安国寺恵瓊のルーズベルトゲーム | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

安国寺恵瓊は戦国時代、とりわけ信長・秀吉・家康の三人を主人公とするドラマでは「欠かせぬ存在」になっています。
信長の没落を見破り、秀吉の台頭を予言し、関ヶ原で家康と対峙して敗れる…

彼の若き頃の一級史料(当時の史料)が少ないため、生年、出自など不明なところは多く、軽々に語ることはできないのですが、毛利元就によって滅ぼされた安芸国の武田氏の関係者であったことはどうやら確かなところだと思います。

「関係者」というのは、一族、ともいえるし、その家臣の家だったかも知れぬし、といったところでしょうか…
よくある話ですが、子どもの場合は、家が戦さにやぶれて逃げた後には出家する…

若き恵瓊(幼名は竹若丸?)は、安芸の安国寺で仏門に入った、といいますから禅宗(臨済宗)のお坊さんということになります。
で、“本店”勤務といいましょうか、京都の東福寺に行くことになり、恵心という僧の弟子になったようです。
(序)でお話ししたように、戦国時代の僧というのは、ネットワーク力、というのがたいへん高く、貴族や大名などの関わりが深い…
貴族の子弟、大名の子弟が、「修学」「修行」のために訪れる場合もあるし、次男以下が出家させられていても、突然、還俗して本家の後継ぎ、ということになる場合も多い…
幼きころの師、というのは、なかなかに影響力があり、その後も交際が続く、あるいは顧問として迎えられる、などということはよくあるわけです。

恵心は、毛利隆元と親交のあった人物で、これがきっかけで毛利家とつながりができます。
毛利隆元は、安芸武田氏を滅ぼした元就の子です。このときは、どういう心境だったのか、もちろんわかりませんが、なんとも数奇な運命としかいいようがありません。

ここから「僧」としての恵瓊は、毛利の外交官の一人として活躍を開始します。

当時、九州の大友氏と毛利氏は対立しており、恵瓊はネゴシエーター(交渉人)として活躍し、九州の小豪族を毛利氏の味方になるように「説得」する仕事をしていました。

1570年代になって、“京都工作”を担当します。なにせ臨済宗東福寺の僧であった経験から、将軍家や貴族などともネットワークがあったわけですから、当然、恵瓊にその任が与えられたと考えられます。
目的は、将軍足利義昭に、九州でもめている大友氏との和平交渉を依頼するためでした。

ところが大事件が起こります。
1573年、足利義昭が信長によって追放されました。
義昭の扱いについて、毛利氏と織田氏の間で「話し合い」がもたれることになりました。ようするに、引き取る、引き取らない、の問題です。
交渉は決裂するのですが、このときの織田方の外交官が羽柴秀吉でした。

で、あの、有名な“予言の書”と称される手紙が書かれることになります。

「信長は、まぁ三年か五年はもつでしょう。来年あたりは公家に出世するやもしれぬ。けれどもその後は、高いとこから転げ落ちることになるでしょうよ。藤吉郎はなかなかの者だと思います。」

でも…
これ、そんなにすごい話でしょうか… 戦国ファンの方に水をさすようで申し訳ないのですが、わりと当時のフツーの感想なんですよ。基本的に70年代の信長は、貴族や寺院には嫌われていましたからね。恵瓊の持つネットワーク内での共通の感想だったと思います。

現代でも、会社の中で急に出世してきたやつがいたら、「あんなん、そんなに持つわけないわ」みたいによく言われますし、新興企業なんかも同様に「すごいか知らんけれど、あんなやり方しとったら続かんよ」くらいの批判はされます。
けど、あいつの部下の○○は、わりと話がわかるやつだ、とか、でもあそこの営業部長はなかなかデキルやつだ、とか、自分が身近に接して親近感を持った者には、良い評価をくだしがちです。

小説家のみなさんが、「後の本能寺の変を予言していた!」「秀吉が天下を取ることを見通していた!」と、ほめちぎるほどのことではないと思うんですよ…
たったこれだけの文で、えらい持ち上げられてしまった、と思いますけれど…
明智光秀だって、信長の部下の中ではかくべつにすぐれている、あの人が信長の後継者だ、と、言われていることもあったわけですから、もし、光秀が天下をとっていたら、きっと別の恵瓊が、「将来を見通す力があった」と持ち上げられていたと思います。

2000年に入って、急速に戦国時代の研究が進み、従来の戦国時代像が劇的に変化しています。
毛利氏の研究もいっきに進み、それにあわせて、従来の“安国寺恵瓊”像も変化してきました。

何かが誇張されてしまうと、別の一面が矮小化されてしまうのは間違いありません。
別の面のすぐれた業績がかえって埋もれてしまうため、「ゆがんだ人物像」が人々の中に刷り込まれてしまいます。

