疫病の話 デング熱が心配ですが… | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

デング熱が“流行”しています。
といっても、重症化して死に至る、ということはまれな熱帯性の病気らしく、知人の医師などは、「感染力も重症化の危険性も、インフルエンザのほうがはるかに怖い」と申しておりました。
もちろん、油断は禁物。正しい知識と正しい判断で、冷静に対処していきたいところです。

お恥ずかしい話、高校生のときに、デング熱を「てんぐ(天狗)熱」と聞き間違えて、なにやら熱で真っ赤な顔にでもなるのか、と、思ってしまいました。

「デング」の名の由来は実はあんまりわからないそうで、スペイン語の「けいれん」「ひきつり」という意味が近い、という信憑性の高い話もあれば、デング熱にかかった人の歩き方が、背筋が伸びたようになって“ダンディ”だから「ダンディ熱」となって、さらにそれが訛って「デング熱」となった、というウソ臭い話まであったりします。

かつてこういう伝染病は、ウィルスが原因とはわからず(あまりに小さく光学顕微鏡で可視化できなず)、黄熱病がウィルスが原因とわかった第一号で、第二号がデング熱だそうです。

文献に記されている症状で、「これはデング熱のことだろうな」と判断できそうなのが、なんと4世紀の中国の記録に残されています。
晋王朝の記録の中で、「水毒」と記されているのがそれです。

『三国志』

の中で、諸葛孔明が「南蛮行」といって現在のインドシナ半島からミャンマー近くまで遠征したかのような話が出てきますが、そこの記述の中で「水毒」の話が出てきます。
小説などでは、この字面から「水を飲んでかかる病気」と訳されている場合が多いのですが、最近の研究では蚊を媒介するデング熱のことだろうと推定されるようになりました。

近代では、日本の植民地下にあった台湾(昭和11年)で、軍の防疫担当医師の記録にデング熱の記載があり、戦後は、南方から復員してきた人たちが持ち込んで、一時的ですが、日本国内でも流行したことがあります。

ちょっと“ひねくれた”歴史解釈をさせていただきますと…

大航海時代以後、ヨーロッパ諸国は海外に進出し、現地の特産物を持ち込んで利益をあげたり、各地に植民地を設けたりしました。
当然、現地の病気をヨーロッパに持ち込んだり、逆にヨーロッパの病気を現地に運び込んだりすることになっちゃいました。

16~17世紀ですと、ラテンアメリカなどにしか存在しなかった「梅毒」がヨーロッパにもたらされ、あっという間に日本にまで到達します。
逆にラテンアメリカになかった「インフルエンザ」がヨーロッパ人によってもたらされ、現地の人々が次々に死んでいく、ということも起こりました。
実際、スペインのコルテスがアステカ文明を滅ぼした、なんて言いますが、あれなどはインフルエンザによって滅ぼされた、と、いってもよいくらいなんですよ。

疫病と過酷な労働によって激減した現地の人口を補うため、アフリカの黒人奴隷がラテンアメリカに運び込まれ、かれらの労働によって生産されたさとうきび、たばこ、銀などがヨーロッパに持ち込まれれる、という「三角貿易」が成立しました。

18~19世紀になると、欧米諸国は、すでに所有している植民地を“有効に”活用するため、再開発を進めていきます。
鉄道を敷設したり、もともとそこにはない植物を別の植民地から持ってきて植え付けたり(プランテーション)、森林を伐採して新しい耕作地を切り開いていったり…

こうして森の中に“眠っていた”(人間を知らなかった)ウィルスなどを目覚めさせてしまったんです。
現地の人たちは

「森には悪魔がいる」
「森を荒らせば悪魔に祟られる」

と、森林を切り開くことをおそれていました。
おそらく経験から森に潜む動物や虫をホスト(宿主)とする病気のことを知っていたのでしょう。

「そんなの迷信だっ」

と、ヨーロッパ人たちはどんどん開発を進めていく…

こうしてアフリカなどでウィルス性の病気が爆発的に発生する(アウトブレイク)することになりました。
欧米列強の植民地政策に、最初にブレーキをかけたのは、現地の人々の抵抗ではなく、ウィルスたちだったのですよね。

“ひねくれた歴史解釈”とはここからで…

このことから、アフリカに多くの植民地を持つフランスやイギリスでは伝染病の研究が、国家の支援の下、積極的に進められていくことになったのです。
一見、世のため、人のための病気の研究が、実は、一方で植民地開発の片棒を担ぐものだった、と、言えなくもない…

さて、日本でも、平安時代では、伝染病は、「疫病」と呼ばれ、疫神の為す祟りである、と、考えられていました。
それどころか、恨みを呑んで死んでしまった人が祟る、というのは、たいていは、疫病という形であらわれ、疫病を、恨みを呑んで死んだ人を手厚く「葬る」「供養する」という方法で解決しようとしました。

奈良時代の初めの天然痘の流行は、謀反の罪をかけられて処刑された長屋王の祟り、と、考えられましたし、長岡京から平安京への遷都のきっかけの一つとなったことは、早良親王の祟りで疫病や洪水が起こったと考えられたからでした。

疫神を鎮める、という方法ですが、呪術的な作業はもちろんするのですが、同時に「清める」と称して清掃・美化につとめ、そうして酒や塩を散布します。

でも、これって、よくよく考えてみると、衛生学的には正しい処置ですよね。

アフリカの原住民たちが「森を侵すと悪魔に祟られる」とおそれていた、と、申しましたが、長岡京の洪水被害の原因も、都の造営のため、周辺産地で森林が伐採されたことが原因であると説明されるようにもなっています。

信仰と科学、というのは対立することではないのですよね。

病気が、目に見えない悪魔のしわざだ、と、昔の人たちは考えましたが、ある意味正しかったわけです。
「悪魔」を「ウィルス」と言い換えているだけですもんね。
どちらも、病の原因は何なのか? と求めて解決しようとする同じ心の働きですから。

信仰と科学を対立させる限り、物事はおそらく解決されないと思います。
信仰と科学が“調和”すること、そしてさせること…

信仰に振り回されない、科学が人を見失わない、どちらも大切で両立させなければならいことだと思います。