女工は哀しかったのか? | こはにわ歴史堂のブログ

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朝日放送コヤブ歴史堂のスピンオフ。こはにわの休日の、楽しい歴史のお話です。ゆっくりじっくり読んでください。

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富岡製糸場が世界遺産に登録されることになりました。

明治時代の富国強兵政策が進む中、軽工業分野の近代化の象徴として説明される工場です。

「製糸」とは、何の糸をつくることかわかりますか?
生糸をつくることです。

ちなみに「綿糸」をつくることは「紡績」といいます。
製糸工場は生糸をつくり、紡績工場は綿糸をつくるんです。

さて、富岡製糸場の労働者は女性でしたが、士族出身の女性が多く、かなりよい労働条件で働いていました。
先進的な、フランスの技術によってつくられ運用されたこの工場で働くということは、1960年代のスチュワーデスさんのように、花形の女性のお仕事だったんです。

・勤務時間 7時間45分
・日曜祝日休み
・有給休暇 年末年始10日間と夏季10日間を含んで合計76日が認められている。
・能力別月給制度
・産業医常駐
・寮費と食費は工場側が負担

これ、かなり、良いお仕事ですよね。
そしてここで仕事を身に付けた後、地元にもどってさらに地元の製糸場の指導者となる、というような「幹部養成学校」でもありました。

明治時代、「生糸」は外貨を獲得する大切な商品でした。
日本の生糸は、江戸時代から高品質で、幕末から世界では有名な“ジャパン・ブランド”だったのです。

高品質で安価、という「安価」の部分は、女性労働者の低賃金で支えられていたといわれています。

ところが、明治時代の終わりから大正にかけて、製糸場で働く女性たちの様子はしだいに大きく変わっていき、富岡製糸場のような良質な労働環境ではしだいになくなっていったと説明されます。実際、多くの教科書では過酷な「女工」の悲劇が取り上げられています。

農村不況となり、小作料も値上がり、中小の農民、とくに小作人たちの生活はしだいに貧しくなっていきました。
製糸の需要が高まるなか、農村の女性たちが製糸場に働きに出かけるようになるのは、貧しい実家の家計を助けるためでした。

山本茂実の『ああ野麦峠』などは映画にもなり、細井和喜蔵の『女工哀史』など、そこで描かれた貧しい農村出身の女性の過酷な労働の様子は、当時の資本主義の非人間性をよく示していると言われてきました。

ただ… 実はですね…
わたしは、ちょっと「誤解」とまでは言いませんが、農村が悲惨な状況になっていた、ということと、工場労働が悲惨であった、ということが混同されている部分も多いと思っているんですよ。

農村が貧しかった。
女の子が身売りまでして生活を支えていた。

という悲劇は各地でみられました。
そして製糸工場の労働者となって「出稼ぎ」に出ていた… というのは確かですが、だから、その女性労働者が製糸場でひどいめにあっていた、というのは、ほんとうに多くの事例だったのでしょうか?

1960年に、明治時代から大正時代にかけて飛騨で女工として働いていた人にアンケートがとられ、その資料が残っているんですよ。

(580名に聞き取り)

【食事】(良い)522(普通) 58(まずい) 0
【労働】(楽) 128(普通)435(苦痛) 17
【賃金】(高い)406(普通)174(低い)  0
【病気】(厚遇)  6(普通)290(冷遇)284
【総括】(良い)522(普通) 58(否)   0

「食事はおいしく、労働はまぁまぁこんなもんかな、給料はよいね、病気になったらちょっと困ったけれど、全体としては良かったなぁ~」

という感想のようにしか見えないんですよね…

『ああ野麦峠』で紹介されている「工女節」というのがあります。

 男軍人
 女は女工
 糸をひくのも国のため
 工女工女と軽蔑するな
 工女会社の千両箱

この「歌」からは、「自分たちが日本の産業を支えているのだ」という心意気も感じたりします。
等級賃金制で、成績優秀な工女は「優等工女」「一等工女」といわれ、糸取り労働に励んでいました。

富国強兵の中、貧しい農民たちは苦しい生活を強いられ、低賃金で女性たちが働かされていたのだ、ということを「強調」したいがために、マイナスの記述や記録が「意図的」とは申しませんが集められて説明されすぎてきたと思うんです。

もっともっとニュートラルに、良かった部分も悪かった部分も、同じ目線で集めていかなくては、正しい歴史像は描けないと思います。