こはにわ歴史堂のブログ -67ページ目

こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

長らくご覧いただいていたコヤブ歴史堂ですが、本日の放送をもって最終回となりました。
拙いわたしの解説にもかかわらず、スタッフのみなさんや、にゃんた、ゲストのみなさま、そして何より主管の小薮さんによって、楽しい番組となっていたと思います。

にゃんたのマル秘ファイル。

ふりかえってみれば、いろいろな史料、文献をご紹介させていただきました。
解釈や訳など、かなりの“超訳”などもありましたが、できるだけわかりやすく、そして楽しんでもらえるための“方便”であると思って、どうかご容赦くださいませ。

新しい研究や、新説などもふまえて、いろいろお話しできたことは、ほんとうによかったと思っています。
歴史の裏側、ちがった角度からの逸話など紹介する機会というのが、ほんとうに少ないからです。

そういうお話しをさせていただく機会を得させていただけたことに、ただ、ただ、感謝の言葉しかありません。
プロデューサー、ディレクター、そしてABCのスタッフさんたち、ほんとうに感謝いたしております。

前にも申しましたが、このブログでは、番組の暴露話などはいたしませんし、暴露しようにも、ほんとうに“裏”があるような番組ではありませんでした。
ただ、ただ、「ありのまま」で、純粋に、楽しい、おもしろい、歴史のお話しを作っていこう、という姿勢でスタッフみなさんのぞんでおられました。これは、こはにわが保障いたしますよ。

ただ、とうとう、お別れの時がきた、ということで、今までのコヤブ歴史堂のこぼれ話的な、スタッフさんとの会話や、ゲストさんとのやりとりの中の楽しかった思い出話を、ちょっぴり何回かしていきたいと思っております。

あ、プロデューサーさんから、直々に、このブログを続けていくご了解をいただきましたので、本編“コヤブ歴史堂”は終了いたしますが、“こはにわ歴史堂”は、今しばらく続けさせていただきたいと思っています。

さて、ふりかえれば、いろいろな思い出話があるのですが…
(次回に続く)
後醍醐天皇は、持明院統でないことはもちろん、大覚寺統ですらない、と思っているんです。

と、いうと、たいていの歴史の先生には、は? 何言うてんの?? と失笑されると思います。

そもそも、後醍醐天皇自身は、後宇多天皇の第二皇子で、兄の後二条天皇が死去したため、兄の遺児で皇太子であった邦良親王が成人するまでの“中継”として天皇となったにすぎない人物でした。(このあたりの詳しい話は拙著『日本人の8割が知らなかった本当の日本史』をお読みください。)

変な言い方をあえてしますと、

 後宇多法皇-後二条天皇-邦良親王-康仁親王

の流れこそが、「大覚寺統」のハズなんです。

しかし、後醍醐天皇は、「おれは中継なんかじゃないぞ!」という強い意志を持ち、自分自身の皇統を樹立しようとしたのではないか、と思うんです。
まず、生前より後醍醐天皇と名乗っているところなど、その意志を感じます。

父は「後宇多」、自分は「後醍醐」。

平安時代、天皇親政の理想であったといわれる、「宇多天皇-醍醐天皇」の時代を意識していることは確かです。

後醍醐天皇は、大覚寺統の邦良親王の子どもたちを皇位継承権者から除外し、(大覚寺統ではない)自分の子、恒良親王を皇太子とします。
朝令暮改、一つの政策意志を感じさせない「建武の新政」にあって、唯一の(というと言い過ぎですが)確固たる“政策”がこれでした。

言い過ぎついでに、言うと、後醍醐天皇が倒幕を考えたのは、幕府が父、後宇多法皇の遺志を認め、自分を単なる中継として後二条天皇-邦良親王を大覚寺統と公認していたからではないでしょうか。
自分の皇統を立てるためには鎌倉幕府はじゃまだ! という意志です。

ところが、ご存知のように建武の新政は失敗、足利尊氏が関東で挙兵して天皇と対立します。
尊氏は一時破れて九州にのがれますが、勢力を回復して京都にせまります。

楠木正成が湊川の戦いで敗死、新田義貞が逃げてくると、後醍醐天皇は比叡山に逃れました。
このとき、足利尊氏は後醍醐天皇に使いを送り、和睦を進められました。
新田義貞らを無視し、後醍醐天皇は尊氏と和睦をしようとしたのですが、新田一族の堀口貞満がキレます!

