トラスト・ミー
監督 : ハル・ハートリー

製作 : アメリカ・イギリス
作年 : 1991年
出演 : エイドリアン・シェリー / マーティン・ドノヴァン / ジョン・マッケイ / メリット・ネルソン

 

 

ハル・ハートリー 『トラスト・ミー』 メリット・ネルソン エイドリアン・シェリー


まあしれっと言うものです、妊娠している、高校は中退する、結婚する。素顔を掻き廻したようなお化粧に素っ頓狂な口紅を塗りつつ(自分の前におっ立てた鏡を見つめたきり)寝耳に水の両親の話など聞く気もなく、このまま家を出て彼の許に行こうというわけです。軽率をなじる親たちに相手はカレッジのフットボール選手で卒業すれば親の経営する会社に重役で迎えられる安泰の未来ですから労せず自分もブルジョワの人生が約束されているとあざ笑います。台所のタイルの上で人生の足裏を冷たくしてきた母親からすればそんな(助走ばかりして踏み切ってもいない)三段跳びで人生のゴールに着地できないことぐらいわかりきってきますが、夢見るものに届く言葉はありません。意気揚々と向かったカレッジではまさにフットボールの練習に駆け出そうとする彼に出喰わしますが怪訝な顔つきからして彼女の登場を予期も歓迎もしていないのはあからさまで、妊娠を告げるや甘い将来の見取り図など蹴散らしてひとり頭を抱え込むと気にしているのは申請したばかりの奨学金の行方だけ、右手にそれ左手でふたりのこと、なのではなく両手いっぱいに奨学金、奨学金、奨学金、彼女の方こそ諸手にそれをぶちまけて男を置き去りに(いまやそうそうにててなし子となったお腹の子供を抱えて)いまさら帰る当てのない家路をひた走ります。一方テレビの組立工場で製品の検品をする青年は喫煙厳禁の職場で一刻たりとこんなところに立っていることが我慢ならない心の憤怒をモウモウたる紫煙に吐き出しながら、彼から見れば粗悪極まる部品にうち震えてテレビを叩き壊しますが、そもそもテレビというものの悪徳に煮えくり返る日頃の思いのままに検査の白衣をこの仕事ごとぐるぐる巻きに放り投げます。しかるに帰宅には早い家路をわが家に辿り着いた青年は先程の憤怒などすっかり萎れた、言わば生きることに息を潜めた眼差しになって玄関の薄暗がりに立ち尽くしています。奥から父親に名前を呼ばれる、そちらに向ける顔には何か灯りを落とした灯台のような従順さがあってその態度の意味も程なくわかります。親ひとり子ひとり、わが家に君臨するこの父は過剰な潔癖さと(まあ愛情の強さを自分でもどう扱ったらいいかわからないまま)とっくに成人している息子をまるで子供のような手伝いとお仕置きで組み敷いていてこのことの異様さを(父親自身が子供じみた父親像にしがみついているためだと重々知りつつ)息子の方が父親に従うことで支えてやっているわけです。そんなヒロインとそんな主人公が出会って親のせいばかりでもない自分たちのいまを見つめるとき、人生が(すでに始まっている時間のだらだら続く道なりなのではなく)何か本のように文字を指でなぞり或いは自分でその文字を書いてみるうちに開いていくものであることを知ります。結末はそれなりに苦いものでありながら、本作を見ていて思い浮かぶのは湾岸戦争から冷戦終結のこの時代に世界が浸っていた幸福感であって何か人類が乗り越えがたいものを漸く越えて(そう第二次大戦の勝利のように戦争という愚行を今度こそ人類は越えるのだという)希望の地平が見えてきて勿論そんなものは気分以上のものではありません(し程なくユーゴの現実がひとびとを人類の重い徒労へと引き戻します)が、確かに分け持たれていたように思います。矢崎仁司監督『三月のライオン』(1992年)、ジム・ジャームッシュ監督『ナイト・オン・ザ・プラネット』(1991年)、オタール・イオセリアーニ監督『蝶採り』(1992年)、レオス・カラックス監督『ポン・ヌフの恋人』(1991年)にしても、おそらくそういう時代の頂点(であり終わり)がウォン・カーウァイ監督『恋する惑星』(1994年)でしょう。幸福感とは信頼であると、結末で自分の許を去っていく未来を見据えるヒロインの瞳それ自体が確かに未来を宿しているのを見るにつけても。
 

 

 

ハル・ハートリー 『トラスト・ミー』 エイドリアン・シェリー ゲーリー・ソーアー

 

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ハル・ハートリー 『トラスト・ミー』 マーティン・ドノヴァン

 
 
 
 

 

 

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