おもしろ江戸時代 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

以前に、江戸時代の話をいくつかしました(時代考証のときに)。一部重複しますが江戸時代の人々のいろいろな生活の話をしてみたいと思います。

ペリーが日本に来航したときに、「四つの驚き」がありました。

一つは、「日本人の学力の高さ」です。
これは、ちょっと間接的な理解だったのですが、伊能忠敬の作成した地図をみて驚いたことです。自分たちが測量して作成した江戸湾(現在の東京湾)の地形図よりも伊能忠敬が作成した地図のほうがはるかに精度が高く、それをきっかけに、日本のことを詳しく再調査しよう、と考えたようです。

たしかに、当時のヨーロッパに比べても日本の庶民の識字率は高く(欧米は領主階級以外の教育は遅れていました)、「寺子屋」による「読み・書き・そろばん」の“教育”はかなりの成果をあげていました。
欧米では「支配階級」が知識を独占していましたが、日本ではそのようなことはありません。

もう一つは、「公衆衛生」の質の高さです。
ペリーが江戸に入ったときの最初の感想は、

「この町は臭くない…」

でした。
欧米では、当時まだ下水道が完全ではなく、基本的に糞尿など大都市の場合は町の路上に捨てられていました。
パリやロンドンでは、道を歩いているとアパートメントの場合、窓から外へ汚物を投げ捨てていました。
中世以来のしきたりで、三度「捨てるぞ」と叫んでから窓から捨てた場合、下にいて歩行者が糞尿を頭からかぶっても、歩行者に非があるとされました。
男が壁側、女が車道側を歩く、というマナーも女性に糞尿がふりそそぐのを回避するために生まれた習慣ですし、女性のハイヒールも、糞尿で満ちた道路を古くときのためにカカトを高くしたものです。

江戸は周辺の農村と町が“契約”が結ばれていて、野菜と糞尿が「交換」されていました。
農村から樽に野菜を詰めて運び、町の人々に野菜を渡して、かわりに糞尿をひきとって、帰りはその樽に糞尿を入れて帰りました。
ただ、時々、交換比率でモメるときがあり、農民たちが糞尿を引き取らない、というトラブルも起こって、町が臭くなった、という記録も残っています。奉行所が仲介に入って、野菜と糞尿の交換比率を取り決めたりしたこともあったようだす。

糞尿は“身分”によって値打ちが違いました。
武家の糞尿は高く引き取られています。理由は「ええもん食べているから肥料としても極上になる」という“迷信”からでした。

ところで、野菜を運んで、帰りに糞尿が詰められた樽は、何度も洗浄せずに利用されていましたから、江戸に持ち込まれた野菜は糞尿まみれでした。
よって寄生虫はよく発生しましたし、道には糞尿がしたたり落ちて、それが乾燥し、風で飛散したりしたので、トラコーマも発症していたようです。
江戸の町医者の記録でも、眼病の患者が多かったことがわかっています。

三つめの「驚き」は、「江戸の公衆浴場が混浴であった」ということです。

江戸は、家に風呂を設けることを禁止していました。火事の原因になるからです。
よって銭湯がたくさんつくられ、現代にも続く東京の「銭湯文化」のもとになっています。

混浴は、江戸時代は「入れ込み」といい、寛政の改革のときなど、たびたび禁止されていますが、明治時代の初めまで、色々な銭湯が混浴でした。
江戸時代の「入浴」は、素っ裸ではあまり入りませんでした。「浴衣」は文字通り入浴の際に使用したもので、現在で言うならば水着着用の温泉のような感じなので、抵抗がなかったのかもしれません。

四つめの「驚き」は、意外に思われるかもしれませんが「女性の地位」の高さです。

え? 男尊女卑の風潮があったのでは?

という感想をお持ちの方も多いようですが、よくよく考えてみると、日本の女性というのは、ある分野においては対等、あるいは男以上に“権力”を持っていたと考えられます。

女子三従の道、といい、「子のときは親に従い、嫁に行ったら夫に従い、子が生まれたら子に従え」という“道徳”が説かれましたが、考えようによっては、親に従わない、夫に従わない、子に従わない女性がいたからこそ「そうしなさいっ」と説いたともいえるのです。

「ある分野」というのは、「家政」に関してです。
これは武家に関してもそうですが、「家」の中の経済は女性が支配していました。
男が介入しようとしても、「奥向きのことですから殿方の口のさしはさむことではございませんっ」とビシっと退けられました。
「男子厨房に入らず」という一見封建的な言葉も、「男子は厨房に入れてもらえなかった」というのが実態なのです。
「女が仕事に口出しするなっ」という言葉と表裏一体に、「男が奥向きのことに口出しするなっ」という言葉が存在していて、「質の違う世界での対等」がありました。
離婚も男から一方的に「三行半」をつきつけることができた、と、言われていますが、女が男に対して発している「三行半」もちゃんと残っているんですよ。

さて、開国後、外国人たちが江戸の町をめぐって驚いて記録していることの中に

「日本では、女が企業の主である場合が多く、男を使用人としている。」

ということでした。店主、すなわち“女将”が存在していることへの驚きです。
当時の欧米ではありえない光景でした。男女平等や民主主義を唱えていた欧米が、実質的には女性を蔑視していて、経営などに携われないことが多いのとはずいぶんと違います。

口では平等、実際は差別、が欧米。
口では差別、実際は対等、が日本。

といえる場合がけっこうありました。

働いている男が、妻にお金をすべて渡して女がそれを管理している、という家庭のありさまが、欧米人には驚きだったようです。

むしろ明治になってからのほうが、一般庶民の家庭にまで「家」の概念が持ち込まれました。(それは「民法」の制定が大きかったように思います。)

明治が近代、江戸が前近代で封建的、というのはある部分においてはイメージにすぎず、「江戸時代が夜」「明治が夜明け」というステロタイプが、広がってしまったせいだと思います。

政治史の理解と、社会史の理解は、同じ価値観や尺度で判断すると、誤解が生まれやすいと思うんですよね。

「身分」の移動も、後世語られるほどハードルは高くなかった、と、前に説明しました。
金を払うと武士にもなれましたし、武士が農民になることは「帰農」といって、昔の武士の生活にもどるので恥ではありませんでした。
「脱藩」が罪になるような描かれ方が、時代小説やドラマでは強調されていますが、財政に苦しんでいた藩は、下級藩士が「武士をやめてくれる」のは歓迎していて、「やめます」と申し出ても「ああそうですか」と平易に認めていました。

江戸時代は、元武士だった人物たちが、画家や小説家になったりする場合も多かったのです。

江戸時代はおもしろいネタが満載です。
コヤブ歴史堂でも、江戸時代の武士や町人の生活ぶりが浮き彫りになるように、解説していけたらなぁ、と、考えています。