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こはにわ歴史堂のブログ

朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

子どものとき、野球が大好きだった父に連れられ、日生球場というところに、阪急ブレーブス対近鉄バッファローズの対戦を見に行ったことがあります。(どんだけ古い話やねんっ もはやこのこの球場も球団もありませんよね~)

そのとき、観客数が8000人、とか発表されていたんですが、どう見てもそんなたくさんのお客さんがいたような気がしなかったんですよね。
で、はるか後年になって、野球の観客動員数って、一人一人数えていた人数ではなく、ざっと見て、

 う~ん… 5000人

とかテキトーにカウントしていた、ということがわかりました。(現在は数え方が変わって正確にカウントするようになったようです。)

だから、というわけではないんですが…
軍記物や歴史小説で、何万人と何万人の兵が激突した、とか、何十万の兵を率いて出撃した、とかいう記述をみるたびに、どうやって兵を数えていたのかな、と、小学生のときにちょっと気になりました。

中学生になって、教科書に、江戸時代の人口が3000万人と書かれていて、武士が7%である、ということを習いました。
とすると、武士は210万人いたことになります。まぁ、これは平時の兵力数。
太平洋戦争の日本の総兵力数は400万人。当時の人口が8000万人ですから、5%ということになります。

鎌倉時代や室町時代は人口が1200万人。
7%が武士であるとすると84万人ということになります。
いやいや、当時は兵農未分離だから、もっともっと戦闘可能人数がいたよ、という指摘も出てきます。

では、見方を変えて、戦国時代の「軍役」で集められた人数から考えてみると、

1万石で200人

くらいでした。

当時の日本はだいたい2000万石。だとすると40万人が戦闘に参加していた、ということになります。
もちろん、もっと動員できる者もいましたが、逆にあまり動員できない者もいる…

大坂の役の直前あたりですと、1万石につき、鉄砲は20、弓10、槍50、騎馬14、という武装になります。

思った以上に「小規模」という印象ではありませんか?

戦国大名の戦いで、総兵力どうしの激突、というのは、実際あまりありませんし、すべての兵を率いて出撃するのも考えられません。

軍記物や当時の歴史小説に書かれている兵力数、ほんとにそれだけあったんでしょうか…
気軽に何万人と何万人が戦って、何千人が死んだ、とか、言いますけど、ちょっと考えにくいんですよね…

戦国時代の武将の話や戦いの話の多くは江戸時代に書かれています。
泰平の世にあって、机上で想像をたくましくして戦いを描写しているような、そういうフィクションもけっこうあるんです。

戦国時代の大名の「戦い」は主に国境線での領地や水利にかかわる紛争でした。
当然総兵力で繰り出すものではありません。
国境で接しているところの豪族たちは、自分たちで「解決」するときもあれば、盟主に助けをもとめるときもあり、そういうときは援軍が繰り出されてきます。
たいていの場合は交渉が始まり、戦闘で解決、というより、もってきた武力を背景に、有利に話を進めて決着を付ける、というのがほとんどでした。
こうなると、交渉が巧みな者も登場してきます。
以前に申し上げたように、黒田官兵衛などは、江戸時代に創り上げられた「軍師」ではなく、こういう「交渉人」、戦国ネゴシエーターであった、と、考えられます。

もちろん、戦闘となっても大規模なものにはなりません。

番組では、「子どものケンカみたい」と、ややマンガちっくに説明してしまいましたが、兵力の点からも武装の点からも、映画やドラマのような戦闘シーンにはなっていませんでした。

それから、基本的に戦国時代の戦闘では、人があんまり死にません。
基本的に、足軽などは逃げますし、あまり殺さず、場合によっては捕虜として、いくらかのお金や米と交換に、その兵士が属する村に返す、ということをしていました(東北地方や越後にその記録があります)。

 将棋とチェス

を思い出してください。
チェスは白・黒がハッキリしていて、相手の駒を倒すと盤上から消える(死ぬ)ことになりますが、日本の将棋は、相手の駒をとると味方として「持ち駒」に変わりますよね?
兵は殺さず、自分のものとして活用できる、ということがおこなわれていたがゆえに、将棋のルールにそれが残っているといえるのではないでしょうか?
それに対してヨーロッパの中世は、宗教も言語も民族も違う者が戦いました。絶滅戦となる場合が多い… 文字通り、白黒つける戦いでした。

