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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

思わぬ目撃者とは

 天海

です。
天海、と、いえば、家康の側近の一人で、幕府初期の宗教政策などに大きな影響を与えたと呼ばれる人物です。
なんと彼は信玄とも話したことがある(ほんまかいな)という経歴の持ち主で、川中島の戦いを山の上から見ていた、というんですよね。
確かに“一騎打ち”を見たが、信玄に尋ねるとあれは謙信ではない、と、言われたそうです。

どんな伝説も、それが生まれる背景には必ず理由があります。江戸時代だけでなく、戦国時代にも川中島の戦いはけっこう噂になり、一騎打ちの伝説が早い時期からあったことがわかります。
『上杉家御年譜』に、荒川長実なる人物が川中島の戦いのときに武田信玄に切り付けた、という話が残されていて、この人物は謙信の近くに仕える武士であったことから、第4回の川中島の戦いが、旗本衆どうしが激突する死闘と混戦であったこともうかがえます。

64年。
第5回川中島の戦いです。
これは「対陣」だけで実際の戦闘はなかったようです。
このとき、上杉謙信は上杉輝虎と名乗っていました。

以前に申しましたように、二大勢力の境界線では、そこの小豪族たちが、どちらに帰属するかでけっこう右についたり左についたりします。
Aに帰属することを宣言している豪族Xと、Bに帰属している豪族Yがいます。
領地争いになると、それぞれ自分の“親分”に助けを求めます。
求められた以上、支援できるか否かで、そこの国境紛争は変わります。
AもBも相応の兵や支援を出して義理を果たす。
基本は外交で、寝返らせたり内通させたりを繰り返します。
兵はたいていは示威行為であって、実際に戦闘に投入することは少ないのです。

と、考えると、北信濃をめぐる武田信玄と上杉謙信の戦いはまさにこの連続で、5回あったとよばれる「川中島の戦い」は、ちょっと多くの人のイメージとは違ったといえます。
最初にお話しした、なんかすっきりしないモヤモヤ感は、ここに原因があるんですよね。

2000年に柴辻俊六さんが書かれた『川中島合戦の虚像と実像』を読んだとき、

 あ~ これこれ!

と、すっきりした気がしました。
むろんこれも一つの説にすぎませんが、「川中島の戦い」として史料的に確認ができるのは第2回と第4回だけで、あとは武田と上杉の小競り合い、(二回の川中島の戦い+その他の甲越対戦)と理解したほうがよいような気がします。

両軍が知恵をしぼり、策略をめぐらせたのは外交においてであって、実際の戦闘では中国の古典や兵法書にみられるような戦いはおこなわれていない、と考えたほうがよさそうです。

鶴翼の陣も車がかりの戦法も、きつつきの戦法も、一騎打ちも、ある意味

 ファンタジーですねぇ~

という感じがします。
「川中島の戦い」に関して、まずはヘリクツから入りますと…

 川中島の戦いで「上杉謙信」は戦っていない。

な~んて言うと、何言うとんねんっ と、すぐさまツッコミが入ると思います。
ここが「ヘリクツ」というところなのですが…
川中島の戦いは、1553~1564年の間に5回おこなわれていると申しました。
53年、55年、57年、61年、64年の5回です。
で、“一騎打ち”で有名なのが第4回。

実は、上杉謙信が「謙信」を名乗るのが1570年なんです。
長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎と改名していきました。
ですから、“謙信”と名乗って川中島の戦いをおこなったことはない、というヘリクツです。
さて、ヘリクツは別にして…

53年の第1回。
これは前半戦と後半戦に分けて、前半が「八幡の戦い」、後半を「布施の戦い」といいます。
前半の「八幡の戦い」には上杉謙信(当時長尾景虎)は参加していません。

55年の第2回。
これは200日以上の長期戦。むろん200日間戦い続けたわけではありません。犀川を挟んで睨み合いの状態です。上杉軍の渡河による挑発などもあったようですが、完全な持久戦。
遠征している武田軍は、兵糧の不足に悩みます。
上杉謙信は、よく家臣から信頼が厚かった、なんていいますが、その点は他の武将とあまり実は変わらず、この段階では家臣たちから早期解決、帰郷を求めるストライキやサボタージュを受けていたようで、家臣たちに何度も忠誠を誓わせている記録が残っています。

