からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -85ページ目

宅配屋と喫茶店(3)

そんな大量の宅配物を前に猫の手も借りたいと、会社は無差別に臨時ドライバーを雇う。ほぼ面接もなく、説明会後に即実地に出て、あとは野放し。といっても、この求人に応募してくる人の八割方は経験者であり、車、主に軽バン、も持ち込みが多い。自営もしくは日雇い形式の契約をどこかの“運送”会社としているドライバーの出稼ぎとして利用する人も多い。彼らはいわばセミプロなので、問題という問題はないようだ。また、重ね重ね言うが、猫の手も借りたい状況で満足な研修などしている隙はない。
バイトは宅配一個につきいくらという給与方式になっている。祐平の会社では一個につき140円である。届けた数が多ければ多いほど給料が上がるわけだ。一日100個届ければそれすなわち14000円が給料に足されるのだが、車持ち込みの場合ガソリン代等の経費はでない。持ち込みでない場合、単価は下がる。
多い人はこの12月で50万円ほど稼ぐであろうか。宅配数にして一日約150から200個がその目安だ。場合によってはそれ以上も可能といえば可能だが、しかしこれには少しからくりがある。八割方経験者ということは、八割方の人間が多く荷物をさばける地域を知っているということだ。
多く荷物をさばける地域とは、宅配物を受け取る場所すなわち営業所から近いこと、営業所と現場の往復時間が短ければ短いほど多く宅配物をさばけるのは言うまでもない。また移動に時間がかからないことから一度に軽バンに積む量を減らせる。あの荷物どこいった、と探す手間や引っ張り出す手間が省ける。これはとても作業効率に影響する。そんなものはじめから整理整頓して積み込めばいいと思われるかもしれないが、それがなかなかどうして軽バンの荷台の広さでは、うまく行かない。それにそれは宅配物を破損させてしまうリスクを低くする。欲と時の圧迫感からくる焦りから、まるでテトリスのように、積載量を無視して目一杯積み込むと、もともと宅配便専用に作られていない軽バンの荷台では必ず下になった宅配物が破損することになる。たとえ担当エリアが営業所から多少遠くても、実は宅配物を目一杯積まずに何度か営業所と往復した方が効率的なのだ。そしてもうひとつ稼げる地域の条件とは、当然といえば当然だが、人口密集域であること。たとえば団地だ。これも移動時間を大幅に削れるし、団地は在宅率も高い。統合すると、営業所の近くの大型団地が含まれ
た地域がベストだ。この条件が揃えばかなりの数を稼げる。ちなみに、宅配物は基本的に死ぬほどあるので宅配個数の数的上限に気を使う心配はほぼない。
この夢のような「稼げる担当エリア」はまるで牢名主のような古参の臨時ドライバーが手中におさめることになる。もちろんどの営業所の近くにも近所に団地があるわけではなく、地図とにらめっこした牢名主たちによる人気の営業所ランキングというものがあることは1ミリでも頭を働かせれば知れよう。臨時ドライバーは営業所ごとに契約するため、契約前に稼げる担当エリアがほかの“同業者”に取られていることを知ると契約“寸前”にエサを求めて湖を移動する渡り鳥のようにあっちこっちの営業所を飛び回り少しでも稼げるエリアを手に入れる人もいる。彼らがことごとく稼げる担当エリアを手中におさめる理由は、なんやかんや言うまでもなく、ちょっとした政治力というやつか。地獄の沙汰の渡り方を知らない新参者は往々にして遠くへと労働に出される。頑張っても一日100から130個ぐらいが限度であろうか。収入にして30万から35万円。働き蟻は老いた、いつ死んでもいいアリだというアリの社会とは逆だ。

