教科書からの「消え方」というのは、三種類あります。
教科書の改訂は、四年に一回なのですが、その四年に一回の改訂の中で、付け加えられたり消えて行ったりしていくのですが…
第一のパターンは、小学校・中学校・高校、一斉に姿を消す場合。
これは、明確な「誤り」と「新発見」が判明した場合。
印象的だったのは「和同開珎」「長屋王の木簡」「旧石器」に関する記述です。「和同開珎」の場合は「富本銭」の発見で、「最初の貨幣」という記述が消えたました。
すべての教科書が四年後の改訂で一斉に「富本銭」を掲載したのです。
「長屋王邸」の跡の発掘で多数の木簡が発見され、当時の生活などが明らかになったことを受けて、木簡の内容が急激に教科書で取り上げられました。
「旧石器」に関しては、ある考古学者の発掘ねつ造が明らかになったときです。
とくに高校の教科書が受けた“被害”は甚大で、「馬場壇」遺跡をはじめ、国史指定された遺跡などすべて消え失せました…
第二のパターンは、まず小学校の教科書の記述が変わり、それからだんだんと中学、高校と「下から上に」変わっていくパターンです。
これは新発見などももちろんそうなのですが、「読み方」や「説明の仕方」が変わって、誤りでもないので、「この新しい学年」からそのように記述を変化させていこう、という意図がある場合です。
「士農工商」などが典型的な例で、小学校では説明の仕方が変わった、もう教えなくなったが、中学や高校は「まだ」そのまま、という場合も一時期起こります。
ある学年の子が成長していく中で、小・中・高、一貫して説明がブレないように、同じようにするためだと思います。
世界などでは、この傾向が多く、コロンブスの新大陸「発見」が「到達」に変わる、というようなこともありました。
第三のパターンは、高校の教科書の記述が変わり、だんだんと中学、小学校と変化していくパターンです。
学術的な、専門的な内容で、高校生には教えてもよいだろう、という変化があった場合のものです。
で、徐々に、学年を下げて説明して、「様子を見ながら」中学、小学校、へと説明を変化させていく場合です。
「鎖国」は、まず高校の教科書の記述から内容が変わりました。それから「聖徳太子」は、まっさきに高校の教科書で「厩戸王」という表記に変わり、「聖徳太子はいなかったのではないか」という学説を紹介するものも出るようになりましたが、中学・高校の教科書は聖徳太子のままであるケースがほとんどです。
「新説」というのは、また「そうではない」という説も出てくるので、高校での記述で止まる場合があります。
「大和朝廷遊牧騎馬民族説」なども、高校の教科書で書かれて紹介された時期もありましたが、小・中の記述には及んでいません。「聖徳太子いなかった説」も現在はやはり否定されつつあり、おそらくそういうことになりそうです。
さてさて、「元寇」なのですが…
現在、「元寇」という表現は、高校の教科書から消えつつあります。
どう変化しているかというと
「蒙古襲来」
という表記になりつつあります。
実は、「元寇」当時、そして後の室町時代も、そして江戸時代の初期まで、蒙古襲来のことを「元寇」と表現することはありませんでした。
一級史料(当時の記録)でもっとも多いのが「蒙古襲来」で、「異賊襲来」「蒙古合戦」という表記もあります。
攻める側の元の記録では「征東」あるいは「東征」がほとんどで、一つの歴史用語として確立はされていません。
元にとっては、一回目(文永の役)は、南宋攻略のための“牽制”にすぎず、日本遠征というよりも、南宋攻撃の一方面作戦に過ぎなかったからです。
そもそも「元寇」は誰が使い始めた言葉やねんっ と、なりますが、
水戸光圀
が、『大日本史』の中で使用したのが初めてです。
「寇」という文字は、外敵の侵入を意味するものですが、ただ、「掠めとる」「暴れこんできてそのまま帰る」みたいなイメージが強いので、個人的には「刀伊の入寇」や「倭寇」はふさわしい表現だと思うのですが、意図を持った大規模な軍事行動には用いない言葉と思います。
水戸光圀の影響力はさすがに大きく、後の歴史書では「元寇始末」「蒙古寇」などの表現が頻発するようになります。
ちなみに「蒙古」というのは、モンゴル帝国自らが中国語で表記したもので、向こう側でも使用されている用語です。ただし、「大蒙古」と称していましたが…
さて、「元寇」の内容に関しても大きな変化がみられるようになりました。
現在の教科書では、「暴風雨で」元軍が引き上げた、というような説明が少なくなりました。
元側の記録では、「撤退」開始が先で、「暴風雨」が後だからです。
暴風雨で撤退を余儀なくされたのではなく、日本の武士たちの巧みな作戦で苦戦し、撤退を決定した、というのが実際でした。
“苦戦”と言えば、日本が一騎打ちで、元が集団戦法を用いたため、日本側が苦労した、みたいな説明を一時よくしました。
塾の先生なども、おもしろおかしく「やぁやぁ我こそは」と日本が名乗りをあげて、それに対して元は無視して集団で襲いかかった、みたいな「わらい話」にしてしまいがちですが、そんな事実はありません。
その記述は「元寇」の30年近くも後に書かれた『八幡愚童訓』にみられるものであまり信用できません。当時の一級史料では、元の集団戦法を、日本軍の奇襲、ゲリラ戦法が翻弄し、モンゴル得意の大軍事行動を展開させなかった、というのが実際です。(このあたりの詳細は拙著『超軽っ日本史』『日本人の8割が知らなかったほんとうの日本史』を是非お読みください。御家人たちの活躍をたくさん紹介しています。)
暴風雨で退散した、というのは、貴族や天皇の“祈禱”によって元を撃退できたのだ、と自慢する貴族の日記などにみられるホラ話が出展です。
暴風雨による撤退、集団戦法による苦戦、というのは、現在では虚構や誇張であることが判明しているんです。
ついでに、
元寇の恩賞が不十分で、御家人が窮乏し、その窮乏を救うために徳政令が出されたがかえって混乱し、よって幕府への不満が高まって幕府が滅びた、という
「元寇」→恩賞不満→「徳政令」→社会の混乱・幕府への不満→「倒幕運動」
の流れによる説明は現在ではほとんどしません。
こんな簡単なものではないからです。
元寇の前から御家人の窮乏は進展していて、徳政令と元寇は関係がありません。
元寇で幕府が弱体化した、というのは完全な誤りで、むしろ西国にも幕府の実質的支配が及ぶ出来事で、北条支配体制は強化されました。
北条氏の支配強化への不満が、倒幕運動につなかったので、「幕府滅亡元寇原因説」は現在では誤りとされています。
歴史はいろいろな事件の目に見える、目に見えないつながりによって流れていくので、元寇が幕府の滅亡と無関係とは言いませんが、これを強調しすぎてしまいますと、別の事実、もっと大切な部分を見失ってしまいます。
