前聖慎んで、法を将来に垂るることを得たり
後昆顧みて、誡めを既往に取らざらんや
前代の聖人たちは、身をつつしんで人の守るべき道を後世に教え諭している。
後世のわれわれは、歴史をふりかえり、過去のできごとから学ばなくてはならない。
「顧みて誡めを既往に取らざらんや」
は、わたしの好きな言葉になりました。
ドイツ帝国の宰相ビスマルクも、「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」と言うております。
経験をとくに語る人は多いのですが、どこか自慢であったり… しょせんは個別事象の個別対応。
より多くの普遍的なものは歴史から学ぶのがよい、と、ビスマルクは考えたようです。
ただ、まあ、歴史は「繰り返す」ということは、すなわち歴史から人間は何も学んでいない、ということも同時に示しているわけで、歴史から学べる人はごくごく限られている、ということですね。
『太平記』の序に書かれているこの言葉は、教訓、というより、諦念すら感じます。
「歴史をふりかえってごらん。これから話す物語は、いつかどこかで人類がやってきたことだってわかるからね」と言うているようです。
朝陽犯さざれども
残星光を奪はるる
朝日には星の光を犯すつもりはないが
明け方に残る星は、しぜんと光を奪われてしまう
『太平記』は語ります。幕府の権力者たちは、必ずしも朝廷を軽んじていたわけではないが、荘園では地頭が勢力を伸ばし、もともとの荘園領主はすっかり弱くなってしまった…
守護の地位は重くなったが、国司は軽んじられるようになった…
力がある者は、べつに弱者を退けるつもりはないけれど、そのふるまいによって自然とさらに格差がついていき、そうして排されていってしまうもの。
とめられぬ時勢の流れ、というのは歴史の中では必ずあります。
逆行しようとしても、なんとかくいとめようとしても、しょせんは無理…
歴史の中ではよくみられる光景です。
天目山の武田勝頼、小田原城の北条氏政・氏直、大坂の役の豊臣家…
天地は定まれる主なく
日月に定まれる時なし
挙ぐるに三才あり
強いて三綱あり
之を以て之を謂ふ 如夢幻泡影と
「三才」とは天・地・人。
「三綱」とは君臣・父子・夫婦の道。
定まれる主なし… あっという間に月日が流れる…
日野資朝が処刑されるときの言葉なのですが、ここで語られていることは、『太平記』に貫かれている一つの精神でもあります。
君臣・父子・夫婦… 『太平記』でとりあげられているエピソードの大きな三つのテーマともいえますが、これらはすべて「夢・幻・泡・影」のように儚いものである、と…
蛟龍は深淵の底を保つ
もし浅渚に游べは漁網、釣者の愁へあり
蛟龍は常に深い淵の底に生きている。
もし浅瀬で漂うようなことがあれば、網や釣り針にかかるおそれがある。
大望のある者は、身をつつしんで命をまっとうし、重大な事柄においてこそ功績を立てるべきである。つまらぬことにうかうかと関わり、軽々しく出かけていってはいけない、ということです。
この言葉は、新田義貞の死のときに語られるものですが、『太平記』に限らず、この教訓を守って成功した者、この教訓を守れず滅んだ者、歴史の中ではたくさん見られます。
さて、『太平記』は、足利義詮の死と、細川頼之の登場で
“中夏無為”の代
つまり平和が訪れた、ということで閉じられます。
『太平記』の終わり方…
なんだか、為政者たちの努力で平和がおとずれた(人為によってもたらされた)のではないような終わり方です。
やってきたことすべて無駄、けっきょく、混乱をもたらした人々がみんな死んで、気が付いたら平和になっていました、という感じ…
「太平記には月を見ず」
という評があります。
『平家物語』に比して“月”すなわち情緒や風雅に欠ける、というわけです。
しかし、「太平記には星あり」です。個性のある、オールスターの競演です。
人間模様がおもしろい。
鹿ケ谷の陰謀。
これは高校の教科書にはふつーに出てくる事件です。
内容は、いたってシンプルで、「おごる平氏」の失脚をたくらみ、反平氏の“同志”たちが信西の子が所有する別荘で会合を開いた、というものです。
メンバーは、後白河法皇、藤原成親、西光、俊寛、多田行綱ら他5名ほど…
ところがこのうち、多田行綱が平清盛に密告し、事が露見しました。
教科書的には、「平氏の政治に対する反感が高まった」例として取り上げられています。
西光が召喚され、拷問を受けます。で、すべてを自白させた上で処刑しました。
妹が重盛の妻である藤原成親も拘束されることになりました。
成親はいったんは助命されましたが、備前に流され、なんと餓死させられます…
俊寛は喜界島へ流罪…
この後、後白河法皇と清盛の対立は深刻化し、治承三年の政変、つまり後白河法皇の幽閉、政界からの排除をもたらします。
ただ… この事件は、実は発生当時から、「なんかおかしい」と言われていたものなんです。
ほんとうに「平氏打倒の謀議」が鹿ケ谷でおこなわれていたのでしょうか…
清盛から呼び出された西光も成親も、まったくふだんと変わった様子もなく、これに応じています。
西光は自白した後、誰にも会うことなくただちに処刑されている…
後白河法皇も、
「こはされば何事ぞや」
と、何やらマジでちんぷんかんぷん…
「え、どしたんどしたん? どゆこと?」というような驚き方をしていたようです。
「御咎あるべしとも思し召さず」
いったい何か罪があるのか? 集まって話をしただけではないか???
