ヘラクレスの選択ってご存知ですか?
事にのぞんで、どちらか選ばなくてはならなくなったとき、あえて困難なほうを選ぶことを「ヘラクレスの選択」といいます。
生徒たちにも、若いうちは、楽なほう、安易なほうを選ぶのではなく、どちらか迷ったとき、あえて難しいほうを選んでいったほうがよい、そうすることによって成長できるのだ、という話をよくします。
ただ、実際、生きていく中で、のぞんで「ヘラクレスの選択」をする場合もあれば、結果として「ヘラクレスの選択」にならざるをえない、という場合もあります。
べつに手を抜くために選んだことではなくても、良かれと思って選んだことが困難である場合などはいくらでもあるからです。
前者の選択をした人物は高山右近、後者の選択をした人物は山中鹿之介、だった、というべきでしょうか…
高山右近は、キリシタン大名として有名です。
洗礼を受けて、“ジュスト=ウコン”と名乗ったのはなんと12才のときでした。
城主となったのもわずか21才。そのとき、宣教師ルイス=フロイスが彼と会っていて、高山右近のひととなりを記録してくれています。
明晰な知性 聡明 天賦の才あり 雄弁
ルイス=フロイスは、キリシタンに対しておおむね好意的な評価をする人物ですが、それにしても高い評価を与えています。
その、高山右近の最初の“ヘラクレスの選択”が35才のときにやってきました。
1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出したからです。
キリシタン大名である自分は、信仰を捨てて秀吉参加の大名になるべきか、それとも領地を捨てて、ひとりのキリシタンとなるべきか…
彼は、ためらいなく、大名であることを捨てました。
キリシタン大名であったけれど、大名あることを捨てなかった小西行長は、高山右近をしばらくの間、自分の領地にかくまっていました。
しかし、彼の能力を惜しむ大名は数多く、加賀の前田利家もその一人でした。利家は加賀に高山右近をまねき、彼を1万5000石で召し抱えました。
いっきに大名となったも同然です。なんと金沢に教会を建て、北陸へのキリスト教布教は高山右近によって進められたのです。
しかし、ふたたび、“ヘラクレスの選択”のときがきました。
1614年、徳川家康の発令していた禁教令により、国外追放を命じられたのです。
このとき、もう60才を超えていたのですが、彼はキリシタンであることを捨てず、雪の積もった北陸を、馬にも籠にも乗らず、なんと徒歩で、あたかもイエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘をのぼったことにならったかのごとく、ひたすら歩き続けました。
そうして妻、娘、孫と、友人家族を連れて長崎に向かい、そこからスペインの船に乗って出航します。
いったいどこへ??
高山右近がむかったのは、フィリピンのマニラでした。
信仰篤き“ジュスト=ウコン”は、かれの受難の道のりとともに、現地でたちまち有名となり、多くの人たちが彼を慕うようになったといいます。
名誉も地位も捨てて信仰に生きた男…
が、しかし、彼は病にたおれて闘病40日、63才で天国へと召されることになりました。
彼の死をいたむミサは、異例の9日間おこなわれたといいますから、宣教師なみの扱いです。
他人からみれば、どうしてそんな苦しい選択をし続けたのだろう、もっとうまく立ち回れたろうに、と、思うようなことも、あんがい本人にとっては幸せな選択である場合も多いと思うのです。
中世から近世へとすさまじい摩擦音を立てて回転していくこの時代にあって、なかなかに、鮮やかな生き方をした人物であったと思います。