何か一つの明快な原因で歴史が動くことはない、ということですね。
歴史は「単線」理解ではなく「複線」理解が大切です。
気が付けば一年たちました。
第一回が五月十一日、
「武田信玄」「水戸光圀」「徳川綱吉」
で、始まりました。
プロデューサーの奈良井さん、チーフディレクターの堀さんに、初めてお会いして番組のお話しをいただいてからは、一年以上がたちました。
スタッフのみなさんが、みんなで知恵を出し合って、現在のような形になりました。
私は正直、たいして役にも立ってはおりません。
「こういうエピソードがあるんですが…」
と、いろいろ史料を見せてくださいます。「うわ~ ようこんな話、見つけてきはったなぁ~」と毎度毎度感心しています。
第一回の収録のときのことは、今でも忘れていません。
コヤブ歴史堂のスタッフのみなさんは、それぞれの担当に真剣に取り組まれながらも、みなさん明るく笑顔が多い。
音声さんもカメラさんも、みなさんそれぞれに「こだわり」があり、いろいろな撮影やCMや、挿入の画像などの撮影も、時間をかけて妥協がない…
私は、久馬さんとセットの裏にいるのですが、その横にはチーフディレクターの堀さんもいっしょにおられます。
打ち合わせのときは、にこやかに楽しくお話しされていますが、セットの裏では厳しい横顔で番組の進行に神経を集中されています。
ちょっとでも段取りに不満を感じられると、ワイヤレスのマイクで(もちろん小声で)鋭く厳しい指示を出されています。
前にもいいましたが、一つの「作品」は、氷山の一角で、目に見えている番組を支える見えない七割の部分がほんとうにしっかりしているんですよね。
第一回は小泉エリさんと、次長課長の河本さんがゲストでした。
このお二人に限らず、以後、ゲストに来られる芸人さんたちには、ほんとうにプロだなぁ、と、いつも感心しています。
芸人さんたちは、ほんとにその場でテキトーなことを言って笑かしているのではなく、ちゃんと考えて、練られて、どのようにすれば楽しく、おもしろく進行するか、ほんとうによく考えられてるんですよ。
プロの“話芸”にいつも舌を巻いています。
収録が終わると、「おつかれさまでした」と若いスタッフのみなさんが笑顔で声をかけてくださいますが、いやいや、疲れているのはみなさんでしょう、と、いつも思っています。
昨夜、第一回のときのビデオを観て見ました。
今まで、同じように話をしていたつもりだったのですが、声のトーンや話し方がずいぶんと違っています。慣れてきたのかな、と、思う一方で、「慣れ」はそのまま怠慢や手抜きに通じるところ…
初心にかえって、これからもがんばっていきたいと思います。
第一回が五月十一日、
「武田信玄」「水戸光圀」「徳川綱吉」
で、始まりました。
プロデューサーの奈良井さん、チーフディレクターの堀さんに、初めてお会いして番組のお話しをいただいてからは、一年以上がたちました。
スタッフのみなさんが、みんなで知恵を出し合って、現在のような形になりました。
私は正直、たいして役にも立ってはおりません。
「こういうエピソードがあるんですが…」
と、いろいろ史料を見せてくださいます。「うわ~ ようこんな話、見つけてきはったなぁ~」と毎度毎度感心しています。
第一回の収録のときのことは、今でも忘れていません。
コヤブ歴史堂のスタッフのみなさんは、それぞれの担当に真剣に取り組まれながらも、みなさん明るく笑顔が多い。
音声さんもカメラさんも、みなさんそれぞれに「こだわり」があり、いろいろな撮影やCMや、挿入の画像などの撮影も、時間をかけて妥協がない…
私は、久馬さんとセットの裏にいるのですが、その横にはチーフディレクターの堀さんもいっしょにおられます。
打ち合わせのときは、にこやかに楽しくお話しされていますが、セットの裏では厳しい横顔で番組の進行に神経を集中されています。
ちょっとでも段取りに不満を感じられると、ワイヤレスのマイクで(もちろん小声で)鋭く厳しい指示を出されています。
前にもいいましたが、一つの「作品」は、氷山の一角で、目に見えている番組を支える見えない七割の部分がほんとうにしっかりしているんですよね。
第一回は小泉エリさんと、次長課長の河本さんがゲストでした。
このお二人に限らず、以後、ゲストに来られる芸人さんたちには、ほんとうにプロだなぁ、と、いつも感心しています。
芸人さんたちは、ほんとにその場でテキトーなことを言って笑かしているのではなく、ちゃんと考えて、練られて、どのようにすれば楽しく、おもしろく進行するか、ほんとうによく考えられてるんですよ。
プロの“話芸”にいつも舌を巻いています。
収録が終わると、「おつかれさまでした」と若いスタッフのみなさんが笑顔で声をかけてくださいますが、いやいや、疲れているのはみなさんでしょう、と、いつも思っています。
昨夜、第一回のときのビデオを観て見ました。
今まで、同じように話をしていたつもりだったのですが、声のトーンや話し方がずいぶんと違っています。慣れてきたのかな、と、思う一方で、「慣れ」はそのまま怠慢や手抜きに通じるところ…
初心にかえって、これからもがんばっていきたいと思います。
以前に、江戸時代の話をいくつかしました(時代考証のときに)。一部重複しますが江戸時代の人々のいろいろな生活の話をしてみたいと思います。
ペリーが日本に来航したときに、「四つの驚き」がありました。
一つは、「日本人の学力の高さ」です。
これは、ちょっと間接的な理解だったのですが、伊能忠敬の作成した地図をみて驚いたことです。自分たちが測量して作成した江戸湾(現在の東京湾)の地形図よりも伊能忠敬が作成した地図のほうがはるかに精度が高く、それをきっかけに、日本のことを詳しく再調査しよう、と考えたようです。
たしかに、当時のヨーロッパに比べても日本の庶民の識字率は高く(欧米は領主階級以外の教育は遅れていました)、「寺子屋」による「読み・書き・そろばん」の“教育”はかなりの成果をあげていました。
欧米では「支配階級」が知識を独占していましたが、日本ではそのようなことはありません。
もう一つは、「公衆衛生」の質の高さです。
ペリーが江戸に入ったときの最初の感想は、
「この町は臭くない…」
でした。
欧米では、当時まだ下水道が完全ではなく、基本的に糞尿など大都市の場合は町の路上に捨てられていました。
パリやロンドンでは、道を歩いているとアパートメントの場合、窓から外へ汚物を投げ捨てていました。
中世以来のしきたりで、三度「捨てるぞ」と叫んでから窓から捨てた場合、下にいて歩行者が糞尿を頭からかぶっても、歩行者に非があるとされました。
男が壁側、女が車道側を歩く、というマナーも女性に糞尿がふりそそぐのを回避するために生まれた習慣ですし、女性のハイヒールも、糞尿で満ちた道路を古くときのためにカカトを高くしたものです。