鹿ケ谷の陰謀、は、西光や成親の陰謀ではなく、清盛の陰謀だったのではないのか、ということです。
実は、この事件が起こる前の状況にヒントがあります。
西光には、子どもがいて(藤原師高)加賀守に任じられていました。師高は、「遥任」といって現地におもむかない国司で、弟(藤原師経)を自分の代理(目代)として北陸に派遣して支配させていたのです。
ところがこの師経が、比叡山の末寺(白山の寺院)ともめごとを起こし(荘園と国の土地との境界争い?)、師経がその寺を襲撃しているんですよね。
比叡山はもともと北陸にたくさん関連する荘園を持っていて、平氏とも深く連携していました。
一方が本山の比叡山をたより、もう一方が院の近臣、西光や藤原成親をたよる…
地方の対立が宮廷の対立をいっそう深刻化させてしまいました。
比叡山の僧兵たちが、大挙して京都に侵入、大暴れする、という事件になりました。
神輿に矢が射込まれる、という不祥事も発生し、後白河法皇のとりなしで、ようやくおさまり、事件は比叡山に有利な裁決となりました。
師高、師経に罪がありとされたのです。
ここから二人の父である西光が“暗躍”し、師高にはもともと罪がない、と、法皇にうったえ、さらには事件の背後には、平清盛とつながっている天台座主(比叡山のいちばんえらいお坊さん)の明雲がいて、こいつが黒幕だったのです、と、述べ立てました。
思えば、これが西光の“陰謀”だったのでしょう。
後白河法皇は、明雲の逮捕を命じ、天台座主の地位を解任され、伊豆国に流罪となりました。
ところが比叡山は猛烈に反発。伊豆に流されていく途中で、僧兵たちが明雲を奪還、延暦寺に連れ帰るという事態となりました。
後白河法皇は激怒します。
ただちに、平重盛、宗盛が呼び出されました。
二人は、おそるべき指令を後白河法皇から受けます。
「比叡山を焼き討ちにせよ。坂本口を閉鎖してしまえっ」
そんな命令をはい、そうですか、と受けるわけにはいきません。ただちに父の清盛に知らせました。
清盛は、あわてて上洛し、後白河法皇と面会し、説得しようとしますが、法皇は、比叡山を何がなんでも焼き打ちせよっ と譲りません。
そうして出撃は6月2日に決定しました。
で、なんとその前日の6月1日に“鹿ケ谷の陰謀”が発覚したんです。
デキすぎてませんか?
これ、どう考えても、比叡山延暦寺の焼き打ちを阻止するために、清盛が起こした西光緊急逮捕劇だったのではないでしょうか…
おそらく、比叡山の焼き打ちについて、後白河法皇と西光や藤原成親らが会合して話し合っていたのが実際だったと思います。
ひょっとすると酒も入った席で、清盛の悪口の一つや二つは出たかもしれません。
清盛は、これを、めっちゃ拡大解釈して事件にし、比叡山焼き打ちそのものをウヤムヤに終わらせることに成功したのではないでしょうか。
気ままな側近政治をくりかえす後白河法皇に、いいかげんうんざりしていた平清盛の苦肉の策だったような気がします。
マジギレ寸前平清盛… 次、なんかあったらキレっからなっ
そしてその「次」が治承三年の政変だった、というわけです。
これは高校の教科書にはふつーに出てくる事件です。
内容は、いたってシンプルで、「おごる平氏」の失脚をたくらみ、反平氏の“同志”たちが信西の子が所有する別荘で会合を開いた、というものです。
メンバーは、後白河法皇、藤原成親、西光、俊寛、多田行綱ら他5名ほど…
ところがこのうち、多田行綱が平清盛に密告し、事が露見しました。
教科書的には、「平氏の政治に対する反感が高まった」例として取り上げられています。
西光が召喚され、拷問を受けます。で、すべてを自白させた上で処刑しました。
妹が重盛の妻である藤原成親も拘束されることになりました。
成親はいったんは助命されましたが、備前に流され、なんと餓死させられます…
俊寛は喜界島へ流罪…
この後、後白河法皇と清盛の対立は深刻化し、治承三年の政変、つまり後白河法皇の幽閉、政界からの排除をもたらします。
ただ… この事件は、実は発生当時から、「なんかおかしい」と言われていたものなんです。
ほんとうに「平氏打倒の謀議」が鹿ケ谷でおこなわれていたのでしょうか…
清盛から呼び出された西光も成親も、まったくふだんと変わった様子もなく、これに応じています。
西光は自白した後、誰にも会うことなくただちに処刑されている…
後白河法皇も、
「こはされば何事ぞや」
と、何やらマジでちんぷんかんぷん…
「え、どしたんどしたん? どゆこと?」というような驚き方をしていたようです。
「御咎あるべしとも思し召さず」
いったい何か罪があるのか? 集まって話をしただけではないか???
鹿ケ谷の陰謀、は、西光や成親の陰謀ではなく、清盛の陰謀だったのではないのか、ということです。
実は、この事件が起こる前の状況にヒントがあります。
西光には、子どもがいて(藤原師高)加賀守に任じられていました。師高は、「遥任」といって現地におもむかない国司で、弟(藤原師経)を自分の代理(目代)として北陸に派遣して支配させていたのです。
ところがこの師経が、比叡山の末寺(白山の寺院)ともめごとを起こし(荘園と国の土地との境界争い?)、師経がその寺を襲撃しているんですよね。
比叡山はもともと北陸にたくさん関連する荘園を持っていて、平氏とも深く連携していました。
一方が本山の比叡山をたより、もう一方が院の近臣、西光や藤原成親をたよる…
地方の対立が宮廷の対立をいっそう深刻化させてしまいました。
比叡山の僧兵たちが、大挙して京都に侵入、大暴れする、という事件になりました。
神輿に矢が射込まれる、という不祥事も発生し、後白河法皇のとりなしで、ようやくおさまり、事件は比叡山に有利な裁決となりました。
師高、師経に罪がありとされたのです。
ここから二人の父である西光が“暗躍”し、師高にはもともと罪がない、と、法皇にうったえ、さらには事件の背後には、平清盛とつながっている天台座主(比叡山のいちばんえらいお坊さん)の明雲がいて、こいつが黒幕だったのです、と、述べ立てました。
思えば、これが西光の“陰謀”だったのでしょう。
後白河法皇は、明雲の逮捕を命じ、天台座主の地位を解任され、伊豆国に流罪となりました。
ところが比叡山は猛烈に反発。伊豆に流されていく途中で、僧兵たちが明雲を奪還、延暦寺に連れ帰るという事態となりました。
後白河法皇は激怒します。
ただちに、平重盛、宗盛が呼び出されました。
二人は、おそるべき指令を後白河法皇から受けます。
「比叡山を焼き討ちにせよ。坂本口を閉鎖してしまえっ」
そんな命令をはい、そうですか、と受けるわけにはいきません。ただちに父の清盛に知らせました。
清盛は、あわてて上洛し、後白河法皇と面会し、説得しようとしますが、法皇は、比叡山を何がなんでも焼き打ちせよっ と譲りません。
そうして出撃は6月2日に決定しました。
で、なんとその前日の6月1日に“鹿ケ谷の陰謀”が発覚したんです。
デキすぎてませんか?
