気のいい女たち
  監督 : クロード・シャブロル
  製作 : フランス

  作年 : 1960年
  出演 : ベルナデッド・ラフォン / クロチルド・ジョアーノ / ステファーヌ・オードラン / ルシール・サン・シモン

 

 

クロード・シャブロル 気のいい女たち ベルナデッド・ラフォン

 

クロード・シャブロルの語りの巧さに時間がするするとフィルムの形になって過ぎていくようで大きく出来事に波が寄せることもなく映画は心地いいいまを映し続けます。最新の家電製品を売る小さな店には若い女性の売り子が四人いて彼女たちのじゃれ合い縺れ合う日常が追われていきます。そのうちのひとりが(まあここもシャブロルらしく)鋭利な犯罪へと崩れ落ちるためについついそれへと至る犯罪映画的な叙述だと(つまりそれを本筋にしてあとのことは時間的に彩る縁取りに)思ってしまいますが何というか主人公はこの四人の女性である以上にパリの昼そして夜です。(まあこのように書くとジュリアン・デュヴィヴィエ監督『巴里の空の下セーヌは流れる』(フランス 1951年)が弥が上にも思い出されます。ただ戦後の巷をまるでドミノのようにそれぞれが凭れ掛かっては崩れていくあの群像劇のうら寂しさからすると十年経ったこのパリには現実に押し込まれてもそれに収まり切らない若い女性たちのうずうずとした活気が溢れています。その意味で犯罪の結末に吹き渡る荒涼さにも映画は、というよりも若い女性たちはへこたれない真っ直ぐな凝視で見つめ返します。)昼間は四人して家電製品の間で頬杖をついては(男性であったならばまさに鼻毛を抜きながらと形容したくなる陶然とした退屈さで)ただ時間を過ぎるのを待っています。それというのも客など来たこともないこんな店でひとのいい中年女性をレジ係に若い売り子を四人も雇うのも奥に個室を構えては鬱々と寄る年波に腰まで漬かっているような壮年の店主の好みによるもので何かれと暗示を掛けてはそれとなく彼女たちの肩なりと抱こうという下心です。そもそも映画の始まりからしてストリップショーが跳ねた夜の小屋前でしてすっかり胸のうちを火照らせた中年男がふたりご同輩の熱気に送られて小屋から街路に吐き出されると何やら物色していますよ。そうとも知らず夜の面白さに足を絡ませるように若い男女がやってくると(そうです本作のヒロイン4人にその恋人たちでして)目の前で三々五々散っていくのを横目に見ながら中年ふたり組は手頃な女の子を追い掛け廻します。見え透いた魂胆でたらふく飲ませているシャンパンに女の子がトイレにでも立とうものならそれを囃し立てるようなとんだ下衆です。ひとりがそうそうに見切りをつけて帰宅しても酔った勢いで男の部屋までのこのこ付いて行った彼女がどんな萎びた朝を迎えることになったかは言うまでもありません。(まあそんな男たちのとっ散らかった指先ぐらいではどうにもならない若さに彼女は張り詰めていて弾くように男たちの記憶を巷のゴミにしてしまいますが... )彼女だけでありません、四人のひとりは気取った彼氏を持ったのはいいんですが彼の両親とランチを取るのにも彼らのスノッブな気位に何個も高下駄を履かねばなりませんしひとりは生活の無聊を慰めるためにひと知れず見つけた生き甲斐を同僚たちにいつばれるかと内心穏やかでない心地です。そしてもうひとり、茫洋としたいまという時間に吹かれながらそれを切り裂いて自分を奪い去ってくれる力強く誠実なその腕を夢見ながら...

 

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