドワークは期待以上に楽しかった。
これはまた今度じっくり書きたいな。
『現場』が大事とはよく言うけれども、今回は異なるステークホルダーを同時に訪問することで
その重要性がよっくわかりました。
養殖業で働く現場のおっちゃんが飲む缶のデミダスコーヒーブラックがかっこよかったのが印象的でした。
詳しくはまた今度。
あ、それと同期のアマベさんが今度僕の似顔絵(ラクガキ)を書いてくれるらしいので
とっても楽しみにしてまーす
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ちょっと前のサイエンスアゴラの報告レポをば。
ポスター発表の中には法政大学の文系の人々が高校生向けに科学のおもしろさを語るイベントの様子もあった。せっかくなので情報交換をいろいろとしてみたところ、文系の人が理系の人に対する壁というか、文系の人にはどうしても理系に踏み込めない何かがあるみたいなことが印象的でした。
ポスター発表から話は変わって会議室での話に移ります。僕が参加した発表は
①東京大学インプリ生によるアウトリーチ活動
②東京大学理学部の0to1活動
③インプリ4期生が参加した養殖業に関するワークショップ
この3つ。以下順番に。
まず、アウトリーチ活動についてだけれども理学部と工学部が学生集めに真剣に取り組んでいることを初めて知りましたわ。僕が所属していた薬学部というのは進学振り分けの点数がコンスタントに80点を超えていることもあり、放っておいても学生が集まってくる状況が続いております。その一方で、工学部や理学部は進学振り分けの点数をシビアに見ているようで、メルクマールにして学生の注目度というか広報の成果の1つとしている模様。
学部の定員数が大きいこともあるのかもしれないけど、そもそも『広報』が存在すること自体が驚きでした。
あと、東京大学に限った話ではなく工学部人気は下がってきていることを知った。30年前?と比べて工学部希望者が半数になっているそうです。資源がない日本にしてみれば人材に頼るしかないのに、、、という不安があるみたいです。
ちょこっと私見だけれども、人材の育成というか教育の質っていうのは10年以上経ってから初めて効果が出てくるのが難しいよねって思う。目に見えないものに投資をするってのはよっぽど哲学がないとできないことだし。元来、日本は目に見えないものに投資をするのが苦手と言われていますからな。日本は。ポスドク1万人計画はその中で珍しく人材に投資をしたかと思えば、ちゃんど研究職の地位を保障しなかったせいで余りに余りまくってしまい・・・おかげで人材に投資するのに腰が引けてしまったかもしれない。
次に、理学部の大学院生による0to1活動について。理学部の大学院生が高校生にサイエンスのおもしろさを伝える出張授業をしたり、土日に有志で集まってランチセミナーを開催したり、ポッドキャストで研究者紹介を配信したり、かなりアクティブでした。
詳しい内容は割愛するけれども、この団体には僕と昔からの知り合いがおりまして。彼はたしか理科1類で首席だったのかな。彼がいうには『活動としては楽しいけれども、琵琶湖の水をスプーンですくうようなものだよね。抜本的な解決にはならない』
草の根活動の重要性を知りつつも、その言葉は重いものがありますな。
最後に我らがインプリの授業の一環であるワークショップについて。僕のテーブルは意識が高い人が多く、インプリ生が口を挟まずとも議論がサクサクと進んで行きました。ワークショップの反省会は次の授業で行われる予定なので、詳しいまとめはその時に回したいなって思う。
それでもいくつかまとめてみると
・養殖業で抗生物質を与えるのはやはり悪いイメージ
・国が検査をしているとしても、その基準がどれくらい守られているか疑問
・トレーサビリティー(追跡可能性)も最近の偽装問題をみているとどれだけ信用できるか疑問
などなど。
このあたりはこれからの授業でまとめてみたいと思います
。
最後に結びとして。サイエンスアゴラは一般の人にサイエンスのおもしろさを伝えるもイベントというよりも、何らかの形で科学に関わっている人が集まって、お互いに刺激を与えあって、イベント終了後に持ち帰ったことを基により熱心にそれぞれの活動に戻る。そういうイベントだと感じた。つまりは市民によるインプリ学会のようなものだと感じたのである。
