政治と外交とお坊さん(1)文覚上人 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

精神科医で有名な和田秀樹さんが、何という著作だったか忘れてしまったのですが、有能な企業家に必要なものは

 ヘッドワーク・ネットワーク・チームワーク

だ、とおっしゃっていました。蓋し名言だと思います。
これは有能な武将や政治家にもあてはまる言葉ではないでしょうか。

歴史上活躍した「僧」の場合、このうちの二つ、とくにヘッドワークとネットワークにすぐれていたと思うんですよね。
学識はもちろん、弁舌なども鍛えられたはずですし、何よりも大寺院の場合は、皇族や貴族の次男以下の方々が出家してやってきます。彼らとのつながりによって情報やコネを得る、ということも可能だったと思うんです。

ただ、こはにわは、もう一つ、歴史上に活躍した人物は、まちがいなく

「フットワーク」

もすぐれていたと思うんですよね。

今回紹介する文覚上人は、色々な意味でこのフットワークがすぐれていた人だと思うんです。

いや、そもそも誰?? という方もおられると思うので、ざっと概略を説明しますと…

出家前き、遠藤盛遠という名の北面の武士(上皇の警固をおこなう武士)でした。
上皇やその近臣らと何らかのコネがなければ就けない役職ですが、盛遠は、摂津源氏の配下の武士で、まぁ、上司は源頼政(源頼朝のおじさん)、ということになります。

ところが、19歳で突然出家…

『平家物語』では「ある事情で…」とさらりとしか触れられていません。
うわっ 気になりますよね~

読書が好きな方なら、芥川龍之介の『袈裟と盛遠』、菊池寛の『袈裟の良人』の話をご存知かもしれません。なにより「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリをとっちゃいました。
この“盛遠”が後の文覚上人なんです。

盛遠は、友人の武士、渡辺亘の妻、袈裟に一目ぼれ… 袈裟もちょっと浮気心を出してしまい、何度か盛遠と逢瀬を重ねてしまう…
盛遠のほうはすっかりその気になってしまい、「あいつと別れて結婚してくれ!!」と迫ってしまいます…
袈裟は「では、夫を殺してくださいませ。」と衝撃の発言!
恋は男を狂わせるもの… 正気を失っていた盛遠は、夜中にこっそりしのびこみ、寝ている渡辺亘を殺害し、その首をとって外に出ました。

そして衝撃の事実を盛遠は見てしまうのです。
なんとその首は、渡辺亘ではなく、その妻の袈裟、その人のものだったのです。
袈裟はこうなったのは自分の責任と思い、夫が寝ていると盛遠に告げて自ら盛遠の手にかかって死ぬことを選んだのでした…

ま、まじか…

こうして盛遠は出家して、修行を重ね、“文覚上人”となりました~ というのが彼の“出家伝説”です。(『源平盛衰記』にもこの話は出てきます。)

出家後の文覚上人は、なかなか“豪傑”というか“破天荒”な活動をします。
『愚管抄』を著した知性派、慈円などは、どうも文覚が嫌いだったようで、「行動力はあるけど絶対頭悪いっ」とボロクソ。「めっちゃ毒吐くし、困ったやつだ」と記しています。

じっさい、神護寺の再興を後白河天皇に訴え出たのですが、その言い様に腹を立てた天皇および側近たちによって退けられ、伊豆国へ流されてしまいます。
ところが、これをきっかけに、同じく伊豆に流されていた源頼朝と知り合うことになったのです。

源頼朝に対して、頼朝の父(義朝)のドクロを見せて(なんでそんなん持ってるねんっ)、「おまえは父の敵を討つことも考えていないのかっ」と一喝したといいます。

以後、文覚は「頼朝の外交官」として活動を開始しました。

流罪の身なのにおかまいなく、後白河法皇の側近、藤原光能に会いに行き、平氏打倒を説得して、な、な、な~んと、後白河法皇から「平氏追討の院宣」を引き出すことに成功しています。この間、わずか一週間。

さらに一足先に入京した木曽義仲のもとに派遣され、平氏追討の手ぬるさや都での乱暴狼藉を糾弾しています。

正直、この文覚の行動力が無ければ、頼朝の挙兵の時期はズレてしまい、ひょっとしたら頼朝はチャンスを逸していたかもしれません。

平氏打倒の後、文覚上人は頼朝の深い信頼を得たようです。

壇ノ浦の戦いで平氏が滅亡する、とはよく言われることですが、あんがいと知られていないことを申しますと、平清盛の“直系”はしばらく生存していたのです。

というのも、平重盛の後継者は重盛、重盛の子が維盛、そしてなんとその子は生き延びて都に生存していたのです。
平維盛は、平家の都落ちのときに、宗盛らには従わず、入水自殺を図るのですが、その子“六代”は生き残っていたのです。(平正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛と正統直系五代続いた次の六代目ということで“六代”と呼ばれていたのでした。)

そして文覚は、頼朝に進言して、六代の助命嘆願をしているんですよね。
なんと頼朝はそれを認めています。
文覚はその子を神護寺に引き取り、出家させました。
本来ならば男子直系は処刑されてしかるべし。弟の義経の子などは容赦なく処刑している頼朝なのに、文覚の願いは聞き入れています。
文覚と頼朝は、一定の、何かしらの信頼関係があったとしか言えません。

頼朝の権勢を背景に、神護寺、教王護国寺(東寺)、東大寺、さらには江ノ島弁財天まで、これらの復興に尽力してそれらの荘園なども回復しています。
ものすごいバイタリティーです。

しかし… 慈円の人物鑑定は正しかったかもしれません。
とにかく頼朝以外の人々、側近や貴族たちから嫌われていたようで、頼朝の死後、宮中のさまざまな事件(おせっかいから関わっていたこともあったようで)に連座してついに佐渡へ流されてしまいます。

ところが後に許されて帰京。こりずに今度は後鳥羽上皇にケンカを売ります。

「おまえの政治はなっとらんっ」
「もう武士の世になっているのがわからんのかっ」

と、やってしまったものだから、隠岐島に流罪となりました。
そして、後に承久の乱に敗れて隠岐に流された後鳥羽上皇と“ご対面”。
「やはりおまえの言うことが正しかった」と後鳥羽上皇が文覚上人に謝った、というのは、よくできた後世のつくり話です。

実際は、対馬国に流罪となり、対馬に行きつく前に病死した、と言われています。