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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

源実朝は建久三年生まれ、ですから西暦では1192年になります。
父、頼朝が征夷大将軍となった年ですね。

暗殺されたのが、建保七年。西暦では1219年。
27才で死去していることになります。

この年齢では、何かを為す、ということはなかなかできないところです…
彼の“意志”が伝わる部分ですと、

12才のときに、結婚する(結婚させられる)ことになったときのことです。
足利義兼の娘を嫁に、となっていたのですが、なんと本人が「拒否」した、というのです。
そして、「京都から(都の貴族から)妻をもらう」として、坊門信清の娘信子が妻として迎えられることになります。

このあたりが、「武士を嫌っていた」「御家人たちから距離をとっていた」とされている“根拠”の一つにもなっています。
ただ… 1204年というのがポイントで、その前年、1203年、兄の頼家の妻の実家、比企氏が北条氏らによって滅ぼされる事件が起こっています。
父頼朝の妻の実家の北条氏と、兄の妻の実家の比企氏が争う…

実朝は、この御家人間の争いを目の当たりにして、ひょっとすると、「御家人から妻をもらうと勢力争いになってしまうのではないか」と、考えて「京都から妻を迎える」と考えたのだとしたらどうでしょう。すぐれたバランス感覚を持ち合わせていた人物であったと思えるんですよね。

1205年には、畠山重忠が乱を起こしています。
北条氏や和田氏によって鎮圧されたのですが、このときの論功行賞は北条政子がとりしきっています。なんと征夷大将軍たる実朝はカヤの外。

このあたりが、北条氏の「あやつり人形」であるとされている“根拠”の一つにもなっています。
ただ… 畠山重忠の乱は、北条時政の陰謀だったようで(時政の妻の讒言)、時政の子、義時自身が、「重忠は無実の罪をきせられた…」と泣いているんですよね。
重忠を討て、という命令を実朝が出してしまう。しかし、どうやら陰謀らしい… だとすると、将軍が「誤った判断」をしたことになってしまう… と、母の北条政子がかわって論功行賞をおこなって実朝は無関係、という形にしたような気がします。

カヤの外にされていた、というより、将軍の権威に瑕がつかないように「保護」されていたと考えるべきかもしれません。

1209年のことです。
北条義時が、北条氏の家人の一人を実朝に紹介しようとしました。(家来の家来、というのは陪臣と呼ばれ、将軍には会えません。)それを御家人と同格にしてほしいと義時はのぞんだわけです。
ところが実朝は、きっぱりとこれを拒否しました。

 家人は家人。北条氏の家来でありながら幕府に参加するなどありえない。
 後々のわざわいのもとになろう。ゆるすわけにはいかん。

ほ~ たいした慧眼だ、と、思ってしまいます。
実際、後年、北条氏の家来が勢力を持ち、「御内人」と呼ばれて政治を左右するようになります。これが御家人の不満をもたらして鎌倉幕府を弱めてしまう一因となったのですから。

義時にこのように言ってのける将軍は、とても「あやつり人形」とは思えないのです。

それから、朝廷に接近していた、幕府よりも朝廷を重視していた、という考え方も少し改める必要があります。
後鳥羽上皇が、荘園にいる地頭をなんとかしてくれないだろうか、という依頼をしたときも、実朝はきっぱりと、

 父、頼朝公が決められたことは、一切変更いたしません。

と返答しています。
朝廷にとっても実朝は手ごわい存在でした。
(このあたりは拙著『超軽っ日本史』で詳しく解説しております、機会があれば是非お読みください。)

歴史に「たら」「れば」は無意味なのですが、もし、実朝が成長していれば、室町幕府における足利義満のような存在になっていてもおかしくはないような気がします。
そして北条氏はあたかも室町幕府の細川氏のような存在になっていたかも…

「実朝」は、後年、いろいろな人物の「モデル」として、重なるところがあります。
朝廷での地位を進めて公武の頂点に立とうとした足利義満とも似ていますし、文化に理解を得て御家人たちの争いと距離を置こうとしていた足利義政とも似ていますし、神仏を大切にし、「けがれ」を忌み嫌い、家臣から「武士なのに血を嫌うのはどうかと思います」と戒められたところなど、徳川綱吉とも似ています。