祐平はまず山と溢れる担当エリアの宅配物を自分用と臨時ドライバー用とに分ける。これは朝に一回、昼に一回、夕方に一回ある作業だ。

「昨日は眠れたか?」
「ああ、林田さん、おはようございます」
せっせと仕分けしていた祐平に話しかけた林田という男は、この営業所が管轄する地域のセンター長だ。センター長とは、まあ、現場方のトップと言うか、兄貴分というか、ま、一応管理職だ。学校の部活動でいうキャプテンがその役割に近い。30半ばの、明らかに昔ヤンキーだったであろう雰囲気をまとったパリッとしたいい男だ。
「はい、眠ることしかしませんでしたね」
「そうか」
林田は少しはにかんで言った。そして、
「お前んとこの沖田君はどうだ?」
と、訊いた。
「いいですよ。なんてったって若いですからね。物覚えが違いますよ。もう地図はばっちり覚えちゃって。礼儀正しいし。体力あるし。それにほら、文句言わないし」
「だろうなあ、いい子そうだもんなあ。なんとかさ、祐平君も彼をこっちに引っ張る方向でなんとか、ね」
林田は祐平に付いた珍しく祐平より若い臨時ドライバーをスカウトする気なのだ。彼の実家は板金屋をしていて、本人はその仕事の手伝いをしていた、ということになっているが、親の話ではほぼニートだったらしい。親の話と書いたが何も履歴書を親と一緒に出しにきたわけではない。いや、親と一緒に出したといえば出したのだが、沖田の実家は昔からこの会社の集荷をしている、その縁があるのだ。だから面接は彼の実家の受付で行われた。どのような話し合いの経緯の末にこのバイトをすることになったのかは知らないが、祐平の会社からすればそんなことは関係なく、もちろん即決だった。
「それって、どっちですか?」
「うむ、お前と同じだな」
祐平が訊ねたのは、この繁忙期の臨時ドライバーとして常連になって欲しいのか、それとも社員になって欲しいのかだった。そして、お前と同じ、と言われたということは社員としてという意味だ。祐平はバイト上がりで、この林田に口説き落とされたのであった。バイト時代にこのエリアを担当していたことから、繁忙期にはこっちに来るのだ。しかしこの業界、繁忙期以外の日頃の業務には人手は十分こと足りている。スカウトという形で社員を抱えこむ必要性は無い。だが、祐平の例などはよくあること、この業界には特に若い社員が辞めていくサイクルがある。この12月のシーズンが終わり、ひと息ついたころにそれは佳境に入る。
祐平は、また誰か辞めるのか、と思ったが口には出さず、
「厳しいんじゃないですか。実家の跡継ぎでしょ、彼」
と言った。
「いや、跡継ぎはオヤジさんの弟子がいる。それに沖田君は次男坊だし、大丈夫だろ」
林田は根拠の無い自信に溢れているようだった。これも宅配ハイによる産物であろう。
「まあ、頑張ってみます」
「彼が何かミスしても怒るなよ。いつもニコニコで対応しろよな」
「いやあ、彼はもう怒らせるようなヘマをしませんからね。今からヘマをしても、それはご愛敬で済ますような信頼を築き上げちゃいましたから、彼」
「そうか、ますます欲しいな」
林田はそう言うと、自分のトラックに戻っていった。

祐平が会社のトラックに宅配物を積み込んでいると、その沖田がやってきた。時刻は7時。

「おはようございます」
「おはよう」
長い髪をして色白でいかにもニートという風貌だが、それに反して、背はさほどではないもののやたら体格がいい。どうやら、格闘技が好きで鍛えているようだ。このことを克明に話したらきっと克明も、ますます欲しいな、というのだろうと祐平は思った。沖田に迷惑がかかると思い、今まで克明には沖田のことは言わなかった。個人情報が漏れるなどあってはならない。
沖田は会社支給のパステルグリーンのジャンパーを着ている。この宅配員ご用達の衣装、実は盗難防止のため宅配物と同じくバーコードで管理されている。というのも、現在お客様に宅配する場合の口上として、正確には「○○宅配です」と言わなければならないことになっているが、これが実に通りが悪く、「宅急便です」で済ますことがもっぱらだ。中には、ちゃんと、どちらの会社ですか?送り主はどちらからですか?、と訊いてくる防犯意識の高い客もいるが大抵はそれで通る。条件反射で鍵を開けてしまう人もいる、その宅配の服装が宅配業者の証になっているからだ。これは犯罪に使えると祐平は何度思ったことか。目と耳が認識した情報は脳の持っている仮想情報と直接つながってしまう。それが思い込みだ。オートロックのマンションなど誰かがその格好を信用して玄関を開けてしまい一度入り込んだら…、侵入できない場所はないのではないかと思えるほどこの服は人に与える効力がある。だからこそ、厳重に管理をしている、のだが、沖田は家に持ち帰っている。沖田だけではない。臨時ドライバーはみんなだ。ま、盗まれた時に誰が盗んだかはすぐにわかるということ
か。それにこの貸し出し用のジャンパー、洗ってるのは所長の奥さんだったりする。所長とはまさしく営業所の長で、当然事務方である。

