花、というとついつい季節は春、と考えてしまいます。
なかなかどうして秋の花も美しい。
『太平記』ゆかりの鎌倉は、花の名所でもあります。
もし、鎌倉などへご旅行を計画されている方にも参考になるよう、歴史とお寺とお花の話をしてみたいと思います。
浄光明寺。
鎌倉幕府の執権、北条長時が創建したお寺です。この長時の子孫が「赤橋家」。
つまり足利尊氏の妻、登子の実家です。
そんなわけで、この寺は足利尊氏の厚い保護を受けました。
1335年、中先代の乱を平定したにもかかわらず、足利尊氏は後醍醐天皇の命令にそむいて帰京しませんでした。
後醍醐天皇は尊氏を討つことを決め、新田義貞に軍を率いさせて鎌倉に派遣しました。
このとき、尊氏は、後醍醐天皇に恭順の意を示すために謹慎した寺がこの浄光明寺だったのです。
恭順か、はたまた反乱か…
まさに南北朝時代のハムレット、足利尊氏。
この寺にある地蔵菩薩像の前で苦悩し、反乱を決心した、といわれています。
日曜日や祝日、土曜日と木曜日の晴れた日には阿弥陀三尊像とこの地蔵菩薩を拝観できるようです。
地蔵菩薩には、坂上田村麻呂の蝦夷征伐の時、蝦夷たちが放つ矢を振り払って田村麻呂を守った、という伝説があるのですが、おもしろいことに、足利直義も地蔵菩薩に助けられた、という伝説があります。
おそらく坂上田村麻呂の伝説と重ねられたのかもしれません。
浄光明寺は“お花のお寺”。
秋は彼岸花が美しい…
浄妙寺。
足利尊氏の父、貞氏は、このお寺に葬られています。
おもしろいことに浄妙寺の裏手には延福寺がありました。この寺こそ、尊氏と対立してしまうことになった弟、直義が蟄居させられ、そして死をとげた場所。
そしてこの寺近くに直義の屋敷もあったといわれています。
今は「石窯ガーデンテラス」というおいしい料理がいただけるお店があります。
ここでお食事をいただいて、世の移ろいにしばし思いをやる、というのもまた一興かと思います。
浄妙寺は“もみじのお寺”。
秋は紅葉が美しい…
報国寺。
「竹の寺」として地元では有名です。
足利尊氏の祖父、家時が開いたお寺とも考えられています。
美しい竹を身ながら、お抹茶もいただけます。
1333年、新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入って鎌倉幕府を滅ぼしました。このときに戦って死んでいった武士たちを供養した五輪塔もありますが、これは1965年にみつかった、由比ヶ浜での戦死者の骨などを供養したものだそうです。
報国寺は“お花のお寺”。
秋は十月桜が美しい…
宝戒寺。
なんとこの寺、鎌倉幕府最後の得宗、北条高時の屋敷があったところに建てられました。
北条高時の菩提を弔うために足利尊氏が建てたのです。
この寺の二世、普川国師は尊氏の子どもであったという話もあります。
1333年、新田義貞の軍勢が鎌倉に侵入、激戦の末、「もはやこれまで」と北条高時は一族を率いて屋敷を出て、東勝寺に入ったといわれています。
そしてここで自害して果てました…
よく考えると、東勝寺は、足利尊氏の庶子、足利直冬が子どものときに預けられていたのもこの東勝寺。
宝戒寺のすぐ東南に、東勝寺跡があります。
宝戒寺は“お花のお寺”。
秋は白萩が美しい…
見渡せば
花ももみじもありにけり
秋の鎌倉、『太平記』めぐり、というのを楽しむというのはどうでしょうか。
※ お詫び
9月10日の投降で、「浄光明寺」を「浄妙光寺」と表記してしまっていました。
浄光明寺さま初め、鎌倉の皆さま、読者のみなさま、申し訳ありません。
お詫びして訂正します。
9月8日が中秋の名月、そして9月9日は「重陽の節句」で、しかもスーパームーン…
とくりゃ、ちょっと月の話でもさせていただきたいと思います。
「月見」、というのは、あんまり外国ではない習慣、だそうです。
「だそうです」というのは、月がきれい、という感覚は、どこの国の方も持ち合わせておられるので、「月を観る」というのはいくらでもあることだからです。
中世ヨーロッパの「白魔術」では実は、
月光浴
というのがあり、月の光が魂を清浄化し、不吉を洗い流す、と考えられていました。
神秘的で美しい月、というのは、作曲家へのインスピレーションにもなり、ドビュッシーのベルガマスク組曲の“月の光”などの名曲も生み出しています。
お月見は日本の独特の風習である、ということは否定しませんが、月を愛でる、というのは万国共通のような気がします。
ところが!