長く史実と考えられていた戦国時代の「戦いの様子」は、当時の小説や物語の「場面」であることが多いのです。
唐突ですが、“イタリア統一の三傑”というと、どういう人たちかご存知でしょうか。
19世紀に、分裂していたイタリアは悲願の統一を実現するのですが、そのとき活躍した英雄たちが

 マッツィーニ ガリバルディ カブール

です。

日本人はとくに「三大ナントカ」といって、三つでセットにするのが好きですよね。
イタリア統一の三傑のように、日本にも「維新の三傑」と称される人たちがいて、それが

 西郷隆盛 大久保利通 木戸孝允

です。

そのうち、肖像画のネタとしてよく取り上げられるのが

 西郷隆盛

のですね。

以前にもお話ししたのですが、最近、九州で西郷さんの新たな肖像画が発見されて話題となりました。
「写真」ではないのですが、豪傑、というより、人としての滋味あふれた文人の風格のあるものでした。

さて、西郷さんは、なんせ維新の大物中の大物ですから、いろいろな逸話が大量に残されています。

その逸話の一つがお名前に関して。

西郷さんのお父さんの名前はなんと西郷隆盛なんです。
もともと西郷さんは、西郷吉之助で、元服して隆永を名乗っていて、このままいったら

 西郷隆永

だったんですが、大政奉還、王政復古で、新たな位階を授かることになり、まぁ、江戸時代のときにつけられた名前を一新しようということもあって、維新の重要メンバーの名前がほぼ決まることになりました。

 大久保一蔵が、大久保利通。
 桂小五郎が、木戸孝允。
 山県狂之介が、山県有朋。
 井上聞多が、井上馨。
 伊藤俊輔が、伊藤博文。
 村田蔵六が、大村益次郎。
 乾退助が、板垣退助。

ところが、西郷さんの名前を届けるときに、届けた人が間違って西郷さんのお父さんの名前を伝えてしまい、そのまま「隆盛」ということになった、という逸話が有名です。

ちなみに、西郷さんの弟の一人は、「隆道」という名前にしたかったのですが、名前を届けた人が東北出身で、「リュードー」と伝えないといけないのに、訛って

 ズードー

と言ってしまったので、「従道」となった、なぁ~んていう、ほんまかいな、という逸話も残っています。(この逸話はよくできた笑い話だと思いますよ。)

で、有名な西郷さんの、肖像画なのですが、本人が写真を残すことを極端に嫌っていることもあり、明治天皇から問われても

「私には写真がございません」

と述べたという話が残っています。そんなこともあり、「正確な」肖像画がなかなか残せませんでした。
で、苦肉の策が、「モンタージュ」方式で、

 弟・西郷従道+従兄・大山巌

で、有名な西郷さんのお顔ができあがった、ということです。
VTRでは、実にうまいぐあいに合成してくださって、弟と従兄の顔をもとに作られた、というのが伝わったと思います。

ところで、上野の西郷さんの銅像ですが、あのカッコは、兎狩りに出かけているときの様子のものです。散歩で犬を連れているものではありません。
ちなみに、犬の名は“ツン”なのだそうですが…

銅像の作者は、なんとかの高名な彫刻家、高村光雲。
ところがワンちゃんの“ツン”だけ、別人(後藤貞行)がつくったものなんですよね。
笑ってしまいますが、“ツン”は雌犬なのに、あの銅像のワンちゃんは、別人の飼い犬をモデルにして、しかも雄犬として造られてしまっています。

西郷さんの銅像は、弟と従兄をモデルにつくられ、おまけに連れているワンちゃんまで別人の飼い犬がモデル、ということになっちゃっているんですよ。
本人および本人が連れている犬すらモデルになっていない本人の銅像、なんて世界でも珍しいのではないでしょうか…

