五月十日は、「滝沢馬琴」でした。
以前にお話ししましたように、この時代、あんがいと身分の垣根は低く、多くの作家や画家などは武士をやめてその道に入ったものが多かったのです。
江戸など大都市では、けっこう「食べていけた」というのが実際でした。
「化政文化」というと、11代家斉の時代に江戸で栄えた文化、という表現をします。
かつては、低俗、大衆文化、ということを強調して説明しましたが、現在では見方が変わってきました。
当時の知識人たちは、漢文化を学んで(崇拝して)おり、庶民の文化を一般的に見下していました。
「記録」の多くは彼らによって残されているので、彼らの記述をたよりに当時の研究を進めたものですから、どうしてもバイアスがかかったものになっていました。
現在では、低俗な大衆文化、という理解はあまりしません。むしろ、生活水準の高さ、文化を維持し続ける町人の経済力、抑圧する力に対する反骨精神など、高く評価すべきところが多い、というような評価になっています。
滝沢馬琴の日記や、その他、庶民の様子がよくわかる日記などから、当時の人々の生活をちょっと概観してみましょう。
まず、起床。
用便から始まります。たいていの家は、くみとり式。よって臭い、といいたいところですが、臭うのは、季節の節目、とくに冬から春にかけて気温が上がり始めると、「ほのかに」漂い始めます。
よって庶民はこの時期に咲く花や木を便所の近くに植えていました。
「きんもくせい」
がそれです。
うじ虫はよくわいていたようです。よってハエの数はかなり多かったことは確かです。
さて、江戸時代は「ちり紙」なるものが、普及しました。鼻をかむ、尻をふく、など、紙の使用が普及しています。
「四木三草」といって、その一つ、楮の栽培が普及して江戸時代の中期にはかなり廉価に紙が普及しました。
滝沢馬琴を始め、多くの作家たちの「本」が売れたのは、廉価な紙の普及と木版印刷による大量生産が背景にあったからです。
用便をすますと、洗顔します。むろん井戸水。冬はかなり寒くて冷たかったようで、子どもたちが嫌がるのを母親が叱っている様子が日記などにも記されています。
冬の朝はずいぶんと賑やかだったようです。
おかみさんたちは、井戸端で朝食のしたくを始めます。
だいたい、味噌汁の具は大根や菜っ葉類のようで、これらをよく洗浄しました。
そして米を研ぐ。
ここからがけっこうな重労働で、台所まで水を運ばなくてはなりません。
そもそもプラスチックの桶がありません。木桶ですからけっこう重い… そこに水を張って台所に運び、台所の水がめにうつします。
言うまでもなく台所用品はみな重い! アルミニウムがありません。鍋などはすべて鉄。
カマドに火をおこすと飯炊きが始まります。
だいたい、めざしは三匹が一人分でした。12匹くらいですと、12~16文。
ほとんどが魚を食べていますね。ほぼ毎日…
1文は10~30円ですが、化政期はインフレだったので30円くらいに換算しておくと打倒でしょうか。
江戸時代は、米はかなり食べていました。一人年間150㎏。1石ですから、年間4万円くらいかかっていた感じです。
女が食事のしたくをしている間、男は雨戸を開けました。
当時は、障子、ですから、紙です。雨にぬれるとだめになるので、雨戸は必ず閉めていました。
江戸時代は、宗門改めが進んでいたので、どこかの寺を必ず檀家としていました。
寺の登録が無いと、旅行もできません。寺は現在の市役所、区役所のような機能がありました。
生死を把握しているので、「戸籍」を管理しているようなもんですよね。
食事がすむと、食器洗いですが…
むろん洗剤はありませんよ。当然、水洗い。たわしは発達していて、かなりこすって油などは落としていました。
さて、男は仕事に出かけます。
町人の三割は定職がなかった、という話もあるくらいです。町には、いろいろな業者がいて、それを紹介する人がいます。
そこに出かけて「今日は何か仕事ある?」とたずねると、「じゃ、今日は、どこどこの店でちょうど荷揚げがあるからそこに行っとくれ」みたいな感じで、紹介状(紹介札)が渡されたりします。
基本的に、定職も不定職も、日当です。だいたい、一日100~200文。大工さんは比較的高給で、見習いレベルでも200文もらえました。
かけそば12~16文
おしるこ12~16文
いなりずし1個5~7文
だんご1串が4文
酒は一升瓶で、150~400文
銭湯は6~9文
まぁ、当時の日当だと、じゅうぶん生活はできていたような気がします。
酒はアルコール度数が今より低い… 酒飲みはたくさん飲むので、たしかに時代劇にあるように、酒ばっかり飲んでいたら、身をもちくずしそうです。一日の稼ぎは酒に消えそうです。
基本的に、仕事は昼まで、夕方になる前には帰宅です。
蛇足ながら、これから暑い季節がやってくるので申し添えておきますと…
この時代の日本は、冷たい飲み物、食べ物、という概念がありません。
真夏には実は、熱いものを飲む、というのが当時の常識でした。冬よりも、甘酒などの売り上げが多いことがわかっています。
「甘酒売り」は、夏でも炭火であつあつにして屋台などで提供していました。
あと、「枇杷葉湯」も庶民は好んで飲んでいました。
製氷が難しい時代ですし、煮沸しないと殺菌もできませんから「冷たい飲料」はありえませんでした。
そういえば、欧米にはアイスコーヒーなるものがなく、日本でコーヒーに氷を入れて飲むらしい、ということが1970年代に話題になったことがありますが、今ではアメリカ人でもアイスコーヒーを飲むようになったそうで、あれは日本から「輸出」された文化のようですね。
文化というのは、その世界では「何かがあたりまえ」になっていることそのものをさします。
今あたりまえでも江戸時代ではそうではない、というものはたくさんあります。
だから「今より劣っている」「昔は野蛮だ」、と考えることこそ“野蛮”です。
また機会があれば、昔の庶民の生活ぶりを紹介していきたいと思います。
足利家…
源義家の子(四男)、源義国を祖とします。
根拠地となる上野国(現在の群馬県)八幡荘は摂関家の荘園で、頼信・頼義・義家という“The河内源氏”の流れをくむ支配地域でした。
源義家の長男、義宗は若くして死に、次男は“あの義親”(西国で反乱を起こす)ですから、三男義忠と四男義国のどちらかが、ミスター河内源氏になるはずでした。
でも、義家は、四男をチョイスしませんでした。
生来の乱暴者で、「こいつはちょっと…」と父に思われてしまったようです。戦さが強くても、武家の棟梁には“政治力”も必要ですからね。
「おれがおれがの源氏」にふさわしく、一族の内紛もたくさんありました。
有名な源頼光(叔父にあたる)とも争い、常陸国で戦い、その勢力を下野国(現在の栃木県)あたりにまで拡大しました。
さてさて、前にもお話ししましたが、義国の長男が義重で新田氏の祖、次男の義康が足利の祖、ということになります。
義康 保元の乱で平清盛とともに戦う。
義兼 源頼朝の挙兵時から参加。北条政子の妹と結婚。
義氏 北条泰時の娘と結婚。
まぁ、見事にこの三代は“勝ち組”の側に常に立ち続けてきました。
執権北条氏とも良好な関係を続けて、幕府の中では要職を担っていきます。
そしてその後、母が北条泰時の娘である泰氏が後継者となりました。
ただ、以後の後継において、足利家の微妙な“しきたり”が生まれます。
長男であっても、母が北条氏の出身でなければ後を継げない、ということです。
最初、泰氏の長男、家氏は後継者から外されます。
後を継いだのは北条得宗家の娘を母とする三男頼氏。
ほんとうなら足利家を継ぐはずだった、ということで、家氏を祖とする斯波家は、後に室町幕府の要職、管領をつとめる家となります。
実際、頼氏の子、家時は幼少で足利家を継ぐことになったので、成人するまで家氏が後見しています。
ところが、その家時のときにイレギュラーが発生しました。
家時の母は、北条氏の娘ではなかったのです。
義家-義国-義康-義兼-義氏-泰氏-頼氏-家時
おまけに“やっかいな”伝説が足利家には伝わっていました。
源義家が「わたしは七代後に生まれ変わって天下をとる」という手紙を子孫に残している、というのです。
「え… まじか… それ、おれやん…」
と、家時はプレッシャーを感じてしまいます。「もう、むりっ」となってしまい、八幡大菩薩に誓願を立てました。
「義家さまのお言葉を違えることになってしまいました。その役割は、わたしの孫に実現させてくださいますようお願いしますっ」
と、なんと、切腹して果てました。
いやいや、そんな無茶な… となりますが、この孫こそ、足利尊氏だったのだ、という、実によくできた“伝説”となりました。
「ちょいちょい家時さんっ そんなプレッシャー、変ですがなっ だって、義家の4代後の源頼朝さんが、すでに天下をとってまんがなっ」
というツッコミを入れたいところ。
どうやら足利家では、この“事実”をすっかり忘れていたようです。
これらの“足利家の事情”が足利家独特のしきたりや思想を生み出していることは確かです。
たとえば「執事」の制度です。
頼氏-家時-貞氏