案外とおもしろいことを申しますと、実は平安時代の貴族たちは、「月を観る」のは“不吉”であると考えていたんです。
月を「観るべき日」というのが決まっていて、それ以外、月を直接見るのは忌むべきこととされていたんです。
月を観るのが「吉」な日が、旧暦の8月15日と、9月13日、つまり「十五夜」と「十三夜」なんです。
で、どちらか一方しか見ないのは「片見月」といって不吉とされ、両方見ないといけない、と、されていました。
ことさら「御月見」という儀式があるのは、ある特定の日に見るのが吉(その日以外に月を見るのが不吉)だからこそ生まれた習慣だったんですよ。
あんがいと軽く読み流してしまうのですが『竹取物語』の一節に、
ある人の、月の顔観るは、忌むこと、制しけれども
ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣き給ふ
という話があります。
かぐや姫が、月を恋しく思って、夜に月が出るのを見ては物思いにふけるようになり、ある人が「月の顔を見るのは、不吉である」と言って制止しようとしても、人目を盗んで月を見てはげしく泣いていた、ということが記されています。
月を直接ながめることは「不吉」、だからふだんは月を見てはいけない、ということがわかる一節です。
でも、いろいろ文献を見ると、月を愛でる会をけっこう貴族たちはしています。
ですからついつい、月見はしょっちゅうしているかのような誤解を受けるのですが、ふだんの観月は、月を直接見るのではなく、池の水面に映っている月や、器に注いだ酒に映った月を眺める、という方法で月を直接見ずに楽しんでいたんです。ですからちょっと霞がかかったおぼろ月などは眺めてもよかったんですよね。
今、京都の東山におります。
さきほど、月をながめておりました。ふと、『平家物語』の巻五「月見」を思い出しました。
徳大寺実定が今様を歌います。
古き都を来てみれば
浅茅が原とぞ荒れにける
月の光はくまなくて
秋風のみぞ身にはしむ
月の光は、何百年たっても変わらずこの世を照らしますが、この世はめまぐるしく変わっております。
でも、月を愛でるとき、徳大寺実定のように、なぜか人は感傷的になるんですよね。
「変わる世」と「変わらぬ月の光」
この不変と変の対比は、歴史物語の中では月の光であぶり出されます。
そして『太平記』の足利直冬を思い出しました。
南北朝の時代、室町幕府が成立したものの、尊氏の弟の直義と執事の高師直が対立します。
足利直義が失脚したのは、9月の初め。
高師直は、直義の養子、足利直冬(実は尊氏の息子)を討とうとしました。
杉原利孝によって足利直冬がまさに討たれようとしたとき、磯部左近将監が危機一髪で救い出し、船で九州に脱出させました。
これが9月の13日。
足利直冬は、逃げ行く船の上で、今宵が十三夜であることに気づき、十三夜の月を愛でました。
梓弓
われこそあらめ
引きつれて
人にさへうき月を見せつる
「私だけでなく、家臣たちにも辛い思いをさせてしまって、この月を眺めさせることよ」
歴史物語では、いろいろな場面で月が描かれています。
歴史の節目。
人は月を見ていた、というより、月は人を見ていた、というところでしょうか。
とくりゃ、ちょっと月の話でもさせていただきたいと思います。
「月見」、というのは、あんまり外国ではない習慣、だそうです。
「だそうです」というのは、月がきれい、という感覚は、どこの国の方も持ち合わせておられるので、「月を観る」というのはいくらでもあることだからです。
中世ヨーロッパの「白魔術」では実は、
月光浴
というのがあり、月の光が魂を清浄化し、不吉を洗い流す、と考えられていました。
神秘的で美しい月、というのは、作曲家へのインスピレーションにもなり、ドビュッシーのベルガマスク組曲の“月の光”などの名曲も生み出しています。
お月見は日本の独特の風習である、ということは否定しませんが、月を愛でる、というのは万国共通のような気がします。
ところが!
案外とおもしろいことを申しますと、実は平安時代の貴族たちは、「月を観る」のは“不吉”であると考えていたんです。
月を「観るべき日」というのが決まっていて、それ以外、月を直接見るのは忌むべきこととされていたんです。
月を観るのが「吉」な日が、旧暦の8月15日と、9月13日、つまり「十五夜」と「十三夜」なんです。
で、どちらか一方しか見ないのは「片見月」といって不吉とされ、両方見ないといけない、と、されていました。
ことさら「御月見」という儀式があるのは、ある特定の日に見るのが吉(その日以外に月を見るのが不吉)だからこそ生まれた習慣だったんですよ。
あんがいと軽く読み流してしまうのですが『竹取物語』の一節に、
ある人の、月の顔観るは、忌むこと、制しけれども
ともすれば、人間にも月を見ては、いみじく泣き給ふ
という話があります。
かぐや姫が、月を恋しく思って、夜に月が出るのを見ては物思いにふけるようになり、ある人が「月の顔を見るのは、不吉である」と言って制止しようとしても、人目を盗んで月を見てはげしく泣いていた、ということが記されています。
月を直接ながめることは「不吉」、だからふだんは月を見てはいけない、ということがわかる一節です。
でも、いろいろ文献を見ると、月を愛でる会をけっこう貴族たちはしています。