恵瓊に関しては不思議なことがいくつかあります。

毛利家の中の地位はどのようなものだったのか。
後に豊臣氏の家来になって大名になったのか。
関ヶ原の戦いで、実際に戦闘に参加した宇喜多秀家は助命されたのに、参加していない恵瓊がなぜ処刑されたのか。

なにやら、関ヶ原後の、毛利家の存続のための、さまざまな工作の中で、いろいろな話が「つくりかえられている」ような臭いがして仕方ありません。

毛利家は、隆元の死後、その子の毛利輝元をささえて、“毛利の両川”と呼ばれた小早川氏と吉川家が支えていました。
若社長とそれをささえる有能な親族の専務二人、といったところでしょうか。
恵瓊は、小早川隆景にその交渉能力をかわれて、新興企業の株式会社織田との連携を模索します。
ところが、織田信長は、毛利を仮想敵国と考えていっさいの妥協がみられない。
ところが株式会社織田の専務、羽柴秀吉は穏健派で、毛利との連携をも視野にいれた動きをみせている。
恵瓊は、株式会社織田との交渉役として羽柴秀吉と接する機会がふえていく…
ところが株式会社織田内での政権交代劇が起こり、おもわぬ形で羽柴秀吉が社長となりました。
で、毛利は、羽柴秀吉との業務提携にこぎつけて、大企業羽柴の傘下の企業となりました。
最悪、吸収合併されるならば、せめて創業家の毛利秀包と専務の吉川広家だけの二人は役員に残してほしい、と交渉していましたが、役員そのままで傘下企業に入れることになりました。
小早川専務はこの交渉の手腕を高く評価していましたが、吉川専務はどうも気に入らない… 「小早川専務は恵瓊にだまされているっ」とずっと含むところがあったようです。
一方恵瓊は、毛利が羽柴の傘下に入った後は、毛利の部長のまま、親会社の羽柴にも出向し、そこで羽柴社長室付きの仕事も与えられて、親会社と子会社のパイプ役になっていました。
「おまえ、どっちの味方やねんっ」と吉川専務はずっと不満…

そんな中、転機がおとずれました。株式会社羽柴の中の、同じ傘下企業ながら副社長格の徳川専務が次期社長候補に急速に台頭してくる。
恵瓊は、秀吉の社長室長だった石田三成と仲がよく、秀吉の子を若社長としてもりたてようとしていました。
「ふん、そっちがその気なら…」と、吉川専務はそれなりに「毛利家」のことを考えて、本社の徳川専務と接近します。
徳川専務からは

「いやいや、それはありがたい。それなら毛利さんところは、役員はそのままで、対等合併で参りましょう。いや、よく決断してくださいました。毛利と徳川が手をくめば、日本一はまちがいなし。いや、これはなにも二つの家のことだけではありません。将来の日本のために、実によいことです。わははははは」

というお墨付きをもらいました。
そんな“裏取引”を知らぬ恵瓊は、関ヶ原の戦いで、西軍に味方しているはずと思っていたら、毛利軍は実はまったく動かない… 戦いは東軍の勝利になりました…

企業間の合併に対等などありえない
天下国家を論じて合併をもちかけれて、うかうかと話に乗るとろくなことがない

とは、小説『ルーズヴェルト=ゲーム』内での有名な言葉です。

家康は吉川広家との“約束”を反故にしました。
領地は大きく削除され、一地方大名に毛利家は転落し、むろん政治には参加できぬ外様大名となってしまいました。

いやいや、実はもちろん別の“シナリオ”も考えられます。

西軍に“加担”してしまったのは、すべて恵瓊のせいである、毛利輝元も吉川も、もともと東軍に味方するはずだったが、豊臣家と昵懇の関係にあった恵瓊の策略で、家康さまに逆らってしまいました。どうかお許しください、という「工作」のために、必要以上に「恵瓊」像がつくりかえられた、という可能性もあります。

もともと秀吉に吉川広家と毛利秀包の存続を申し出ていたことがあるくらいです。吉川広家と恵瓊が仲が悪かったとも考えにくい…
関ヶ原の戦い後、毛利本家にもどってきた恵瓊に、広家は「面会」して、言い含めて放逐しています。
小説などでは、「おまえのせいでこんなことになった。出ていけっ」みたいな扱いでしたが、実は、「すまぬ恵瓊、今回のことはすべておまえのせいということで、なんとか毛利家を存続させるための犠牲になってくれまいか」というような話になっていたとしても、わたしは驚きません。
(すいません。後半はわたしの勝手な根拠ない仮説です。)

恵瓊にせよ、小早川隆景にせよ、吉川広家にせよ、毛利家存続のために、ありとあらゆる可能性を模索して、戦国時代を駆け抜けていったような気がします。