これ、どう考えても、比叡山延暦寺の焼き打ちを阻止するために、清盛が起こした西光緊急逮捕劇だったのではないでしょうか…
おそらく、比叡山の焼き打ちについて、後白河法皇と西光や藤原成親らが会合して話し合っていたのが実際だったと思います。
ひょっとすると酒も入った席で、清盛の悪口の一つや二つは出たかもしれません。
清盛は、これを、めっちゃ拡大解釈して事件にし、比叡山焼き打ちそのものをウヤムヤに終わらせることに成功したのではないでしょうか。
気ままな側近政治をくりかえす後白河法皇に、いいかげんうんざりしていた平清盛の苦肉の策だったような気がします。
マジギレ寸前平清盛… 次、なんかあったらキレっからなっ
そしてその「次」が治承三年の政変だった、というわけです。
ヘラクレスの選択ってご存知ですか?
事にのぞんで、どちらか選ばなくてはならなくなったとき、あえて困難なほうを選ぶことを「ヘラクレスの選択」といいます。
生徒たちにも、若いうちは、楽なほう、安易なほうを選ぶのではなく、どちらか迷ったとき、あえて難しいほうを選んでいったほうがよい、そうすることによって成長できるのだ、という話をよくします。
ただ、実際、生きていく中で、のぞんで「ヘラクレスの選択」をする場合もあれば、結果として「ヘラクレスの選択」にならざるをえない、という場合もあります。
べつに手を抜くために選んだことではなくても、良かれと思って選んだことが困難である場合などはいくらでもあるからです。
前者の選択をした人物は高山右近、後者の選択をした人物は山中鹿之介、だった、というべきでしょうか…
高山右近は、キリシタン大名として有名です。
洗礼を受けて、“ジュスト=ウコン”と名乗ったのはなんと12才のときでした。
城主となったのもわずか21才。そのとき、宣教師ルイス=フロイスが彼と会っていて、高山右近のひととなりを記録してくれています。
明晰な知性 聡明 天賦の才あり 雄弁
ルイス=フロイスは、キリシタンに対しておおむね好意的な評価をする人物ですが、それにしても高い評価を与えています。
その、高山右近の最初の“ヘラクレスの選択”が35才のときにやってきました。
1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出したからです。
キリシタン大名である自分は、信仰を捨てて秀吉参加の大名になるべきか、それとも領地を捨てて、ひとりのキリシタンとなるべきか…
彼は、ためらいなく、大名であることを捨てました。
キリシタン大名であったけれど、大名あることを捨てなかった小西行長は、高山右近をしばらくの間、自分の領地にかくまっていました。
しかし、彼の能力を惜しむ大名は数多く、加賀の前田利家もその一人でした。利家は加賀に高山右近をまねき、彼を1万5000石で召し抱えました。
いっきに大名となったも同然です。なんと金沢に教会を建て、北陸へのキリスト教布教は高山右近によって進められたのです。
しかし、ふたたび、“ヘラクレスの選択”のときがきました。
1614年、徳川家康の発令していた禁教令により、国外追放を命じられたのです。
このとき、もう60才を超えていたのですが、彼はキリシタンであることを捨てず、雪の積もった北陸を、馬にも籠にも乗らず、なんと徒歩で、あたかもイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼったことにならったかのごとく、ひたすら歩き続けました。
そうして妻、娘、孫と、友人家族を連れて長崎に向かい、そこからスペインの船に乗って出航します。
いったいどこへ??
高山右近がむかったのは、フィリピンのマニラでした。
信仰篤き“ジュスト=ウコン”は、かれの受難の道のりとともに、現地でたちまち有名となり、多くの人たちが彼を慕うようになったといいます。
名誉も地位も捨てて信仰に生きた男…
が、しかし、彼は病にたおれて闘病40日、63才で天国へと召されることになりました。
彼の死をいたむミサは、異例の9日間おこなわれたといいますから、宣教師なみの扱いです。
他人からみれば、どうしてそんな苦しい選択をし続けたのだろう、もっとうまく立ち回れたろうに、と、思うようなことも、あんがい本人にとっては幸せな選択である場合も多いと思うのです。
中世から近世へとすさまじい摩擦音を立てて回転していくこの時代にあって、なかなかに、鮮やかな生き方をした人物であったと思います。
事にのぞんで、どちらか選ばなくてはならなくなったとき、あえて困難なほうを選ぶことを「ヘラクレスの選択」といいます。
生徒たちにも、若いうちは、楽なほう、安易なほうを選ぶのではなく、どちらか迷ったとき、あえて難しいほうを選んでいったほうがよい、そうすることによって成長できるのだ、という話をよくします。
ただ、実際、生きていく中で、のぞんで「ヘラクレスの選択」をする場合もあれば、結果として「ヘラクレスの選択」にならざるをえない、という場合もあります。
べつに手を抜くために選んだことではなくても、良かれと思って選んだことが困難である場合などはいくらでもあるからです。
前者の選択をした人物は高山右近、後者の選択をした人物は山中鹿之介、だった、というべきでしょうか…
高山右近は、キリシタン大名として有名です。
洗礼を受けて、“ジュスト=ウコン”と名乗ったのはなんと12才のときでした。
城主となったのもわずか21才。そのとき、宣教師ルイス=フロイスが彼と会っていて、高山右近のひととなりを記録してくれています。
明晰な知性 聡明 天賦の才あり 雄弁
ルイス=フロイスは、キリシタンに対しておおむね好意的な評価をする人物ですが、それにしても高い評価を与えています。
その、高山右近の最初の“ヘラクレスの選択”が35才のときにやってきました。
1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出したからです。
キリシタン大名である自分は、信仰を捨てて秀吉参加の大名になるべきか、それとも領地を捨てて、ひとりのキリシタンとなるべきか…
彼は、ためらいなく、大名であることを捨てました。
キリシタン大名であったけれど、大名あることを捨てなかった小西行長は、高山右近をしばらくの間、自分の領地にかくまっていました。
しかし、彼の能力を惜しむ大名は数多く、加賀の前田利家もその一人でした。利家は加賀に高山右近をまねき、彼を1万5000石で召し抱えました。
いっきに大名となったも同然です。なんと金沢に教会を建て、北陸へのキリスト教布教は高山右近によって進められたのです。
しかし、ふたたび、“ヘラクレスの選択”のときがきました。
1614年、徳川家康の発令していた禁教令により、国外追放を命じられたのです。
このとき、もう60才を超えていたのですが、彼はキリシタンであることを捨てず、雪の積もった北陸を、馬にも籠にも乗らず、なんと徒歩で、あたかもイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼったことにならったかのごとく、ひたすら歩き続けました。
そうして妻、娘、孫と、友人家族を連れて長崎に向かい、そこからスペインの船に乗って出航します。
いったいどこへ??