江戸は周辺の農村と町が“契約”が結ばれていて、野菜と糞尿が「交換」されていました。
農村から樽に野菜を詰めて運び、町の人々に野菜を渡して、かわりに糞尿をひきとって、帰りはその樽に糞尿を入れて帰りました。
ただ、時々、交換比率でモメるときがあり、農民たちが糞尿を引き取らない、というトラブルも起こって、町が臭くなった、という記録も残っています。奉行所が仲介に入って、野菜と糞尿の交換比率を取り決めたりしたこともあったようだす。
糞尿は“身分”によって値打ちが違いました。
武家の糞尿は高く引き取られています。理由は「ええもん食べているから肥料としても極上になる」という“迷信”からでした。
ところで、野菜を運んで、帰りに糞尿が詰められた樽は、何度も洗浄せずに利用されていましたから、江戸に持ち込まれた野菜は糞尿まみれでした。
よって寄生虫はよく発生しましたし、道には糞尿がしたたり落ちて、それが乾燥し、風で飛散したりしたので、トラコーマも発症していたようです。
江戸の町医者の記録でも、眼病の患者が多かったことがわかっています。
三つめの「驚き」は、「江戸の公衆浴場が混浴であった」ということです。
江戸は、家に風呂を設けることを禁止していました。火事の原因になるからです。
よって銭湯がたくさんつくられ、現代にも続く東京の「銭湯文化」のもとになっています。
混浴は、江戸時代は「入れ込み」といい、寛政の改革のときなど、たびたび禁止されていますが、明治時代の初めまで、色々な銭湯が混浴でした。
江戸時代の「入浴」は、素っ裸ではあまり入りませんでした。「浴衣」は文字通り入浴の際に使用したもので、現在で言うならば水着着用の温泉のような感じなので、抵抗がなかったのかもしれません。
四つめの「驚き」は、意外に思われるかもしれませんが「女性の地位」の高さです。
え? 男尊女卑の風潮があったのでは?
という感想をお持ちの方も多いようですが、よくよく考えてみると、日本の女性というのは、ある分野においては対等、あるいは男以上に“権力”を持っていたと考えられます。
女子三従の道、といい、「子のときは親に従い、嫁に行ったら夫に従い、子が生まれたら子に従え」という“道徳”が説かれましたが、考えようによっては、親に従わない、夫に従わない、子に従わない女性がいたからこそ「そうしなさいっ」と説いたともいえるのです。
「ある分野」というのは、「家政」に関してです。
これは武家に関してもそうですが、「家」の中の経済は女性が支配していました。
男が介入しようとしても、「奥向きのことですから殿方の口のさしはさむことではございませんっ」とビシっと退けられました。
「男子厨房に入らず」という一見封建的な言葉も、「男子は厨房に入れてもらえなかった」というのが実態なのです。
「女が仕事に口出しするなっ」という言葉と表裏一体に、「男が奥向きのことに口出しするなっ」という言葉が存在していて、「質の違う世界での対等」がありました。
離婚も男から一方的に「三行半」をつきつけることができた、と、言われていますが、女が男に対して発している「三行半」もちゃんと残っているんですよ。
さて、開国後、外国人たちが江戸の町をめぐって驚いて記録していることの中に
「日本では、女が企業の主である場合が多く、男を使用人としている。」
ということでした。店主、すなわち“女将”が存在していることへの驚きです。
当時の欧米ではありえない光景でした。男女平等や民主主義を唱えていた欧米が、実質的には女性を蔑視していて、経営などに携われないことが多いのとはずいぶんと違います。
口では平等、実際は差別、が欧米。
口では差別、実際は対等、が日本。
といえる場合がけっこうありました。
働いている男が、妻にお金をすべて渡して女がそれを管理している、という家庭のありさまが、欧米人には驚きだったようです。
むしろ明治になってからのほうが、一般庶民の家庭にまで「家」の概念が持ち込まれました。(それは「民法」の制定が大きかったように思います。)
明治が近代、江戸が前近代で封建的、というのはある部分においてはイメージにすぎず、「江戸時代が夜」「明治が夜明け」というステロタイプが、広がってしまったせいだと思います。
政治史の理解と、社会史の理解は、同じ価値観や尺度で判断すると、誤解が生まれやすいと思うんですよね。
「身分」の移動も、後世語られるほどハードルは高くなかった、と、前に説明しました。
金を払うと武士にもなれましたし、武士が農民になることは「帰農」といって、昔の武士の生活にもどるので恥ではありませんでした。
「脱藩」が罪になるような描かれ方が、時代小説やドラマでは強調されていますが、財政に苦しんでいた藩は、下級藩士が「武士をやめてくれる」のは歓迎していて、「やめます」と申し出ても「ああそうですか」と平易に認めていました。
江戸時代は、元武士だった人物たちが、画家や小説家になったりする場合も多かったのです。
江戸時代はおもしろいネタが満載です。
コヤブ歴史堂でも、江戸時代の武士や町人の生活ぶりが浮き彫りになるように、解説していけたらなぁ、と、考えています。
ペリーが日本に来航したときに、「四つの驚き」がありました。
一つは、「日本人の学力の高さ」です。
これは、ちょっと間接的な理解だったのですが、伊能忠敬の作成した地図をみて驚いたことです。自分たちが測量して作成した江戸湾(現在の東京湾)の地形図よりも伊能忠敬が作成した地図のほうがはるかに精度が高く、それをきっかけに、日本のことを詳しく再調査しよう、と考えたようです。
たしかに、当時のヨーロッパに比べても日本の庶民の識字率は高く(欧米は領主階級以外の教育は遅れていました)、「寺子屋」による「読み・書き・そろばん」の“教育”はかなりの成果をあげていました。
欧米では「支配階級」が知識を独占していましたが、日本ではそのようなことはありません。
もう一つは、「公衆衛生」の質の高さです。
ペリーが江戸に入ったときの最初の感想は、
「この町は臭くない…」
でした。
欧米では、当時まだ下水道が完全ではなく、基本的に糞尿など大都市の場合は町の路上に捨てられていました。
パリやロンドンでは、道を歩いているとアパートメントの場合、窓から外へ汚物を投げ捨てていました。
中世以来のしきたりで、三度「捨てるぞ」と叫んでから窓から捨てた場合、下にいて歩行者が糞尿を頭からかぶっても、歩行者に非があるとされました。
男が壁側、女が車道側を歩く、というマナーも女性に糞尿がふりそそぐのを回避するために生まれた習慣ですし、女性のハイヒールも、糞尿で満ちた道路を古くときのためにカカトを高くしたものです。
江戸は周辺の農村と町が“契約”が結ばれていて、野菜と糞尿が「交換」されていました。
農村から樽に野菜を詰めて運び、町の人々に野菜を渡して、かわりに糞尿をひきとって、帰りはその樽に糞尿を入れて帰りました。