ところで、伝承の戦いの有無を判定するときに利用される史料が「感状」と呼ばれるものです。
家臣の手柄を認めて後に恩賞をとらせるという約束手形みたいなもの。
とくに第2回のものが両陣営に多く残っていて、しかも「川中島」という文字も出てきます。
「川中島をぐって戦っていたのだ」という意識が汲み取れる史料です。

57年の第3回。
上杉謙信は出撃していますが、両軍の決戦、というような戦いではありません。
相互に「外交」を繰り広げ、城攻めなどはみられましたが、内通と裏切りが頻繁におこっていました。

61年の第4回。
これがもっとも有名な「川中島の戦い」です。

昔は、上杉謙信(当時政虎)が妻女山、武田信玄が茶臼山にそれぞれ陣取ったと言われていましたが、信玄が茶臼山に拠っていたというのは、江戸時代の講談や軍記物でつくられた“フィクション”です。

武田軍が二手に分かれる。
別動隊が妻女山にこもる上杉軍を背後から奇襲する。
そして山から逃げ降りてくる上杉軍を下で武田本隊が待ち受けて挟撃する…

という計画(きつつきの戦法)だったにもかかわらず!
上杉謙信はそれを見破って山を降り、武田本隊に攻撃をしかけた…

という“話”が有名です。
いや、有名どころか第4回川中島の戦い「そのもの」といえるエピソードです。

現在では、

上杉謙信が妻女山に包囲される。
兵糧がなくなる。
早朝、全軍で決死の一点突破の攻撃に出る。
たまたま武田信玄の本陣と遭遇する。

という考え方に変わってきました。
全軍の2割が戦死した、という激戦であったこともこれで説明がつきます。
(基本的に戦国時代の「野戦」は、一定の被害が出始めると「逃げる」ことが多く、現在考えられている以上に戦死者は少ない。)
また、両軍の激突が9月10日の戦いだけだと従来は考えられていましたが、近くの寺院に残る文書によると、戦いが二週間以上にわたるものであったことが推測され、持久戦の後、囲みを突破するために打って出た、という考え方が補完されるようにもなりました。

囲みを破るために突撃したら、そのまま武田信玄の本陣に突入した、という“遭遇戦”だった、わけです。
信玄を守るために兵たちが「よこいれ成され候(側面から割って入る)」という文書も残っていて、上杉軍の猛攻(謙信が単騎信玄の本陣に切り込むという伝説が残るほど)を阻止したという話はこのことではないかとも考えられています。

ただ、この第4回は、有名な戦いであるがゆえに(江戸時代にも講談、軍記物、軍学で取り上げられるほど)、“戦国グッズ”(偽造されたもの)もたくさんあり、このときに上杉謙信や武田信玄が発行した(もののうちニセモノと考えられる)「感状」もけっこう出回っています。

さて、ここで意外な“目撃者”が登場します。
それはなんと…

(次回に続く)
以前にお話ししましたように、戦国時代の武将やそれにまつわる話は、いわゆる

 “江戸フィルター”

というのが、どうしてもかかってしまいます。

まず、「家譜」という、大名家の「自分史」というべきものがあります。
これらの編纂は17~18世紀に流行しました。
自分の家ならびにご先祖さまを顕彰する、というものです。
どうしても、ちょっと「盛られた」話になってしまいます。
学者などに大名が依頼する場合があるのですが、依頼された学者も、どうしても、気に入られるように、相手がのぞむようなものに仕立ててしまいます。
それにブログやネットに「公開」するようなものではなく、代々後継者が読む、家臣たちだけに読ませる、という性格のものが多いので、少々ホラ話を吹いても誰からも苦情は出ません。

いかに手柄を立てたか。
手柄のわりには領地が少ない理由は何か。
ほんとはこうだったけれど、表向きはそうしている。

というような話が織り込まれていきます。
いきおい、「徳川に天下をとらせたのはおれさまだ」「もうちょっとでほんとは天下がとれていたんだけれども」などなど、そういう類の話が説明されていきます。