実朝のいろいろな“完成形”が後の将軍たちに見られるところがおもしろい点です。
スコットランドの独立が実現しませんでした。
べつに、残念だ、とか、よかった、という話ではありません。

そもそも、独立というのは、

損か得か

が、話題になったときには成功したことがありません。

子供が親から独立したい、と思う時、いくつかの人生の節目であるもんです。
しかし、たいていは失敗して、その理由の大半は経済的問題です。

そんなん言うなら、自分で生活しろ!
誰のおかげで食ってると思ってんねん!

といふ「宣言」でたいていは、鎮圧されてしまうわけです。

一国の独立、というのは、意外や意外、経済の問題ではなく、極めて政治的心理的問題が経済的問題を上回らないと実現しないんです。
ほんまに親から独立したいやつは、食っていけなくなろうと現在の生活水準より下がろうと、独立します。

北海油田の90%がスコットランドにあるから独立してもやっていける。
観光資源や特産品があるから独立してもやっていける。

というソロバン勘定で独立賛成に回っている人々は、その勘定が違う算段になると簡単に反対に回ります。

独立したらポンドは使わせないよ。
独立したら小売店は値上がりするよ。
独立したら銀行は本店をスコットランド外に置くよ。

となりはじめたとたん、急速に独立機運が低迷しました。

本当にスコットランドを独立させたいという人は、独立による経済的損失があろうが無かろうが、関係なく独立したいんですよ。
そういう人たちが過半数を超えないと独立できませんし、そうでなければ独立しても、後々うまく行きません。

フランス革命もアメリカ独立もラテンアメリカ諸国の独立も、最初は損得抜き。

やっていけそうだから独立しよう。
ではなく、
独立して、やっていってやる!

ということなんです。

アメリカ独立ではトマス=ペインが「コモンセンス」を著して市民に独立の意識を高めました。
フランス革命ではシェイエスが「第三身分とは何か」を著して市民に革命の意識を高めました。

経済的にやっていけるから大丈夫さ、なんて甘言ではありませんでした。
スコットランドで急速に独立派が伸びたのは草の根的な市民活動が活発になったからで、もうあと少し時間があれば

たとえ損でも独立だ!

という意識が育ったと思うんですがやや、経済的にやっていけるのだ、というところを強調しすぎたところがマイナスに作用したような気がします。

独立、は、簡単なことではありません。
支配者は、独立がめんどくさいと被支配者に思わせたらその支配は成功します。

食わせてくれない独立よりも食わせてくれる隷従を選ぶ市民に対しては、独立しても食べていけるよ、というアピールなら、めんどくさいから今でよい、となるんですよ。
食えなくても独立する、という意識が生まれない限り独立に賛成することはない、ということです。
その点、スペインのカタルーニャ地方の独立のほうが、実現性が高いかもしれません。


これから毎週水曜日、一つのテーマで連載ものを投稿していくつもりです。
他の曜日は、今まで通り、いろいろ単発で投稿いたします。
水曜日は、ぐっとマニアックな(といふか、私の趣味的な歴史の話や一部の分野の歴史好きのための、そんなんだれが興味あんねん!的な)内容で連載します。
第一回シリーズは、

大•平家物語

です。
桓武天皇の後から、ざっくり平清盛まで、平氏を通じて、武士、と一括りにされている平安時代の新階級の話をしていく予定です。

源実朝と聖徳太子の意外なつながり…

『吾妻鏡』などには、実朝が聖徳太子を信仰し(政治家としても尊敬し)、供養したり「十七条憲法」を取り寄せたり、四天王寺に参拝したり、さらには実朝が聖徳太子の生まれ変わり、とまでは言わなくても、どこか実朝自身、聖徳太子と自分を重ねていたような記述がされています。