ただ、時々、交換比率でモメるときがあり、農民たちが糞尿を引き取らない、というトラブルも起こって、町が臭くなった、という記録も残っています。奉行所が仲介に入って、野菜と糞尿の交換比率を取り決めたりしたこともあったようだす。
糞尿は“身分”によって値打ちが違いました。
武家の糞尿は高く引き取られています。理由は「ええもん食べているから肥料としても極上になる」という“迷信”からでした。
ところで、野菜を運んで、帰りに糞尿が詰められた樽は、何度も洗浄せずに利用されていましたから、江戸に持ち込まれた野菜は糞尿まみれでした。
よって寄生虫はよく発生しましたし、道には糞尿がしたたり落ちて、それが乾燥し、風で飛散したりしたので、トラコーマも発症していたようです。
江戸の町医者の記録でも、眼病の患者が多かったことがわかっています。
三つめの「驚き」は、「江戸の公衆浴場が混浴であった」ということです。
江戸は、家に風呂を設けることを禁止していました。火事の原因になるからです。
よって銭湯がたくさんつくられ、現代にも続く東京の「銭湯文化」のもとになっています。
混浴は、江戸時代は「入れ込み」といい、寛政の改革のときなど、たびたび禁止されていますが、明治時代の初めまで、色々な銭湯が混浴でした。
江戸時代の「入浴」は、素っ裸ではあまり入りませんでした。「浴衣」は文字通り入浴の際に使用したもので、現在で言うならば水着着用の温泉のような感じなので、抵抗がなかったのかもしれません。
四つめの「驚き」は、意外に思われるかもしれませんが「女性の地位」の高さです。
え? 男尊女卑の風潮があったのでは?
という感想をお持ちの方も多いようですが、よくよく考えてみると、日本の女性というのは、ある分野においては対等、あるいは男以上に“権力”を持っていたと考えられます。
女子三従の道、といい、「子のときは親に従い、嫁に行ったら夫に従い、子が生まれたら子に従え」という“道徳”が説かれましたが、考えようによっては、親に従わない、夫に従わない、子に従わない女性がいたからこそ「そうしなさいっ」と説いたともいえるのです。
「ある分野」というのは、「家政」に関してです。
これは武家に関してもそうですが、「家」の中の経済は女性が支配していました。
男が介入しようとしても、「奥向きのことですから殿方の口のさしはさむことではございませんっ」とビシっと退けられました。
「男子厨房に入らず」という一見封建的な言葉も、「男子は厨房に入れてもらえなかった」というのが実態なのです。
「女が仕事に口出しするなっ」という言葉と表裏一体に、「男が奥向きのことに口出しするなっ」という言葉が存在していて、「質の違う世界での対等」がありました。
離婚も男から一方的に「三行半」をつきつけることができた、と、言われていますが、女が男に対して発している「三行半」もちゃんと残っているんですよ。
さて、開国後、外国人たちが江戸の町をめぐって驚いて記録していることの中に
「日本では、女が企業の主である場合が多く、男を使用人としている。」
ということでした。店主、すなわち“女将”が存在していることへの驚きです。
当時の欧米ではありえない光景でした。男女平等や民主主義を唱えていた欧米が、実質的には女性を蔑視していて、経営などに携われないことが多いのとはずいぶんと違います。
口では平等、実際は差別、が欧米。
口では差別、実際は対等、が日本。
といえる場合がけっこうありました。
働いている男が、妻にお金をすべて渡して女がそれを管理している、という家庭のありさまが、欧米人には驚きだったようです。
むしろ明治になってからのほうが、一般庶民の家庭にまで「家」の概念が持ち込まれました。(それは「民法」の制定が大きかったように思います。)
明治が近代、江戸が前近代で封建的、というのはある部分においてはイメージにすぎず、「江戸時代が夜」「明治が夜明け」というステロタイプが、広がってしまったせいだと思います。
政治史の理解と、社会史の理解は、同じ価値観や尺度で判断すると、誤解が生まれやすいと思うんですよね。
「身分」の移動も、後世語られるほどハードルは高くなかった、と、前に説明しました。
金を払うと武士にもなれましたし、武士が農民になることは「帰農」といって、昔の武士の生活にもどるので恥ではありませんでした。
「脱藩」が罪になるような描かれ方が、時代小説やドラマでは強調されていますが、財政に苦しんでいた藩は、下級藩士が「武士をやめてくれる」のは歓迎していて、「やめます」と申し出ても「ああそうですか」と平易に認めていました。
江戸時代は、元武士だった人物たちが、画家や小説家になったりする場合も多かったのです。
江戸時代はおもしろいネタが満載です。
コヤブ歴史堂でも、江戸時代の武士や町人の生活ぶりが浮き彫りになるように、解説していけたらなぁ、と、考えています。
教科書の説明の中で、
「最初の○○」
という表現をついぞ見かけなくなりました。現在40才以上の方々ですと。
「最初の鋳造貨幣」
は、「和同開珎」と習った方もけっこういると思います。
同様に、
「最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂」
「武士で最初の太政大臣は平清盛」
「武士で最初の法律は御成敗式目」
などなど…
かつての教科書は「最初の○○」という表現が大好きでした。ところがビミョ~にこの表現がなくなっています。
古代だけに限って、かつての「最初の」という表現がついていて、今は教科書から無くなっている(すべての教科書というわけではありませんよ。ただ減少傾向にあるもの)を並べてみますと…
・推古天皇 最初の女性の天皇
・飛鳥文化 最初の仏教文化
・和同開珎 最初の鋳造貨幣
・坂上田村麻呂 最初の征夷大将軍
・平清盛 武士で最初の太政大臣
推古天皇は、「聖徳太子は、おばの推古天皇をたすけて…」というように、聖徳太子との続柄を示すなかで、女性であることがわかるように「おば」とサラリと流すようになりました。
色々理由を探ってみたのですが、どうやら「とりたてて」女性を強調することが差別に通じてしまいかねない、というような“配慮”からだそうです。
そういえば、女性に対しても最近は
「~女史」
とは言わず、「~氏」と表記・表現するようになっていて、法律の「少年」の定義も男子だけを指す言葉ではなくなりました。
女性を特別扱いしない、という考え方が底流にあるようです。
かつては、飛鳥文化は「最初の仏教文化」であると記述されていました。別にこれは誤りではありませんし、わたしも授業でこのように説明するときはあります。
ところが、教科書ではこの表現はなくなりつつあります。
わざわざ「最初の」と付けてしまうと、「最後の仏教文化」が気になってしまいますよね?
