源実朝の魅力 (1) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

あなたの好きな歴史上の人物は誰ですか?

と、問われると、けっこう困ります。
どうも、好き嫌いで歴史上の人物を見てはいけない、という“習慣”が身についてしまって、いつも答えにくくて困ってしまいます。

“魅力”を感じる人物、というと何人かあげることはできます。
ただし、私がその人物に感じる魅力とは

 なぞ

がある、というところです。単に史料的理解と説明ではとらえきれない、「空白」の部分がある人物に魅力を感じます。
余白があると、いろいろな書き込みがそこには可能…
そういう人物の一人が、

 源実朝

です。
この人は、過小評価されている部分が多く、史料的理解を越えて、心理学的な説明も加味したくなる人物です。

ゆえに、過去にも文豪たちがこの人物を描くことによって、なんというか、自分の表現力を試そうとしているのではないか、と、思えるような、そんな作品が残されています。

太宰治、大仏次郎などなど…

昔、学校の先生なんかは、

「武士が嫌いだった」
「武士なのに和歌を詠んでいた」
「武士というより貴族のようだ」
「北条氏のあやつり人形だ」

というような「評価」をさらりとして、「…で、暗殺されて、源氏の将軍は絶えた」というような結びで、はい、おしまい、という説明です。
実朝の治世の説明は、教科書では三行を超えることは無く、じつにあっさりとした説明です。
いや、中学の教科書では、

 頼朝の死後、頼朝の妻政子の実家である北条氏が実権をにぎりました。
 源氏の将軍が3代で絶えると、京都の貴族を将軍にむかえました。
 そして北条氏が執権という地位について政治をおこないました。

え… 実朝どころか頼家の説明すら無い…
かろうじて系図の中に頼家、実朝の名があるだけで説明など一切無し…

まぁ、仕方がないんですけれどね…

変な言い方なんですが、わたしは「暗殺」された人物は、無能ではなかったハズだ、と、思っているんですよ。
暗殺をする人物が暗殺をしなければ不利益を被るほどの“何か”を暗殺された人物がやろうとしていた、ということに他ならないからです。
ただの「あやつり人形」なら暗殺などする必要が無いのですからね。

ところで、鎌倉幕府についての、私の授業の“まくら”は決まっています。

 江戸幕府の将軍は15代続いたやろ?
 室町幕府も将軍は15代続いたやろ?
 では鎌倉幕府の将軍は何代続いたでしょう?

中学受験を経験した子たちばかりですから、一定以上、日本史の知識はすでにあります。

 3代や!
 頼朝、頼家、実朝の三人!

という回答が返ってくるのですが、むろん3代ではありません。正解は、

 9代

です。というと、あ~ イジワルだな、と、なるわけです。
教科書には、「源氏の将軍は3代で絶えた」と記されてはいますが、「鎌倉幕府の将軍は3代で絶えた」とは一言も記されていません。
源氏の血筋が絶えた後、藤原氏から将軍が出され(摂家将軍)、その後、皇族から将軍が迎えられて9代まで続くんです。

実朝は、鎌倉幕府最後の将軍ではありません。

むろん、子どもたちから思わぬ「逆襲」を受けるときもあります。
まだ学生時代、アルバイトで塾の講師をしていたときでした。

「源実朝は、和歌集を出していて、金槐和歌集って言うんやでぇ~」
「へぇ~」
「先生! キンカイ和歌集のキンカイってどういう意味なんですか?」
「え…」

恥ずかしながら、当時その由来を知らず、絶句してしまいました。
小学生たちの素朴な質問、怖いですからね~

「金槐和歌集のキンカイは、金のカタマリ、の金塊とちゃうぞっ 木へんで槐や!」

と、わざわざ大声で説明して、黒板にも大きく書いているにもかかわらず、金槐和歌集の「金槐」の意味を知らなかったのは痛恨でした。

中国の周の時代、三人の大臣が王の前にひかえるために立つ場所に、目印のように「槐」の木が植えてあったんです。
ですから、「槐」は大臣を意味しているんですよね。
じゃあ「金」は何やねんっ と、なりそうですが、こちらは「鎌倉」の「鎌」の「金」からきています。

 鎌倉右大臣の歌集

すなわち「金槐和歌集」というわけです。
ちなみに、古典では、先生たちは、

 金槐和歌集はなあ、万葉集の影響を受けているんや。
 「万葉調」の歌がおさめられている。

な~んて言っちゃう場合があるんですが、これ、ちょっと誤解です。
万葉調の歌はあんがいと少なく、古今、新古今調のもののほうが多い…
武士が詠んだから力強いものが多い、なんて解説に書いているのもありますが、そうかなぁ~ わりと優美な美しい作品が多いんやけど… と、思っちゃいます。

江戸時代の大学者、賀茂真淵や、万葉集が好きな明治時代の大歌人、正岡子規が源実朝の歌を絶賛しているもんだから、

 源実朝は万葉集の影響を受けている

という先入観を後世の人に与えすぎたと思います。

源実朝が朝廷から「万葉集」や聖徳太子の「十七条憲法」を取り寄せているんですが、万葉集をもらった年に金槐和歌集が出されているもんだから、まおさら万葉集が影響していると、必要以上に人々に印象付けてしまったんですよね…

そうなんてすよ。
源実朝さんの、おもしろいところは、こういうところにあるんです。
いつも、何か「先入観」があって、そういう人物だと思われてしまっている…

ちょっと、ほんとはこういう人物だったんだよ、という話をしたいと思います。

まずは、

「十七条憲法を取り寄せた」

という、え? と、みなさんも思われたかもしれない、思わぬ人とのつながり…

 聖徳太子と源実朝

との意外な関係からお話しさせてもらいますね。

(次回に続く)