西郷さんの奥さんは、銅像をみて「うちの主人はこんな人じゃない」とつぶやいただけではなく、「こんなカッコで出かけたことがない」と言ったそうです。

それもそのはず、この銅像のテーマは、従兄の大山巌が提案したもので、

「一切の名利を捨てて山に入って兎狩りをするような虚飾の無い姿こそ、西郷隆盛の本意に通じるのだ」

としてこういうカッコにしたそうなんです。

ヘタすると、こんなカッコで兎狩りすらしていない可能性だって出てきました。
いや、おそらく、ほんとにこんなカッコしていなかったと思うんです。
なぜなら、この“テーマ”を大山巌が思いついたのが、なんと、“イタリア統一の三傑”の一人、ガリバルディの銅像をみたからなんです。
シャツ一枚でいる、質素な姿の英雄ガリバルディの銅像の、「真の英雄はシャツ一枚、虚飾も野望も一切無し」というテーマを西郷の生き様に重ねたからだそうです。

“イタリア統一の三傑”と“維新の三傑”… あら、つながった、という話でした。

9月1日(月)、テレビ朝日Qさまのスペシャルに出演させていただき、歴史の解説を一部担当させていただきました。

歴史の研究というのは、日々、進んでいますが、すぐには教科書には反映されません。
授業でもよく言うのですが、「新しくわかったことが教科書で紹介されるのは20年かかるときもある」ということです。

定説が覆されることもあれば新説にもすぐ消えてしまうものもあります。

ピラミッドなども、奴隷が20年かけて王の墓を建てた、と、長く説明されてきましたが(古代ギリシアの時代から20世紀まで続く“定説”でしたが)、クルト=メンデルスゾーンが発表した論文以来、現在では、奴隷がこき使われて建造したのでもなければ、そもそも王の“墓”なのか疑問だ、ということにまでなっています。
でも、1990年代にはそういうことが間違いないとされていたのに、教科書に反映されるようになったのは2010年代になってようやく、という感じです。

それまで教科書に掲載されてきた「肖像画」なども、「別人じゃないの?」と言われ始めたのは、だいたい1980年代でしたが、やはり21世紀に入ってようやく掲載されなくなってきました。

 「聖徳太子」「源頼朝」「足利尊氏」

大きく評価が変わったのはこの三人の肖像画でしょう。

「聖徳太子」の肖像画は、三人が描かれていて中央はもちろん聖徳太子、むかって左が殖栗皇子で右が山背大兄王、といわれてきました。

が、しかし、服装がどう考えても奈良時代のもの…
手に持っている

「笏」

も、律令制度の導入とともに唐から伝わったものだから、飛鳥時代の聖徳太子は持っているハズがない、ということから、この絵を聖徳太子の肖像画として教科書に載せるのはどうかな… ということになって、しだいに掲載されなくなった、というわけです。

番組では、女優の高畑淳子さんが「笏はカンニングペーパーだったんでしょ?」とおっしゃっていたように、煩雑な儀式の順番などを忘れないようにそこに記していたもの、と紹介されました。

ただ、笏そのものは、実は周の時代からあり、もともとは威儀を整えるもの、として手に持っていたものでした。
「威儀を整える」のになんであんなもんを持つねんっ と、なりそうですが、おもしろいことに、西洋などでも、王や支配者は、手に「なんか持っている」んですよね。

手ぶら、というのが、ちょっと間の抜けた感じになるからでしょうか、杖など、威儀を示すものは、案外と存在しています。
カンニングするために作られたもの、ではなく、もともとは違うものだったが「ちょうどいいから忘れないようにココに書いちゃえ」となったようです。
で、唐の時代には完全に備忘用となりました。

中国では笏の後ろに直接記していましたが、日本では、紙を貼っていました。

聖徳太子の時代は、遣隋使が派遣され、とにかく中国の近代的なものを「形」だけでもよいから輸入しちゃえ、という時代でもありましたから、あんがいと聖徳太子は笏をお持ちになっていたかもしれません。
ただ、なぜ持っているの? と問うならば、何のためかは知らないけれど、隋ではそうしていたからだ、という回答になったかもしれません。

ところで、「笏」を「しゃく」という読みに変えてしまったのは日本です。中国では

 コツ

と読んでいました。(今でも支笏湖の「笏」は「コツ」と読みます。)コツは日本では「骨」を連想する音になるのでちょっとイヤ、となり、だいたい長さが30㎝ほど(一尺)なので「しゃく」と呼ばれるようになりました。