最初である何かの歴史的意義は、最後である何か、と、ある意味表裏一体です。最初を強調しすぎて最後がイマイチ意義を見出せない、となってしまうと、ちょっと龍等蛇尾の感が否めません。
「和同開珎」に関してはその理由は明確で、単純に「最初の」鋳造貨幣ではなかった、というだけのことです。
「最初だと思っていたら間違いだった」ということになれば、あたりまえですが「最初の」という表現は無くなってしまいます。
もともと史料的には和同開珎より以前の貨幣が存在していたことはわかっていた(鋳銭司という役所が天武天皇のころにあった)のですが、ブツが発見されていませんでした。
ところが、「富本銭」が発見され、「和同開珎」は最初の鋳造貨幣の座を譲り渡した、ということになるのですが、実はこの「富本銭」よりも古い貨幣があると推察されているので、現在の教科書では、ことさら「富本銭」を「最初の」と記述しない教科書も多くなりました。
坂上田村麻呂は「最初の征夷大将軍」ではありません。
坂上田村麻呂のかつての上司(田村麻呂が副官をしていた)大伴弟麻呂が記録上の最初の征夷大将軍であることがわかっています。(『日本紀略』「征夷大将軍」という記述の初見。794年に任命。)
ただ、征夷大将軍に関しては、「どこからが征夷大将軍なの?」という問題もあるんですよ。
つまり、後の征夷大将軍と同じ仕事をする役職なのに名称だけが違っていたとするなら、「最初の征夷大将軍」はもっと昔にさかのぼれるのでは? という考え方もできないわけではない…
蝦夷を征服する、という意味の将軍ならば…
巨勢麻呂は709年に「鎮東将軍」に任じられています。
多治比縣守は720年に「征夷将軍」に任じられています。
大伴家持は784年に「征東将軍」に任じられています。
紀古佐美は788年に「征東大将軍」に任じられています。
大伴弟麻呂は790年に「征東大使」に任じられています。
“あいまいさ”の回避から征夷大将軍の「最初」に言及しなくなった、というのが実際です。
昔は、平清盛は、「武士で最初の太政大臣」という“肩書き”で教科書には説明されていました。
塾の講師や学校の先生も、ついつい、自分が子どものときにこのように習ったので、こう説明してしまいますが、現在ではとりたてて、このように強調しなくなり、実際、教科書でもこのように書いているものはなくなりつつあります。
「武士で最初の太政大臣」と強調してしまうと、「じゃあ武士で最後の太政大臣は誰?」というのが気になりますし(最後は武家官位ならば徳川家斉なのですが)、何より、「じゃあ、武士ではない最初の太政大臣は誰?」というさらに“あいまいな”部分に立ち入らなくてはならなくなってしまいます。
最初の太政大臣は「大友皇子」なのか「高市皇子」なのか… いやいや、「藤原仲麻呂」は「太師」という名称だが実際は太政大臣だっただろ? という話になり、さらに死んでから太政大臣の位を贈られた人はどうするんだ? と、どんどん話がややこしくなる…
「人臣」で最初は藤原良房でよいだろ、と、なると「人臣」って言い方はどうなん? 天皇や皇族は人じゃないのか? などと、またまた話がややこしくなる…
わざわざ「最初の」って言うの、やめませんか?
というような感じに現在の教科書ではなっています。
「平清盛は、武士で最初の太政大臣となった…」
という表現にかわって、中学の教科書では、ぐっとマニアックな表現がなされるようになっているのを知っていますか?
「平清盛は、朝廷の三位以上の位を得た最初の武士で…」
おお! こりゃあ、なかなかよいぞっ と、感心したのは私だけかもしれません。とても中学生が使う教科書とは思えないくらいちゃんとした記述です。(『日本文教出版』)
実は、平清盛が、太政大臣という地位にあることが、平氏政権にとっては、とくに重要な意味を持ちません。
ほとんど名誉職で、わずか3ヶ月で清盛は辞任しており、太政大臣であることが政権の拠り所になっていたのではないからです。
しかし、武家の中央政界への進出、という“象徴”として、平清盛は歴史的意味(教科書的意味)がある人物です。
律令制下では、「三位」以上を「公卿」としており、「四位」という地位は、藤原氏であっても傍系の者たちはこれを超えることはできず、中級貴族の終着点でした。
武家の棟梁でも、もっとも由緒ある桓武平氏や清和源氏であっても「従五位」からのスタートで「正四位」がゴール、というのが平安時代なのです。(ちなみに、後年、鎌倉幕府の執権も、最上位は「正四位上」まででした。)
武家が「三位」を超えたというのは、画期的な“事件”だったのです。
以下は蛇足ですが…
武家で最初に三位以上にのぼりつめたのは桓武平氏の平清盛…
では、清和源氏では誰でしょう??
征夷大将軍となった源頼朝でしょうか? それとも右大臣となった源実朝でしょうか?