「昨日はよく、ね…休まれましたか」
「おかげさまでね」
眠る、という言葉を選ばないあたり、相変わらず気を遣える人間だなと、祐平は思った。と同時に、気を遣ってやってるんだぞと気付かせようとしてくるんだよな、とも思った。

臨時ドライバーは週休一日だが、社員はどんなに忙しくても完全週休二日制になっている。臨時ドライバーは遅くとも11時ごろには帰路に着くが、この時期、祐平たちは深夜3時ごろ家に帰って、5時には家を出ることなどざらで、そうじゃなかったら死ぬだろう。しかしそれでも、その状態で最長三日間一日中ずっと休憩なしで忙しなく小走りで移動し、車を走らせているのだから、怖いものだ。ハイになっていなければ確実に居眠り運転が続出していることだろう。




ちょっとむかつくセンスシリーズ

「おたくは他店より安くするのが信条なんですよね」
と、
チラシではなく、価格.comを見せてくる。


的な

宅配屋と喫茶店(2)

まだ夜も明けぬ暗がりの中、高窪祐平はバイクにまたがり走る。長いはずの短い一日のはじまりだ。
本来なら日光街道を埼玉方面に向けて走り環七に入ってちょいちょいと行くのが最短ルートなのだが、祐平は言問橋を渡り大回りするルートをとる。それは積載量をオーバーしたトラックが検閲を避けるルートに似る。祐平はこのルートを、前者を表、後者を裏とし、裏から回ると表現している。なぜわざわざ遠回りのこのルートを使うのかというと、その大通りは二輪車による事故が絶えないことも少なからずあるのだが、途中で同僚をピックアップするためだ。
同僚の土井克明(どいかつあき)の家は入り組んだ路地の中にある。墓場の真ん前にある画一的デザインのアパートだ。克明はほぼ祐平と同期だが、年齢は三つばかり祐平より上だ。昔レスリングをしており今もプロレスラーにおれはなるんだと言ってはばからず暇な時間は肉体鍛錬に励むという立派な体格の持ち主で、年中坊主頭で年中粉を吹く肌を持つ人特有の土色の肌をした、しかし童顔の男である。
プロレスラーになるんだと言ってはばからないのだが、克明はいわゆる運動神経というものが壊滅的惨状だということを祐平は知っていた。以前ふたりで飲んだ夜、公園に寄った際、酔いもあってふとしたことからふたりは鉄棒をすることになった。子供のころ割と鉄棒が得意だった祐平が懐かしそうに空中逆上がりでくるくる回ったり、コウモリ振り降りで着地を決めていたその横で、なよなよと空中で足をばたばたするだけで、逆上がりができない克明がいた。昔はできたのにな、と克明はつぶやいた。祐平はこのときに、ああこの人は体力はあれどセンスがないんだな、と確信した。
ふたりは克明の家の近くのコンビニ前で合流するのが日常だった。

