「川中島の戦い」に関して、まずはヘリクツから入りますと…
川中島の戦いで「上杉謙信」は戦っていない。
な~んて言うと、何言うとんねんっ と、すぐさまツッコミが入ると思います。
ここが「ヘリクツ」というところなのですが…
川中島の戦いは、1553~1564年の間に5回おこなわれていると申しました。
53年、55年、57年、61年、64年の5回です。
で、“一騎打ち”で有名なのが第4回。
実は、上杉謙信が「謙信」を名乗るのが1570年なんです。
長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎と改名していきました。
ですから、“謙信”と名乗って川中島の戦いをおこなったことはない、というヘリクツです。
さて、ヘリクツは別にして…
53年の第1回。
これは前半戦と後半戦に分けて、前半が「八幡の戦い」、後半を「布施の戦い」といいます。
前半の「八幡の戦い」には上杉謙信(当時長尾景虎)は参加していません。
55年の第2回。
これは200日以上の長期戦。むろん200日間戦い続けたわけではありません。犀川を挟んで睨み合いの状態です。上杉軍の渡河による挑発などもあったようですが、完全な持久戦。
遠征している武田軍は、兵糧の不足に悩みます。
上杉謙信は、よく家臣から信頼が厚かった、なんていいますが、その点は他の武将とあまり実は変わらず、この段階では家臣たちから早期解決、帰郷を求めるストライキやサボタージュを受けていたようで、家臣たちに何度も忠誠を誓わせている記録が残っています。
ところで、伝承の戦いの有無を判定するときに利用される史料が「感状」と呼ばれるものです。
家臣の手柄を認めて後に恩賞をとらせるという約束手形みたいなもの。
とくに第2回のものが両陣営に多く残っていて、しかも「川中島」という文字も出てきます。
「川中島をぐって戦っていたのだ」という意識が汲み取れる史料です。
57年の第3回。
上杉謙信は出撃していますが、両軍の決戦、というような戦いではありません。
相互に「外交」を繰り広げ、城攻めなどはみられましたが、内通と裏切りが頻繁におこっていました。
61年の第4回。
これがもっとも有名な「川中島の戦い」です。
昔は、上杉謙信(当時政虎)が妻女山、武田信玄が茶臼山にそれぞれ陣取ったと言われていましたが、信玄が茶臼山に拠っていたというのは、江戸時代の講談や軍記物でつくられた“フィクション”です。
武田軍が二手に分かれる。
別動隊が妻女山にこもる上杉軍を背後から奇襲する。
そして山から逃げ降りてくる上杉軍を下で武田本隊が待ち受けて挟撃する…
という計画(きつつきの戦法)だったにもかかわらず!
上杉謙信はそれを見破って山を降り、武田本隊に攻撃をしかけた…
という“話”が有名です。
いや、有名どころか第4回川中島の戦い「そのもの」といえるエピソードです。
現在では、
上杉謙信が妻女山に包囲される。
兵糧がなくなる。
早朝、全軍で決死の一点突破の攻撃に出る。
たまたま武田信玄の本陣と遭遇する。
という考え方に変わってきました。
全軍の2割が戦死した、という激戦であったこともこれで説明がつきます。
(基本的に戦国時代の「野戦」は、一定の被害が出始めると「逃げる」ことが多く、現在考えられている以上に戦死者は少ない。)
また、両軍の激突が9月10日の戦いだけだと従来は考えられていましたが、近くの寺院に残る文書によると、戦いが二週間以上にわたるものであったことが推測され、持久戦の後、囲みを突破するために打って出た、という考え方が補完されるようにもなりました。
囲みを破るために突撃したら、そのまま武田信玄の本陣に突入した、という“遭遇戦”だった、わけです。
信玄を守るために兵たちが「よこいれ成され候(側面から割って入る)」という文書も残っていて、上杉軍の猛攻(謙信が単騎信玄の本陣に切り込むという伝説が残るほど)を阻止したという話はこのことではないかとも考えられています。
ただ、この第4回は、有名な戦いであるがゆえに(江戸時代にも講談、軍記物、軍学で取り上げられるほど)、“戦国グッズ”(偽造されたもの)もたくさんあり、このときに上杉謙信や武田信玄が発行した(もののうちニセモノと考えられる)「感状」もけっこう出回っています。
さて、ここで意外な“目撃者”が登場します。
それはなんと…
(次回に続く)