 新田一族の忠義を無視して京都に行くなら、われらの首をみな刎ねてからにしてください!

新田の屍をこえて尊氏と和睦なされよ! という悲痛といえるべき叫びです。

後醍醐天皇は、「三種の神器」を用意し、恒良親王になんと“天皇”の位を譲り、新田義貞、脇屋義助ら兄弟にその補佐を任じて(つまり正当な官軍であると認めて)比叡山をおり、恒良親王と新田義貞らは北陸へと脱出したのでした。

これ…
どう考えたらいいんでしょう…
足利尊氏の鼻をあかしてやるために、もはや天皇は私ではない、北陸にいるのだ! という作戦だったのでしょうか…
それとも、新田一族がうるさいので、和睦をうまく進めるために(その場しのぎのために)、新田一族と自分を分離したのでしょうか…

このままだと、「北陸と京都」に朝廷ができて、笑い話みたいですが、光明天皇-足利尊氏が「南朝」になっちゃうところでした。

実際、恒良親王は北陸から綸旨を発給して政治や軍事の指示を出しているので、恒良親王は“天皇”として行動しています。

比叡山をおりた後醍醐天皇は、尊氏と和睦して光明天皇を認めた、と、みせかけて京都を脱出。

 光明天皇に譲った「三種の神器」、あれはニセモノだ! わははは!

と宣言して、吉野で朝廷を開いちゃうんです。

ええ… ちょっとちょっと…
恒良親王にも「三種の神器」を渡し、光明天皇にも「三種の神器」を渡し、で、自分がホンモノの「三種の神器」を持っていたの?? となります。

北-中-南

の「三朝鼎立時代」じゃないですか…

しかし、恒良は「天皇」とは認められず、記録上は親王のまま、と、されています。

南北朝時代の混乱の中、一時期、天皇となったはずの人物がおられた、という話でした。
ちょうど大学受験生にとっては、夏休みくらいにおこなわれた模試が返され、その結果をもとに志望校を決めたり、教科の出来具合を確認したりと、そういう時期になっていると思います。

わたしが勤務する高校でも、模試を受けてその結果などが生徒たちの手元に届き、そしていろいろ志望校を決めていく、ということをしています。

さて、その模試の「日本史」で、次のような正誤問題が出題されていました。
(あ、模試の問題にケチをつけたり、問題が間違えている、というような話ではありませんから念のため。)

設問は「前期倭寇」と「後期倭寇」に関する正誤を判断するというものでした。

 X 前期倭寇は、中国人を主体とするものであった。
 Y 後期倭寇は、豊臣秀吉の海賊取締令によって衰退した。

 ① X 正 Y 正  ② X 正 Y 誤
 ③ X 誤 Y 正  ④ X 誤 Y 誤

「倭寇」は一般的に、前期と後期に分けて説明します。(過渡期としての中期を設定される研究者もおられます。)
Xは正誤問題ではよく出題されるところ。前期倭寇は、日本人が主体で、後期倭寇は中国人が主体です。ですから、「誤」ということになるんですよね。

ふと、Yの問題文を読んで思ったことなのですが…

おそらく作成者は、これを「正」とする問題文を作られたのだと思います。
実際、高校生が使用している教科書にも、ほぼこれと同じような文脈で記されています。

○ 秀吉の発令した「海賊取締令」はどのようなものだったのか?
○ そして、それが後期倭寇に対してどのような“効果”があったのか?

海賊取締令は、刀狩令と同じ1588年に出されたもので、

 「海の刀狩り」

と呼ばれるものです。三ヶ条からなり、ざっくり言うと、海賊に三つの選択をせまるものでした。

豊臣体制の大名になるか? 
どっかの大名の家来になるか? 
武装放棄して百姓となるか?

なんです。
「日本の」九州沿岸などの海賊衆に対して、「もう海賊行為しちゃだめよ」、「この三つのうちどれかを選びなさい」という法令です。

だとすると、中国人が主体であった後期倭寇と、関係無いやん?! ということになっちゃいますよね。

海賊取締令によって後期倭寇は衰退した、という因果関係はほんとにあるの??