ですからついつい、月見はしょっちゅうしているかのような誤解を受けるのですが、ふだんの観月は、月を直接見るのではなく、池の水面に映っている月や、器に注いだ酒に映った月を眺める、という方法で月を直接見ずに楽しんでいたんです。ですからちょっと霞がかかったおぼろ月などは眺めてもよかったんですよね。
今、京都の東山におります。
さきほど、月をながめておりました。ふと、『平家物語』の巻五「月見」を思い出しました。
徳大寺実定が今様を歌います。
古き都を来てみれば
浅茅が原とぞ荒れにける
月の光はくまなくて
秋風のみぞ身にはしむ
月の光は、何百年たっても変わらずこの世を照らしますが、この世はめまぐるしく変わっております。
でも、月を愛でるとき、徳大寺実定のように、なぜか人は感傷的になるんですよね。
「変わる世」と「変わらぬ月の光」
この不変と変の対比は、歴史物語の中では月の光であぶり出されます。
そして『太平記』の足利直冬を思い出しました。
南北朝の時代、室町幕府が成立したものの、尊氏の弟の直義と執事の高師直が対立します。
足利直義が失脚したのは、9月の初め。
高師直は、直義の養子、足利直冬(実は尊氏の息子)を討とうとしました。
杉原利孝によって足利直冬がまさに討たれようとしたとき、磯部左近将監が危機一髪で救い出し、船で九州に脱出させました。
これが9月の13日。
足利直冬は、逃げ行く船の上で、今宵が十三夜であることに気づき、十三夜の月を愛でました。
梓弓
われこそあらめ
引きつれて
人にさへうき月を見せつる
「私だけでなく、家臣たちにも辛い思いをさせてしまって、この月を眺めさせることよ」
歴史物語では、いろいろな場面で月が描かれています。
歴史の節目。
人は月を見ていた、というより、月は人を見ていた、というところでしょうか。
デング熱が“流行”しています。
といっても、重症化して死に至る、ということはまれな熱帯性の病気らしく、知人の医師などは、「感染力も重症化の危険性も、インフルエンザのほうがはるかに怖い」と申しておりました。
もちろん、油断は禁物。正しい知識と正しい判断で、冷静に対処していきたいところです。
お恥ずかしい話、高校生のときに、デング熱を「てんぐ(天狗)熱」と聞き間違えて、なにやら熱で真っ赤な顔にでもなるのか、と、思ってしまいました。
「デング」の名の由来は実はあんまりわからないそうで、スペイン語の「けいれん」「ひきつり」という意味が近い、という信憑性の高い話もあれば、デング熱にかかった人の歩き方が、背筋が伸びたようになって“ダンディ”だから「ダンディ熱」となって、さらにそれが訛って「デング熱」となった、というウソ臭い話まであったりします。
かつてこういう伝染病は、ウィルスが原因とはわからず(あまりに小さく光学顕微鏡で可視化できなず)、黄熱病がウィルスが原因とわかった第一号で、第二号がデング熱だそうです。
文献に記されている症状で、「これはデング熱のことだろうな」と判断できそうなのが、なんと4世紀の中国の記録に残されています。
晋王朝の記録の中で、「水毒」と記されているのがそれです。
『三国志』
の中で、諸葛孔明が「南蛮行」といって現在のインドシナ半島からミャンマー近くまで遠征したかのような話が出てきますが、そこの記述の中で「水毒」の話が出てきます。
小説などでは、この字面から「水を飲んでかかる病気」と訳されている場合が多いのですが、最近の研究では蚊を媒介するデング熱のことだろうと推定されるようになりました。
近代では、日本の植民地下にあった台湾(昭和11年)で、軍の防疫担当医師の記録にデング熱の記載があり、戦後は、南方から復員してきた人たちが持ち込んで、一時的ですが、日本国内でも流行したことがあります。
ちょっと“ひねくれた”歴史解釈をさせていただきますと…
大航海時代以後、ヨーロッパ諸国は海外に進出し、現地の特産物を持ち込んで利益をあげたり、各地に植民地を設けたりしました。
当然、現地の病気をヨーロッパに持ち込んだり、逆にヨーロッパの病気を現地に運び込んだりすることになっちゃいました。
16~17世紀ですと、ラテンアメリカなどにしか存在しなかった「梅毒」がヨーロッパにもたらされ、あっという間に日本にまで到達します。
逆にラテンアメリカになかった「インフルエンザ」がヨーロッパ人によってもたらされ、現地の人々が次々に死んでいく、ということも起こりました。
実際、スペインのコルテスがアステカ文明を滅ぼした、なんて言いますが、あれなどはインフルエンザによって滅ぼされた、と、いってもよいくらいなんですよ。
疫病と過酷な労働によって激減した現地の人口を補うため、アフリカの黒人奴隷がラテンアメリカに運び込まれ、かれらの労働によって生産されたさとうきび、たばこ、銀などがヨーロッパに持ち込まれれる、という「三角貿易」が成立しました。
18~19世紀になると、欧米諸国は、すでに所有している植民地を“有効に”活用するため、再開発を進めていきます。
鉄道を敷設したり、もともとそこにはない植物を別の植民地から持ってきて植え付けたり(プランテーション)、森林を伐採して新しい耕作地を切り開いていったり…
こうして森の中に“眠っていた”(人間を知らなかった)ウィルスなどを目覚めさせてしまったんです。
現地の人たちは
「森には悪魔がいる」
「森を荒らせば悪魔に祟られる」
と、森林を切り開くことをおそれていました。
おそらく経験から森に潜む動物や虫をホスト(宿主)とする病気のことを知っていたのでしょう。
「そんなの迷信だっ」
と、ヨーロッパ人たちはどんどん開発を進めていく…