高山右近がむかったのは、フィリピンのマニラでした。
信仰篤き“ジュスト=ウコン”は、かれの受難の道のりとともに、現地でたちまち有名となり、多くの人たちが彼を慕うようになったといいます。
名誉も地位も捨てて信仰に生きた男…
が、しかし、彼は病にたおれて闘病40日、63才で天国へと召されることになりました。
彼の死をいたむミサは、異例の9日間おこなわれたといいますから、宣教師なみの扱いです。
他人からみれば、どうしてそんな苦しい選択をし続けたのだろう、もっとうまく立ち回れたろうに、と、思うようなことも、あんがい本人にとっては幸せな選択である場合も多いと思うのです。
中世から近世へとすさまじい摩擦音を立てて回転していくこの時代にあって、なかなかに、鮮やかな生き方をした人物であったと思います。
学校の授業で、「武士と荘園」というテーマで10~11世紀の話をしています。
10世紀は、最後の班田がおこなわれた時期です。(902年)
もともと、班田収授は、一定の年齢になると土地が付与され、それにともなって課税がなされ、死ねば返す、という制度でした。
それまでは、「人」に税がかかっていた時代でした。
ところが、10世紀の班田を最後に収授がおこなわれなくなります。
それまでは、戸籍で対象者が5人いれば5人分班田されて、死ねば返還しました。
ところが班田が最後となると、家族構成が10人になろうが、2人になろうがずっと5人分の税を払うことになります。
「土地」に税がかかる時代、に、変わったのです。
それまでの「租」は「官物」と呼ばれるようになり、「庸・調」は「臨時雑役」と呼ばれるようになりました。
口分田は、返さなくなったので、その「家族の土地」、つまりその人の名前でよばれるようになったので「名田」とよばれるようになります。
墾田永年私財法が出されて以来(743年)、貴族たちは、農民たちをつかって新しく土地を開き、荘園をふやしていきます。また高級貴族は、自分たちは「税をおさめなくてもよい」「役人が土地に立ち入れない」という不輸・不入の権という特権を得ていく…
農民の中には貴族から土地を借りて耕す者、結果、富農となって新たに土地を切り開く者(開発領主)も出てきました。
で、特権を持つ貴族に土地を寄付した「形」にして、自分の土地を貴族の土地である、ということにしてもらう… いわば名前を借りる、という形で、自分はその土地の管理人(荘官)となって今までどーりに生活していく…
こういうことが地方で進行していくことになります。(このあたりの詳細は拙著『超軽っ日本史』でまとめています。機会があればお読みください。)
しかし、地方の政治は乱れているため、治安が悪く、自分の土地は自分で守らなくてはならなくなりました。
こうして耕作農民は武装して、自分の土地を守る、「武力」を保持して地域に影響をおよぼす、という人たちも出てくるようになりました。地方の武士のおこりです。
こういう地方の有力者が、中央からやってきた国司に仕えたり(在庁官人)や荘園を持つ貴族と対立したり手をくんだり、そういう人を“棟梁”とあおいだり… そんな流れで、平氏や源氏の武士団がふくらんていくことになります。
地方の荘園に暮らすようになった貴族(特権を持つ)のもとに仕えるようになった地方の武士(開発領主)たち… 治安が悪い地方で強盗や盗人に苦しむ農民を助けたり、強欲な国司をこらしめたり…
10世紀は地方の乱の時代でした。
関東地方と瀬戸内地方で、平将門の乱や藤原純友の乱などがおこりますが、貴族は武士の乱を武士を用いなくてはおさえられなくなっていました。
まず、武士団としては源氏が近畿地方で台頭します。よく源氏が東国、平氏が西国、といわれますが、それははるか後年の話で、最初は源氏は近畿、むしろ関東は平氏の基盤でした。
清和源氏は、文字通り、清和天皇の孫、源経基そしてその子の満仲から力を伸ばしていきます。
満仲の子が、摂津源氏の頼光、河内源氏の頼信ということになります。
ところで…
みなさんは、子どものとき、「おとぎ話」「昔話」を読み聞かされた世代でしょうか。
たとえば「桃太郎」や「かちかち山」など。
最近は、子ども向けに、すっかりとその話の内容が改造されています。
桃太郎と、猿・雉・犬は「主従」ではなく「仲間」として描かれ、鬼ヶ島へ向かう船は、四人(一人と三匹?)で“力を合わせて”漕いで行きます。
「かちかち山」では、もはや最後の場面で悪いタヌキは殺されません。「助けてください」とタヌキ、「よし、じゃあゆるしてやろう」とウサギ。仲よくおじさんとおばあさんとウサギとタヌキは楽しく暮らしました、という話になっています。
あれ? おばあさん、殺されなかったの?? と、なるよう話になってしまっています。
もともとは、悪いタヌキがおばあさんを殺害、おそるべきことに、おばあさんの死体をバラバラにして鍋にし(ばばぁ汁と称して)、それをおじいさんに食べさせるという極悪非道なことをさせます。
ウサギはタヌキをだまして泥の船に… 沈んでおぼれそうになるタヌキがウサギに助けをもとめますが、「おまえみたいな悪いやつはこうしてくれるっ」と、船の櫂でタヌキを撲殺し、タヌキの脳みそが飛び散りました~ で、話が終わるのが真正の「かちかち山」です。
子ども向け(というか昔の子どもはこんな話をふうに聞いていました)にすっかりマイルドに改造されています。
「子ども向け」改造といえば、さきの「桃太郎」も、かなり改造されているのをご存知ですか?