いえいえ、平氏政権内で、清盛の信任を得ていた源頼政(源頼朝のおじさん)が、最初に「従三位」の位を得ました。「源三位入道」とはこの頼政のことになります。
一度、平清盛が「三位」の壁を突破してしまうと、にわかに値打ちが下がってしまって、源頼政が三位に就いた、という“名誉”は教科書には一行も出てこない、というわけです。
「最初の○○」
という表現をついぞ見かけなくなりました。現在40才以上の方々ですと。
「最初の鋳造貨幣」
は、「和同開珎」と習った方もけっこういると思います。
同様に、
「最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂」
「武士で最初の太政大臣は平清盛」
「武士で最初の法律は御成敗式目」
などなど…
かつての教科書は「最初の○○」という表現が大好きでした。ところがビミョ~にこの表現がなくなっています。
古代だけに限って、かつての「最初の」という表現がついていて、今は教科書から無くなっている(すべての教科書というわけではありませんよ。ただ減少傾向にあるもの)を並べてみますと…
・推古天皇 最初の女性の天皇
・飛鳥文化 最初の仏教文化
・和同開珎 最初の鋳造貨幣
・坂上田村麻呂 最初の征夷大将軍
・平清盛 武士で最初の太政大臣
推古天皇は、「聖徳太子は、おばの推古天皇をたすけて…」というように、聖徳太子との続柄を示すなかで、女性であることがわかるように「おば」とサラリと流すようになりました。
色々理由を探ってみたのですが、どうやら「とりたてて」女性を強調することが差別に通じてしまいかねない、というような“配慮”からだそうです。
そういえば、女性に対しても最近は
「~女史」
とは言わず、「~氏」と表記・表現するようになっていて、法律の「少年」の定義も男子だけを指す言葉ではなくなりました。
女性を特別扱いしない、という考え方が底流にあるようです。
かつては、飛鳥文化は「最初の仏教文化」であると記述されていました。別にこれは誤りではありませんし、わたしも授業でこのように説明するときはあります。
ところが、教科書ではこの表現はなくなりつつあります。
わざわざ「最初の」と付けてしまうと、「最後の仏教文化」が気になってしまいますよね?
最初である何かの歴史的意義は、最後である何か、と、ある意味表裏一体です。最初を強調しすぎて最後がイマイチ意義を見出せない、となってしまうと、ちょっと龍等蛇尾の感が否めません。
「和同開珎」に関してはその理由は明確で、単純に「最初の」鋳造貨幣ではなかった、というだけのことです。
「最初だと思っていたら間違いだった」ということになれば、あたりまえですが「最初の」という表現は無くなってしまいます。
もともと史料的には和同開珎より以前の貨幣が存在していたことはわかっていた(鋳銭司という役所が天武天皇のころにあった)のですが、ブツが発見されていませんでした。
ところが、「富本銭」が発見され、「和同開珎」は最初の鋳造貨幣の座を譲り渡した、ということになるのですが、実はこの「富本銭」よりも古い貨幣があると推察されているので、現在の教科書では、ことさら「富本銭」を「最初の」と記述しない教科書も多くなりました。
坂上田村麻呂は「最初の征夷大将軍」ではありません。
坂上田村麻呂のかつての上司(田村麻呂が副官をしていた)大伴弟麻呂が記録上の最初の征夷大将軍であることがわかっています。(『日本紀略』「征夷大将軍」という記述の初見。794年に任命。)
ただ、征夷大将軍に関しては、「どこからが征夷大将軍なの?」という問題もあるんですよ。
つまり、後の征夷大将軍と同じ仕事をする役職なのに名称だけが違っていたとするなら、「最初の征夷大将軍」はもっと昔にさかのぼれるのでは? という考え方もできないわけではない…
蝦夷を征服する、という意味の将軍ならば…
巨勢麻呂は709年に「鎮東将軍」に任じられています。
多治比縣守は720年に「征夷将軍」に任じられています。
大伴家持は784年に「征東将軍」に任じられています。
紀古佐美は788年に「征東大将軍」に任じられています。
大伴弟麻呂は790年に「征東大使」に任じられています。
“あいまいさ”の回避から征夷大将軍の「最初」に言及しなくなった、というのが実際です。
昔は、平清盛は、「武士で最初の太政大臣」という“肩書き”で教科書には説明されていました。
塾の講師や学校の先生も、ついつい、自分が子どものときにこのように習ったので、こう説明してしまいますが、現在ではとりたてて、このように強調しなくなり、実際、教科書でもこのように書いているものはなくなりつつあります。
「武士で最初の太政大臣」と強調してしまうと、「じゃあ武士で最後の太政大臣は誰?」というのが気になりますし(最後は武家官位ならば徳川家斉なのですが)、何より、「じゃあ、武士ではない最初の太政大臣は誰?」というさらに“あいまいな”部分に立ち入らなくてはならなくなってしまいます。
最初の太政大臣は「大友皇子」なのか「高市皇子」なのか… いやいや、「藤原仲麻呂」は「太師」という名称だが実際は太政大臣だっただろ? という話になり、さらに死んでから太政大臣の位を贈られた人はどうするんだ? と、どんどん話がややこしくなる…
「人臣」で最初は藤原良房でよいだろ、と、なると「人臣」って言い方はどうなん? 天皇や皇族は人じゃないのか? などと、またまた話がややこしくなる…
わざわざ「最初の」って言うの、やめませんか?
というような感じに現在の教科書ではなっています。
「平清盛は、武士で最初の太政大臣となった…」
という表現にかわって、中学の教科書では、ぐっとマニアックな表現がなされるようになっているのを知っていますか?
「平清盛は、朝廷の三位以上の位を得た最初の武士で…」
おお! こりゃあ、なかなかよいぞっ と、感心したのは私だけかもしれません。とても中学生が使う教科書とは思えないくらいちゃんとした記述です。(『日本文教出版』)
実は、平清盛が、太政大臣という地位にあることが、平氏政権にとっては、とくに重要な意味を持ちません。
ほとんど名誉職で、わずか3ヶ月で清盛は辞任しており、太政大臣であることが政権の拠り所になっていたのではないからです。
しかし、武家の中央政界への進出、という“象徴”として、平清盛は歴史的意味(教科書的意味)がある人物です。
律令制下では、「三位」以上を「公卿」としており、「四位」という地位は、藤原氏であっても傍系の者たちはこれを超えることはできず、中級貴族の終着点でした。
武家の棟梁でも、もっとも由緒ある桓武平氏や清和源氏であっても「従五位」からのスタートで「正四位」がゴール、というのが平安時代なのです。(ちなみに、後年、鎌倉幕府の執権も、最上位は「正四位上」まででした。)
武家が「三位」を超えたというのは、画期的な“事件”だったのです。
以下は蛇足ですが…
武家で最初に三位以上にのぼりつめたのは桓武平氏の平清盛…
では、清和源氏では誰でしょう??
