こはにわ先生 再び東京へ(8) | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

思わぬ目撃者とは

 天海

です。
天海、と、いえば、家康の側近の一人で、幕府初期の宗教政策などに大きな影響を与えたと呼ばれる人物です。
なんと彼は信玄とも話したことがある(ほんまかいな)という経歴の持ち主で、川中島の戦いを山の上から見ていた、というんですよね。
確かに“一騎打ち”を見たが、信玄に尋ねるとあれは謙信ではない、と、言われたそうです。

どんな伝説も、それが生まれる背景には必ず理由があります。江戸時代だけでなく、戦国時代にも川中島の戦いはけっこう噂になり、一騎打ちの伝説が早い時期からあったことがわかります。
『上杉家御年譜』に、荒川長実なる人物が川中島の戦いのときに武田信玄に切り付けた、という話が残されていて、この人物は謙信の近くに仕える武士であったことから、第4回の川中島の戦いが、旗本衆どうしが激突する死闘と混戦であったこともうかがえます。

64年。
第5回川中島の戦いです。
これは「対陣」だけで実際の戦闘はなかったようです。
このとき、上杉謙信は上杉輝虎と名乗っていました。

以前に申しましたように、二大勢力の境界線では、そこの小豪族たちが、どちらに帰属するかでけっこう右についたり左についたりします。
Aに帰属することを宣言している豪族Xと、Bに帰属している豪族Yがいます。
領地争いになると、それぞれ自分の“親分”に助けを求めます。
求められた以上、支援できるか否かで、そこの国境紛争は変わります。
AもBも相応の兵や支援を出して義理を果たす。
基本は外交で、寝返らせたり内通させたりを繰り返します。
兵はたいていは示威行為であって、実際に戦闘に投入することは少ないのです。

と、考えると、北信濃をめぐる武田信玄と上杉謙信の戦いはまさにこの連続で、5回あったとよばれる「川中島の戦い」は、ちょっと多くの人のイメージとは違ったといえます。
最初にお話しした、なんかすっきりしないモヤモヤ感は、ここに原因があるんですよね。

2000年に柴辻俊六さんが書かれた『川中島合戦の虚像と実像』を読んだとき、

 あ~ これこれ!

と、すっきりした気がしました。
むろんこれも一つの説にすぎませんが、「川中島の戦い」として史料的に確認ができるのは第2回と第4回だけで、あとは武田と上杉の小競り合い、(二回の川中島の戦い+その他の甲越対戦)と理解したほうがよいような気がします。

両軍が知恵をしぼり、策略をめぐらせたのは外交においてであって、実際の戦闘では中国の古典や兵法書にみられるような戦いはおこなわれていない、と考えたほうがよさそうです。

鶴翼の陣も車がかりの戦法も、きつつきの戦法も、一騎打ちも、ある意味

 ファンタジーですねぇ~

という感じがします。