源実朝と聖徳太子の意外なつながり…
『吾妻鏡』などには、実朝が聖徳太子を信仰し(政治家としても尊敬し)、供養したり「十七条憲法」を取り寄せたり、四天王寺に参拝したり、さらには実朝が聖徳太子の生まれ変わり、とまでは言わなくても、どこか実朝自身、聖徳太子と自分を重ねていたような記述がされています。
実朝が聖徳太子と自分を重ねていた、と、考える研究や論文は、わりと存在しています。
ただ、史料的な根拠は何もない個人的想像なんですが…
むしろ父頼朝を聖徳太子に重ね、自身は山背大兄王の悲劇と重ねて自身の“未来”を考えていたのではないかと思うんです。
厩戸王(聖徳太子)は、言うまでもなく、蘇我馬子と協力し、物部氏を滅ぼした後、十七条憲法を制定し、冠位十二階の制を定め、遣隋使を送った、とされています。
聖徳太子は、馬子の娘、刀自古と結婚し、二人の間には山背大兄王が生まれています。
源頼朝は、北条時政ら関東の豪族たちと協力し、平氏を滅ぼした後、幕府を開きました。
源頼朝は、北条時政の娘政子と結婚し、二人の間には頼家、実朝が生まれています。
ちょっと重なるところがありませんか?
聖徳太子の死後、蘇我氏の専横が続き、馬子の息子、蝦夷、そして蝦夷の子の入鹿のときに山背大兄王は殺され、聖徳太子の血筋は絶えました。
実朝は、聖徳太子に自分を重ねたのではなく、この「歴史」そのものに自分の運命を見ていたかもしれません。
宋の僧、陳和卿に面会したとき、あなたは前世、わたしの師匠でした、と、言われ感動します。
かつて夢に出て来た僧が、同じことを言ったのを思い出したからです。その夢は誰にも話したことがなく自分しか知らないことなのに…
聖徳太子にもよく似た逸話があり、それもまた聖徳太子の自身の境遇を重ねるきっかけにもなりました。
宋に行くぞ!
と巨大な船を造らせたのですが、これは実現せずに失敗しました。
このときの実朝の思いはどんなだったでしょう… それを記した史料は残っていません。
頼朝が平氏を滅ぼしたときに、園城寺の僧が頼朝に対して
聖徳太子は物部氏を滅ぼしたときに四天王寺を建てました。
あなたさまも何か寺院を建てられては?
と勧めており、四天王寺のような寺院の建立はしませんでしたが、いろいろな寺院への寄進や奈良の諸寺院の復興に力を入れています。
鎌倉時代の諸寺院復興の背景に“聖徳太子信仰”があったのも、なかなかおもしろいところです。
実朝の、どこか陰翳のある魅力、というのは、過去の歴史と自らの境遇を重ねて憂いている部分にあるような気がします。
さて、史料として残っている実朝の実像もあきらかにしておきたいと思います。
彼はほんとうに親朝廷の立場をとって御家人たちの反感をかっていたのでしょうか。
武士でありながら貴族的なところがあったのでしょうか。
北条氏のあやつり人形にすぎない存在だったのでしょうか。
(次回に続く)