物語の冒頭、川から桃の実が流れてくるのは同じなのですが、大きな桃ではなくフツーの桃が流れてきます。
その桃をおばあさんが拾って食べるとあら不思議。おばあさんは、たちまち若返って美しい娘さんに…
で、その夜、おじいさんと若返ったおばあさんが「がんばって」、そして産まれた子どもが桃太郎、というのが「もともとの」桃太郎のお話しだったんです。(たしかにこれは子ども向けではないっ)
で、みなさんは「金太郎」はご存知でしょうか?
「桃太郎」や「かちかち山」は、あきらかにフィクションですが、「金太郎」は実在(でも実際はその存在は疑われているのですが)の武士の子ども時代のお話しなので、いわゆる「おとぎ話」とはちょっと性格が異なる話なんですよね。
源頼光の家来で「頼光四天王」とよばれた、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武、坂田公時のうち、坂田公時(さかたきんとき)の幼名が金太郎なのです。
彼らは、それぞれ地方の有力な武士でしたが、頼光に仕えて武士団を形成していきます。
彼らの“伝説”には、鬼退治や妖怪退治、乱暴な動物たちを従える、という話がよく出てきます。
これって… 地方の乱れの中で、治安の乱れを回復していく有力武士たちの話が下敷きになっているんではないでしょうか…
悪いタヌキをこらしめる… 農民たちから財物をまき上げていく鬼たちをやっつける…
昔話は10世紀の武士の台頭を“反映”しているような気がします。
さてさて、河内源氏の源頼信は、11世紀(1028年)に関東地方で起こった平忠常の乱をしずめました。
中学受験をすませた子どもたちは、関東地方の乱、というとすぐに平将門の乱を思い出してしまいますが、源氏の関東進出のきっかけとなった平忠常の乱を忘れてはいけません。
平忠常の乱をしずめようとしていたのは、平直方という人物なのですが、源頼信が派遣されてくると、「この御方こそ武家の棟梁にふさわしいっ」とホレこみ、自分の娘を、頼信の子の頼義と結婚させました。
歴史というのは、なかなかおもしろいものです。
平直方の子孫は、北条時政。
源頼信の子孫は、源頼朝。
150年以上後、自分たちの子孫が、まったく同じように手を結び、平氏と対決することになろうとは…
いや、北条時政も源頼朝も、自分たちのご先祖の“不思議な縁”を知っていたのかもしれません。
「ああ、これはまさに奇縁だ」と、北条時政は源頼朝を武家の棟梁にかつぐことを決心したのかもしれません…
むろん、そもそもこの話、北条氏-源氏の結びつきを劇的に仕立てるための、「つくり話」なのかもしれません。
いずれにせよ、“伝説”とはよくできた話だ、というわけです。
10世紀は、最後の班田がおこなわれた時期です。(902年)
もともと、班田収授は、一定の年齢になると土地が付与され、それにともなって課税がなされ、死ねば返す、という制度でした。
それまでは、「人」に税がかかっていた時代でした。
ところが、10世紀の班田を最後に収授がおこなわれなくなります。
それまでは、戸籍で対象者が5人いれば5人分班田されて、死ねば返還しました。
ところが班田が最後となると、家族構成が10人になろうが、2人になろうがずっと5人分の税を払うことになります。
「土地」に税がかかる時代、に、変わったのです。
それまでの「租」は「官物」と呼ばれるようになり、「庸・調」は「臨時雑役」と呼ばれるようになりました。
口分田は、返さなくなったので、その「家族の土地」、つまりその人の名前でよばれるようになったので「名田」とよばれるようになります。
墾田永年私財法が出されて以来(743年)、貴族たちは、農民たちをつかって新しく土地を開き、荘園をふやしていきます。また高級貴族は、自分たちは「税をおさめなくてもよい」「役人が土地に立ち入れない」という不輸・不入の権という特権を得ていく…
農民の中には貴族から土地を借りて耕す者、結果、富農となって新たに土地を切り開く者(開発領主)も出てきました。
で、特権を持つ貴族に土地を寄付した「形」にして、自分の土地を貴族の土地である、ということにしてもらう… いわば名前を借りる、という形で、自分はその土地の管理人(荘官)となって今までどーりに生活していく…
こういうことが地方で進行していくことになります。(このあたりの詳細は拙著『超軽っ日本史』でまとめています。機会があればお読みください。)
しかし、地方の政治は乱れているため、治安が悪く、自分の土地は自分で守らなくてはならなくなりました。
こうして耕作農民は武装して、自分の土地を守る、「武力」を保持して地域に影響をおよぼす、という人たちも出てくるようになりました。地方の武士のおこりです。
こういう地方の有力者が、中央からやってきた国司に仕えたり(在庁官人)や荘園を持つ貴族と対立したり手をくんだり、そういう人を“棟梁”とあおいだり… そんな流れで、平氏や源氏の武士団がふくらんていくことになります。
地方の荘園に暮らすようになった貴族(特権を持つ)のもとに仕えるようになった地方の武士(開発領主)たち… 治安が悪い地方で強盗や盗人に苦しむ農民を助けたり、強欲な国司をこらしめたり…
10世紀は地方の乱の時代でした。
関東地方と瀬戸内地方で、平将門の乱や藤原純友の乱などがおこりますが、貴族は武士の乱を武士を用いなくてはおさえられなくなっていました。
まず、武士団としては源氏が近畿地方で台頭します。よく源氏が東国、平氏が西国、といわれますが、それははるか後年の話で、最初は源氏は近畿、むしろ関東は平氏の基盤でした。