の三代は、幼少で当主となりました。“象徴”としての当主を補佐し、家政をとりしきる“執事”の制度が他家に比べて充実していくことになります。
この執事の家が、高家です。
足利家時のときの執事は、高師氏でした。
そしてまたおもしろいことに、さきの「義家の遺言」および「家時の誓願」を記した書を高家が所持しており、師氏の孫、高師直が足利直義に見せているんですよ。
足利尊氏、天下人の予言、の仕掛け人は、あんがいと高師直だったのかもしれません。
尊氏を、幕府にそむかせる気にさせたのは、弟の直義と執事の高師直であったといわれていますが、そのときの“説得材料”にこの「書状」が使用されたことは間違いなさそうです。
足利家は、家時の孫の代で、天下人の素質がある人物を生み出しました。
高家は、家時の執事、高師氏の孫の代で、天下人を補佐する素質がある人物を生み出しました。
足利カリスマ尊氏、バトル・バトラー高師直の“無敵のタッグ”の誕生です。
さてさて、話を戻します。
家時の妻は、北条氏出身で、生まれた子が貞氏。そして貞氏の妻も北条氏出身でした。
ようやく“足利家のしきたり”に軌道修正できました。
そして貞氏と正室との間に生まれた子が、足利高義。
そして貞氏と側室との間に生まれた子が、足利尊氏・直義。
ところが、この高義が、若くして死んでしまいました…
本来なら次男の尊氏が継ぐはずなのですが、父、貞氏は、尊氏を後継者とはせず、自分が再度、足利家の当主となります。
「足利家の後継者は正室の子でなければならぬ」
父、貞氏は、ようやく本来のしきたりにもどったのにという思いがあったのかもしれません。立場上、生きている間には後継者を尊氏には指名しにくい、と、考えたのかもしれません。
尊氏が後継者となれたのは、貞氏の死後でした。
「正室の子でないのに足利家を継いだ…」
何やら複雑な心境を尊氏にもたらしたかもしれませんね…
奇しくも、祖父、家時と同じような立場となりました。北条氏の娘を母としない足利家の当主です。
だから、というわけではないのでしょうが、妻は必ず北条氏からっ という思いが強かったのかもしれません。正室は、北条一族の名家、赤橋家からむかえました。
これが登子です。
ところが… ややこしいことに、側室との間に先に男子が生まれます。
長男の竹若丸です。
それどころか、越前局という側室ですらない女性(おそらく白拍子)との間にも、新熊野(いまくまの)という男子をもうけてしまいました…
そしてその後、正室との間に、千寿王という男子が生まれます。
このようなとき、尊氏が、幕府を倒すために兵を挙げました。
長男の竹若丸は、北条氏によって暗殺され、正室の登子と千寿王は鎌倉からの脱出に成功します。
そして、新田義貞によって鎌倉幕府は倒され、北条家も、登子の実家、赤橋家もこのときに滅ぼされてしまいました。
正室の登子には、もはや実家の北条氏の“うしろだて”は無くなりました。
たよりになるのは、夫の尊氏と実子、千寿王だけ… いや、尊氏の正室でいられるのは、子の千寿王がいてこそ…
「側室の子たちに後を継がせるわけにはいかぬ」
という思いが深くなるのは当然だったと思います。
かつて足利泰氏は、北条氏を実家に持つ妻との間に生まれた子を三男であっても後継者としました(頼氏)。そして長男の家氏は、幼い頼氏を補佐して、後の斯波家の祖となった、というのは、すでにお話ししました。
それと同様、千寿王も、三男でありながら足利家の後継者となっていました。これが
足利義詮
です。
長男、竹若丸はすでに死去している… かつての家氏の立場になりえる人物としては、次男の新熊野、ということになるのですが…
泰氏・頼氏の時代とは決定的に違うことがあります。
もはや北条氏は滅亡しており、登子が正室であることの“うしろだて”が無い、ということです。
だからこそ、登子は必死で義詮を守ろうとしたのではないでしょうか。(つまりそれは同時に実家という後ろ盾を失った自分を守ることにもなる。)
尊氏が、新熊野を排除し、自分の子として認知しなかったのは、尊氏自身の意図というより、妻の登子の意志だったのではないでしょうか。
尊氏は、新熊野を「それなりに」遇することを考えていてもおかしくはありません。
「家氏さまの例もあるではないか。別に家の一つも興させてやれば…」
でも、妻は違います。
「どこの何者かもわからぬ女の子どもなどを、義詮に近づけてなるものですかっ」
そもそも! と、夫に迫ったかもしれません。
「白拍子の子など、ほんとうにあなたの子どもなのですかっ!」
正室と家政を司る執事は深いつながりがあります。高師直はもちろん、登子を支持して義詮を立てていますから、新熊野を当然、退けることになります。
尊氏の弟の直義が、新熊野をあわれに思って養子にした、とはよく言われますが、実際は子のなかった弟に「すまん。おまえの養子としてやってくれぬか?」とたのんだのかもしれません。
こうして新熊野は、直義の一字をもらって
足利直冬
と、名乗ることになったのです。
ここからは歴史学というより心理学の領域になりそうです。
かつて、源頼朝は、鶴岡八幡宮の棟上式の際、奉仕した大工たちに馬を引き出物として与えようとし、その馬を、弟の義経に連れてくるように命じたことがあります。
武家の棟梁の弟である、と自負していた義経は、「え? そんな仕事は他の者に…」としぶりましたが、御家人の畠山重忠と二人で馬を引かせました。
武家の棟梁である頼朝にしてみれば、弟だからと特別扱いはできぬ、弟も御家人も棟梁の前では同じ家来に過ぎぬのだ、という考えがあったのです。
頼朝は“上に立つ者”のあるべき姿を心得ていた、といえます。
足利尊氏がこの話を知っていたかどうかは別として、武家の棟梁となった自分は、“上に立つ者”のあるべき姿を演じなくてはなりませんでした。
「義詮が後継者なのだ。他の子は家来にすぎぬ。」
これを尊氏は、極端に演じてしまったのだと思います。
足利尊氏と足利直冬
歴史上、有名な“謎の父子喧嘩”は、心理学的に説明したほうが、事実により接近できるかもしれません。
源義家の子(四男)、源義国を祖とします。
根拠地となる上野国(現在の群馬県)八幡荘は摂関家の荘園で、頼信・頼義・義家という“The河内源氏”の流れをくむ支配地域でした。
源義家の長男、義宗は若くして死に、次男は“あの義親”(西国で反乱を起こす)ですから、三男義忠と四男義国のどちらかが、ミスター河内源氏になるはずでした。
でも、義家は、四男をチョイスしませんでした。
生来の乱暴者で、「こいつはちょっと…」と父に思われてしまったようです。戦さが強くても、武家の棟梁には“政治力”も必要ですからね。
「おれがおれがの源氏」にふさわしく、一族の内紛もたくさんありました。
有名な源頼光(叔父にあたる)とも争い、常陸国で戦い、その勢力を下野国(現在の栃木県)あたりにまで拡大しました。
さてさて、前にもお話ししましたが、義国の長男が義重で新田氏の祖、次男の義康が足利の祖、ということになります。
義康 保元の乱で平清盛とともに戦う。
義兼 源頼朝の挙兵時から参加。北条政子の妹と結婚。
義氏 北条泰時の娘と結婚。
まぁ、見事にこの三代は“勝ち組”の側に常に立ち続けてきました。
執権北条氏とも良好な関係を続けて、幕府の中では要職を担っていきます。
そしてその後、母が北条泰時の娘である泰氏が後継者となりました。
ただ、以後の後継において、足利家の微妙な“しきたり”が生まれます。
長男であっても、母が北条氏の出身でなければ後を継げない、ということです。
最初、泰氏の長男、家氏は後継者から外されます。
後を継いだのは北条得宗家の娘を母とする三男頼氏。
ほんとうなら足利家を継ぐはずだった、ということで、家氏を祖とする斯波家は、後に室町幕府の要職、管領をつとめる家となります。
実際、頼氏の子、家時は幼少で足利家を継ぐことになったので、成人するまで家氏が後見しています。
ところが、その家時のときにイレギュラーが発生しました。
家時の母は、北条氏の娘ではなかったのです。
義家-義国-義康-義兼-義氏-泰氏-頼氏-家時
おまけに“やっかいな”伝説が足利家には伝わっていました。
源義家が「わたしは七代後に生まれ変わって天下をとる」という手紙を子孫に残している、というのです。
「え… まじか… それ、おれやん…」
と、家時はプレッシャーを感じてしまいます。「もう、むりっ」となってしまい、八幡大菩薩に誓願を立てました。
「義家さまのお言葉を違えることになってしまいました。その役割は、わたしの孫に実現させてくださいますようお願いしますっ」
と、なんと、切腹して果てました。
いやいや、そんな無茶な… となりますが、この孫こそ、足利尊氏だったのだ、という、実によくできた“伝説”となりました。
「ちょいちょい家時さんっ そんなプレッシャー、変ですがなっ だって、義家の4代後の源頼朝さんが、すでに天下をとってまんがなっ」
というツッコミを入れたいところ。
どうやら足利家では、この“事実”をすっかり忘れていたようです。
これらの“足利家の事情”が足利家独特のしきたりや思想を生み出していることは確かです。
たとえば「執事」の制度です。
