平安時代の話で、小野氏の話が出てきたときのことです。
「三蹟」の一人、花札の「雨」でも知られる小野道風。
藤原純友の乱のときに活躍した小野好古。
実はこの二人は、兄弟です。
「小野一族はなかなか個性的でね」
と、やや話を脱線させて、二人のおじいさん、小野篁の話をしたことがあります。
なかなかの豪傑で、幽霊が出るという屋敷があったら自ら出向いて退治したり、嵯峨天皇に、その乱暴ぶりを嘆かれると一転して勉学に励んで、いっきに文章博士にまでなってしまったり…
虚実とりまぜていろいろおもしろい話がある人物です(機会があればこの人物も取り上げたいと思うくらい個性的な人です)。
「この人、京都の六道珍皇寺の井戸から地獄へ行って、閻魔大王を助けて裁判しとってんで」
みたいな話をし、平安時代の人たちが考えていた“地獄”の概念などを説明したとき、何人かの生徒たちがやけに“反応”しているんですよね。
なんでかな、と、思っていたら、授業が終わった後、やってきて、「先生っ ホオズキのレイテツって知ってますか?!」と言うんです。
え?? ホオズキのレイテツ??? なんじゃそりゃ?
と、思っていると、「地獄の話が出てくるんですっ」と活き活きと説明してくれました。
どうやら『鬼灯の冷徹』という漫画というかアニメというか、そういうものでした。
調べてみて、さっさく読んでみると、これがかなかなすごいモノ。「小野篁」も登場しているではありませんか。彼女たちがわたしの話に“反応”した理由がわかりました。
さてさて、授業では、平安時代の“宗教”も説明します。
「現世系」と、「来世系」の宗教がある、というところから入ります。
いつの時代でも人々の興味は「この世」と「あの世」ですからね。
現世系の話は、「この世」での幸福を願うもので、古来からの「神」だけではなく、天台宗や真言宗が、加持祈祷によって、「現世利益」を実現しようとしていた、というような話をします。
来世系の話は、「あの世」での幸福を願うもので、これが平安時代に流行した「浄土信仰」ということになります。
むろん、忘れてはならないのが、奈良時代に生まれた「神仏習合」の考え方を練り上げた
「本地垂迹説」
というものも、平安時代に生まれています。
そもそも、学の無い庶民にとっては、「神と仏」の差異がわかりにくい… どうしても神さんと仏さんの境界線がはっきりしないところ… ついつい、いっしょみたいなもんや、と、なるわけなのですが…
ぼやっとですが、この世のお願いは神さまに、あの世のお願いは仏さまに、という理解を庶民はしていたようです。
たしかに、この考え方は民間信仰において脈々と現代にまで伝わっていますよね。
生まれたときは、神社(お宮さん)にお参りし、
死んだときは、お寺でお葬式…
本地垂迹説は、神と仏は別のものではなく、「神」は「仏」が「現世」において形をかえてあらわれたもの、と考える思想です。あの世の主宰者、仏さまが、現世にあらわれるときは、この世の主宰者として神の姿であらわれる…
仏が「権(かり)」に「現(あらわ)」れたモノ、として「~権現」という表現ができました。
さて、来世系の念仏では、源信と空也が重要な役割を果たしました。
源信は『往生要集』という、「こうすれば、あなたも極楽に行ける!」という往生ハウツーもんのパンフレットのようなもので、“世界的ベストセラー”となります。
いやいや、世界的って… と、思われますが、中国にも輸出され、「日本ですごいこと言うてるやつがおる」と中国でも読まれるようになったんですよ。
彼は念仏のあり方を二つに分けました。
一つは「観想」、一つは「口称」です。源信は「観想」を重視しました。心に仏や極楽をイメージする、心に「仏」を「念」ずるのだ、という「念仏」を提唱します。
そして、「厭離穢土」「欣求浄土」の思想を明確に示しました。
これらの考え方は、当時の貴族に広く浸透し、よって、臨終の際に、阿弥陀仏が迎えに来るという仏宗教絵画、“来迎図”がたくさん描かれたり、この世に極楽を再現しよう、という阿弥陀堂建築(法成寺や平等院鳳凰堂など)が建てられたり、阿弥陀仏の仏像が大量に製作されたり(寄木造という大量生産方式も導入されたり)するようになったのです。
この時代の仏教文化は、このように一つにつながることになりました。
『往生要集』で源信は「観想念仏」を重視した、と教科書的には説明しますが、べつに「口称」を否定したりしていません。念仏を「観想」と「口称」に分けて説明したために「口称」という考え方も同時に強調することになり、実際、後に法然などは、『往生要集』に書かれている口称念仏をお手本にして「専修念仏」の思想を確立しました。
さて、口称念仏は、念仏を唱える(ブッダの弟子たちが師の死後、師を慕って南無仏と唱えたという伝説もあり)ことによって極楽往生がかなう、というもので、こちらは“市聖(いちのひじり)”と称された空也によって民衆の中に広がっていきました。
空也、というと、六波羅蜜寺にある重要文化財の像(ただし鎌倉時代の康勝の作)が有名です。
空也が念仏を唱えると、その語が阿弥陀仏となった、という伝説をあらわした彫刻で、口から針金が出ていて、その先に六体の仏さまがくっついている、というものです。
空也は謎が多く、一級史料がほとんど残っていませんが、理論の源信、実践の空也、と言われるように、民衆の中に入って「あなたも極楽往生ができるっ」と説いていった人物だったようです。
学校の授業では、もう一人、慶滋保胤を紹介します。『日本往生極楽記』をまとめました。さながら「極楽往生体験記」みたいなもので、聖徳太子をはじめ、行基などなど、極楽往生をした人々のことを書いてまとめています。
この人は、もともとは陰陽道、儒学の人で、なんと「賀茂」家の人… 本来なら「家業」の陰陽師となるべきところ、学問と仏教にめざめ、名前も「賀茂」を訓読みして「よししげ」と改名、「慶滋」とした、としたようです。
この時代、カルト教団、ではありませんが、「志を一つとする者が集まって、いっしょに往生しよう。そして現世では互いに助け合おう」という宗教秘密結社も存在しました。その設立に、慶滋保胤が深くかかわっていたといわれています。
その一つが「勧学会」で、朝は法華経、夕方は念仏、夜は仏をたたえる漢詩を著し、俗人は白居易の漢詩を朗読、僧は法華経を朗読し、朝に解散…
もう一つが「二十五三昧会」です。
これはなかなかにマニアックな集団で、メンバーは厳格に25名と定められ、誰かが抜けると一人かならず補充しなくてはなりませんでした。
規律に反したものは追放、「善友」の契りを結んだ以上は、臨終の際は相互に助け合って念仏を唱えます。
メンバーを奇数にしているのも、なかなかリクツが通っていて、一人が、病に倒れると、「往生院」という組織の建物にうつし、二人一組になってその一人をみんなで世話をする…(一人は看病、一人は念仏を唱える)
そしておもしろいのは、死後、極楽の様子を残っているメンバーに報告しなくてはならない、という規則もあったそうです。(どないして伝えるねんっ)
いつの時代でも、宗教のあり方はよく似ていますね。
「この世」と「あの世」、人々の興味はつきぬ、ということです。