清和源氏は、文字通り、清和天皇の孫、源経基そしてその子の満仲から力を伸ばしていきます。
満仲の子が、摂津源氏の頼光、河内源氏の頼信ということになります。
ところで…
みなさんは、子どものとき、「おとぎ話」「昔話」を読み聞かされた世代でしょうか。
たとえば「桃太郎」や「かちかち山」など。
最近は、子ども向けに、すっかりとその話の内容が改造されています。
桃太郎と、猿・雉・犬は「主従」ではなく「仲間」として描かれ、鬼ヶ島へ向かう船は、四人(一人と三匹?)で“力を合わせて”漕いで行きます。
「かちかち山」では、もはや最後の場面で悪いタヌキは殺されません。「助けてください」とタヌキ、「よし、じゃあゆるしてやろう」とウサギ。仲よくおじさんとおばあさんとウサギとタヌキは楽しく暮らしました、という話になっています。
あれ? おばあさん、殺されなかったの?? と、なるよう話になってしまっています。
もともとは、悪いタヌキがおばあさんを殺害、おそるべきことに、おばあさんの死体をバラバラにして鍋にし(ばばぁ汁と称して)、それをおじいさんに食べさせるという極悪非道なことをさせます。
ウサギはタヌキをだまして泥の船に… 沈んでおぼれそうになるタヌキがウサギに助けをもとめますが、「おまえみたいな悪いやつはこうしてくれるっ」と、船の櫂でタヌキを撲殺し、タヌキの脳みそが飛び散りました~ で、話が終わるのが真正の「かちかち山」です。
子ども向け(というか昔の子どもはこんな話をふうに聞いていました)にすっかりマイルドに改造されています。
「子ども向け」改造といえば、さきの「桃太郎」も、かなり改造されているのをご存知ですか?
物語の冒頭、川から桃の実が流れてくるのは同じなのですが、大きな桃ではなくフツーの桃が流れてきます。
その桃をおばあさんが拾って食べるとあら不思議。おばあさんは、たちまち若返って美しい娘さんに…
で、その夜、おじいさんと若返ったおばあさんが「がんばって」、そして産まれた子どもが桃太郎、というのが「もともとの」桃太郎のお話しだったんです。(たしかにこれは子ども向けではないっ)
で、みなさんは「金太郎」はご存知でしょうか?
「桃太郎」や「かちかち山」は、あきらかにフィクションですが、「金太郎」は実在(でも実際はその存在は疑われているのですが)の武士の子ども時代のお話しなので、いわゆる「おとぎ話」とはちょっと性格が異なる話なんですよね。
源頼光の家来で「頼光四天王」とよばれた、渡辺綱、碓井貞光、卜部季武、坂田公時のうち、坂田公時(さかたきんとき)の幼名が金太郎なのです。
彼らは、それぞれ地方の有力な武士でしたが、頼光に仕えて武士団を形成していきます。
彼らの“伝説”には、鬼退治や妖怪退治、乱暴な動物たちを従える、という話がよく出てきます。
これって… 地方の乱れの中で、治安の乱れを回復していく有力武士たちの話が下敷きになっているんではないでしょうか…
悪いタヌキをこらしめる… 農民たちから財物をまき上げていく鬼たちをやっつける…
昔話は10世紀の武士の台頭を“反映”しているような気がします。
さてさて、河内源氏の源頼信は、11世紀(1028年)に関東地方で起こった平忠常の乱をしずめました。
中学受験をすませた子どもたちは、関東地方の乱、というとすぐに平将門の乱を思い出してしまいますが、源氏の関東進出のきっかけとなった平忠常の乱を忘れてはいけません。
平忠常の乱をしずめようとしていたのは、平直方という人物なのですが、源頼信が派遣されてくると、「この御方こそ武家の棟梁にふさわしいっ」とホレこみ、自分の娘を、頼信の子の頼義と結婚させました。
歴史というのは、なかなかおもしろいものです。
平直方の子孫は、北条時政。
源頼信の子孫は、源頼朝。
150年以上後、自分たちの子孫が、まったく同じように手を結び、平氏と対決することになろうとは…
いや、北条時政も源頼朝も、自分たちのご先祖の“不思議な縁”を知っていたのかもしれません。
「ああ、これはまさに奇縁だ」と、北条時政は源頼朝を武家の棟梁にかつぐことを決心したのかもしれません…
むろん、そもそもこの話、北条氏-源氏の結びつきを劇的に仕立てるための、「つくり話」なのかもしれません。
いずれにせよ、“伝説”とはよくできた話だ、というわけです。
武田信玄は、記念すべき第一回でも取り上げた人物でした。
なにしろ信玄は、戦国時代のビッグネームです。上杉謙信を単独でとりあげて武田信玄を単独で取り上げないのは、甲斐国(山梨県)の人々に対して申し訳がないというもの…
さてさて、にゃんたのマル秘ファイルは、
『名将言行録』
でした。
この史料は「一級史料」(当時のもの)ではありませんし、江戸時代、特に大名や武家のための「教育」の教材として書かれたようなものですので、儒学や封建道徳など、戦国時代にはまだ広がっていなかった価値観が色濃く盛り込まれています。
まったく別人の逸話が、そのまま転用されている場合もあり、いわゆる史実を研究するときには、あまり信用できないものと考えられています。
番組の中でも何度も申し上げてはいますが、「伝説」等に関しては、あきらかに誇張や虚構があることは間違いありませんが、その伝説が、何の根拠もなくその人物に纏わったものとして残されている、ということはありえないと思うんです。
「何か」あるから「そう書かれている」。
その人物の性格をもっともよく表しているからこそ、後世の人々も「ああ、あの人ならばありえるよね」と伝えていく…
コヤブ歴史堂では、人物の「ひととなり」をどう伝えていくのか? が、大きなテーマですから、「こんな話がこんな形で残っている」ということを、ありのままにお伝えし、解説していく、というように考えています。