「聖徳太子のあの肖像画の服装が奈良時代だとするならば、飛鳥時代ならどんな服装をしていたのだ??」

となりますが、いや、これ、実はちゃんと飛鳥時代の服装をお召しになられている聖徳太子の絵はあるんですよね。
実際、こちらのほうを掲載している教科書もあります。

 「源頼朝」

は、「神護寺三像」の一つで足利尊氏の弟、足利直義の像だと言われています。
ただ、所蔵している神護寺さんは、「源頼朝」説をとっておられますし、その理由もそれなりに実は説得力があるものです。
ただ、教科書会社としては、頼朝説と直義説の二つがある以上、別のモノ載せておこう、という判断をされて教科書に載せなくなっただけで、あの絵が「頼朝ではない」から載せない、というわけではない、ということです。

 「足利尊氏」

の肖像も、現在では別人(高師直)のものであると考えられています。
使用されている家紋が尊氏のものではないし、「将軍」の絵にしては、落武者みたい(髪の毛はざんばらで背負っている矢も折れているみたい)でちょっとおかしいし、頭上に息子の義詮の花押が描かれるのは無礼でありえない、ということで、尊氏ではないのではないか、という判断がされています。

私も、かつてそう説明された本を読んだとき、まぁ、そうなんだろうなぁ~ と思ってはみたんですが…
実は正直、ちょっぴり「いや、やっぱり尊氏像でよいんではないか」と密かに思っている派なんですよ。

足利尊氏は、実は、対立することになった後醍醐天皇のことを尊敬していて、結果として「謀反」を起こしてしまうことになったことをどこか悔いていたと思うんですよ。
『太平記』でも、後醍醐天皇に忠誠を誓って寺にこもって髪を切っているんです。
で、武士たちに説得されて、では、挙兵だっ と、出撃したので、こんな髪型になっていても、別におかしくはないんですよね。
天皇に忠誠を誓いながらも挙兵しざるをえなかった尊氏、というテーマの絵でもよいと思うんですよ。
多々良浜の戦いに出撃するときの姿もこの絵のように思えますし、このときの絵を描かせた、という記録もちゃんとあるんですよ。
馬具に書かれている家紋が「輪違い紋」でこれは高師直の家紋である、という話ですが、この時代、家臣が自分の主に自分の持ち物を身に着けてもらったり、自分の家に伝わる武器を献上して主に使ってもらったりする、ということ、少なからずあるんです。
高師直は足利家の執事ですから、師直の調えた馬具を使用していても、これまたおかしくはないんですよね。

歴史学の史料的解釈としては私の考え方はやっぱり間違いで、別人と考えてもよいんですが、文学的にはこの像は尊氏であったほうがおもしろいんですよね。

以前に申し上げたように、「肖像画」はけっこうアヤシイものが多い…

江戸時代に、戦国武将ブームがおとずれ、各大名たちが、戦国時代や歴史上の有名人のアイテム(使用していた刀や茶器)がコレクションすることが流行しました。
このとき、一部の商人たちが、詐欺とは言いませんが「これは○○の使用した××」と売りつけた、ということもあり、贋作や出所のあやふやなモノがけっこう増えてしまいました。
肖像画も、そんな感じで、けっこう古い絵画が「これは××の肖像画」とされて売買されてしまっていたりするんですよね…

肖像画に関しては「教科書に載らなくなったから別人だ」とは考えず、「ハッキリとわかっているほうを採用するようになった」と考えたほうがよい、ということです。
何やら前回の話の続きようですが…

「新選組」の「選」は「選」なのか「撰」なのか…
昔の字だから「撰」じゃないの? となりますが、これ、どっちでもよいんです。
当時の史料にも二つの使われ方がありますし、近藤勇他、隊士たちも手紙や記録などの中で併用しています。こっちでなければならない、ほんとはこっちだっ ということは史料的には確認できません。

ドラマや小説などの新選組の描かれ方というのは、史実に即したものと、ちょっと小説家や脚本家、演出家の“空想”によるものがあります。
ちょっと「区別」しておこうと思うのですが…

まず、

★ 新選組は、暗殺集団ではない?