また、徳川にあっては、「甲・越・相」の話は、どうしても特別な意味を持ちます。

「甲」は、甲斐、つまり武田信玄の話です。
徳川の旗本や譜代衆には、御先祖さまが、旧武田家に仕えていた者が多いのです。
三河以来の家臣たちに、ちょっと背伸びして自慢したい…
なんといっても神君家康公を、三方原の戦いで破っているのは信玄です。
旧武田家臣にとっては、これほど名誉な話はありませんし、家康を破った信玄は偉大でなくては、逆に負けた家康の値打ちが下がりますから、武田信玄の話は、どうしても「過大」に評価されます。
おかげで後継者の武田勝頼は“無能”のように描かれてしまっていますが、よく考えてみたら、勝頼よりのときに武田家の版図は最大領域となっていますから、勝頼はけっして無能な政治家、軍人ではなかったはずです。
勝頼の評価も近年は変化してきています。

「越」は、越後、つまり上杉謙信の話です。
なんといっても、武田信玄と戦っていたのは上杉謙信。武田信玄と互角、あるいはそれ以上に戦って苦戦せしめた人物ですから、謙信を低く評価すると偉大な信玄の値打ちが下がってしまいます。
おもしろいのは18世紀に入ってからのことです。
8代将軍徳川吉宗は、いわば御三家から(徳川の本家筋以外から)将軍となった人物で、従来の譜代衆を尊重しつつも、独自色を出さなくてはならない立場でした。
吉宗につきそっている家臣たちにしても、譜代衆たちにちょっぴり対抗したいところ…
吉宗の家臣に、越後出身者がいて、先祖が謙信に仕えていた、という者がいて武田の「甲州軍学」に対抗して「越後軍学」というのを提唱します。
武田・上杉の両ひいき勢力が相互に張り合いつつも、相手のすごさも認め合いながらいろいろな逸話を語っていくようになります。

戦国大名たちの中で、とびぬけて信玄と謙信の評価が高いのはこのためです。

「相」は、相模、つまり北条氏の話です。
徳川の譜代衆は、三河、甲斐らに加えて、関東入り後に臣下となった、元北条氏の家臣たちもいました。
彼らは、初代の早雲を持ち上げますし、上杉謙信と戦ったかつての北条氏の栄光を背景に、三河衆や甲斐州に“対抗”していきます。

「甲・越・相」の“三国志”とでもいうべき逸話が詳細に記録されているのもこれらの影響が大きいと思います。

だからといってフィクションではありません。三つの昔話の「噛み合う」話でなければ伝承されてもウソだと淘汰されますからね。
誇張はあっても虚構ではありません。

企業が別の企業に吸収合併されたり、すごいと呼ばれた企業からやってきた人たちって、前の企業のすごいところや“伝説”、そこでの自分の仕事ぶりを、ちょっぴり飾って説明したりしますよね。
そういう「小さい自慢」が100年以上かけて練り上げられて“戦国ファンタジー”が生まれてしまう場合があるんですよね…

上杉謙信も武田信玄も、そういう虚飾がなくても、十分すぎるくらい、戦国大名としては一流なのに、かえって「盛られた」話のおかげでほんとうの実績のほうが伝えられなかったり、かすんでしまったりするのは残念なことです。

また、17世紀になって泰平の世の中になると、武士たちの中でかえって戦国時代の気風というのが懐かしがられたり憧れられたりするようになり、「机上の空論」がもてはやされるようにもなりました。

 軍学

というのがそれで、著名な戦国大名の名を借りて、自分の説を流布して飯のタネにしようとする輩も出てくるようになります。
中国の古典の逸話をちょっと改造して昔の武将たちの話にすりかえていく、みたいなこともおこなわれるようになりました。

武田軍が「鶴翼」に陣取り、上杉軍が「車がかり」の戦法で戦った、と、さも見てきたかのような、そうして独特の“ターム(術語)”で戦国時代の戦法を語るなど、ますます“ファンタジー”が深化していきました。

さらにまた、商人たちが「戦国時代商法」を始めました。
大名、旗本たちが、尊敬する戦国武将などのアイテム、肖像画などを探している、ということを知り、模造品や偽造品、ほんとにその人の肖像かどうかあやしい絵なども、来歴を添えて、ホンモノとして売る、というようなこともするようになりました。
おかげで、現在でも、骨董商のみなさんが苦労して真贋を判断しなくてはならなくなっているわけです。
骨董品にニセモノが多いように、その武将ゆかりの文書や所持品もまたニセモノが多いのです。

