教科書から消えたもの 最初の○○ | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

教科書の説明の中で、

「最初の○○」

という表現をついぞ見かけなくなりました。現在40才以上の方々ですと。

「最初の鋳造貨幣」

は、「和同開珎」と習った方もけっこういると思います。

同様に、

「最初の征夷大将軍は坂上田村麻呂」
「武士で最初の太政大臣は平清盛」
「武士で最初の法律は御成敗式目」

などなど…

かつての教科書は「最初の○○」という表現が大好きでした。ところがビミョ~にこの表現がなくなっています。

古代だけに限って、かつての「最初の」という表現がついていて、今は教科書から無くなっている(すべての教科書というわけではありませんよ。ただ減少傾向にあるもの)を並べてみますと…

・推古天皇   最初の女性の天皇
・飛鳥文化   最初の仏教文化
・和同開珎   最初の鋳造貨幣
・坂上田村麻呂 最初の征夷大将軍
・平清盛    武士で最初の太政大臣

推古天皇は、「聖徳太子は、おばの推古天皇をたすけて…」というように、聖徳太子との続柄を示すなかで、女性であることがわかるように「おば」とサラリと流すようになりました。
色々理由を探ってみたのですが、どうやら「とりたてて」女性を強調することが差別に通じてしまいかねない、というような“配慮”からだそうです。
そういえば、女性に対しても最近は

「~女史」

とは言わず、「~氏」と表記・表現するようになっていて、法律の「少年」の定義も男子だけを指す言葉ではなくなりました。
女性を特別扱いしない、という考え方が底流にあるようです。

かつては、飛鳥文化は「最初の仏教文化」であると記述されていました。別にこれは誤りではありませんし、わたしも授業でこのように説明するときはあります。
ところが、教科書ではこの表現はなくなりつつあります。
わざわざ「最初の」と付けてしまうと、「最後の仏教文化」が気になってしまいますよね?

最初である何かの歴史的意義は、最後である何か、と、ある意味表裏一体です。最初を強調しすぎて最後がイマイチ意義を見出せない、となってしまうと、ちょっと龍等蛇尾の感が否めません。

「和同開珎」に関してはその理由は明確で、単純に「最初の」鋳造貨幣ではなかった、というだけのことです。
「最初だと思っていたら間違いだった」ということになれば、あたりまえですが「最初の」という表現は無くなってしまいます。

もともと史料的には和同開珎より以前の貨幣が存在していたことはわかっていた(鋳銭司という役所が天武天皇のころにあった)のですが、ブツが発見されていませんでした。
ところが、「富本銭」が発見され、「和同開珎」は最初の鋳造貨幣の座を譲り渡した、ということになるのですが、実はこの「富本銭」よりも古い貨幣があると推察されているので、現在の教科書では、ことさら「富本銭」を「最初の」と記述しない教科書も多くなりました。

坂上田村麻呂は「最初の征夷大将軍」ではありません。
坂上田村麻呂のかつての上司(田村麻呂が副官をしていた)大伴弟麻呂が記録上の最初の征夷大将軍であることがわかっています。(『日本紀略』「征夷大将軍」という記述の初見。794年に任命。)

ただ、征夷大将軍に関しては、「どこからが征夷大将軍なの?」という問題もあるんですよ。
つまり、後の征夷大将軍と同じ仕事をする役職なのに名称だけが違っていたとするなら、「最初の征夷大将軍」はもっと昔にさかのぼれるのでは? という考え方もできないわけではない…

蝦夷を征服する、という意味の将軍ならば…

巨勢麻呂は709年に「鎮東将軍」に任じられています。
多治比縣守は720年に「征夷将軍」に任じられています。
大伴家持は784年に「征東将軍」に任じられています。
紀古佐美は788年に「征東大将軍」に任じられています。
大伴弟麻呂は790年に「征東大使」に任じられています。

“あいまいさ”の回避から征夷大将軍の「最初」に言及しなくなった、というのが実際です。

昔は、平清盛は、「武士で最初の太政大臣」という“肩書き”で教科書には説明されていました。
塾の講師や学校の先生も、ついつい、自分が子どものときにこのように習ったので、こう説明してしまいますが、現在ではとりたてて、このように強調しなくなり、実際、教科書でもこのように書いているものはなくなりつつあります。

「武士で最初の太政大臣」と強調してしまうと、「じゃあ武士で最後の太政大臣は誰?」というのが気になりますし(最後は武家官位ならば徳川家斉なのですが)、何より、「じゃあ、武士ではない最初の太政大臣は誰?」というさらに“あいまいな”部分に立ち入らなくてはならなくなってしまいます。

最初の太政大臣は「大友皇子」なのか「高市皇子」なのか… いやいや、「藤原仲麻呂」は「太師」という名称だが実際は太政大臣だっただろ? という話になり、さらに死んでから太政大臣の位を贈られた人はどうするんだ? と、どんどん話がややこしくなる…
「人臣」で最初は藤原良房でよいだろ、と、なると「人臣」って言い方はどうなん? 天皇や皇族は人じゃないのか? などと、またまた話がややこしくなる…

 わざわざ「最初の」って言うの、やめませんか?

というような感じに現在の教科書ではなっています。

「平清盛は、武士で最初の太政大臣となった…」

という表現にかわって、中学の教科書では、ぐっとマニアックな表現がなされるようになっているのを知っていますか?

「平清盛は、朝廷の三位以上の位を得た最初の武士で…」

おお! こりゃあ、なかなかよいぞっ と、感心したのは私だけかもしれません。とても中学生が使う教科書とは思えないくらいちゃんとした記述です。(『日本文教出版』)

実は、平清盛が、太政大臣という地位にあることが、平氏政権にとっては、とくに重要な意味を持ちません。
ほとんど名誉職で、わずか3ヶ月で清盛は辞任しており、太政大臣であることが政権の拠り所になっていたのではないからです。

しかし、武家の中央政界への進出、という“象徴”として、平清盛は歴史的意味(教科書的意味)がある人物です。

律令制下では、「三位」以上を「公卿」としており、「四位」という地位は、藤原氏であっても傍系の者たちはこれを超えることはできず、中級貴族の終着点でした。
武家の棟梁でも、もっとも由緒ある桓武平氏や清和源氏であっても「従五位」からのスタートで「正四位」がゴール、というのが平安時代なのです。(ちなみに、後年、鎌倉幕府の執権も、最上位は「正四位上」まででした。)

武家が「三位」を超えたというのは、画期的な“事件”だったのです。

以下は蛇足ですが…

武家で最初に三位以上にのぼりつめたのは桓武平氏の平清盛…
では、清和源氏では誰でしょう??

征夷大将軍となった源頼朝でしょうか? それとも右大臣となった源実朝でしょうか?

いえいえ、平氏政権内で、清盛の信任を得ていた源頼政(源頼朝のおじさん)が、最初に「従三位」の位を得ました。「源三位入道」とはこの頼政のことになります。

一度、平清盛が「三位」の壁を突破してしまうと、にわかに値打ちが下がってしまって、源頼政が三位に就いた、という“名誉”は教科書には一行も出てこない、というわけです。