ということになります。

海賊行為、というのは、実は「私貿易に従事する」ということも含まれていました。
海賊たちは海上輸送利用者に、独自に(勝手に)、警固料や輸送料を徴収し、それに従わないものを武力によって脅す、という行為もしており、それも「海賊行為」とされていました。

この法令は、私貿易や海賊輸送を、豊臣政権の枠組みに入れて、「公の行為」にする、というのが目的なんです。

ですから、ほんとは「海賊取締令によって後期倭寇が衰退した」というのは、ちょっと“間に”説明が必要なところなんですよね。

「海賊」たちの行動は、海のネットワークです。交易相手(私貿易をしてくれる相手)がいて、初めて成り立つものです。
海賊取締令によって、「日本側」の交易相手(ネットワーク拠点)を喪失することになるのですから、後期倭寇の活動に制限がかかってしまいました。

ただ…
世界史的な観点からみると、海賊取締令が秀吉によって出される前から、後期倭寇の衰退は実は始まっているんです。

後期倭寇と明帝国の「戦い」は1540~50年代にもっとも激しく展開されました。
明将の胡宗憲が倭寇の親玉、王直(日本に鉄砲を伝来させた船は王直のものと言われています)を捕え、さらに明将の威継光が倭寇討伐に成功し、倭寇は組織的な抵抗がもはやできない状態に陥りました。
この時点で、後期倭寇は衰退した、と考えてもよいと思うんですよね。

変な話ですが、「海禁」をするから密貿易がおこなわれ、海賊行為が助長されていた、とも思うんです。
1560年代に海禁が緩和され、商人たちの交易・出港が認められるようになると、密貿易そのものの意味がなくなり、倭寇の活動は終息していくことになりました。

(1920年代のアメリカではありませんが、禁酒令なんか出すからマフィアが活動を盛んにしていた、ということに似ていないともいえないですよね。)

日本史の教科書には、「海賊取締令によって、後期倭寇が衰退した」というようなニュアンスの表現が多いのですが、「取締令だけで」後期倭寇が衰退したのではない、ということはちょっとわかっておいてほしいところです。
子どものころ、私は伯父からよくこう言われました。

 歴史の本をしっかり読みや。
 歴史上の人物の成功や失敗を学ぶねん。
 そしてそれを自分の戒めにするんやで。

高校生のとき、『日本文徳天皇実録』に書かれた葛原親王の説明を読んでびっくりしました。

 親王少而恵了
 歴覧史伝
 常以古今成敗為戒

「葛原親王は幼い頃から聡明で歴史書をよく読み、歴史上の成功や失敗を例として自らの戒めとしていた。」

伯父は、まちがいなく、これを引用していたのだ、と、思いました。
たびたび伯父が説明する「よき人」の説明は、どうも葛原親王の人となりの説明であったような気がして仕方がありません。

この葛原親王こそ、“桓武平氏”の祖、だったのです。

桓武天皇は子だくさんでした。
その第5皇子が葛原親王です。

『平家物語』の冒頭、

 桓武天皇第五の皇子
 一品式部卿葛原親王

というように、平清盛の「出自」が説明されています。

実は、最近の研究では、第3皇子である、というのが定説になりつつあります。
しかし、『平家物語』だけでなく、昔の史書や貴族の日記の中では、“第五皇子”として語られ続けています。

わたしはこの理由は、葛城親王を、舎人親王と重ねているところにある、と、思っているんです。

 舎人親王

天武天皇の“第5皇子”。
次期天皇となる資格があるものの皇位をのぞまず、謙虚で温厚、歴史の研究をおこなってかつての偉人たちの業績をそらんじ、『日本書紀』の編纂にも携わる…
藤原氏と協力しつつ聖武天皇の政治において重要な役割を果たしてきました。
皇族などの位は、貴族の序列とは違う表記をするのですが、正一位や従一位に該当するのは

 一品

です。舎人親王は生前に(死後贈与ではなく)「一品」となった皇族でした。

以後、「舎人親王のような」、謙虚で温厚で、政治にまじめで史書に通じて… 人格も政治能力もすぐれた人でないと「一品」には生前に叙せられない、という慣例が生まれたのですが、それに該当する人物がなかなか現れない…