実朝が聖徳太子と自分を重ねていた、と、考える研究や論文は、わりと存在しています。
ただ、史料的な根拠は何もない個人的想像なんですが…

むしろ父頼朝を聖徳太子に重ね、自身は山背大兄王の悲劇と重ねて自身の“未来”を考えていたのではないかと思うんです。

厩戸王(聖徳太子)は、言うまでもなく、蘇我馬子と協力し、物部氏を滅ぼした後、十七条憲法を制定し、冠位十二階の制を定め、遣隋使を送った、とされています。
聖徳太子は、馬子の娘、刀自古と結婚し、二人の間には山背大兄王が生まれています。

源頼朝は、北条時政ら関東の豪族たちと協力し、平氏を滅ぼした後、幕府を開きました。
源頼朝は、北条時政の娘政子と結婚し、二人の間には頼家、実朝が生まれています。

ちょっと重なるところがありませんか?
聖徳太子の死後、蘇我氏の専横が続き、馬子の息子、蝦夷、そして蝦夷の子の入鹿のときに山背大兄王は殺され、聖徳太子の血筋は絶えました。

実朝は、聖徳太子に自分を重ねたのではなく、この「歴史」そのものに自分の運命を見ていたかもしれません。

宋の僧、陳和卿に面会したとき、あなたは前世、わたしの師匠でした、と、言われ感動します。
かつて夢に出て来た僧が、同じことを言ったのを思い出したからです。その夢は誰にも話したことがなく自分しか知らないことなのに…
聖徳太子にもよく似た逸話があり、それもまた聖徳太子の自身の境遇を重ねるきっかけにもなりました。

 宋に行くぞ!

と巨大な船を造らせたのですが、これは実現せずに失敗しました。
このときの実朝の思いはどんなだったでしょう… それを記した史料は残っていません。

頼朝が平氏を滅ぼしたときに、園城寺の僧が頼朝に対して

 聖徳太子は物部氏を滅ぼしたときに四天王寺を建てました。
 あなたさまも何か寺院を建てられては?

と勧めており、四天王寺のような寺院の建立はしませんでしたが、いろいろな寺院への寄進や奈良の諸寺院の復興に力を入れています。
鎌倉時代の諸寺院復興の背景に“聖徳太子信仰”があったのも、なかなかおもしろいところです。

実朝の、どこか陰翳のある魅力、というのは、過去の歴史と自らの境遇を重ねて憂いている部分にあるような気がします。

さて、史料として残っている実朝の実像もあきらかにしておきたいと思います。

彼はほんとうに親朝廷の立場をとって御家人たちの反感をかっていたのでしょうか。
武士でありながら貴族的なところがあったのでしょうか。
北条氏のあやつり人形にすぎない存在だったのでしょうか。

(次回に続く)
あなたの好きな歴史上の人物は誰ですか?

と、問われると、けっこう困ります。
どうも、好き嫌いで歴史上の人物を見てはいけない、という“習慣”が身についてしまって、いつも答えにくくて困ってしまいます。

“魅力”を感じる人物、というと何人かあげることはできます。
ただし、私がその人物に感じる魅力とは

 なぞ

がある、というところです。単に史料的理解と説明ではとらえきれない、「空白」の部分がある人物に魅力を感じます。
余白があると、いろいろな書き込みがそこには可能…
そういう人物の一人が、

 源実朝

です。
この人は、過小評価されている部分が多く、史料的理解を越えて、心理学的な説明も加味したくなる人物です。

ゆえに、過去にも文豪たちがこの人物を描くことによって、なんというか、自分の表現力を試そうとしているのではないか、と、思えるような、そんな作品が残されています。

太宰治、大仏次郎などなど…

昔、学校の先生なんかは、

「武士が嫌いだった」
「武士なのに和歌を詠んでいた」
「武士というより貴族のようだ」
「北条氏のあやつり人形だ」

というような「評価」をさらりとして、「…で、暗殺されて、源氏の将軍は絶えた」というような結びで、はい、おしまい、という説明です。
実朝の治世の説明は、教科書では三行を超えることは無く、じつにあっさりとした説明です。
いや、中学の教科書では、

 頼朝の死後、頼朝の妻政子の実家である北条氏が実権をにぎりました。
 源氏の将軍が3代で絶えると、京都の貴族を将軍にむかえました。
 そして北条氏が執権という地位について政治をおこないました。

