序・葛原親王 | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

子どものころ、私は伯父からよくこう言われました。

 歴史の本をしっかり読みや。
 歴史上の人物の成功や失敗を学ぶねん。
 そしてそれを自分の戒めにするんやで。

高校生のとき、『日本文徳天皇実録』に書かれた葛原親王の説明を読んでびっくりしました。

 親王少而恵了
 歴覧史伝
 常以古今成敗為戒

「葛原親王は幼い頃から聡明で歴史書をよく読み、歴史上の成功や失敗を例として自らの戒めとしていた。」

伯父は、まちがいなく、これを引用していたのだ、と、思いました。
たびたび伯父が説明する「よき人」の説明は、どうも葛原親王の人となりの説明であったような気がして仕方がありません。

この葛原親王こそ、“桓武平氏”の祖、だったのです。

桓武天皇は子だくさんでした。
その第5皇子が葛原親王です。

『平家物語』の冒頭、

 桓武天皇第五の皇子
 一品式部卿葛原親王

というように、平清盛の「出自」が説明されています。

実は、最近の研究では、第3皇子である、というのが定説になりつつあります。
しかし、『平家物語』だけでなく、昔の史書や貴族の日記の中では、“第五皇子”として語られ続けています。

わたしはこの理由は、葛城親王を、舎人親王と重ねているところにある、と、思っているんです。

 舎人親王

天武天皇の“第5皇子”。
次期天皇となる資格があるものの皇位をのぞまず、謙虚で温厚、歴史の研究をおこなってかつての偉人たちの業績をそらんじ、『日本書紀』の編纂にも携わる…
藤原氏と協力しつつ聖武天皇の政治において重要な役割を果たしてきました。
皇族などの位は、貴族の序列とは違う表記をするのですが、正一位や従一位に該当するのは

 一品

です。舎人親王は生前に(死後贈与ではなく)「一品」となった皇族でした。

以後、「舎人親王のような」、謙虚で温厚で、政治にまじめで史書に通じて… 人格も政治能力もすぐれた人でないと「一品」には生前に叙せられない、という慣例が生まれたのですが、それに該当する人物がなかなか現れない…

ところがついに、桓武天皇の皇子でそれに適合する人物が現れたのです。

これが、葛原親王、その人でした。

 幼きころより聡明。
 史書を歴覧し生活を律する。
 謙虚で人々から敬愛されている。
 生ける儀典書として博学を敬われていた。
 ついに車の乗ったままの参内を認められる(光源氏級!)。

所領は、関東地方に多く、『日本後紀』によると、811年に上野国の利根郡に領地を賜っています。翌年、大宰府の長官(大宰帥)に任じられ、823年にはそれを兼務したまま中務卿にも任じられています。中務卿を譲った後は大宰帥を兼任したまま弾正尹(警察庁長官で裁判官で消防庁長官みたいな感じ?)にも任命されています。

823年に、火事が発生したのですが、自ら指揮して消火活動にあたっています。

 帷幕を水に濡らすのだ!
 それを廊下や屋根に敷いていくように!

と、実践的な機転をきかせて見事に延焼をくいとめています。
単なる温室育ちの皇族ではありません。

825年のことです。親王は、

 わたしの子どもたちに、平姓を授けていただきたい。

と自ら申し出しました。

 何をばかなことを!
 卿ほどの人物の子たちを臣下にくだせるものか。

と、天皇はじめ、みんな大反対。

しかし葛原親王は、皇族などには給料や領地など、かなりの費用がかかることを知っていました。
桓武天皇以来の「行政改革」を進めるには、特権を持つ皇族が自ら進んでそれらの収入を辞退することが大切である、と、考えていたのです。
えらい人物ですよね。当時、葛原親王がそのような申し出をすれば、これに習わぬ皇族や貴族たちはおりません。

再度の奏上で、子たちに「平」姓を賜ることになりました。

ここから「平氏」が始まったのです。

葛原親王は所領を、上野国、常陸国、甲斐国にも賜っていますが、おもしろいことに、これらは後にみな源氏の拠って立つところにもなっているんですよね。

830年、式部卿に任じられ、翌年、淳和天皇より「一品」が授けられました。
まさに、舎人親王の“再来”です。

841年。ときの仁明天皇は、葛原親王の甥にあたります。
紫宸殿で宴会が催され、仁明天皇は敬愛する葛原親王を呼び出し、御衣を下賜しています。

843年、葛原親王は天皇に申し出ました。

 老馬は傷つき、疲れ果てました。
 引退させていただけないでしょうか。
 非才の身であるにもかかわらず、位も人臣をきわめ、御恩もかえせてはおりません。
 しかし、老いと病には勝てません。
 願わくば、賜った職、すべてを返上したいと思います。

 ならぬならぬ!
 卿がおらねば天皇の仕事などはできはせぬ。
 みとめないぞ。

と天皇は引き止めることになります。
「やめる」「いや、やめないで」「まぁそれほどおっしゃるなら」というのは貴族の儀礼なのですが、どうやら天皇は本気で引き止めたようです。850年らは、さらに任官がおこなわれて、また大宰帥に任じられています。

 桓武・平城・嵯峨・淳和・仁明

と、五代の天皇に仕えて、高位を保持している、というのはなかなかすごいことです。

853年、68歳で薨去されました。
親王は、死にあたって、きつく遺言をされました。

 朝廷からの監喪並びに葬儀を辞退する。

公金を投入した葬儀をすることは一切まかりならぬ、と、命じられていました。

墓所は、山城国の大山崎。
まさしくその地に「葛原」の名が残っています。

さて、葛原親王には、高棟王、善棟王、そして高見王がいました。
この高見王こそ、武家としての平氏の流れになるのですが…

この高見王に、「武家平氏の謎」があるのです。それは…

(次回に続く)