「おはようさん、ほい」
克明は祐平にいつも、そのコンビニで売っている200円未満の飲食物を駄賃代わりに渡す。一昨日は歯磨きガムなるもので、今日はゆで卵だった。
「殻、めんどくさいなあ」
作業的な話ではなく、殻むき作業にかかる時間のことを指しての、めんどくさい、であることはまっすぐ克明に伝わった。
「お前、今日もあれだろ?」
あれ、が昼食兼夕食の祐平特製サンドイッチであることは、祐平にまっすぐ伝わった。特製サンドイッチとは、八枚切りの食パン二枚の間に甘いピーナッツバターを塗り込み、さらに魚肉ソーセージを一本入れたものだ。シンプルながらにしてグロいサンドイッチ。これは即効性のある栄養食だ、が祐平の口癖である。その日常食を危惧した克明のゆで卵だった。だが、今日の特製サンドイッチはいつもと少し違った。
「今日はね、二本なんですよ」
「えっ?」
「今日はね、魚肉ソーセージが二本入りなんですよ」
「…そうか、それは、そうだな」
まだまだ夜も明けぬ暗がりの中のあくびまじりのよくわからぬ会話を交わし、いわゆるビッグスクーターは走り出した。克明が必要以上にぎゅっと祐平の胴を抱え、冬の寒空の下克明のぬくもりが必要以上に祐平に伝わる。祐平はそれをずっとイヤだなと思っていたが、言い出せなかった。いつものことだ。
克明を乗せると、祐平は職務上知り得た裏道をちょこまかちょこまかと走る。裏道ではあるが、このいつものルートは決して抜け道ではない。通りを走った方が断然早いのだが、これは祐平のクセのようなもので眠気覚ましの意味がある。いわば働く態勢を整える重要な儀式のようなものだった。

「あれ?土井さんも昨日休みでしたっけ?」
「なに?」
「土井さんも昨日休みでしたっけ!?」
「いや、聞こえてたけどね。それがなに?」
「…………」
ちょっとした会話のすれ違い。
「土井さん、昨日酒飲みました?」
「えっ、まさか」
「まずいんじゃないですかねえ、多少匂いますよ」
「…まあ、なかったことにしておいてくれ」
「なかったことにはできないでしょ」
「でも、ちゃんと八時間は寝た見積もりなのだが」
「見積もりってどういうことだよ」

ふたりを乗せたバイクは未だ明けきらぬ冬の暗がりを背に、営業所へと滑り込んだ。一通りの支度を済ますと早速仕事に取りかかる。
なお、ふたりはお歳暮シーズンやお中元、暑中見舞いシーズンの繁忙期のみ、普段働く台東エリアから出向し人口とエリアの広さが比較にならないこのDエリアの営業所にヘルプにやってくる。おっとそうだ、この物語は決して「土地付き」の物語ではないということを先に伝えておこう。そしてこの物語に登場する人物、世界は基本的に作者が作った架空の世界に於けるフィクションであるということも伝えておこう。しばしば現実世界に実在する地名等が出てくるが、それは現実であって現実でない創作の世界だということを認識されるようお願いしたい。

「今日もまた一段とパンパンだな」
克明はどこか嬉しそうに山と積まれた担当エリアの宅配物を眺めて言った。その横で、通称「親方」が荷分けのバイトに怒鳴り散らしながら指図をしている。いつもの静かな朝だ。