ということです。

何やら幕府や京都守護職から特別な使命を帯びた、特別な集団であるかのイメージがありますがそんなことはありません。
京都での担当範囲は祇園などの歓楽街でした。もちろん容疑者追跡などの行動からこの範囲を逸脱することはありましたが、各組織が地域を分担して治安維持にあたっていました。(御所周辺は会津藩、町人屋敷や商家がある地域は京都見廻組、橋・交通の要所などは町奉行所が担当していました。
(いや、たしか伏見も担当していたのでは? となりそうですが、実は伏見は「京都」ではありません。諸隊に比べてずいぶんと格下扱いされていたことがわかります。)

暗殺集団ではない、というのはどういうことかと申しますと、彼らの行動の目的は

 捕縛

つまり、「逮捕」にあったので、幕末の志士たちを発見しては斬りまくっていった、というのは誤解です。
1863年~1867年の五年間で、彼らが殺害したのは25名ほどです。諸説ありますが30名は越えていません。そのうち7人は有名な池田屋事件のときで、あれは少数で踏み込んでの乱闘であったから例外といってもよく、実際、池田屋事件では

 殺害 7人
 捕縛23人

ですから、あの乱闘の中でも「逮捕」に努力していたことが察せられます。ちなみにケガ人は4人だけですから、“乱闘”の様子も、ドラマや小説での描かれ方とはちょっと違うような感じですね。

★ 隊旗を掲げて京都の町をねり歩いていない?

というのも新選組の実像です。
新選組というと映画やドラマでは「誠」と書かれた旗を先頭に、あの“ダンダラ”羽織を身に着けて肩で風きって歩く様子が描かれていますが、そんなことはありません。

あのダンダラ羽織は、新撰組の最初の1年だけ使用されていたもので、池田屋事件以後は使用されていた記録は無く、目撃談も皆無です。

以前に、“時代劇”のおかしな話をいくつかしたことがあります。
役人たちが「御用」と書かれた提灯を持って逮捕に向かう、という姿はほとんどなかった、と、説明しましたが、新選組の「活動」の様子も、ドラマや映画の“演出”であると思っていただいたほうがよいと思います。
当時の町人たちの記録や、同時代の他の武士たち、また隊士たちの話によると、池田屋事件以降は、

 黒の羽織 黒袴

だったようで、「黒いカッコしたやつはみんな新選組だった」という証言がたくさんあります。
(個人的にはこっちのいでたちのほうがカッコいいとは思うんですが…)

★ 「局中法度」はフィクション?

新選組というと、“鉄の団結”“血の掟”というイメージがあり、その象徴が五ヶ条からなる「局中法度」である、と、考えられている人がいますが、これは小説がつくり出した虚構です。
実際は、「私ノ闘争不許」の第五条は存在せず、四ヶ条で(永倉新八の回顧)、当時は「禁令」というような名称であったようです。

★ 新選組が殺害した人数は身内の隊士のほうが多い?

「私ノ闘争不許」はフィクション、幕末の志士たちを25人殺害した、ということを申しました。おもしろいことに鳥羽伏見の戦い以前の新選組の死者は45人いるのですが、そのうち、39人は内紛というか隊内の闘争で死んだ人たちです。
他人にやさしく身内に厳しい新選組、という感じです。(組織のための組織というような感じですね。)

★ 戦い方は、わりと“卑怯”な手法が多い?

「士道ニ背キ間敷事」と、「武士道に反すようなことはするな」と禁令に示しているはずですが、三条制札事件では、8人を捕縛するのに34人がかりで、油小路事件では7人を36人で襲撃している計算になり、少数で斬り込んだのは池田屋事件のみ(土方隊が途中から合流して多数になります)。まぁ、卑怯というより、「捕縛」が目的の集団ですから、これは当然。
これも敵に対してよりも、自身の行為、言動に関する戒め、という意味合いが強いんでしょう。

★ 軍事訓練、軍備は、フランス式だった?