頼氏-家時-貞氏
の三代は、幼少で当主となりました。“象徴”としての当主を補佐し、家政をとりしきる“執事”の制度が他家に比べて充実していくことになります。
この執事の家が、高家です。
足利家時のときの執事は、高師氏でした。
そしてまたおもしろいことに、さきの「義家の遺言」および「家時の誓願」を記した書を高家が所持しており、師氏の孫、高師直が足利直義に見せているんですよ。
足利尊氏、天下人の予言、の仕掛け人は、あんがいと高師直だったのかもしれません。
尊氏を、幕府にそむかせる気にさせたのは、弟の直義と執事の高師直であったといわれていますが、そのときの“説得材料”にこの「書状」が使用されたことは間違いなさそうです。
足利家は、家時の孫の代で、天下人の素質がある人物を生み出しました。
高家は、家時の執事、高師氏の孫の代で、天下人を補佐する素質がある人物を生み出しました。
足利カリスマ尊氏、バトル・バトラー高師直の“無敵のタッグ”の誕生です。
さてさて、話を戻します。
家時の妻は、北条氏出身で、生まれた子が貞氏。そして貞氏の妻も北条氏出身でした。
ようやく“足利家のしきたり”に軌道修正できました。
そして貞氏と正室との間に生まれた子が、足利高義。
そして貞氏と側室との間に生まれた子が、足利尊氏・直義。
ところが、この高義が、若くして死んでしまいました…
本来なら次男の尊氏が継ぐはずなのですが、父、貞氏は、尊氏を後継者とはせず、自分が再度、足利家の当主となります。
「足利家の後継者は正室の子でなければならぬ」
父、貞氏は、ようやく本来のしきたりにもどったのにという思いがあったのかもしれません。立場上、生きている間には後継者を尊氏には指名しにくい、と、考えたのかもしれません。
尊氏が後継者となれたのは、貞氏の死後でした。
「正室の子でないのに足利家を継いだ…」
何やら複雑な心境を尊氏にもたらしたかもしれませんね…
奇しくも、祖父、家時と同じような立場となりました。北条氏の娘を母としない足利家の当主です。
だから、というわけではないのでしょうが、妻は必ず北条氏からっ という思いが強かったのかもしれません。正室は、北条一族の名家、赤橋家からむかえました。
これが登子です。
ところが… ややこしいことに、側室との間に先に男子が生まれます。
長男の竹若丸です。
それどころか、越前局という側室ですらない女性(おそらく白拍子)との間にも、新熊野(いまくまの)という男子をもうけてしまいました…
そしてその後、正室との間に、千寿王という男子が生まれます。
このようなとき、尊氏が、幕府を倒すために兵を挙げました。
長男の竹若丸は、北条氏によって暗殺され、正室の登子と千寿王は鎌倉からの脱出に成功します。
そして、新田義貞によって鎌倉幕府は倒され、北条家も、登子の実家、赤橋家もこのときに滅ぼされてしまいました。
正室の登子には、もはや実家の北条氏の“うしろだて”は無くなりました。
たよりになるのは、夫の尊氏と実子、千寿王だけ… いや、尊氏の正室でいられるのは、子の千寿王がいてこそ…
「側室の子たちに後を継がせるわけにはいかぬ」
という思いが深くなるのは当然だったと思います。
かつて足利泰氏は、北条氏を実家に持つ妻との間に生まれた子を三男であっても後継者としました(頼氏)。そして長男の家氏は、幼い頼氏を補佐して、後の斯波家の祖となった、というのは、すでにお話ししました。
それと同様、千寿王も、三男でありながら足利家の後継者となっていました。これが
足利義詮
です。
長男、竹若丸はすでに死去している… かつての家氏の立場になりえる人物としては、次男の新熊野、ということになるのですが…
泰氏・頼氏の時代とは決定的に違うことがあります。
もはや北条氏は滅亡しており、登子が正室であることの“うしろだて”が無い、ということです。
だからこそ、登子は必死で義詮を守ろうとしたのではないでしょうか。(つまりそれは同時に実家という後ろ盾を失った自分を守ることにもなる。)
尊氏が、新熊野を排除し、自分の子として認知しなかったのは、尊氏自身の意図というより、妻の登子の意志だったのではないでしょうか。
尊氏は、新熊野を「それなりに」遇することを考えていてもおかしくはありません。
「家氏さまの例もあるではないか。別に家の一つも興させてやれば…」
でも、妻は違います。
「どこの何者かもわからぬ女の子どもなどを、義詮に近づけてなるものですかっ」
そもそも! と、夫に迫ったかもしれません。
「白拍子の子など、ほんとうにあなたの子どもなのですかっ!」
正室と家政を司る執事は深いつながりがあります。高師直はもちろん、登子を支持して義詮を立てていますから、新熊野を当然、退けることになります。
尊氏の弟の直義が、新熊野をあわれに思って養子にした、とはよく言われますが、実際は子のなかった弟に「すまん。おまえの養子としてやってくれぬか?」とたのんだのかもしれません。
こうして新熊野は、直義の一字をもらって
足利直冬
と、名乗ることになったのです。
ここからは歴史学というより心理学の領域になりそうです。
かつて、源頼朝は、鶴岡八幡宮の棟上式の際、奉仕した大工たちに馬を引き出物として与えようとし、その馬を、弟の義経に連れてくるように命じたことがあります。
武家の棟梁の弟である、と自負していた義経は、「え? そんな仕事は他の者に…」としぶりましたが、御家人の畠山重忠と二人で馬を引かせました。
武家の棟梁である頼朝にしてみれば、弟だからと特別扱いはできぬ、弟も御家人も棟梁の前では同じ家来に過ぎぬのだ、という考えがあったのです。
頼朝は“上に立つ者”のあるべき姿を心得ていた、といえます。
足利尊氏がこの話を知っていたかどうかは別として、武家の棟梁となった自分は、“上に立つ者”のあるべき姿を演じなくてはなりませんでした。
「義詮が後継者なのだ。他の子は家来にすぎぬ。」
これを尊氏は、極端に演じてしまったのだと思います。
足利尊氏と足利直冬
歴史上、有名な“謎の父子喧嘩”は、心理学的に説明したほうが、事実により接近できるかもしれません。
安国寺恵瓊は戦国時代、とりわけ信長・秀吉・家康の三人を主人公とするドラマでは「欠かせぬ存在」になっています。
信長の没落を見破り、秀吉の台頭を予言し、関ヶ原で家康と対峙して敗れる…
彼の若き頃の一級史料(当時の史料)が少ないため、生年、出自など不明なところは多く、軽々に語ることはできないのですが、毛利元就によって滅ぼされた安芸国の武田氏の関係者であったことはどうやら確かなところだと思います。
「関係者」というのは、一族、ともいえるし、その家臣の家だったかも知れぬし、といったところでしょうか…
よくある話ですが、子どもの場合は、家が戦さにやぶれて逃げた後には出家する…
若き恵瓊(幼名は竹若丸?)は、安芸の安国寺で仏門に入った、といいますから禅宗(臨済宗)のお坊さんということになります。
で、“本店”勤務といいましょうか、京都の東福寺に行くことになり、恵心という僧の弟子になったようです。
(序)でお話ししたように、戦国時代の僧というのは、ネットワーク力、というのがたいへん高く、貴族や大名などの関わりが深い…
貴族の子弟、大名の子弟が、「修学」「修行」のために訪れる場合もあるし、次男以下が出家させられていても、突然、還俗して本家の後継ぎ、ということになる場合も多い…
幼きころの師、というのは、なかなかに影響力があり、その後も交際が続く、あるいは顧問として迎えられる、などということはよくあるわけです。
恵心は、毛利隆元と親交のあった人物で、これがきっかけで毛利家とつながりができます。
毛利隆元は、安芸武田氏を滅ぼした元就の子です。このときは、どういう心境だったのか、もちろんわかりませんが、なんとも数奇な運命としかいいようがありません。
ここから「僧」としての恵瓊は、毛利の外交官の一人として活躍を開始します。
当時、九州の大友氏と毛利氏は対立しており、恵瓊はネゴシエーター(交渉人)として活躍し、九州の小豪族を毛利氏の味方になるように「説得」する仕事をしていました。
1570年代になって、“京都工作”を担当します。なにせ臨済宗東福寺の僧であった経験から、将軍家や貴族などともネットワークがあったわけですから、当然、恵瓊にその任が与えられたと考えられます。
目的は、将軍足利義昭に、九州でもめている大友氏との和平交渉を依頼するためでした。
ところが大事件が起こります。
1573年、足利義昭が信長によって追放されました。
義昭の扱いについて、毛利氏と織田氏の間で「話し合い」がもたれることになりました。ようするに、引き取る、引き取らない、の問題です。
交渉は決裂するのですが、このときの織田方の外交官が羽柴秀吉でした。
で、あの、有名な“予言の書”と称される手紙が書かれることになります。
「信長は、まぁ三年か五年はもつでしょう。来年あたりは公家に出世するやもしれぬ。けれどもその後は、高いとこから転げ落ちることになるでしょうよ。藤吉郎はなかなかの者だと思います。」
でも…