「そんなバカな」が、なぜそうなのか、ということもまた大切な歴史の考証です。
さてさて、武田信玄の逸話として取り上げた最初の話は「野鳥を狩る男と若き信玄」でした。
「鳥刺し」の男が獲物をねらう…
そんな方法をみていた少年信玄が、「そんな方法は愚かだ」と、家来をたくさん集めて一斉に網を打ち、ごっそり獲ってしまう、というエピソードです。
これ、実は、織田信長の少年時代の話としても転用されることがある逸話で、時代小説や歴史ドラマなどでは、信玄よりも信長のエピソードとしてよく利用されているものです。
江戸時代、“信玄ネタ”は、旗本や諸大名の中では、大ウケするテッパンネタでした。
というのも、徳川家臣団(譜代衆)は、おもに、
三河以来の譜代衆
武田家滅亡後、家康の家臣となった譜代衆
関東地方に移ってから、家康の家臣となった譜代衆
という三つから構成されていました。
彼らは同じ家康の家臣たちなのですが、ちょっぴりお互いに「張り合っている」ところがあり、昔の自慢、ご先祖の自慢をついついしてしまい、系図の作成はもちろん、自身あるいはご先祖の“武勇伝”の記録をたくさん残そうとしました。
いつの時代でも(戦場などでも)若い者に対して「先代はすごかった」という話をしたがる年配の方々はおられますよね。
三河以来の譜代衆は、なんといっても「家康大好き」です。天下を家康がとった後は、旗本となって直接、将軍さまに会って話ができる特権を有しています。
彼らの好きな話は、むろん「家康すげぇ~」という話ですが、なんといえばよいでしょう、家康とともに若い頃から苦楽をともにしているので、他の家来たちは知らない、他の家臣たちは言えない「人間らしい家康エピソード」をたくさん知っています。
どこか、「おれたちだけの家康さま」という意識があって、「神君家康」ではない「人間家康」をおれたちは知っている、というところが「他の譜代衆と違うぜ」という心のよりどころになっています。
三方原の戦いで、武田信玄に負けて浜松城に逃げこんだとき、恐怖のあまりに脱糞した、なんて話は、よくよく考えたら天下人に対して無礼な話で、まっさきに後の歴史で「消去」されてしかるべきところですが、そういう話が代々伝えられている…
身近な、“親父”家康の話ができるのはおれたちだけさっ という自慢ですよね。
一方、旧武田家出身の家臣たち…
家康は、旧武田家の家臣たちをたくさん召し抱えました。
何しろ天下無敵といわれた武田軍団にいた武士たちです。戦国時代にあっては貴重な人材。
これを登用しないわけがない。井伊直政に命じて、武田軍団をそっくりそのまま家康の軍団に再編成されたくらいです。
彼らは、もちろん家康の家臣ですが、「うちのご先祖さまは、家康さますら苦戦なさった武田信玄公の家来だったのさっ」というところが彼らの心のよりどころです。
徳川家臣団の“武田信玄リスペクト”は尋常ではなく、甲州出身、信州出身の武士たちをたくさん召し抱え、信玄の肖像や刀剣、由来の品々をたくさん蒐集する者も出てきました。
江戸の商売人たちはしたたかで、「これは売れる」「商売になる」と思うと、全国各地から武田信玄の遺物を探し回り(場合によっては由来を捏造したり贋作をつくったりして)、旗本や大名たちに売りつけるようになりました。
武士たちの中でも、ちょっと学がある者は、「武田信玄伝説」を書物に著したり、「甲州軍学」というような“学問”や“兵法(ひょうほう)”を伝授すると称して道場を開いたりするような者もあらわれるようになりました。
このような流れの中で、江戸中期までに“武田信玄伝説”が完成していくことになります。
また、関東地方へ家康が移封されてから臣下になった者たち…
彼らは、元・北条氏の家臣たちです。徳川家康や武田信玄を主人とする他の譜代衆に対抗できるエピソードがほしい…
戦国大名の北条早雲や北条氏康を持ち上げる、ということに当然なります。
しかもしかも、北条氏康は、あの上杉謙信と戦って勝っているのだ、という史実が彼らの心のよりどころになります。
「自分のご先祖さまは、上杉謙信と戦っているのだ」というのが他の家来たちへの自慢です。
おもしろいもので、家康と信玄、信玄と謙信、氏康と謙信、というそれぞれの対決・対立の中で、一方をすごいと持ち上げるには、戦った相手もすごいほうが値打ちがあがるというもの。ライバルはすごいほうがこちらのすごさも強調されますからね。
家臣たちが宴会などで集まって、戦の手柄話に花が咲き、自分たちのネタが尽きると、当然、ご先祖さまの自慢話になる…
「上杉謙信と戦ってなぁ…」「おお、謙信さまとかっ!」「そうよ」「武田信玄は強かったんだぞ」「お、そうそうよく知っているな」「家康さまなんかこうだったらしいぞ」「まじか、そうか、わははははっ」
きっとみんなでうまい酒になったことでしょう。
かくして“英雄伝説”に磨きがかけられていった、というわけです。
なにしろ信玄は、戦国時代のビッグネームです。上杉謙信を単独でとりあげて武田信玄を単独で取り上げないのは、甲斐国(山梨県)の人々に対して申し訳がないというもの…
さてさて、にゃんたのマル秘ファイルは、
『名将言行録』
でした。
この史料は「一級史料」(当時のもの)ではありませんし、江戸時代、特に大名や武家のための「教育」の教材として書かれたようなものですので、儒学や封建道徳など、戦国時代にはまだ広がっていなかった価値観が色濃く盛り込まれています。
まったく別人の逸話が、そのまま転用されている場合もあり、いわゆる史実を研究するときには、あまり信用できないものと考えられています。