征夷大将軍となった源頼朝でしょうか? それとも右大臣となった源実朝でしょうか?
いえいえ、平氏政権内で、清盛の信任を得ていた源頼政(源頼朝のおじさん)が、最初に「従三位」の位を得ました。「源三位入道」とはこの頼政のことになります。
一度、平清盛が「三位」の壁を突破してしまうと、にわかに値打ちが下がってしまって、源頼政が三位に就いた、という“名誉”は教科書には一行も出てこない、というわけです。
精神科医で有名な和田秀樹さんが、何という著作だったか忘れてしまったのですが、有能な企業家に必要なものは
ヘッドワーク・ネットワーク・チームワーク
だ、とおっしゃっていました。蓋し名言だと思います。
これは有能な武将や政治家にもあてはまる言葉ではないでしょうか。
歴史上活躍した「僧」の場合、このうちの二つ、とくにヘッドワークとネットワークにすぐれていたと思うんですよね。
学識はもちろん、弁舌なども鍛えられたはずですし、何よりも大寺院の場合は、皇族や貴族の次男以下の方々が出家してやってきます。彼らとのつながりによって情報やコネを得る、ということも可能だったと思うんです。
ただ、こはにわは、もう一つ、歴史上に活躍した人物は、まちがいなく
「フットワーク」
もすぐれていたと思うんですよね。
今回紹介する文覚上人は、色々な意味でこのフットワークがすぐれていた人だと思うんです。
いや、そもそも誰?? という方もおられると思うので、ざっと概略を説明しますと…
出家前き、遠藤盛遠という名の北面の武士(上皇の警固をおこなう武士)でした。
上皇やその近臣らと何らかのコネがなければ就けない役職ですが、盛遠は、摂津源氏の配下の武士で、まぁ、上司は源頼政(源頼朝のおじさん)、ということになります。
ところが、19歳で突然出家…
『平家物語』では「ある事情で…」とさらりとしか触れられていません。
うわっ 気になりますよね~
読書が好きな方なら、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』、菊池寛の『袈裟の良人』の話をご存知かもしれません。なにより「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリをとっちゃいました。
この“盛遠”が後の文覚上人なんです。
盛遠は、友人の武士、渡辺亘の妻、袈裟に一目ぼれ… 袈裟もちょっと浮気心を出してしまい、何度か盛遠と逢瀬を重ねてしまう…
盛遠のほうはすっかりその気になってしまい、「あいつと別れて結婚してくれ!!」と迫ってしまいます…
袈裟は「では、夫を殺してくださいませ。」と衝撃の発言!
恋は男を狂わせるもの… 正気を失っていた盛遠は、夜中にこっそりしのびこみ、寝ている渡辺亘を殺害し、その首をとって外に出ました。
そして衝撃の事実を盛遠は見てしまうのです。
なんとその首は、渡辺亘ではなく、その妻の袈裟、その人のものだったのです。
袈裟はこうなったのは自分の責任と思い、夫が寝ていると盛遠に告げて自ら盛遠の手にかかって死ぬことを選んだのでした…
ま、まじか…
こうして盛遠は出家して、修行を重ね、“文覚上人”となりました~ というのが彼の“出家伝説”です。(『源平盛衰記』にもこの話は出てきます。)
出家後の文覚上人は、なかなか“豪傑”というか“破天荒”な活動をします。
『愚管抄』を著した知性派、慈円などは、どうも文覚が嫌いだったようで、「行動力はあるけど絶対頭悪いっ」とボロクソ。「めっちゃ毒吐くし、困ったやつだ」と記しています。
じっさい、神護寺の再興を後白河天皇に訴え出たのですが、その言い様に腹を立てた天皇および側近たちによって退けられ、伊豆国へ流されてしまいます。
ところが、これをきっかけに、同じく伊豆に流されていた源頼朝と知り合うことになったのです。
源頼朝に対して、頼朝の父(義朝)のドクロを見せて(なんでそんなん持ってるねんっ)、「おまえは父の敵を討つことも考えていないのかっ」と一喝したといいます。
以後、文覚は「頼朝の外交官」として活動を開始しました。
流罪の身なのにおかまいなく、後白河法皇の側近、藤原光能に会いに行き、平氏打倒を説得して、な、な、な~んと、後白河法皇から「平氏追討の院宣」を引き出すことに成功しています。この間、わずか一週間。
さらに一足先に入京した木曽義仲のもとに派遣され、平氏追討の手ぬるさや都での乱暴狼藉を糾弾しています。
正直、この文覚の行動力が無ければ、頼朝の挙兵の時期はズレてしまい、ひょっとしたら頼朝はチャンスを逸していたかもしれません。
平氏打倒の後、文覚上人は頼朝の深い信頼を得たようです。
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する、とはよく言われることですが、あんがいと知られていないことを申しますと、平清盛の“直系”はしばらく生存していたのです。
というのも、平重盛の後継者は重盛、重盛の子が維盛、そしてなんとその子は生き延びて都に生存していたのです。
平維盛は、平家の都落ちのときに、宗盛らには従わず、入水自殺を図るのですが、その子“六代”は生き残っていたのです。(平正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛と正統直系五代続いた次の六代目ということで“六代”と呼ばれていたのでした。)
そして文覚は、頼朝に進言して、六代の助命嘆願をしているんですよね。
なんと頼朝はそれを認めています。
文覚はその子を神護寺に引き取り、出家させました。
本来ならば男子直系は処刑されてしかるべし。弟の義経の子などは容赦なく処刑している頼朝なのに、文覚の願いは聞き入れています。
文覚と頼朝は、一定の、何かしらの信頼関係があったとしか言えません。
頼朝の権勢を背景に、神護寺、教王護国寺(東寺)、東大寺、さらには江ノ島弁財天まで、これらの復興に尽力してそれらの荘園なども回復しています。
ものすごいバイタリティーです。
しかし… 慈円の人物鑑定は正しかったかもしれません。
とにかく頼朝以外の人々、側近や貴族たちから嫌われていたようで、頼朝の死後、宮中のさまざまな事件(おせっかいから関わっていたこともあったようで)に連座してついに佐渡へ流されてしまいます。
ところが後に許されて帰京。こりずに今度は後鳥羽上皇にケンカを売ります。
「おまえの政治はなっとらんっ」
「もう武士の世になっているのがわからんのかっ」
と、やってしまったものだから、隠岐島に流罪となりました。