これ、そんなにすごい話でしょうか… 戦国ファンの方に水をさすようで申し訳ないのですが、わりと当時のフツーの感想なんですよ。基本的に70年代の信長は、貴族や寺院には嫌われていましたからね。恵瓊の持つネットワーク内での共通の感想だったと思います。
現代でも、会社の中で急に出世してきたやつがいたら、「あんなん、そんなに持つわけないわ」みたいによく言われますし、新興企業なんかも同様に「すごいか知らんけれど、あんなやり方しとったら続かんよ」くらいの批判はされます。
けど、あいつの部下の○○は、わりと話がわかるやつだ、とか、でもあそこの営業部長はなかなかデキルやつだ、とか、自分が身近に接して親近感を持った者には、良い評価をくだしがちです。
小説家のみなさんが、「後の本能寺の変を予言していた!」「秀吉が天下を取ることを見通していた!」と、ほめちぎるほどのことではないと思うんですよ…
たったこれだけの文で、えらい持ち上げられてしまった、と思いますけれど…
明智光秀だって、信長の部下の中ではかくべつにすぐれている、あの人が信長の後継者だ、と、言われていることもあったわけですから、もし、光秀が天下をとっていたら、きっと別の恵瓊が、「将来を見通す力があった」と持ち上げられていたと思います。
2000年に入って、急速に戦国時代の研究が進み、従来の戦国時代像が劇的に変化しています。
毛利氏の研究もいっきに進み、それにあわせて、従来の“安国寺恵瓊”像も変化してきました。
何かが誇張されてしまうと、別の一面が矮小化されてしまうのは間違いありません。
別の面のすぐれた業績がかえって埋もれてしまうため、「ゆがんだ人物像」が人々の中に刷り込まれてしまいます。
恵瓊に関しては不思議なことがいくつかあります。
毛利家の中の地位はどのようなものだったのか。
後に豊臣氏の家来になって大名になったのか。
関ヶ原の戦いで、実際に戦闘に参加した宇喜多秀家は助命されたのに、参加していない恵瓊がなぜ処刑されたのか。
なにやら、関ヶ原後の、毛利家の存続のための、さまざまな工作の中で、いろいろな話が「つくりかえられている」ような臭いがして仕方ありません。
毛利家は、隆元の死後、その子の毛利輝元をささえて、“毛利の両川”と呼ばれた小早川氏と吉川家が支えていました。
若社長とそれをささえる有能な親族の専務二人、といったところでしょうか。
恵瓊は、小早川隆景にその交渉能力をかわれて、新興企業の株式会社織田との連携を模索します。
ところが、織田信長は、毛利を仮想敵国と考えていっさいの妥協がみられない。
ところが株式会社織田の専務、羽柴秀吉は穏健派で、毛利との連携をも視野にいれた動きをみせている。
恵瓊は、株式会社織田との交渉役として羽柴秀吉と接する機会がふえていく…
ところが株式会社織田内での政権交代劇が起こり、おもわぬ形で羽柴秀吉が社長となりました。
で、毛利は、羽柴秀吉との業務提携にこぎつけて、大企業羽柴の傘下の企業となりました。
最悪、吸収合併されるならば、せめて創業家の毛利秀包と専務の吉川広家だけの二人は役員に残してほしい、と交渉していましたが、役員そのままで傘下企業に入れることになりました。
小早川専務はこの交渉の手腕を高く評価していましたが、吉川専務はどうも気に入らない… 「小早川専務は恵瓊にだまされているっ」とずっと含むところがあったようです。
一方恵瓊は、毛利が羽柴の傘下に入った後は、毛利の部長のまま、親会社の羽柴にも出向し、そこで羽柴社長室付きの仕事も与えられて、親会社と子会社のパイプ役になっていました。
「おまえ、どっちの味方やねんっ」と吉川専務はずっと不満…
そんな中、転機がおとずれました。株式会社羽柴の中の、同じ傘下企業ながら副社長格の徳川専務が次期社長候補に急速に台頭してくる。
恵瓊は、秀吉の社長室長だった石田三成と仲がよく、秀吉の子を若社長としてもりたてようとしていました。
「ふん、そっちがその気なら…」と、吉川専務はそれなりに「毛利家」のことを考えて、本社の徳川専務と接近します。
徳川専務からは
「いやいや、それはありがたい。それなら毛利さんところは、役員はそのままで、対等合併で参りましょう。いや、よく決断してくださいました。毛利と徳川が手をくめば、日本一はまちがいなし。いや、これはなにも二つの家のことだけではありません。将来の日本のために、実によいことです。わははははは」
というお墨付きをもらいました。
そんな“裏取引”を知らぬ恵瓊は、関ヶ原の戦いで、西軍に味方しているはずと思っていたら、毛利軍は実はまったく動かない… 戦いは東軍の勝利になりました…
企業間の合併に対等などありえない
天下国家を論じて合併をもちかけれて、うかうかと話に乗るとろくなことがない
とは、小説『ルーズヴェルト=ゲーム』内での有名な言葉です。
家康は吉川広家との“約束”を反故にしました。
領地は大きく削除され、一地方大名に毛利家は転落し、むろん政治には参加できぬ外様大名となってしまいました。
いやいや、実はもちろん別の“シナリオ”も考えられます。
西軍に“加担”してしまったのは、すべて恵瓊のせいである、毛利輝元も吉川も、もともと東軍に味方するはずだったが、豊臣家と昵懇の関係にあった恵瓊の策略で、家康さまに逆らってしまいました。どうかお許しください、という「工作」のために、必要以上に「恵瓊」像がつくりかえられた、という可能性もあります。
もともと秀吉に吉川広家と毛利秀包の存続を申し出ていたことがあるくらいです。吉川広家と恵瓊が仲が悪かったとも考えにくい…
関ヶ原の戦い後、毛利本家にもどってきた恵瓊に、広家は「面会」して、言い含めて放逐しています。
小説などでは、「おまえのせいでこんなことになった。出ていけっ」みたいな扱いでしたが、実は、「すまぬ恵瓊、今回のことはすべておまえのせいということで、なんとか毛利家を存続させるための犠牲になってくれまいか」というような話になっていたとしても、わたしは驚きません。
(すいません。後半はわたしの勝手な根拠ない仮説です。)
恵瓊にせよ、小早川隆景にせよ、吉川広家にせよ、毛利家存続のために、ありとあらゆる可能性を模索して、戦国時代を駆け抜けていったような気がします。
信長の没落を見破り、秀吉の台頭を予言し、関ヶ原で家康と対峙して敗れる…
彼の若き頃の一級史料(当時の史料)が少ないため、生年、出自など不明なところは多く、軽々に語ることはできないのですが、毛利元就によって滅ぼされた安芸国の武田氏の関係者であったことはどうやら確かなところだと思います。
「関係者」というのは、一族、ともいえるし、その家臣の家だったかも知れぬし、といったところでしょうか…
よくある話ですが、子どもの場合は、家が戦さにやぶれて逃げた後には出家する…
若き恵瓊(幼名は竹若丸?)は、安芸の安国寺で仏門に入った、といいますから禅宗(臨済宗)のお坊さんということになります。
で、“本店”勤務といいましょうか、京都の東福寺に行くことになり、恵心という僧の弟子になったようです。
(序)でお話ししたように、戦国時代の僧というのは、ネットワーク力、というのがたいへん高く、貴族や大名などの関わりが深い…
貴族の子弟、大名の子弟が、「修学」「修行」のために訪れる場合もあるし、次男以下が出家させられていても、突然、還俗して本家の後継ぎ、ということになる場合も多い…
幼きころの師、というのは、なかなかに影響力があり、その後も交際が続く、あるいは顧問として迎えられる、などということはよくあるわけです。
恵心は、毛利隆元と親交のあった人物で、これがきっかけで毛利家とつながりができます。
毛利隆元は、安芸武田氏を滅ぼした元就の子です。このときは、どういう心境だったのか、もちろんわかりませんが、なんとも数奇な運命としかいいようがありません。
ここから「僧」としての恵瓊は、毛利の外交官の一人として活躍を開始します。
当時、九州の大友氏と毛利氏は対立しており、恵瓊はネゴシエーター(交渉人)として活躍し、九州の小豪族を毛利氏の味方になるように「説得」する仕事をしていました。
1570年代になって、“京都工作”を担当します。なにせ臨済宗東福寺の僧であった経験から、将軍家や貴族などともネットワークがあったわけですから、当然、恵瓊にその任が与えられたと考えられます。
目的は、将軍足利義昭に、九州でもめている大友氏との和平交渉を依頼するためでした。
ところが大事件が起こります。
1573年、足利義昭が信長によって追放されました。
義昭の扱いについて、毛利氏と織田氏の間で「話し合い」がもたれることになりました。ようするに、引き取る、引き取らない、の問題です。
交渉は決裂するのですが、このときの織田方の外交官が羽柴秀吉でした。
で、あの、有名な“予言の書”と称される手紙が書かれることになります。
「信長は、まぁ三年か五年はもつでしょう。来年あたりは公家に出世するやもしれぬ。けれどもその後は、高いとこから転げ落ちることになるでしょうよ。藤吉郎はなかなかの者だと思います。」
でも…
これ、そんなにすごい話でしょうか… 戦国ファンの方に水をさすようで申し訳ないのですが、わりと当時のフツーの感想なんですよ。基本的に70年代の信長は、貴族や寺院には嫌われていましたからね。恵瓊の持つネットワーク内での共通の感想だったと思います。