番組の中でも何度も申し上げてはいますが、「伝説」等に関しては、あきらかに誇張や虚構があることは間違いありませんが、その伝説が、何の根拠もなくその人物に纏わったものとして残されている、ということはありえないと思うんです。
「何か」あるから「そう書かれている」。
その人物の性格をもっともよく表しているからこそ、後世の人々も「ああ、あの人ならばありえるよね」と伝えていく…
コヤブ歴史堂では、人物の「ひととなり」をどう伝えていくのか? が、大きなテーマですから、「こんな話がこんな形で残っている」ということを、ありのままにお伝えし、解説していく、というように考えています。
「そんなバカな」が、なぜそうなのか、ということもまた大切な歴史の考証です。
さてさて、武田信玄の逸話として取り上げた最初の話は「野鳥を狩る男と若き信玄」でした。
「鳥刺し」の男が獲物をねらう…
そんな方法をみていた少年信玄が、「そんな方法は愚かだ」と、家来をたくさん集めて一斉に網を打ち、ごっそり獲ってしまう、というエピソードです。
これ、実は、織田信長の少年時代の話としても転用されることがある逸話で、時代小説や歴史ドラマなどでは、信玄よりも信長のエピソードとしてよく利用されているものです。
江戸時代、“信玄ネタ”は、旗本や諸大名の中では、大ウケするテッパンネタでした。
というのも、徳川家臣団(譜代衆)は、おもに、
三河以来の譜代衆
武田家滅亡後、家康の家臣となった譜代衆
関東地方に移ってから、家康の家臣となった譜代衆
という三つから構成されていました。
彼らは同じ家康の家臣たちなのですが、ちょっぴりお互いに「張り合っている」ところがあり、昔の自慢、ご先祖の自慢をついついしてしまい、系図の作成はもちろん、自身あるいはご先祖の“武勇伝”の記録をたくさん残そうとしました。
いつの時代でも(戦場などでも)若い者に対して「先代はすごかった」という話をしたがる年配の方々はおられますよね。
三河以来の譜代衆は、なんといっても「家康大好き」です。天下を家康がとった後は、旗本となって直接、将軍さまに会って話ができる特権を有しています。
彼らの好きな話は、むろん「家康すげぇ~」という話ですが、なんといえばよいでしょう、家康とともに若い頃から苦楽をともにしているので、他の家来たちは知らない、他の家臣たちは言えない「人間らしい家康エピソード」をたくさん知っています。
どこか、「おれたちだけの家康さま」という意識があって、「神君家康」ではない「人間家康」をおれたちは知っている、というところが「他の譜代衆と違うぜ」という心のよりどころになっています。
三方原の戦いで、武田信玄に負けて浜松城に逃げこんだとき、恐怖のあまりに脱糞した、なんて話は、よくよく考えたら天下人に対して無礼な話で、まっさきに後の歴史で「消去」されてしかるべきところですが、そういう話が代々伝えられている…
身近な、“親父”家康の話ができるのはおれたちだけさっ という自慢ですよね。
一方、旧武田家出身の家臣たち…
家康は、旧武田家の家臣たちをたくさん召し抱えました。
何しろ天下無敵といわれた武田軍団にいた武士たちです。戦国時代にあっては貴重な人材。
これを登用しないわけがない。井伊直政に命じて、武田軍団をそっくりそのまま家康の軍団に再編成されたくらいです。
彼らは、もちろん家康の家臣ですが、「うちのご先祖さまは、家康さますら苦戦なさった武田信玄公の家来だったのさっ」というところが彼らの心のよりどころです。
徳川家臣団の“武田信玄リスペクト”は尋常ではなく、甲州出身、信州出身の武士たちをたくさん召し抱え、信玄の肖像や刀剣、由来の品々をたくさん蒐集する者も出てきました。
江戸の商売人たちはしたたかで、「これは売れる」「商売になる」と思うと、全国各地から武田信玄の遺物を探し回り(場合によっては由来を捏造したり贋作をつくったりして)、旗本や大名たちに売りつけるようになりました。
武士たちの中でも、ちょっと学がある者は、「武田信玄伝説」を書物に著したり、「甲州軍学」というような“学問”や“兵法(ひょうほう)”を伝授すると称して道場を開いたりするような者もあらわれるようになりました。
このような流れの中で、江戸中期までに“武田信玄伝説”が完成していくことになります。
また、関東地方へ家康が移封されてから臣下になった者たち…
彼らは、元・北条氏の家臣たちです。徳川家康や武田信玄を主人とする他の譜代衆に対抗できるエピソードがほしい…
戦国大名の北条早雲や北条氏康を持ち上げる、ということに当然なります。
しかもしかも、北条氏康は、あの上杉謙信と戦って勝っているのだ、という史実が彼らの心のよりどころになります。
「自分のご先祖さまは、上杉謙信と戦っているのだ」というのが他の家来たちへの自慢です。
おもしろいもので、家康と信玄、信玄と謙信、氏康と謙信、というそれぞれの対決・対立の中で、一方をすごいと持ち上げるには、戦った相手もすごいほうが値打ちがあがるというもの。ライバルはすごいほうがこちらのすごさも強調されますからね。
家臣たちが宴会などで集まって、戦の手柄話に花が咲き、自分たちのネタが尽きると、当然、ご先祖さまの自慢話になる…
「上杉謙信と戦ってなぁ…」「おお、謙信さまとかっ!」「そうよ」「武田信玄は強かったんだぞ」「お、そうそうよく知っているな」「家康さまなんかこうだったらしいぞ」「まじか、そうか、わははははっ」
きっとみんなでうまい酒になったことでしょう。
かくして“英雄伝説”に磨きがかけられていった、というわけです。