こうしてアフリカなどでウィルス性の病気が爆発的に発生する(アウトブレイク)することになりました。
欧米列強の植民地政策に、最初にブレーキをかけたのは、現地の人々の抵抗ではなく、ウィルスたちだったのですよね。
“ひねくれた歴史解釈”とはここからで…
このことから、アフリカに多くの植民地を持つフランスやイギリスでは伝染病の研究が、国家の支援の下、積極的に進められていくことになったのです。
一見、世のため、人のための病気の研究が、実は、一方で植民地開発の片棒を担ぐものだった、と、言えなくもない…
さて、日本でも、平安時代では、伝染病は、「疫病」と呼ばれ、疫神の為す祟りである、と、考えられていました。
それどころか、恨みを呑んで死んでしまった人が祟る、というのは、たいていは、疫病という形であらわれ、疫病を、恨みを呑んで死んだ人を手厚く「葬る」「供養する」という方法で解決しようとしました。
奈良時代の初めの天然痘の流行は、謀反の罪をかけられて処刑された長屋王の祟り、と、考えられましたし、長岡京から平安京への遷都のきっかけの一つとなったことは、早良親王の祟りで疫病や洪水が起こったと考えられたからでした。
疫神を鎮める、という方法ですが、呪術的な作業はもちろんするのですが、同時に「清める」と称して清掃・美化につとめ、そうして酒や塩を散布します。
でも、これって、よくよく考えてみると、衛生学的には正しい処置ですよね。
アフリカの原住民たちが「森を侵すと悪魔に祟られる」とおそれていた、と、申しましたが、長岡京の洪水被害の原因も、都の造営のため、周辺産地で森林が伐採されたことが原因であると説明されるようにもなっています。
信仰と科学、というのは対立することではないのですよね。
病気が、目に見えない悪魔のしわざだ、と、昔の人たちは考えましたが、ある意味正しかったわけです。
「悪魔」を「ウィルス」と言い換えているだけですもんね。
どちらも、病の原因は何なのか? と求めて解決しようとする同じ心の働きですから。
信仰と科学を対立させる限り、物事はおそらく解決されないと思います。
信仰と科学が“調和”すること、そしてさせること…
信仰に振り回されない、科学が人を見失わない、どちらも大切で両立させなければならいことだと思います。
といっても、重症化して死に至る、ということはまれな熱帯性の病気らしく、知人の医師などは、「感染力も重症化の危険性も、インフルエンザのほうがはるかに怖い」と申しておりました。
もちろん、油断は禁物。正しい知識と正しい判断で、冷静に対処していきたいところです。
お恥ずかしい話、高校生のときに、デング熱を「てんぐ(天狗)熱」と聞き間違えて、なにやら熱で真っ赤な顔にでもなるのか、と、思ってしまいました。
「デング」の名の由来は実はあんまりわからないそうで、スペイン語の「けいれん」「ひきつり」という意味が近い、という信憑性の高い話もあれば、デング熱にかかった人の歩き方が、背筋が伸びたようになって“ダンディ”だから「ダンディ熱」となって、さらにそれが訛って「デング熱」となった、というウソ臭い話まであったりします。
かつてこういう伝染病は、ウィルスが原因とはわからず(あまりに小さく光学顕微鏡で可視化できなず)、黄熱病がウィルスが原因とわかった第一号で、第二号がデング熱だそうです。
文献に記されている症状で、「これはデング熱のことだろうな」と判断できそうなのが、なんと4世紀の中国の記録に残されています。
晋王朝の記録の中で、「水毒」と記されているのがそれです。
『三国志』
の中で、諸葛孔明が「南蛮行」といって現在のインドシナ半島からミャンマー近くまで遠征したかのような話が出てきますが、そこの記述の中で「水毒」の話が出てきます。
小説などでは、この字面から「水を飲んでかかる病気」と訳されている場合が多いのですが、最近の研究では蚊を媒介するデング熱のことだろうと推定されるようになりました。
近代では、日本の植民地下にあった台湾(昭和11年)で、軍の防疫担当医師の記録にデング熱の記載があり、戦後は、南方から復員してきた人たちが持ち込んで、一時的ですが、日本国内でも流行したことがあります。
ちょっと“ひねくれた”歴史解釈をさせていただきますと…
大航海時代以後、ヨーロッパ諸国は海外に進出し、現地の特産物を持ち込んで利益をあげたり、各地に植民地を設けたりしました。
当然、現地の病気をヨーロッパに持ち込んだり、逆にヨーロッパの病気を現地に運び込んだりすることになっちゃいました。
16~17世紀ですと、ラテンアメリカなどにしか存在しなかった「梅毒」がヨーロッパにもたらされ、あっという間に日本にまで到達します。
逆にラテンアメリカになかった「インフルエンザ」がヨーロッパ人によってもたらされ、現地の人々が次々に死んでいく、ということも起こりました。
実際、スペインのコルテスがアステカ文明を滅ぼした、なんて言いますが、あれなどはインフルエンザによって滅ぼされた、と、いってもよいくらいなんですよ。
疫病と過酷な労働によって激減した現地の人口を補うため、アフリカの黒人奴隷がラテンアメリカに運び込まれ、かれらの労働によって生産されたさとうきび、たばこ、銀などがヨーロッパに持ち込まれれる、という「三角貿易」が成立しました。
18~19世紀になると、欧米諸国は、すでに所有している植民地を“有効に”活用するため、再開発を進めていきます。
鉄道を敷設したり、もともとそこにはない植物を別の植民地から持ってきて植え付けたり(プランテーション)、森林を伐採して新しい耕作地を切り開いていったり…