現代でも、会社の中で急に出世してきたやつがいたら、「あんなん、そんなに持つわけないわ」みたいによく言われますし、新興企業なんかも同様に「すごいか知らんけれど、あんなやり方しとったら続かんよ」くらいの批判はされます。
けど、あいつの部下の○○は、わりと話がわかるやつだ、とか、でもあそこの営業部長はなかなかデキルやつだ、とか、自分が身近に接して親近感を持った者には、良い評価をくだしがちです。
小説家のみなさんが、「後の本能寺の変を予言していた!」「秀吉が天下を取ることを見通していた!」と、ほめちぎるほどのことではないと思うんですよ…
たったこれだけの文で、えらい持ち上げられてしまった、と思いますけれど…
明智光秀だって、信長の部下の中ではかくべつにすぐれている、あの人が信長の後継者だ、と、言われていることもあったわけですから、もし、光秀が天下をとっていたら、きっと別の恵瓊が、「将来を見通す力があった」と持ち上げられていたと思います。
2000年に入って、急速に戦国時代の研究が進み、従来の戦国時代像が劇的に変化しています。
毛利氏の研究もいっきに進み、それにあわせて、従来の“安国寺恵瓊”像も変化してきました。
何かが誇張されてしまうと、別の一面が矮小化されてしまうのは間違いありません。
別の面のすぐれた業績がかえって埋もれてしまうため、「ゆがんだ人物像」が人々の中に刷り込まれてしまいます。
恵瓊に関しては不思議なことがいくつかあります。
毛利家の中の地位はどのようなものだったのか。
後に豊臣氏の家来になって大名になったのか。
関ヶ原の戦いで、実際に戦闘に参加した宇喜多秀家は助命されたのに、参加していない恵瓊がなぜ処刑されたのか。
なにやら、関ヶ原後の、毛利家の存続のための、さまざまな工作の中で、いろいろな話が「つくりかえられている」ような臭いがして仕方ありません。
毛利家は、隆元の死後、その子の毛利輝元をささえて、“毛利の両川”と呼ばれた小早川氏と吉川家が支えていました。
若社長とそれをささえる有能な親族の専務二人、といったところでしょうか。
恵瓊は、小早川隆景にその交渉能力をかわれて、新興企業の株式会社織田との連携を模索します。
ところが、織田信長は、毛利を仮想敵国と考えていっさいの妥協がみられない。
ところが株式会社織田の専務、羽柴秀吉は穏健派で、毛利との連携をも視野にいれた動きをみせている。
恵瓊は、株式会社織田との交渉役として羽柴秀吉と接する機会がふえていく…
ところが株式会社織田内での政権交代劇が起こり、おもわぬ形で羽柴秀吉が社長となりました。
で、毛利は、羽柴秀吉との業務提携にこぎつけて、大企業羽柴の傘下の企業となりました。
最悪、吸収合併されるならば、せめて創業家の毛利秀包と専務の吉川広家だけの二人は役員に残してほしい、と交渉していましたが、役員そのままで傘下企業に入れることになりました。
小早川専務はこの交渉の手腕を高く評価していましたが、吉川専務はどうも気に入らない… 「小早川専務は恵瓊にだまされているっ」とずっと含むところがあったようです。
一方恵瓊は、毛利が羽柴の傘下に入った後は、毛利の部長のまま、親会社の羽柴にも出向し、そこで羽柴社長室付きの仕事も与えられて、親会社と子会社のパイプ役になっていました。
「おまえ、どっちの味方やねんっ」と吉川専務はずっと不満…
そんな中、転機がおとずれました。株式会社羽柴の中の、同じ傘下企業ながら副社長格の徳川専務が次期社長候補に急速に台頭してくる。
恵瓊は、秀吉の社長室長だった石田三成と仲がよく、秀吉の子を若社長としてもりたてようとしていました。
「ふん、そっちがその気なら…」と、吉川専務はそれなりに「毛利家」のことを考えて、本社の徳川専務と接近します。
徳川専務からは
「いやいや、それはありがたい。それなら毛利さんところは、役員はそのままで、対等合併で参りましょう。いや、よく決断してくださいました。毛利と徳川が手をくめば、日本一はまちがいなし。いや、これはなにも二つの家のことだけではありません。将来の日本のために、実によいことです。わははははは」
というお墨付きをもらいました。
そんな“裏取引”を知らぬ恵瓊は、関ヶ原の戦いで、西軍に味方しているはずと思っていたら、毛利軍は実はまったく動かない… 戦いは東軍の勝利になりました…
企業間の合併に対等などありえない
天下国家を論じて合併をもちかけれて、うかうかと話に乗るとろくなことがない
とは、小説『ルーズヴェルト=ゲーム』内での有名な言葉です。
家康は吉川広家との“約束”を反故にしました。
領地は大きく削除され、一地方大名に毛利家は転落し、むろん政治には参加できぬ外様大名となってしまいました。
いやいや、実はもちろん別の“シナリオ”も考えられます。
西軍に“加担”してしまったのは、すべて恵瓊のせいである、毛利輝元も吉川も、もともと東軍に味方するはずだったが、豊臣家と昵懇の関係にあった恵瓊の策略で、家康さまに逆らってしまいました。どうかお許しください、という「工作」のために、必要以上に「恵瓊」像がつくりかえられた、という可能性もあります。
もともと秀吉に吉川広家と毛利秀包の存続を申し出ていたことがあるくらいです。吉川広家と恵瓊が仲が悪かったとも考えにくい…
関ヶ原の戦い後、毛利本家にもどってきた恵瓊に、広家は「面会」して、言い含めて放逐しています。
小説などでは、「おまえのせいでこんなことになった。出ていけっ」みたいな扱いでしたが、実は、「すまぬ恵瓊、今回のことはすべておまえのせいということで、なんとか毛利家を存続させるための犠牲になってくれまいか」というような話になっていたとしても、わたしは驚きません。
(すいません。後半はわたしの勝手な根拠ない仮説です。)
恵瓊にせよ、小早川隆景にせよ、吉川広家にせよ、毛利家存続のために、ありとあらゆる可能性を模索して、戦国時代を駆け抜けていったような気がします。
歴史の授業では、もちろん人名や地名などが出てきます。実際の入試でも、正誤問題のポイントにもなりますので、このあたりは正確に伝えていきます。
たとえば「太閤検地」。
わたしの塾講師時代の、小学生向け授業の“まくら”は、「たいこうけんち、の漢字、間違えてないか?」という問いかけでした。
中学受験を経験して入学してきた子たちは、この“洗礼”を受けているので間違える子は少ないのですが、小学生ぐらいですと
太閤検地の「閤」を「閣」、つまり、「門」の中を「合」ではなく「各」にしてしまっている子がけっこういるんですよね。
ただ、中学生にも一応、この確認はします。ときどき、あ… 間違えててた… みたいになる子もいます。
わかっているのに、ついつい書いてしまうものですよね。「閤」という字は他にあまり使用しませんから。
他にも、紫式部の「紫」が「柴」にしてしまう間違いや、「紫」の上の部分が「此」ではなく「比」にしてしまう、というのもよくある間違いです。
平安時代の10世紀、耕作農民を「田堵」というのですが、田堵の「堵」も、「者」ではなく「、」がついています。
これも、かつては活字体の中で「、」が付いていなかったことがあり、ネットで検索したりした場合には抜けているケースがあり、保護者や生徒から調べたら「、」が無いのですが… という質問を受けたこともあります。でも「田堵」の「堵」は点をつけてほしいところです。
えらそうに言う、わたしも、教材やプリントをワープロ打ちしていると、間違えた変換を見逃してしまって「ごめんごめん、訂正しといて」ということを恥ずかしながらやってしまうときがあります。
「遥任」の「遥」も、別の歴史用語で「雑徭」というものがあるもんだから「徭任」とワープロミスしてしまうときがあります(単語登録してしまうとミスはもちろんしません)。
ついでに言うと、この「遥」も部首は「辶」で、上に「、」が付いている字でなければなりませんが、ふつうに打つと「遥」と出てしまいます。
本地垂迹の「迹」もそうですよね…
いろいろ頭を悩ませてしまうところは多いですし、「間違えてはいけないよ」という教師もしょっちゅう「あ、抜けてた」とか「あ、間違えて書いてもーた」とかなってしまって、生徒たちに申し訳なく思ってしまうこともあります。
誤字脱字も注意しなければなりませんが、地名などもうっかり間違ってしまっておぼえてしまうところもあります。
大学入試でも高校入試でも中学入試でも「戦い」の場所が何県であるのか、また、地図から選べ、という問題の場合もあり、「地図帳」も並行して使用する授業が大切なときがあります。
織田信長などについて、復習などまとめの授業などをするときは、信長の統一事業を年表で並べて大きな流れをつかませてから、中身を“肉付け”していく方法をとるときがあります。
そのうち、戦いだけを取り出してみると、
1560年 桶狭間の戦い
1570年 姉川の戦い
1575年 長篠の戦い
の三つは高校入試や大学入試でも問われるものです(中学入試では姉川の戦いはほとんど問われていません)。
桶狭間、姉川、長篠は、それぞれ何県だかわかるでしょうか?