新選組というと、過激保守派で、武士道が徹底された存在というイメージが強く、武芸に秀でた個人が小説やドラマで描かれているものですから、洋式化された官軍、時代遅れの幕府側、というステロタイプが定着しています。
実際、幕末の幕府側の軍備や装備はかなり近代化されていて、むしろ薩長の側のほうが「見た目」は時代遅れな感があったようです。

新選組は西本願寺などで演習をしていますが、近代的な大砲の砲術訓練や洋式小銃の使用の訓練をしており、軍事訓練はフランス式でした。

新選組の描かれ方、というのは、時代によって極端です。
明治に入って、薩長が政権を握ったわけで、当然、新選組は極端に低い評価を受けました。
戦前の教育の反動も後押し、戦後は新選組を主人公とする物語や小説がたくさんあらわれ、今度は幕末のヒーローとして描かれるようになり、登場人物の虚飾や過大評価が進みました。

歴史上の出来事、人物群の中でも、その評価のふり幅が大きい例です。

右に振れば左に引っ張られ
左に降れば右に引っ張られ

いまだに評価は定まりません。

 新選組よ、どこに行く

というところでしょうか…
かつて某塾から、あるアンケートをいただいたことがあります。
「採点基準」に関することです。「来年、どんな問題が出ますか?」な~んてもんではありません。

「問題に漢字指定が無い場合、ひらがなで書いたら×になりますか?」

という問いがありました。たしかに、受験生にとっては気になりますよね。うわっ 知っているけれど、漢字忘れた… というのはよくある話。

でも、これ、わたしもかつて塾講師をしていたから、よくわかるんですけれど、中学受験の場合だと、学校によって“対応”が違います。
学校説明会などで質問すると、ハッキリと「×です」という学校もあれば、「わからなければひらがなで書いといてください」という学校もあれば、「減点します」という学校もあれば、もっと厳しく、「常識で判断してください」と突き放される学校もあります。

むろんここでの「常識」とはこういうことです。

入試は「選抜試験」。選び、そして選ばれるもの。「徳川家康」と書いている者と「とくがわいえやす」と書いている者がいたら、どっちを選ぶと思う? 考えたらわかるでしょ?

ということです。

他にもいろいろなアンケート項目がありました。え?? と驚いたのが

「新選組」や「民選議院設立建白書」の「選」は「撰」と書かないと×ですか?

という問いがあったことです。そんなことまで問うのか… と、ちょっとびっくりしました。生徒や保護者の方で気にされている方もおられるから、塾がそれらの“声”を集約されているのでしょう。
それへの質問に対しては、

人物や項目は学校の教科書に準拠して採点します。

が模範“回答”となります。子どもたちが学校の教科書でどう習っているか、が大切で、塾でどう教えられているか、は入試に反映されません。そんなの大学入試でもそうです。

人物の名前なんか、いろいろな書き方がありますよ。奈良時代で有名な

 鑑真

なんて、当時の史料中には「鑑」という字で出てきません。

「鑒」

ですからね。

もちろん、正しい字で書いて×にはなりませんが、教科書で表記されている通りに書いて×になる入試はありません。

書き方、いろいろあるな、と迷われたら教科書を見ればよいんです。

クイズ番組でおなじみの芸人さん、ロザンの宇治原さんが受験に関して“名言”を残されています。

「よく、試験前に、教科書を持っていって先生に『どこが大切ですか?』と質問する子がいるけれど、教科書には大切で無いことは書いていない。」

と言うておられました。この通りだと思います。

めちゃくちゃ大げさに話をしちゃいますが…

16世紀、それまで西ヨーロッパで、キリスト教とはすなわち、ローマ=カトリックのことで、ローマ教皇が“神の代理人”でした。
教会の教えが、すなわち神の教えで、教会なくしては救済は無い、と考えられていたのです。
それに異を唱えたのが、ドイツの神学者にして修道士のマルティン=ルターです。

神の教えとはすなわち“聖書”だ! 

聖書に書いてあるか否か、それがすなわち真か偽である、と、考えたわけです。

庶民に読めないラテン語で書かれた聖書がドイツ語で翻訳され、そして当時できたばかりのグーテンベルクの印刷機によって聖書が大量に普及するようになります。
それを読んだ庶民たちは驚きました。

 聖書ってこんなこと書いていたの?
 教会の教えと、ずいぶんと違う…

じっくり学校の教科書、読んだことありますか?
中学受験生も高校受験生も、そして大学受験生も、改めて「教科書」しっかりと読みなおしてみてください。
少なくとも「歴史分野」については、「教科書」は“受験のバイブル”です。