武田信玄は、記念すべき第一回でも取り上げた人物でした。
なにしろ信玄は、戦国時代のビッグネームです。上杉謙信を単独でとりあげて武田信玄を単独で取り上げないのは、甲斐国(山梨県)の人々に対して申し訳がないというもの…
さてさて、にゃんたのマル秘ファイルは、
『名将言行録』
でした。
この史料は「一級史料」(当時のもの)ではありませんし、江戸時代、特に大名や武家のための「教育」の教材として書かれたようなものですので、儒学や封建道徳など、戦国時代にはまだ広がっていなかった価値観が色濃く盛り込まれています。
まったく別人の逸話が、そのまま転用されている場合もあり、いわゆる史実を研究するときには、あまり信用できないものと考えられています。
番組の中でも何度も申し上げてはいますが、「伝説」等に関しては、あきらかに誇張や虚構があることは間違いありませんが、その伝説が、何の根拠もなくその人物に纏わったものとして残されている、ということはありえないと思うんです。
「何か」あるから「そう書かれている」。
その人物の性格をもっともよく表しているからこそ、後世の人々も「ああ、あの人ならばありえるよね」と伝えていく…
コヤブ歴史堂では、人物の「ひととなり」をどう伝えていくのか? が、大きなテーマですから、「こんな話がこんな形で残っている」ということを、ありのままにお伝えし、解説していく、というように考えています。
「そんなバカな」が、なぜそうなのか、ということもまた大切な歴史の考証です。
さてさて、武田信玄の逸話として取り上げた最初の話は「野鳥を狩る男と若き信玄」でした。
「鳥刺し」の男が獲物をねらう…
そんな方法をみていた少年信玄が、「そんな方法は愚かだ」と、家来をたくさん集めて一斉に網を打ち、ごっそり獲ってしまう、というエピソードです。
これ、実は、織田信長の少年時代の話としても転用されることがある逸話で、時代小説や歴史ドラマなどでは、信玄よりも信長のエピソードとしてよく利用されているものです。
江戸時代、“信玄ネタ”は、旗本や諸大名の中では、大ウケするテッパンネタでした。
というのも、徳川家臣団(譜代衆)は、おもに、
三河以来の譜代衆
武田家滅亡後、家康の家臣となった譜代衆
関東地方に移ってから、家康の家臣となった譜代衆
という三つから構成されていました。
彼らは同じ家康の家臣たちなのですが、ちょっぴりお互いに「張り合っている」ところがあり、昔の自慢、ご先祖の自慢をついついしてしまい、系図の作成はもちろん、自身あるいはご先祖の“武勇伝”の記録をたくさん残そうとしました。
いつの時代でも(戦場などでも)若い者に対して「先代はすごかった」という話をしたがる年配の方々はおられますよね。
三河以来の譜代衆は、なんといっても「家康大好き」です。天下を家康がとった後は、旗本となって直接、将軍さまに会って話ができる特権を有しています。
彼らの好きな話は、むろん「家康すげぇ~」という話ですが、なんといえばよいでしょう、家康とともに若い頃から苦楽をともにしているので、他の家来たちは知らない、他の家臣たちは言えない「人間らしい家康エピソード」をたくさん知っています。
どこか、「おれたちだけの家康さま」という意識があって、「神君家康」ではない「人間家康」をおれたちは知っている、というところが「他の譜代衆と違うぜ」という心のよりどころになっています。
三方原の戦いで、武田信玄に負けて浜松城に逃げこんだとき、恐怖のあまりに脱糞した、なんて話は、よくよく考えたら天下人に対して無礼な話で、まっさきに後の歴史で「消去」されてしかるべきところですが、そういう話が代々伝えられている…
身近な、“親父”家康の話ができるのはおれたちだけさっ という自慢ですよね。
一方、旧武田家出身の家臣たち…
家康は、旧武田家の家臣たちをたくさん召し抱えました。
何しろ天下無敵といわれた武田軍団にいた武士たちです。戦国時代にあっては貴重な人材。
これを登用しないわけがない。井伊直政に命じて、武田軍団をそっくりそのまま家康の軍団に再編成されたくらいです。
彼らは、もちろん家康の家臣ですが、「うちのご先祖さまは、家康さますら苦戦なさった武田信玄公の家来だったのさっ」というところが彼らの心のよりどころです。
徳川家臣団の“武田信玄リスペクト”は尋常ではなく、甲州出身、信州出身の武士たちをたくさん召し抱え、信玄の肖像や刀剣、由来の品々をたくさん蒐集する者も出てきました。
江戸の商売人たちはしたたかで、「これは売れる」「商売になる」と思うと、全国各地から武田信玄の遺物を探し回り(場合によっては由来を捏造したり贋作をつくったりして)、旗本や大名たちに売りつけるようになりました。
武士たちの中でも、ちょっと学がある者は、「武田信玄伝説」を書物に著したり、「甲州軍学」というような“学問”や“兵法(ひょうほう)”を伝授すると称して道場を開いたりするような者もあらわれるようになりました。
このような流れの中で、江戸中期までに“武田信玄伝説”が完成していくことになります。
また、関東地方へ家康が移封されてから臣下になった者たち…
彼らは、元・北条氏の家臣たちです。徳川家康や武田信玄を主人とする他の譜代衆に対抗できるエピソードがほしい…
戦国大名の北条早雲や北条氏康を持ち上げる、ということに当然なります。
しかもしかも、北条氏康は、あの上杉謙信と戦って勝っているのだ、という史実が彼らの心のよりどころになります。
「自分のご先祖さまは、上杉謙信と戦っているのだ」というのが他の家来たちへの自慢です。
おもしろいもので、家康と信玄、信玄と謙信、氏康と謙信、というそれぞれの対決・対立の中で、一方をすごいと持ち上げるには、戦った相手もすごいほうが値打ちがあがるというもの。ライバルはすごいほうがこちらのすごさも強調されますからね。
家臣たちが宴会などで集まって、戦の手柄話に花が咲き、自分たちのネタが尽きると、当然、ご先祖さまの自慢話になる…
「上杉謙信と戦ってなぁ…」「おお、謙信さまとかっ!」「そうよ」「武田信玄は強かったんだぞ」「お、そうそうよく知っているな」「家康さまなんかこうだったらしいぞ」「まじか、そうか、わははははっ」
きっとみんなでうまい酒になったことでしょう。
かくして“英雄伝説”に磨きがかけられていった、というわけです。