桶狭間と長篠は愛知県、姉川は滋賀県、ということになります。
ついでに関ヶ原の戦いは、岐阜県です。
(中学受験をめざして勉強している子どもは、案外と、何県で起こったのか知らない場合があるので一度、そういうお子さんをお持ちの保護者の方は確認してみてください。)
地元の人だと間違えるはずのないことも、案外と他府県の方は知りません、ということがあります。
源頼朝は伊豆に流された、とは話で知っている人は多いと思います。伊豆国=静岡県、というイメージが強いものですから、
「源頼朝が伊豆で挙兵した」
という表現で、ああ、静岡県で挙兵したんだな、と、思い込んでしまうと、「石橋山の戦い」も静岡県で起こった、と、思ってしまう生徒もいて、「石橋山の戦い」が現在の神奈川県だということに気づかないときもあるんですよ。
塾で教えていたときに笑ってしまったことは、「地理」などで案外と大阪の子どもたちは知らないことが多いな、と感じることがありました。
山陽新幹線は、新大阪駅から博多駅まで通っていますが、「大阪-博多」というイメージがあるせいか、博多が福岡市であると知らず、「博多市」というのがあると思っている子、けっこういるんですよね。九州の人が聞いたら笑ってしまうでしょ?
関西だから知っている、とは、限らないこともあり、「明石海峡大橋は、明石市と淡路島を結んでいる」と、思っている生徒もいました。「明石海峡」という言葉から、橋が明石市にあると思ってしまうんですよね、きっと… 神戸市垂水区と淡路島にかかっている橋、ということになります。
昔、いじわるで、「鉄1トンと綿1トン、どっちが重い?」と聞いたら、同じに決まっているのに「え… どっちだろ」と考え込んでしまう子がいました。
「明石海峡大橋は何県と何県を結んでいる?」
と聞くと、「兵庫県と徳島県!」と答えてしまう小学生がいるからおもしろいですよ。
すいません。地理の話に脱線してしまいました。
朝鮮出兵のときに、豊臣秀吉が、名護屋に陣を張った、というと、名護屋が「名古屋」だと思ってしまう生徒もいます。
鳥羽-伏見の戦いも、「鳥羽」が、三重県の鳥羽だと思っている生徒も何人かいるんですよね。
人名なんかも昔と読み方、書き方が変わってしまっている場合もあります。
小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉は、徳川家康・織田信雄の連合軍と戦いました。織田信雄は信長の次男なのですが、昔は「信雄」を「のぶかつ」と読んでいましたが、今の高校の教科書では「のぶお」になっていて笑いました。「のぶお」って…
後醍醐天皇の皇子、護良親王も、昔は「もりなが」親王と読んでいましたが「もりよし」親王という読み方に変わっています。
日本史だけでなく世界史でも、
リンカーン大統領は、リンカン大統領
トーマス=ジェファーソンは、トマス=ジェファソン
有名な国際テロ組織も、テレビや新聞ではアルカイーダと呼称していますが、教科書ではアル=カーイダと表記されているんですよ。
現在50才以上の方は、「目には目を、歯には歯を」の復讐法で有名な法典を編纂した人物は「ハムラビ大王」と表記していましたが、今では「ハンムラビ」となっています。
ついでに、最新のオリエント史の中では、もはや「ハンムラビ」ではなく
「ハンムラピ」
と、「ピ」に変わっています(まだ、教科書ではハンムラビですが…)。
すいません。今度は世界史に脱線してしまいました。
とにかく、なんやらかんやらと、間違いやすいというか、もはや今の読み方、書き方、ほんまにそれでええの? と、懐疑的になっちゃいます。
昔はこうでも今はこう。
今はこうでも昔はこう。
世の中に絶対、ということはないっ と、言い切った相対主義を説くソフィストたちに、ソクラテスはニッコリ笑って言いました。
「世の中に絶対なものはない、というのが絶対なのではないのかね?」
歴史は変わる、ということだけが、変わらないことのようですね。
たとえば「太閤検地」。
わたしの塾講師時代の、小学生向け授業の“まくら”は、「たいこうけんち、の漢字、間違えてないか?」という問いかけでした。
中学受験を経験して入学してきた子たちは、この“洗礼”を受けているので間違える子は少ないのですが、小学生ぐらいですと
太閤検地の「閤」を「閣」、つまり、「門」の中を「合」ではなく「各」にしてしまっている子がけっこういるんですよね。
ただ、中学生にも一応、この確認はします。ときどき、あ… 間違えててた… みたいになる子もいます。
わかっているのに、ついつい書いてしまうものですよね。「閤」という字は他にあまり使用しませんから。
他にも、紫式部の「紫」が「柴」にしてしまう間違いや、「紫」の上の部分が「此」ではなく「比」にしてしまう、というのもよくある間違いです。
平安時代の10世紀、耕作農民を「田堵」というのですが、田堵の「堵」も、「者」ではなく「、」がついています。
これも、かつては活字体の中で「、」が付いていなかったことがあり、ネットで検索したりした場合には抜けているケースがあり、保護者や生徒から調べたら「、」が無いのですが… という質問を受けたこともあります。でも「田堵」の「堵」は点をつけてほしいところです。
えらそうに言う、わたしも、教材やプリントをワープロ打ちしていると、間違えた変換を見逃してしまって「ごめんごめん、訂正しといて」ということを恥ずかしながらやってしまうときがあります。
「遥任」の「遥」も、別の歴史用語で「雑徭」というものがあるもんだから「徭任」とワープロミスしてしまうときがあります(単語登録してしまうとミスはもちろんしません)。
ついでに言うと、この「遥」も部首は「辶」で、上に「、」が付いている字でなければなりませんが、ふつうに打つと「遥」と出てしまいます。
本地垂迹の「迹」もそうですよね…
いろいろ頭を悩ませてしまうところは多いですし、「間違えてはいけないよ」という教師もしょっちゅう「あ、抜けてた」とか「あ、間違えて書いてもーた」とかなってしまって、生徒たちに申し訳なく思ってしまうこともあります。
誤字脱字も注意しなければなりませんが、地名などもうっかり間違ってしまっておぼえてしまうところもあります。
大学入試でも高校入試でも中学入試でも「戦い」の場所が何県であるのか、また、地図から選べ、という問題の場合もあり、「地図帳」も並行して使用する授業が大切なときがあります。
織田信長などについて、復習などまとめの授業などをするときは、信長の統一事業を年表で並べて大きな流れをつかませてから、中身を“肉付け”していく方法をとるときがあります。
そのうち、戦いだけを取り出してみると、
1560年 桶狭間の戦い
1570年 姉川の戦い
1575年 長篠の戦い
の三つは高校入試や大学入試でも問われるものです(中学入試では姉川の戦いはほとんど問われていません)。
桶狭間、姉川、長篠は、それぞれ何県だかわかるでしょうか?