そして、後に承久の乱に敗れて隠岐に流された後鳥羽上皇と“ご対面”。
「やはりおまえの言うことが正しかった」と後鳥羽上皇が文覚上人に謝った、というのは、よくできた後世のつくり話です。
実際は、対馬国に流罪となり、対馬に行きつく前に病死した、と言われています。
ヘッドワーク・ネットワーク・チームワーク
だ、とおっしゃっていました。蓋し名言だと思います。
これは有能な武将や政治家にもあてはまる言葉ではないでしょうか。
歴史上活躍した「僧」の場合、このうちの二つ、とくにヘッドワークとネットワークにすぐれていたと思うんですよね。
学識はもちろん、弁舌なども鍛えられたはずですし、何よりも大寺院の場合は、皇族や貴族の次男以下の方々が出家してやってきます。彼らとのつながりによって情報やコネを得る、ということも可能だったと思うんです。
ただ、こはにわは、もう一つ、歴史上に活躍した人物は、まちがいなく
「フットワーク」
もすぐれていたと思うんですよね。
今回紹介する文覚上人は、色々な意味でこのフットワークがすぐれていた人だと思うんです。
いや、そもそも誰?? という方もおられると思うので、ざっと概略を説明しますと…
出家前き、遠藤盛遠という名の北面の武士(上皇の警固をおこなう武士)でした。
上皇やその近臣らと何らかのコネがなければ就けない役職ですが、盛遠は、摂津源氏の配下の武士で、まぁ、上司は源頼政(源頼朝のおじさん)、ということになります。
ところが、19歳で突然出家…
『平家物語』では「ある事情で…」とさらりとしか触れられていません。
うわっ 気になりますよね~
読書が好きな方なら、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』、菊池寛の『袈裟の良人』の話をご存知かもしれません。なにより「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリをとっちゃいました。
この“盛遠”が後の文覚上人なんです。
盛遠は、友人の武士、渡辺亘の妻、袈裟に一目ぼれ… 袈裟もちょっと浮気心を出してしまい、何度か盛遠と逢瀬を重ねてしまう…
盛遠のほうはすっかりその気になってしまい、「あいつと別れて結婚してくれ!!」と迫ってしまいます…
袈裟は「では、夫を殺してくださいませ。」と衝撃の発言!
恋は男を狂わせるもの… 正気を失っていた盛遠は、夜中にこっそりしのびこみ、寝ている渡辺亘を殺害し、その首をとって外に出ました。
そして衝撃の事実を盛遠は見てしまうのです。
なんとその首は、渡辺亘ではなく、その妻の袈裟、その人のものだったのです。
袈裟はこうなったのは自分の責任と思い、夫が寝ていると盛遠に告げて自ら盛遠の手にかかって死ぬことを選んだのでした…
ま、まじか…
こうして盛遠は出家して、修行を重ね、“文覚上人”となりました~ というのが彼の“出家伝説”です。(『源平盛衰記』にもこの話は出てきます。)
出家後の文覚上人は、なかなか“豪傑”というか“破天荒”な活動をします。
『愚管抄』を著した知性派、慈円などは、どうも文覚が嫌いだったようで、「行動力はあるけど絶対頭悪いっ」とボロクソ。「めっちゃ毒吐くし、困ったやつだ」と記しています。
じっさい、神護寺の再興を後白河天皇に訴え出たのですが、その言い様に腹を立てた天皇および側近たちによって退けられ、伊豆国へ流されてしまいます。
ところが、これをきっかけに、同じく伊豆に流されていた源頼朝と知り合うことになったのです。
源頼朝に対して、頼朝の父(義朝)のドクロを見せて(なんでそんなん持ってるねんっ)、「おまえは父の敵を討つことも考えていないのかっ」と一喝したといいます。
以後、文覚は「頼朝の外交官」として活動を開始しました。
流罪の身なのにおかまいなく、後白河法皇の側近、藤原光能に会いに行き、平氏打倒を説得して、な、な、な~んと、後白河法皇から「平氏追討の院宣」を引き出すことに成功しています。この間、わずか一週間。
さらに一足先に入京した木曽義仲のもとに派遣され、平氏追討の手ぬるさや都での乱暴狼藉を糾弾しています。
正直、この文覚の行動力が無ければ、頼朝の挙兵の時期はズレてしまい、ひょっとしたら頼朝はチャンスを逸していたかもしれません。
平氏打倒の後、文覚上人は頼朝の深い信頼を得たようです。
壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する、とはよく言われることですが、あんがいと知られていないことを申しますと、平清盛の“直系”はしばらく生存していたのです。
というのも、平重盛の後継者は重盛、重盛の子が維盛、そしてなんとその子は生き延びて都に生存していたのです。
平維盛は、平家の都落ちのときに、宗盛らには従わず、入水自殺を図るのですが、その子“六代”は生き残っていたのです。(平正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛と正統直系五代続いた次の六代目ということで“六代”と呼ばれていたのでした。)
そして文覚は、頼朝に進言して、六代の助命嘆願をしているんですよね。
なんと頼朝はそれを認めています。
文覚はその子を神護寺に引き取り、出家させました。
本来ならば男子直系は処刑されてしかるべし。弟の義経の子などは容赦なく処刑している頼朝なのに、文覚の願いは聞き入れています。
文覚と頼朝は、一定の、何かしらの信頼関係があったとしか言えません。
頼朝の権勢を背景に、神護寺、教王護国寺(東寺)、東大寺、さらには江ノ島弁財天まで、これらの復興に尽力してそれらの荘園なども回復しています。
ものすごいバイタリティーです。
しかし… 慈円の人物鑑定は正しかったかもしれません。
とにかく頼朝以外の人々、側近や貴族たちから嫌われていたようで、頼朝の死後、宮中のさまざまな事件(おせっかいから関わっていたこともあったようで)に連座してついに佐渡へ流されてしまいます。
ところが後に許されて帰京。こりずに今度は後鳥羽上皇にケンカを売ります。
「おまえの政治はなっとらんっ」
「もう武士の世になっているのがわからんのかっ」
と、やってしまったものだから、隠岐島に流罪となりました。
そして、後に承久の乱に敗れて隠岐に流された後鳥羽上皇と“ご対面”。
「やはりおまえの言うことが正しかった」と後鳥羽上皇が文覚上人に謝った、というのは、よくできた後世のつくり話です。
実際は、対馬国に流罪となり、対馬に行きつく前に病死した、と言われています。