映画(20と)ひとつ、矢崎仁司監督『ストロベリーショートケイクス』
  監督 : 矢崎仁司

  製作 : 日本
  作年 : 2005年
  出演 : 池脇千鶴 / 中村優子 / 岩瀬塔子 / 中越典子 / 安藤政信 / 村杉蝉之介

 


矢崎仁司 ストロベリーショートケイクス 中越典子 岩瀬塔子(魚喃キリコ)


漫画というのは(まあ全く見識のない私の思うところではありますが)いくら長編の物語であっても散文というよりもやはり詩に近い感じがします、それはコマを割るということ、そのコマの間を飛び、紙面を大きく飛び廻ることでリズム(と跳躍)が大きく世界を刻んでいて... 原作は魚喃キリコの漫画です。4人いる女性たちにあっておそらく本人を大きく反映させた役で原作者も出演していて彼女はすでに一定の評価を得ているイラストレータです。そうだけに注文もあっちに振られこっちに振られるその振幅に渾身で応えながら実際は来る日も来る日も白い紙の上で形のない形を何とかものにしようともがき過食と嘔吐を繰り返しながらそう、それは心の底から泣くことも笑うこともできないまま食べては吐いて何とか心を自分のなかに留めていてそうやってまたひとつ作品を仕上げたところで何かあればたかがイラストという出版人の本音にずたぼろにされます。美貌に聞こえた魚喃ですから女優たちの間にあって見劣りすることはありませんがやはり本職とは別口の美人であって(東陽一監督『四季奈津子』の阿木燿子を思い浮かべていただいたらいいかと...)作品に(何かべっとりと広がる)重い浮遊感を与えています。まあ胡乱な話を引き伸ばすのも気が引けますが同じくカットを割ると言っても漫画は映画よりも文章表現に近いように思います、視覚表現ではありますがどんな緻密に描き込んでも映画のひとコマに詰め込まれる情報量に漫画は遠く及びません。基本的に漫画は焦点化と(余白を適当に残す)曖昧さの表現であってこれは言葉の技法と同じです。それに比べるとキャメラとフィルム(或いは撮像素子)が映し出す克明さは主人公の見える限りの肌理の肌理まで、同じ緻密さで背後の椅子、壁、それに掛かった絵まで捉えて... いやあおかしいのは映画の方であってとてもあの映写速度では読み取れるはずのない情報を満載して流れ流れてゆく不思議な芸術です。私が本作でもっとも漫画的な溌溂さを感じるのは4人のひとり池脇千鶴が夜の煙草の自販機の前で隕石を拾う件で(まあ隕石というのも道路にぽつねんと落ちていて何か訴えかけるように押し黙ったその風情に思わず天を見上げたからですが)それ以降部屋の一画で小さなおざぶに鎮座してお灯明も上げられます。そうです、彼女にすれば石を神様に何ごとにつけお祈りせずにはいられません、職業はデリヘル事務所の電話番でそこが即ち女性たちの待機部屋でもあれば性とお金が交差してさまざまに揉み合う人間の心のさまを見ることになります。さて残るヒロインのふたりはその同じ事務所で男の待つ場所に出向く体を商品に生きる女性がひとり(彼女の客がまた多士済々でして小説家よりも演劇人であった頃の戌井昭人を皮取りに高取英、傑作は保坂和志で三島由紀夫ばりに構えこそ豪胆ですが自分で自分の芝居の裾を踏みはしまいかと見ている方がハラハラさせられて)、あとひとりはOLのいまを少しでも結婚へと(ちょうど式のときに放たれる鳩のように)飛び立ちたいと願っては(そこを男からは見透かされ気づけば何らデリヘル嬢と変わらない扱いを受けつつも)健気に望みを抱き続けて... それぞれが女であることの過酷さを生き抜くその向こうに差し込む日差しの、何と朗らかなこと。

 

 

 

 

矢崎仁司 ストロベリーショートケイクス 池脇千鶴

 

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矢崎仁司 ストロベリーショートケイクス 中村優子

 

 

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右矢印 昭和34年11月3日の、夜

 

 

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