桶狭間と長篠は愛知県、姉川は滋賀県、ということになります。
ついでに関ヶ原の戦いは、岐阜県です。
(中学受験をめざして勉強している子どもは、案外と、何県で起こったのか知らない場合があるので一度、そういうお子さんをお持ちの保護者の方は確認してみてください。)
地元の人だと間違えるはずのないことも、案外と他府県の方は知りません、ということがあります。
源頼朝は伊豆に流された、とは話で知っている人は多いと思います。伊豆国=静岡県、というイメージが強いものですから、
「源頼朝が伊豆で挙兵した」
という表現で、ああ、静岡県で挙兵したんだな、と、思い込んでしまうと、「石橋山の戦い」も静岡県で起こった、と、思ってしまう生徒もいて、「石橋山の戦い」が現在の神奈川県だということに気づかないときもあるんですよ。
塾で教えていたときに笑ってしまったことは、「地理」などで案外と大阪の子どもたちは知らないことが多いな、と感じることがありました。
山陽新幹線は、新大阪駅から博多駅まで通っていますが、「大阪-博多」というイメージがあるせいか、博多が福岡市であると知らず、「博多市」というのがあると思っている子、けっこういるんですよね。九州の人が聞いたら笑ってしまうでしょ?
関西だから知っている、とは、限らないこともあり、「明石海峡大橋は、明石市と淡路島を結んでいる」と、思っている生徒もいました。「明石海峡」という言葉から、橋が明石市にあると思ってしまうんですよね、きっと… 神戸市垂水区と淡路島にかかっている橋、ということになります。
昔、いじわるで、「鉄1トンと綿1トン、どっちが重い?」と聞いたら、同じに決まっているのに「え… どっちだろ」と考え込んでしまう子がいました。
「明石海峡大橋は何県と何県を結んでいる?」
と聞くと、「兵庫県と徳島県!」と答えてしまう小学生がいるからおもしろいですよ。
すいません。地理の話に脱線してしまいました。
朝鮮出兵のときに、豊臣秀吉が、名護屋に陣を張った、というと、名護屋が「名古屋」だと思ってしまう生徒もいます。
鳥羽-伏見の戦いも、「鳥羽」が、三重県の鳥羽だと思っている生徒も何人かいるんですよね。
人名なんかも昔と読み方、書き方が変わってしまっている場合もあります。
小牧・長久手の戦いで、豊臣秀吉は、徳川家康・織田信雄の連合軍と戦いました。織田信雄は信長の次男なのですが、昔は「信雄」を「のぶかつ」と読んでいましたが、今の高校の教科書では「のぶお」になっていて笑いました。「のぶお」って…
後醍醐天皇の皇子、護良親王も、昔は「もりなが」親王と読んでいましたが「もりよし」親王という読み方に変わっています。
日本史だけでなく世界史でも、
リンカーン大統領は、リンカン大統領
トーマス=ジェファーソンは、トマス=ジェファソン
有名な国際テロ組織も、テレビや新聞ではアルカイーダと呼称していますが、教科書ではアル=カーイダと表記されているんですよ。
現在50才以上の方は、「目には目を、歯には歯を」の復讐法で有名な法典を編纂した人物は「ハムラビ大王」と表記していましたが、今では「ハンムラビ」となっています。
ついでに、最新のオリエント史の中では、もはや「ハンムラビ」ではなく
「ハンムラピ」
と、「ピ」に変わっています(まだ、教科書ではハンムラビですが…)。
すいません。今度は世界史に脱線してしまいました。
とにかく、なんやらかんやらと、間違いやすいというか、もはや今の読み方、書き方、ほんまにそれでええの? と、懐疑的になっちゃいます。
昔はこうでも今はこう。
今はこうでも昔はこう。
世の中に絶対、ということはないっ と、言い切った相対主義を説くソフィストたちに、ソクラテスはニッコリ笑って言いました。
「世の中に絶対なものはない、というのが絶対なのではないのかね?」
歴史は変わる、ということだけが、変わらないことのようですね。
平安時代の話で、小野氏の話が出てきたときのことです。
「三蹟」の一人、花札の「雨」でも知られる小野道風。
藤原純友の乱のときに活躍した小野好古。
実はこの二人は、兄弟です。
「小野一族はなかなか個性的でね」
と、やや話を脱線させて、二人のおじいさん、小野篁の話をしたことがあります。
なかなかの豪傑で、幽霊が出るという屋敷があったら自ら出向いて退治したり、嵯峨天皇に、その乱暴ぶりを嘆かれると一転して勉学に励んで、いっきに文章博士にまでなってしまったり…
虚実とりまぜていろいろおもしろい話がある人物です(機会があればこの人物も取り上げたいと思うくらい個性的な人です)。
「この人、京都の六道珍皇寺の井戸から地獄へ行って、閻魔大王を助けて裁判しとってんで」
みたいな話をし、平安時代の人たちが考えていた“地獄”の概念などを説明したとき、何人かの生徒たちがやけに“反応”しているんですよね。
なんでかな、と、思っていたら、授業が終わった後、やってきて、「先生っ ホオズキのレイテツって知ってますか?!」と言うんです。
え?? ホオズキのレイテツ??? なんじゃそりゃ?
と、思っていると、「地獄の話が出てくるんですっ」と活き活きと説明してくれました。
どうやら『鬼灯の冷徹』という漫画というかアニメというか、そういうものでした。
調べてみて、さっさく読んでみると、これがかなかなすごいモノ。「小野篁」も登場しているではありませんか。彼女たちがわたしの話に“反応”した理由がわかりました。
さてさて、授業では、平安時代の“宗教”も説明します。
「現世系」と、「来世系」の宗教がある、というところから入ります。
いつの時代でも人々の興味は「この世」と「あの世」ですからね。
現世系の話は、「この世」での幸福を願うもので、古来からの「神」だけではなく、天台宗や真言宗が、加持祈祷によって、「現世利益」を実現しようとしていた、というような話をします。
来世系の話は、「あの世」での幸福を願うもので、これが平安時代に流行した「浄土信仰」ということになります。
むろん、忘れてはならないのが、奈良時代に生まれた「神仏習合」の考え方を練り上げた
「本地垂迹説」
というものも、平安時代に生まれています。
そもそも、学の無い庶民にとっては、「神と仏」の差異がわかりにくい… どうしても神さんと仏さんの境界線がはっきりしないところ… ついつい、いっしょみたいなもんや、と、なるわけなのですが…
ぼやっとですが、この世のお願いは神さまに、あの世のお願いは仏さまに、という理解を庶民はしていたようです。
たしかに、この考え方は民間信仰において脈々と現代にまで伝わっていますよね。
生まれたときは、神社(お宮さん)にお参りし、
死んだときは、お寺でお葬式…
本地垂迹説は、神と仏は別のものではなく、「神」は「仏」が「現世」において形をかえてあらわれたもの、と考える思想です。あの世の主宰者、仏さまが、現世にあらわれるときは、この世の主宰者として神の姿であらわれる…
仏が「権(かり)」に「現(あらわ)」れたモノ、として「~権現」という表現ができました。
さて、来世系の念仏では、源信と空也が重要な役割を果たしました。
源信は『往生要集』という、「こうすれば、あなたも極楽に行ける!」という往生ハウツーもんのパンフレットのようなもので、“世界的ベストセラー”となります。
いやいや、世界的って… と、思われますが、中国にも輸出され、「日本ですごいこと言うてるやつがおる」と中国でも読まれるようになったんですよ。
彼は念仏のあり方を二つに分けました。
一つは「観想」、一つは「口称」です。源信は「観想」を重視しました。心に仏や極楽をイメージする、心に「仏」を「念」ずるのだ、という「念仏」を提唱します。
そして、「厭離穢土」「欣求浄土」の思想を明確に示しました。
これらの考え方は、当時の貴族に広く浸透し、よって、臨終の際に、阿弥陀仏が迎えに来るという仏宗教絵画、“来迎図”がたくさん描かれたり、この世に極楽を再現しよう、という阿弥陀堂建築(法成寺や平等院鳳凰堂など)が建てられたり、阿弥陀仏の仏像が大量に製作されたり(寄木造という大量生産方式も導入されたり)するようになったのです。
この時代の仏教文化は、このように一つにつながることになりました。
『往生要集』で源信は「観想念仏」を重視した、と教科書的には説明しますが、べつに「口称」を否定したりしていません。念仏を「観想」と「口称」に分けて説明したために「口称」という考え方も同時に強調することになり、実際、後に法然などは、『往生要集』に書かれている口称念仏をお手本にして「専修念仏」の思想を確立しました。
さて、口称念仏は、念仏を唱える(ブッダの弟子たちが師の死後、師を慕って南無仏と唱えたという伝説もあり)ことによって極楽往生がかなう、というもので、こちらは“市聖(いちのひじり)”と称された空也によって民衆の中に広がっていきました。
空也、というと、六波羅蜜寺にある重要文化財の像(ただし鎌倉時代の康勝の作)が有名です。
空也が念仏を唱えると、その語が阿弥陀仏となった、という伝説をあらわした彫刻で、口から針金が出ていて、その先に六体の仏さまがくっついている、というものです。