ところがついに、桓武天皇の皇子でそれに適合する人物が現れたのです。

これが、葛原親王、その人でした。

 幼きころより聡明。
 史書を歴覧し生活を律する。
 謙虚で人々から敬愛されている。
 生ける儀典書として博学を敬われていた。
 ついに車の乗ったままの参内を認められる(光源氏級!)。

所領は、関東地方に多く、『日本後紀』によると、811年に上野国の利根郡に領地を賜っています。翌年、大宰府の長官(大宰帥)に任じられ、823年にはそれを兼務したまま中務卿にも任じられています。中務卿を譲った後は大宰帥を兼任したまま弾正尹(警察庁長官で裁判官で消防庁長官みたいな感じ?)にも任命されています。

823年に、火事が発生したのですが、自ら指揮して消火活動にあたっています。

 帷幕を水に濡らすのだ!
 それを廊下や屋根に敷いていくように!

と、実践的な機転をきかせて見事に延焼をくいとめています。
単なる温室育ちの皇族ではありません。

825年のことです。親王は、

 わたしの子どもたちに、平姓を授けていただきたい。

と自ら申し出しました。

 何をばかなことを!
 卿ほどの人物の子たちを臣下にくだせるものか。

と、天皇はじめ、みんな大反対。

しかし葛原親王は、皇族などには給料や領地など、かなりの費用がかかることを知っていました。
桓武天皇以来の「行政改革」を進めるには、特権を持つ皇族が自ら進んでそれらの収入を辞退することが大切である、と、考えていたのです。
えらい人物ですよね。当時、葛原親王がそのような申し出をすれば、これに習わぬ皇族や貴族たちはおりません。

再度の奏上で、子たちに「平」姓を賜ることになりました。

ここから「平氏」が始まったのです。

葛原親王は所領を、上野国、常陸国、甲斐国にも賜っていますが、おもしろいことに、これらは後にみな源氏の拠って立つところにもなっているんですよね。

830年、式部卿に任じられ、翌年、淳和天皇より「一品」が授けられました。
まさに、舎人親王の“再来”です。

841年。ときの仁明天皇は、葛原親王の甥にあたります。
紫宸殿で宴会が催され、仁明天皇は敬愛する葛原親王を呼び出し、御衣を下賜しています。

843年、葛原親王は天皇に申し出ました。

 老馬は傷つき、疲れ果てました。
 引退させていただけないでしょうか。
 非才の身であるにもかかわらず、位も人臣をきわめ、御恩もかえせてはおりません。
 しかし、老いと病には勝てません。
 願わくば、賜った職、すべてを返上したいと思います。

 ならぬならぬ!
 卿がおらねば天皇の仕事などはできはせぬ。
 みとめないぞ。

と天皇は引き止めることになります。
「やめる」「いや、やめないで」「まぁそれほどおっしゃるなら」というのは貴族の儀礼なのですが、どうやら天皇は本気で引き止めたようです。850年らは、さらに任官がおこなわれて、また大宰帥に任じられています。

 桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明

と、五代の天皇に仕えて、高位を保持している、というのはなかなかすごいことです。

853年、68歳で薨去されました。
親王は、死にあたって、きつく遺言をされました。

 朝廷からの監喪並びに葬儀を辞退する。

公金を投入した葬儀をすることは一切まかりならぬ、と、命じられていました。

墓所は、山城国の大山崎。
まさしくその地に「葛原」の名が残っています。

さて、葛原親王には、高棟王、善棟王、そして高見王がいました。
この高見王こそ、武家としての平氏の流れになるのですが…

この高見王に、「武家平氏の謎」があるのです。それは…

(次回に続く)
芸術、文化の秋です。
史跡散策や博物館巡りには最適の季節になりました。

今、平安・鎌倉彫刻展が見られます。
大阪天野山金剛寺の大日如来と不動明王さまは是非見ていただきたいもの。

それから、西往寺宝誌和尚立像は、き現代彫刻のような趣きで一見の価値あり!

また、「神秘の仏具」展も素晴らしい!!

もちろん、その後、蓮華王院に参拝する、というのもよい企画ですよ。
京都の歴史の秋を楽しめるスポットです。