おそらく、インプリ活動をしている人であれば誰しもが思っている危機感として、関心を高めるだけに終始してしてはいけない、政府に代表する上級機関を巻き込んでの大きな流れを作らないといけないというものがあると思う。サイエンスアゴラはまだそのきっかけ作りにしかなっていないであろうが、初めて参加した自分としては十分に有意義なイベントでした。どういう意味で有意義だったかというと、関心を持っている人が結構な数で存在する、それを知れたことが自分にとって大変有意義でした。
三重県に行ってきます
サイエンスインタープリターの授業の一環で
土日で三重県の水産総合研究センター(養殖業をやってるところ)に
フィールドワーク+勉強会に行ってきます。
そして今日は他学部・社会人飲み(+慶応飲み)があるので、お酒は控え気味にしないとなと思いつつ
根抵当権について勉強しています。
根抵当権ってすごいですね。
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科学技術ライティングの課題として
サイエンスポータルにリレーで記事を書く?というものが出されました。
お題は『僕の科学事件』だそうです。
理系の進路を選ぶ際の事件をもとに何かを書けと。
下書き的にこんなものを書いてみました。
僕にとっての科学事件・・・これは困ったなーというテーマである。というのもちょうど理科系か文科系かを選ぶときに何がきっかけだったかというとこれといったきっかけはないのだ。僕は虫取り少年だったし、自ら進んで子供向けの免疫や病気の本を読む男の子だったのだ。それに小学生の時点で担任の先生に『理科室で実験やれるのは何年生からですか?』としょっちゅう聞くくらいに理科が大好き。文系の道に進もうと考えたことなんて20秒にも満たないくらいだ。
それでも何とか過去の記憶をたどってみるに、1つだけ考えさせられる出来事が高校時代にあったことを思い出した。それは高校のある先生と面談したときのことである。進路相談をしていて理科系に進むことを告げると『理科系に進んだら出世できないけどいいの?』と言われたのである。ちょっとませた男の子だった僕は文科系じゃないと出世できないことはテレビや雑誌で何となく知っていたけれども、いざ先生にその事実を突きつけられるとちょっとびっくりしたのを覚えている。
その先生の言葉が本当だったとしても、僕は自然科学の『なぜ?』を考える方が合ってると思っていたので、特に気にすることもなく理科系の道を選んだ。
それから10年経って、先生が言っていた意味が少しだけわかってきた気がする。日本はその他の国と比べて経営者や大臣で理科系の占める割合が断然低い。官僚の世界も文系職で入らないと出世できないことが大体は決まっている。博士課程まで研究しても職がない。大学院に進んでその現状を身の回りの友人を通して実感できてしまった。
こんなことを書くと『いやいや、実験することが何よりも楽しみでイキイキと過ごしている博士課程の学生はたくさんいるぞ』そんな声が出てくるだろう。もちろんその通りで、研究が好きで好きで見ているこっちも楽しくなってしまうくらいに研究に没頭している友人も結構な数いる。ただ、強調したいのは僕のような中途半端に科学が好きな人間は研究の現場を離れざるを得ないということだ。
せっかく研究が楽しくなってきたとしても修士で出ないと就職先がないから、博士課程まで行ってもポストがあるかわからないから、結局は文系就職しないと経営サイドに回れないから、そういう理由でちょっと科学が好きなくらいでは居づらい環境が日本の研究現場にはると感じる。要するに、研究でも文系就職でもどちらでもよい人間が文系就職側に流れてしまっているということだ。例えば僕のように。
10年前の僕がアーレニウスの化学にワクワクしたように、今でも書籍部に行くと生化学関連の本に足を止めることがある。いつの間にかTHECELLは第五版になっていて、愛読していたエリオットの生化学も第三版になっていた。パラパラとページをめくってみると高校生の頃と変わらずにワクワクする自分を再認識する。
それでも僕が研究者の道を選ばなかったのは何故だろう。研究以外の分野に自分に適性があったからで片づけてしまってもよいのだけれども、ほんの少しは他の要因がある気がする。
僕にとっての科学事件である先生の一言。それは日本社会における理科系の位置付けをはっきりさせたものに過ぎないし、当時の僕が理科系の道を選ぶことと何の関係もなかった。けれども10年以上経って、それは僕にとって科学事件だったことに気が付く。なぜなら僕はちょうど10年後に理科系の大学院ではなく文科系の大学院に進んだのだから。