こうして森の中に“眠っていた”(人間を知らなかった)ウィルスなどを目覚めさせてしまったんです。
現地の人たちは
「森には悪魔がいる」
「森を荒らせば悪魔に祟られる」
と、森林を切り開くことをおそれていました。
おそらく経験から森に潜む動物や虫をホスト(宿主)とする病気のことを知っていたのでしょう。
「そんなの迷信だっ」
と、ヨーロッパ人たちはどんどん開発を進めていく…
こうしてアフリカなどでウィルス性の病気が爆発的に発生する(アウトブレイク)することになりました。
欧米列強の植民地政策に、最初にブレーキをかけたのは、現地の人々の抵抗ではなく、ウィルスたちだったのですよね。
“ひねくれた歴史解釈”とはここからで…
このことから、アフリカに多くの植民地を持つフランスやイギリスでは伝染病の研究が、国家の支援の下、積極的に進められていくことになったのです。
一見、世のため、人のための病気の研究が、実は、一方で植民地開発の片棒を担ぐものだった、と、言えなくもない…
さて、日本でも、平安時代では、伝染病は、「疫病」と呼ばれ、疫神の為す祟りである、と、考えられていました。
それどころか、恨みを呑んで死んでしまった人が祟る、というのは、たいていは、疫病という形であらわれ、疫病を、恨みを呑んで死んだ人を手厚く「葬る」「供養する」という方法で解決しようとしました。
奈良時代の初めの天然痘の流行は、謀反の罪をかけられて処刑された長屋王の祟り、と、考えられましたし、長岡京から平安京への遷都のきっかけの一つとなったことは、早良親王の祟りで疫病や洪水が起こったと考えられたからでした。
疫神を鎮める、という方法ですが、呪術的な作業はもちろんするのですが、同時に「清める」と称して清掃・美化につとめ、そうして酒や塩を散布します。
でも、これって、よくよく考えてみると、衛生学的には正しい処置ですよね。
アフリカの原住民たちが「森を侵すと悪魔に祟られる」とおそれていた、と、申しましたが、長岡京の洪水被害の原因も、都の造営のため、周辺産地で森林が伐採されたことが原因であると説明されるようにもなっています。
信仰と科学、というのは対立することではないのですよね。
病気が、目に見えない悪魔のしわざだ、と、昔の人たちは考えましたが、ある意味正しかったわけです。
「悪魔」を「ウィルス」と言い換えているだけですもんね。
どちらも、病の原因は何なのか? と求めて解決しようとする同じ心の働きですから。
信仰と科学を対立させる限り、物事はおそらく解決されないと思います。
信仰と科学が“調和”すること、そしてさせること…
信仰に振り回されない、科学が人を見失わない、どちらも大切で両立させなければならいことだと思います。
コヤブ歴史堂で、ついに「世界史」の逸話が登場しました。
現在、世界で起こっていることは
かつてローマですでに起こっていた
とはよく言われることです。
なかなかローマの歴史はおもしろい。
ギリシアやローマの歴史の中で、ちょっと注意しなくてはならない言葉があります。それが
「奴隷」と「皇帝」
です。
みなさんは、奴隷、というと、何やら足が鎖につながれていて、鞭で打たれて重労働させられていた、というイメージがあるんではないでしょうか?
でも、ローマの「奴隷」の中には学者もいたし、有力者の子弟の家庭教師をしている者もいました。
ローマにたいする功績があったり、一定以上の金をためて支払ったりすれば、奴隷の身分から解放される場合もありました。
ローマの「身分」は、流動性があるもので、生まれたら生涯平民、生涯貴族、ということはなく、のぼるも落ちるも本人の“自由”でした。
古代ローマの「市民」というのは、自分の土地を持っていて、その生産物で生計をたてている、という場合がほとんどです。
現在でいえば、土地所有者や会社経営者だけが“市民”。
土地など資産を持たず、一定の拘束力を受けて、他人に雇われて生活している者は、下級市民や奴隷、ということになってしまいます。
ですから、「奴隷」という言葉以外の訳語をローマでは使ったほうがよいのですが…
ローマではありませんが、この「奴隷」という言葉は世界史の教科書でもよく出てきます。
イスラーム世界のところでも、「マムルーク」という言葉が出てくるのですが、昔は「白人奴隷」と書かれていて、「騎射にすぐれていた」と記されています。
確かに身体の自由がなく、貴族や支配者に隷属していますが、でも、この基準を適用すると、平安時代中期以降に出てくる「武士」も「奴隷」になりますよね。
貴族に「さぶらふ」者、であることから「侍」という言葉が生まれました。
貴族に従い、しかも身分も低い… で、軍事力に使用されていた、というなら、マムルークによく似ています。
後にマムルークたちがイスラーム世界で軍事政権を作ってしまうところなんか、日本の武士たちが幕府をつくったところまでソックリです。
イスラーム世界のカリフからスルタンの称号をもらって政治をする、なんて、天皇から征夷大将軍の称号もらって政治をする、という“形”と同じですからね。
ちょっと話がそれてしまいました。ローマにもどしますと…
ふだん私たちが持っている「奴隷」というイメージは、ローマに関しては重ねないほうがよい、ということです。
そして
「皇帝」
という言葉… わたしたちは、皇帝というと、アジア的な専制君主をイメージしてしまいます。複数の民族を従える「王の中の王」。