「真」なるものも、確実に存在しているのですが、「贋」と紛れて、これまた研究者たちの頭を悩ませる、ということになっています。

それらが、年月を重ねて、少しずつ少しずつバイアスをかけていって、現在で元の形とはすっかりかわった人物像ができあがっている、ということもあるわけです。

さて、21世紀に入って、新しい戦国史が次第にあきらかになってきています。
川中島の戦いの、史実として考えられる部分(といってもこれも一つの学説なのですが)を紹介していきましょう。

(次回に続く)
9月11日投稿しました「お寺とお花と鎌倉と…」にて、「浄光明寺」を「浄妙光寺」と表記してしまいました。
なんともお恥ずかしい間違いで申し訳ありませんでした。
浄光明寺さま、鎌倉のみなさま、読者のみなさま、申し訳ありませんでした。
お詫びして訂正します。
9月1日放送のQさまに出演させていただいたときのことです。
ジャニーズのアイドル(セクシーゾーン)、中島健人さんと、番組中に少しお話しをさせていただきました。
楽屋裏でも、礼儀正しく、明るくはきはきしていて、きっと誰からも好かれること間違いなしの好青年だと思いました。

さてさて、その健人さんが、おもしろい話をされていました。

「上杉謙信って、実は女だったという説を聞いたことがあって…」

ほうほう、と、私は思いました。
いや、けっこう謙信女人説、というのは一時話題になったことがあって、けっしてばかにしてはいけない話ではあるんです。
西の赤松、東の今川で、それぞれ女性の戦国大名が実在していたので、別に戦国大名に女性がいても驚くべきことではありません。ただ、謙信の場合は史料的裏付けが乏しいんですよね。

健人んは続けます。

「で、ほんとは謙信は武田信玄のことが好きでぇ、一騎打ちに行ったのは、信玄にキスをしに行ったんじゃなかったのかなって…」

 え…

さすがにびっくりしてしまいました。思わず私は、

「ファンタジーですねぇ~」

と言うてしまいました。

このお話しで出てきた上杉謙信と武田信玄の「一騎打ち」は、川中島の戦いで出てくる「場面」です。
戦国時代の合戦の中でも、戦国時代ファンにとってはたまらない名シーンの一つなのですが、これは現在では史実であるとは考えられていません。
いや、そもそも、合計5回行われたといわれている川中島の戦いというのは、果たして実体があったのでしょうか…

西暦2000年に入って、戦国史の研究成果が一気に表に出てきて、いろいろなことが明らかになってきました。

まず、最初に申し上げておきますと、上杉謙信と武田信玄の「一騎打ち」はともかく、

 川中島の戦い

は、フィクションではけっしてありません。少なくとも、川中島において、相互に1000人以上の兵力を投入して戦っています。

歴史の研究者たちが、「~はなかった」という場合の多くは、一級史料や遺跡、遺物によって追確認ができない、というのがほとんどです。
ほんとにあったかもしれないけれど、確認できない、その他の色々な状況から考えて認められない、という意味です。

一般的には、川中島の戦いは、1553~1564年の間に、計5回おこなわれている、と、考えられています。
ちなみに、謙信・信玄の「一騎打ち」は第4回の戦いで、とくに第4回は『甲陽軍鑑』によって詳細に物語られていて有名です。

川中島の戦いについては、『甲陽軍鑑』『川中島五箇度合戦之次第』『武田三代記』『北越軍談』『北越軍記』について詳細に語られ、昔のドラマや映画、小説の多くはこれらに基づいて制作されてきました。

ただ、これらは実は「史料」ではありません。
ほとんど歴史小説とでもいうべきもので、ここに取り上げられている逸話や戦いの展開は、「ほとんどなかった」と指摘されてもしかたがない部分が多いのです。

なぜ、このようなことが史実として伝えられてしまったか、どういう背景で、“戦国ファンタジー”とでもいうべき逸話がつくられてしまったか、そうして史料的に確認できる史実はどこまでなのか、ということを少し説明していきたいと思います。

(次回に続く)