え… 実朝どころか頼家の説明すら無い…
かろうじて系図の中に頼家、実朝の名があるだけで説明など一切無し…

まぁ、仕方がないんですけれどね…

変な言い方なんですが、わたしは「暗殺」された人物は、無能ではなかったハズだ、と、思っているんですよ。
暗殺をする人物が暗殺をしなければ不利益を被るほどの“何か”を暗殺された人物がやろうとしていた、ということに他ならないからです。
ただの「あやつり人形」なら暗殺などする必要が無いのですからね。

ところで、鎌倉幕府についての、私の授業の“まくら”は決まっています。

 江戸幕府の将軍は15代続いたやろ?
 室町幕府も将軍は15代続いたやろ?
 では鎌倉幕府の将軍は何代続いたでしょう?

中学受験を経験した子たちばかりですから、一定以上、日本史の知識はすでにあります。

 3代や!
 頼朝、頼家、実朝の三人!

という回答が返ってくるのですが、むろん3代ではありません。正解は、

 9代

です。というと、あ~ イジワルだな、と、なるわけです。
教科書には、「源氏の将軍は3代で絶えた」と記されてはいますが、「鎌倉幕府の将軍は3代で絶えた」とは一言も記されていません。
源氏の血筋が絶えた後、藤原氏から将軍が出され(摂家将軍)、その後、皇族から将軍が迎えられて9代まで続くんです。

実朝は、鎌倉幕府最後の将軍ではありません。

むろん、子どもたちから思わぬ「逆襲」を受けるときもあります。
まだ学生時代、アルバイトで塾の講師をしていたときでした。

「源実朝は、和歌集を出していて、金槐和歌集って言うんやでぇ~」
「へぇ~」
「先生! キンカイ和歌集のキンカイってどういう意味なんですか?」
「え…」

恥ずかしながら、当時その由来を知らず、絶句してしまいました。
小学生たちの素朴な質問、怖いですからね~

「金槐和歌集のキンカイは、金のカタマリ、の金塊とちゃうぞっ 木へんで槐や!」

と、わざわざ大声で説明して、黒板にも大きく書いているにもかかわらず、金槐和歌集の「金槐」の意味を知らなかったのは痛恨でした。

中国の周の時代、三人の大臣が王の前にひかえるために立つ場所に、目印のように「槐」の木が植えてあったんです。
ですから、「槐」は大臣を意味しているんですよね。
じゃあ「金」は何やねんっ と、なりそうですが、こちらは「鎌倉」の「鎌」の「金」からきています。

 鎌倉右大臣の歌集

すなわち「金槐和歌集」というわけです。
ちなみに、古典では、先生たちは、

 金槐和歌集はなあ、万葉集の影響を受けているんや。
 「万葉調」の歌がおさめられている。

な~んて言っちゃう場合があるんですが、これ、ちょっと誤解です。
万葉調の歌はあんがいと少なく、古今、新古今調のもののほうが多い…
武士が詠んだから力強いものが多い、なんて解説に書いているのもありますが、そうかなぁ~ わりと優美な美しい作品が多いんやけど… と、思っちゃいます。

江戸時代の大学者、賀茂真淵や、万葉集が好きな明治時代の大歌人、正岡子規が源実朝の歌を絶賛しているもんだから、

 源実朝は万葉集の影響を受けている

という先入観を後世の人に与えすぎたと思います。

源実朝が朝廷から「万葉集」や聖徳太子の「十七条憲法」を取り寄せているんですが、万葉集をもらった年に金槐和歌集が出されているもんだから、まおさら万葉集が影響していると、必要以上に人々に印象付けてしまったんですよね…

そうなんてすよ。
源実朝さんの、おもしろいところは、こういうところにあるんです。
いつも、何か「先入観」があって、そういう人物だと思われてしまっている…

ちょっと、ほんとはこういう人物だったんだよ、という話をしたいと思います。

まずは、

「十七条憲法を取り寄せた」

という、え? と、みなさんも思われたかもしれない、思わぬ人とのつながり…

 聖徳太子と源実朝

との意外な関係からお話しさせてもらいますね。

(次回に続く)