番組でもとりあげた“アウグストゥス”をはじめとするローマの皇帝は、ちょっとそういう存在ではありませんでした(4世紀以降、ディオクレティアヌス帝からがそのイメージと重なります)。
まず、アウグストゥスは称号です。「尊厳なる者」という意味。
彼の名は、オクタヴィアヌス。現在の教科書では「ヴィ」ではなく、
オクタウィアヌス
と「ウィ」と表記されるようになりました。
それまでのローマのは共和政で、元老院という有力者たちの集まりが政治をおこない、執政官(コンスル)を選出して行政をゆだねました。
ほかにも儀式をおこなう神官がいたり、将軍がいたり、一人の人物が独裁的な実権を握ることがないよう、互いにけん制し合う、パワー・オブ・バランスが機能していました。
オクタウィアヌスの義父は、このローマの伝統を破り(破ろうとしたと共和派から思われた)、独裁政治をおこなった
カエサル
でした。
そして、カエサルはローマの共和政の伝統を脅かす者とされ、暗殺されることになります。
その後、三人の有力者があらわれ(三頭政治)、その中で、元カエサルの部下アントニウスと養子のオクタウィアヌスが戦い(アクティウムの海戦)、オクタウィアヌスが勝利しました。
ローマに兵を率いて凱旋してきたオクタウィアヌスは、まだ、一人の独裁者による政治にアレルギー反応が強い市民や元老院に対するため、
あくまでも共和政を尊重して政治をします
という「形式」をふみ、
「わたしなどは、ローマの第一市民(プリンケプス)にすぎません。」
と“謙虚”にふるまいます。でも、軍事力を背景に「謙虚な態度」で迫られる、というのは、ちょっとかえって凄味がありますよね。
で、彼は、それまで不文律的に兼任されてこなかったローマの政治の要職を、すべて一人で兼任する、という形式をとったわけです。
総理大臣兼防衛大臣兼外務大臣兼財務大臣兼法務大臣兼国家公安委員長兼警察庁長官兼最高裁判所長官兼衆議院参議院議長兼東京都知事兼警視総監
みたいなものです。
それら要職の兼任者を、後の政治家が「皇帝」とまとめて呼んでいるわけです。
番組内では、「大統領に近い」という表現をしましたが、たしかにそういう一面もローマの“皇帝”にはありました。
ローマ市民の“支持”がなければ皇帝の地位にはとどまれませんでした。
でも、なかなかいまさら「奴隷」と「皇帝」という言葉も変えにくいところ…
ああ、ほんとはそういうもんだったんだ、という感じで、ローマの奴隷や皇帝をおおざっぱにとらえておいてもよい、と、思います。
現在、世界で起こっていることは
かつてローマですでに起こっていた
とはよく言われることです。
なかなかローマの歴史はおもしろい。
ギリシアやローマの歴史の中で、ちょっと注意しなくてはならない言葉があります。それが
「奴隷」と「皇帝」
です。
みなさんは、奴隷、というと、何やら足が鎖につながれていて、鞭で打たれて重労働させられていた、というイメージがあるんではないでしょうか?
でも、ローマの「奴隷」の中には学者もいたし、有力者の子弟の家庭教師をしている者もいました。
ローマにたいする功績があったり、一定以上の金をためて支払ったりすれば、奴隷の身分から解放される場合もありました。
ローマの「身分」は、流動性があるもので、生まれたら生涯平民、生涯貴族、ということはなく、のぼるも落ちるも本人の“自由”でした。
古代ローマの「市民」というのは、自分の土地を持っていて、その生産物で生計をたてている、という場合がほとんどです。
現在でいえば、土地所有者や会社経営者だけが“市民”。
土地など資産を持たず、一定の拘束力を受けて、他人に雇われて生活している者は、下級市民や奴隷、ということになってしまいます。
ですから、「奴隷」という言葉以外の訳語をローマでは使ったほうがよいのですが…
ローマではありませんが、この「奴隷」という言葉は世界史の教科書でもよく出てきます。
イスラーム世界のところでも、「マムルーク」という言葉が出てくるのですが、昔は「白人奴隷」と書かれていて、「騎射にすぐれていた」と記されています。
確かに身体の自由がなく、貴族や支配者に隷属していますが、でも、この基準を適用すると、平安時代中期以降に出てくる「武士」も「奴隷」になりますよね。
貴族に「さぶらふ」者、であることから「侍」という言葉が生まれました。
貴族に従い、しかも身分も低い… で、軍事力に使用されていた、というなら、マムルークによく似ています。
後にマムルークたちがイスラーム世界で軍事政権を作ってしまうところなんか、日本の武士たちが幕府をつくったところまでソックリです。
イスラーム世界のカリフからスルタンの称号をもらって政治をする、なんて、天皇から征夷大将軍の称号もらって政治をする、という“形”と同じですからね。
ちょっと話がそれてしまいました。ローマにもどしますと…
ふだん私たちが持っている「奴隷」というイメージは、ローマに関しては重ねないほうがよい、ということです。
そして
「皇帝」
という言葉… わたしたちは、皇帝というと、アジア的な専制君主をイメージしてしまいます。複数の民族を従える「王の中の王」。
番組でもとりあげた“アウグストゥス”をはじめとするローマの皇帝は、ちょっとそういう存在ではありませんでした(4世紀以降、ディオクレティアヌス帝からがそのイメージと重なります)。
まず、アウグストゥスは称号です。「尊厳なる者」という意味。
彼の名は、オクタヴィアヌス。現在の教科書では「ヴィ」ではなく、