空也は謎が多く、一級史料がほとんど残っていませんが、理論の源信、実践の空也、と言われるように、民衆の中に入って「あなたも極楽往生ができるっ」と説いていった人物だったようです。
学校の授業では、もう一人、慶滋保胤を紹介します。『日本往生極楽記』をまとめました。さながら「極楽往生体験記」みたいなもので、聖徳太子をはじめ、行基などなど、極楽往生をした人々のことを書いてまとめています。
この人は、もともとは陰陽道、儒学の人で、なんと「賀茂」家の人… 本来なら「家業」の陰陽師となるべきところ、学問と仏教にめざめ、名前も「賀茂」を訓読みして「よししげ」と改名、「慶滋」とした、としたようです。
この時代、カルト教団、ではありませんが、「志を一つとする者が集まって、いっしょに往生しよう。そして現世では互いに助け合おう」という宗教秘密結社も存在しました。その設立に、慶滋保胤が深くかかわっていたといわれています。
その一つが「勧学会」で、朝は法華経、夕方は念仏、夜は仏をたたえる漢詩を著し、俗人は白居易の漢詩を朗読、僧は法華経を朗読し、朝に解散…
もう一つが「二十五三昧会」です。
これはなかなかにマニアックな集団で、メンバーは厳格に25名と定められ、誰かが抜けると一人かならず補充しなくてはなりませんでした。
規律に反したものは追放、「善友」の契りを結んだ以上は、臨終の際は相互に助け合って念仏を唱えます。
メンバーを奇数にしているのも、なかなかリクツが通っていて、一人が、病に倒れると、「往生院」という組織の建物にうつし、二人一組になってその一人をみんなで世話をする…(一人は看病、一人は念仏を唱える)
そしておもしろいのは、死後、極楽の様子を残っているメンバーに報告しなくてはならない、という規則もあったそうです。(どないして伝えるねんっ)
いつの時代でも、宗教のあり方はよく似ていますね。
「この世」と「あの世」、人々の興味はつきぬ、ということです。
「三蹟」の一人、花札の「雨」でも知られる小野道風。
藤原純友の乱のときに活躍した小野好古。
実はこの二人は、兄弟です。
「小野一族はなかなか個性的でね」
と、やや話を脱線させて、二人のおじいさん、小野篁の話をしたことがあります。
なかなかの豪傑で、幽霊が出るという屋敷があったら自ら出向いて退治したり、嵯峨天皇に、その乱暴ぶりを嘆かれると一転して勉学に励んで、いっきに文章博士にまでなってしまったり…
虚実とりまぜていろいろおもしろい話がある人物です(機会があればこの人物も取り上げたいと思うくらい個性的な人です)。
「この人、京都の六道珍皇寺の井戸から地獄へ行って、閻魔大王を助けて裁判しとってんで」
みたいな話をし、平安時代の人たちが考えていた“地獄”の概念などを説明したとき、何人かの生徒たちがやけに“反応”しているんですよね。
なんでかな、と、思っていたら、授業が終わった後、やってきて、「先生っ ホオズキのレイテツって知ってますか?!」と言うんです。
え?? ホオズキのレイテツ??? なんじゃそりゃ?
と、思っていると、「地獄の話が出てくるんですっ」と活き活きと説明してくれました。
どうやら『鬼灯の冷徹』という漫画というかアニメというか、そういうものでした。
調べてみて、さっさく読んでみると、これがかなかなすごいモノ。「小野篁」も登場しているではありませんか。彼女たちがわたしの話に“反応”した理由がわかりました。
さてさて、授業では、平安時代の“宗教”も説明します。
「現世系」と、「来世系」の宗教がある、というところから入ります。
いつの時代でも人々の興味は「この世」と「あの世」ですからね。
現世系の話は、「この世」での幸福を願うもので、古来からの「神」だけではなく、天台宗や真言宗が、加持祈祷によって、「現世利益」を実現しようとしていた、というような話をします。
来世系の話は、「あの世」での幸福を願うもので、これが平安時代に流行した「浄土信仰」ということになります。
むろん、忘れてはならないのが、奈良時代に生まれた「神仏習合」の考え方を練り上げた
「本地垂迹説」
というものも、平安時代に生まれています。
そもそも、学の無い庶民にとっては、「神と仏」の差異がわかりにくい… どうしても神さんと仏さんの境界線がはっきりしないところ… ついつい、いっしょみたいなもんや、と、なるわけなのですが…
ぼやっとですが、この世のお願いは神さまに、あの世のお願いは仏さまに、という理解を庶民はしていたようです。
たしかに、この考え方は民間信仰において脈々と現代にまで伝わっていますよね。
生まれたときは、神社(お宮さん)にお参りし、
死んだときは、お寺でお葬式…
本地垂迹説は、神と仏は別のものではなく、「神」は「仏」が「現世」において形をかえてあらわれたもの、と考える思想です。あの世の主宰者、仏さまが、現世にあらわれるときは、この世の主宰者として神の姿であらわれる…
仏が「権(かり)」に「現(あらわ)」れたモノ、として「~権現」という表現ができました。
さて、来世系の念仏では、源信と空也が重要な役割を果たしました。
源信は『往生要集』という、「こうすれば、あなたも極楽に行ける!」という往生ハウツーもんのパンフレットのようなもので、“世界的ベストセラー”となります。
いやいや、世界的って… と、思われますが、中国にも輸出され、「日本ですごいこと言うてるやつがおる」と中国でも読まれるようになったんですよ。
彼は念仏のあり方を二つに分けました。
一つは「観想」、一つは「口称」です。源信は「観想」を重視しました。心に仏や極楽をイメージする、心に「仏」を「念」ずるのだ、という「念仏」を提唱します。
そして、「厭離穢土」「欣求浄土」の思想を明確に示しました。
これらの考え方は、当時の貴族に広く浸透し、よって、臨終の際に、阿弥陀仏が迎えに来るという仏宗教絵画、“来迎図”がたくさん描かれたり、この世に極楽を再現しよう、という阿弥陀堂建築(法成寺や平等院鳳凰堂など)が建てられたり、阿弥陀仏の仏像が大量に製作されたり(寄木造という大量生産方式も導入されたり)するようになったのです。
この時代の仏教文化は、このように一つにつながることになりました。
『往生要集』で源信は「観想念仏」を重視した、と教科書的には説明しますが、べつに「口称」を否定したりしていません。念仏を「観想」と「口称」に分けて説明したために「口称」という考え方も同時に強調することになり、実際、後に法然などは、『往生要集』に書かれている口称念仏をお手本にして「専修念仏」の思想を確立しました。
さて、口称念仏は、念仏を唱える(ブッダの弟子たちが師の死後、師を慕って南無仏と唱えたという伝説もあり)ことによって極楽往生がかなう、というもので、こちらは“市聖(いちのひじり)”と称された空也によって民衆の中に広がっていきました。
空也、というと、六波羅蜜寺にある重要文化財の像(ただし鎌倉時代の康勝の作)が有名です。
空也が念仏を唱えると、その語が阿弥陀仏となった、という伝説をあらわした彫刻で、口から針金が出ていて、その先に六体の仏さまがくっついている、というものです。
空也は謎が多く、一級史料がほとんど残っていませんが、理論の源信、実践の空也、と言われるように、民衆の中に入って「あなたも極楽往生ができるっ」と説いていった人物だったようです。
学校の授業では、もう一人、慶滋保胤を紹介します。『日本往生極楽記』をまとめました。さながら「極楽往生体験記」みたいなもので、聖徳太子をはじめ、行基などなど、極楽往生をした人々のことを書いてまとめています。
この人は、もともとは陰陽道、儒学の人で、なんと「賀茂」家の人… 本来なら「家業」の陰陽師となるべきところ、学問と仏教にめざめ、名前も「賀茂」を訓読みして「よししげ」と改名、「慶滋」とした、としたようです。
この時代、カルト教団、ではありませんが、「志を一つとする者が集まって、いっしょに往生しよう。そして現世では互いに助け合おう」という宗教秘密結社も存在しました。その設立に、慶滋保胤が深くかかわっていたといわれています。
その一つが「勧学会」で、朝は法華経、夕方は念仏、夜は仏をたたえる漢詩を著し、俗人は白居易の漢詩を朗読、僧は法華経を朗読し、朝に解散…
もう一つが「二十五三昧会」です。
これはなかなかにマニアックな集団で、メンバーは厳格に25名と定められ、誰かが抜けると一人かならず補充しなくてはなりませんでした。
規律に反したものは追放、「善友」の契りを結んだ以上は、臨終の際は相互に助け合って念仏を唱えます。
メンバーを奇数にしているのも、なかなかリクツが通っていて、一人が、病に倒れると、「往生院」という組織の建物にうつし、二人一組になってその一人をみんなで世話をする…(一人は看病、一人は念仏を唱える)
そしておもしろいのは、死後、極楽の様子を残っているメンバーに報告しなくてはならない、という規則もあったそうです。(どないして伝えるねんっ)
いつの時代でも、宗教のあり方はよく似ていますね。
「この世」と「あの世」、人々の興味はつきぬ、ということです。