オクタウィアヌス
と「ウィ」と表記されるようになりました。
それまでのローマのは共和政で、元老院という有力者たちの集まりが政治をおこない、執政官(コンスル)を選出して行政をゆだねました。
ほかにも儀式をおこなう神官がいたり、将軍がいたり、一人の人物が独裁的な実権を握ることがないよう、互いにけん制し合う、パワー・オブ・バランスが機能していました。
オクタウィアヌスの義父は、このローマの伝統を破り(破ろうとしたと共和派から思われた)、独裁政治をおこなった
カエサル
でした。
そして、カエサルはローマの共和政の伝統を脅かす者とされ、暗殺されることになります。
その後、三人の有力者があらわれ(三頭政治)、その中で、元カエサルの部下アントニウスと養子のオクタウィアヌスが戦い(アクティウムの海戦)、オクタウィアヌスが勝利しました。
ローマに兵を率いて凱旋してきたオクタウィアヌスは、まだ、一人の独裁者による政治にアレルギー反応が強い市民や元老院に対するため、
あくまでも共和政を尊重して政治をします
という「形式」をふみ、
「わたしなどは、ローマの第一市民(プリンケプス)にすぎません。」
と“謙虚”にふるまいます。でも、軍事力を背景に「謙虚な態度」で迫られる、というのは、ちょっとかえって凄味がありますよね。
で、彼は、それまで不文律的に兼任されてこなかったローマの政治の要職を、すべて一人で兼任する、という形式をとったわけです。
総理大臣兼防衛大臣兼外務大臣兼財務大臣兼法務大臣兼国家公安委員長兼警察庁長官兼最高裁判所長官兼衆議院参議院議長兼東京都知事兼警視総監
みたいなものです。
それら要職の兼任者を、後の政治家が「皇帝」とまとめて呼んでいるわけです。
番組内では、「大統領に近い」という表現をしましたが、たしかにそういう一面もローマの“皇帝”にはありました。
ローマ市民の“支持”がなければ皇帝の地位にはとどまれませんでした。
でも、なかなかいまさら「奴隷」と「皇帝」という言葉も変えにくいところ…
ああ、ほんとはそういうもんだったんだ、という感じで、ローマの奴隷や皇帝をおおざっぱにとらえておいてもよい、と、思います。
9月1日(月)のQさまで、ちょっとだけ
「呪い」
の話をしました。
河合敦先生は、いつものおやさしい語り口で、わかりやすく丁寧に「人形(ひとがた)」の呪いの話をしてくださいました。
当時、「左道を為す」のは禁止されており、死刑に相当する重い罪とされていましたが、けっこう、呪詛するさまざまなアイテムが発見されています。
平安貴族たちは、日々、呪いや祟りをおそれて、それを回避する様々な儀式をしていました。
「呪い」には、かなり簡潔な、そして現在から言えば思わず笑ってしまうようなものもあります。
たとえば、足の裏に憎っくき相手の名前を書いて、日々、踏みつけておく、というようなもの。
でもこれ、わりと多くの人がやっていたようです。
平安時代どころか、幕末でも、長州藩士が足の裏に「薩・会」(薩摩藩と会津藩のこと)と書いて日々「呪詛していた」という逸話も残っています。
それから、相手の似顔絵を描く、というのも呪詛の方法でした。そっくりに顔を描く、というのはそこに相手の魂を写すという術で、似顔絵を描くことはたいへん無礼な仕業になっちゃいました。
2月のQさまに出させてもらったときにこの話はさせてもらいましたが、ですから、平安時代の大和絵に描かれる貴族たちの顔は、みんな同じ顔をしていますよね。
しもぶくれで、目が小さくて、おちょぼ口が美人だった、というわけではありません。そういう顔を「平安美人」なんてよく言いますが、当時の美人の顔はそんな顔では断じてありませんでした。
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかった本当の日本人』をお読みください。)
占いとまじない
日本人は、けっこう好きですよね。
当時、貴族たちにとっては、自分のの生年月日や名前は隠しておくべき「個人情報」でした。
これらをうっかり敵に知られると、呪いをかけられてしまいます。
「あなたのお名前は何ですか?」
なんて質問はタブー。
現在では、少女たちは、お互いにプロフィールを交換する紙かなんかに、自分の名前や生年月日など記して友人に渡したりしますが、あんなの平安時代でやっちゃったら自分の命を渡してしまうようなものでした。
スタンダードな呪詛としては、呪いをかけたい相手の髪の毛を手に入れる、という方法がよく知られているようですが、他にも身に着けているもの、とくに穢れがついたものは有効でしたので、下着や履物などは呪いをかけるときにはよく利用されるモノでした。
どんなふうにするかは記しませんよ。ほんとにやっちゃう人がいるかもしれませんからお教えしません。
呪詛というのは、自分の寿命や、自分の大切なモノや、自分の幸運と引き換えにするものです。うっかり他人を呪うと自分に必ずかえってきますからね。
下駄隠し
という呪いがあります。相手の履物を隠す、というものです。これも実は立派な呪詛。
よい子のみなさんは、そんなことはしないと思いますけれど、よく友達の靴なんかをいじわるして隠してしまう、なんてことする人、いますよね。
あれ、絶対やってはいけませんよ。自分の幸運と引き換えてしまう怖い呪いなんですから。
まじない
というのは、呪詛から逃れる方法でもあります。
昔は、しゃっくりやくしゃみなんかも、呪いだ、不吉だ、とよく騒がれました。
くしゃみ、を、すると、魂がポンっと口から出てしまう、なんて思われていました。
飛び出た魂をもどす「呪文」が必要です。それが
休息万命
「くそくまんみょう」と唱える省略形が「くさめ」。ここから転じて「くしゃみ」となった、という説があります。
ハックション
も、「ハッ」がくしゃみそのものの音で、それと「クション」が「くさめ」という呪文の訛ったものと考える場合もあります。
中世の文学の中でも、誰かかくしゃみをしたときに、周囲の人が「くさめ、くさめ」と唱えているシーンが出てきます。
でも、おもしろいですよね。
「くしゃみをした時は、手で口をおさえなさい。失礼でしょ!」
と、マナーを説いてもなかなか子どもは言うことをききません。
でも
「くしゃみをした時は、手で口をおさえなさい。魂が抜けてしまうよ。」
と、言えば、きっと昔の子どもはビビって言うことをきいたことでしょうね。
呪いやまじない、と、儀礼や礼儀、とは、あんがいとつながっているかもしれません。
呪いをおそれる、まじないをする、それによって秩序、とは言いませんが、マナーや礼儀が整えられる、という副産物があったように思います。
「呪い」
の話をしました。
河合敦先生は、いつものおやさしい語り口で、わかりやすく丁寧に「人形(ひとがた)」の呪いの話をしてくださいました。
当時、「左道を為す」のは禁止されており、死刑に相当する重い罪とされていましたが、けっこう、呪詛するさまざまなアイテムが発見されています。
平安貴族たちは、日々、呪いや祟りをおそれて、それを回避する様々な儀式をしていました。
「呪い」には、かなり簡潔な、そして現在から言えば思わず笑ってしまうようなものもあります。
たとえば、足の裏に憎っくき相手の名前を書いて、日々、踏みつけておく、というようなもの。
でもこれ、わりと多くの人がやっていたようです。
平安時代どころか、幕末でも、長州藩士が足の裏に「薩・会」(薩摩藩と会津藩のこと)と書いて日々「呪詛していた」という逸話も残っています。
それから、相手の似顔絵を描く、というのも呪詛の方法でした。そっくりに顔を描く、というのはそこに相手の魂を写すという術で、似顔絵を描くことはたいへん無礼な仕業になっちゃいました。
2月のQさまに出させてもらったときにこの話はさせてもらいましたが、ですから、平安時代の大和絵に描かれる貴族たちの顔は、みんな同じ顔をしていますよね。
しもぶくれで、目が小さくて、おちょぼ口が美人だった、というわけではありません。そういう顔を「平安美人」なんてよく言いますが、当時の美人の顔はそんな顔では断じてありませんでした。
(詳しくは拙著『日本人の8割が知らなかった本当の日本人』をお読みください。)
占いとまじない
日本人は、けっこう好きですよね。
当時、貴族たちにとっては、自分のの生年月日や名前は隠しておくべき「個人情報」でした。
これらをうっかり敵に知られると、呪いをかけられてしまいます。
「あなたのお名前は何ですか?」
なんて質問はタブー。
現在では、少女たちは、お互いにプロフィールを交換する紙かなんかに、自分の名前や生年月日など記して友人に渡したりしますが、あんなの平安時代でやっちゃったら自分の命を渡してしまうようなものでした。
スタンダードな呪詛としては、呪いをかけたい相手の髪の毛を手に入れる、という方法がよく知られているようですが、他にも身に着けているもの、とくに穢れがついたものは有効でしたので、下着や履物などは呪いをかけるときにはよく利用されるモノでした。
どんなふうにするかは記しませんよ。ほんとにやっちゃう人がいるかもしれませんからお教えしません。
呪詛というのは、自分の寿命や、自分の大切なモノや、自分の幸運と引き換えにするものです。うっかり他人を呪うと自分に必ずかえってきますからね。
下駄隠し
という呪いがあります。相手の履物を隠す、というものです。これも実は立派な呪詛。
よい子のみなさんは、そんなことはしないと思いますけれど、よく友達の靴なんかをいじわるして隠してしまう、なんてことする人、いますよね。
あれ、絶対やってはいけませんよ。自分の幸運と引き換えてしまう怖い呪いなんですから。
まじない
というのは、呪詛から逃れる方法でもあります。
昔は、しゃっくりやくしゃみなんかも、呪いだ、不吉だ、とよく騒がれました。
くしゃみ、を、すると、魂がポンっと口から出てしまう、なんて思われていました。
飛び出た魂をもどす「呪文」が必要です。それが
休息万命
「くそくまんみょう」と唱える省略形が「くさめ」。ここから転じて「くしゃみ」となった、という説があります。
ハックション
も、「ハッ」がくしゃみそのものの音で、それと「クション」が「くさめ」という呪文の訛ったものと考える場合もあります。
中世の文学の中でも、誰かかくしゃみをしたときに、周囲の人が「くさめ、くさめ」と唱えているシーンが出てきます。
でも、おもしろいですよね。
「くしゃみをした時は、手で口をおさえなさい。失礼でしょ!」
と、マナーを説いてもなかなか子どもは言うことをききません。
でも
「くしゃみをした時は、手で口をおさえなさい。魂が抜けてしまうよ。」
と、言えば、きっと昔の子どもはビビって言うことをきいたことでしょうね。
呪いやまじない、と、儀礼や礼儀、とは、あんがいとつながっているかもしれません。
呪いをおそれる、まじないをする、それによって秩序、とは言いませんが、マナーや礼儀が整えられる、という副産物があったように思います。