正直に言って、この繁忙期、祐平達ドライバーは諦めている。この山と積まれたその日分の宅配物を一日で配りきれるはずがない、と。実際はなんとか配りきってしまうのだが。もう床に着こうとした夜遅くにチャイムがなり、訝しみながら応答すると宅配便だったということはないか?、非常識と言うことなかれ。これには事情というものがある。まず、基本的にその日配送センターに届いた荷物はその日の内に消化しないといけないということ。繁忙期の膨大な量の宅配物はとてもじゃないが通常通りさばききれないためにそういうことが起こる。とは言っても10時を過ぎれば次の日に持ち越しになるのだが。それと、宅配の時間を指定できるようになってからというもの、この時期、その時間指定された宅配物をなんとか指定された時間内に配りきることで手一杯で、ついでに届けることができるマンションなどの集合住宅を除き、個宅の場合どうしても時間指定されていない荷物は後回しにされる。なぜならば時間が指定されていないからだ。では、時間指定した方が“得”なのかという話になるが、ドライバー達の本心をいえば、どうでもいい宅配物はいちいち時間指定をするな
、だ。受け取れなかった時にいつでも受け取れるよう不在票は存在するのだと。そしてたった一分指定された時間範囲から遅れただけでクレームをつけるなと。この時期、その手のクレームは平謝りという術により華麗に流されることを知るべし。
諦観を抱えた人間というものはニヤニヤと笑みを浮かべ、成り行きに任せるしかないと悟るものだ。だから、この時期ドライバーや事務方の人間は、まるで文化祭のために徹夜して準備をしている高校生のように、皆一様にテンションが高いし、優しくなる。いわば宅配ハイだ。宅配ハイの詳細についてはいずれ後述するとして、この時期に雇う臨時バイトドライバーが、例えば時間指定を無視してしまっても、あまつさえ宅配物を壊してしまうようなことがあっても、まあしょうがない、とニヤニヤ笑って済ます。次から次への流れ作業が続くなか、説教のひとつもしていちいち足を止めている暇はないという事情もある。




やっちまったあ

………………。やっちまった……また物語を始めちゃうのかおれは…………


とにかく、終わりまで飽きないよう頑張れおれ。

宅配屋と喫茶店(1)

「はあ、あと二週間もあるのか」
小さなワンルームマンションの一室で若い男が独り言を言った。休みの日だというのにどこに出かけるわけでもなく、だらだらと部屋で過ごしている。昼前のひととき、泥沼に横たわる死体のように昼過ぎまで熟睡してやろうとした前夜の思惑とは裏腹に男の体は10時前に主人を起こした。

高窪祐平(たかくぼゆうへい)は東京の下町で一人暮らしをしている。上野にほど近い、あの「おそれ入谷の鬼子母神」の近くだ。すこし足をのばせば浅草、反対側に足をのばせば鶯谷、谷中、日暮里、根津、千駄木、中央通りを行けば秋葉原にも近い。しかし、ここに越してきてから幾年かたったが、祐平はたまにふらりと気だるげに上野のお山に登って動物園に行くぐらいで、浅草寺も仲見世も花やしきも5656会館もアニマル浜口ジムも吉原も山谷も谷中の墓地も商店街も、あの桜餅も食ったことがない。彰義隊と江戸時代の刑場である小塚原の罪人供養碑があり「吉展ちゃん事件」の現場になった円通寺にも、私的な用では秋葉原にも足を踏み入れたことはない。当然、「おそれ入谷の鬼子母神」との狂歌で有名な真源寺にもだ。東京タワーに上ったことがない東京育ち、それだ。
祐平はコーヒーを飲みながら昼過ぎまでぼーっと過ごし、昼食を取りにきた客があらかた出払ったところを見計らって、部屋を出て退屈な階段をぶっきらぼうに降り、一階にある喫茶店に向かう。
いつものことだ。
ちょうど喫茶店のランチタイムが終わるころ、店は休憩に入ろうとしている。構うことなく祐平は喫茶店の木枠に油で煤けたダイヤ型のステンドグラスをあしらった扉を開ける。祐平が休みの日、ランチタイム最後の客は決まって祐平だった。

「どうも」
古めかしくカランコロンと鳴る扉の鈴の音と重なる挨拶。商売用のBGMではないAMラジオ。
「おう、重役出勤」
生まれも育ちもここだというマスター兼大家のいなたいギャグ。
いつものことだ。

思えば祐平は、いつも決まったことをする。ハンバーガー屋に入れば、どんな新メニューが仰々しく宣伝されていようがいつも決まったものを注文するし、コンビニで買うものも同じだ。たまに出かけるファミレスも同じ店だし、もちろん注文も同じだ。服を買いにいくのもアメ横の同じ店だし、いつも自分で切る髪型もいつも同じやり方でいつも同じだ。カラオケに行けばいつも同じ歌をうたうし、自慰にふける用具も、もう何年もラインナップに変化はない。吸ってるタバコも一度として浮気したことがない。たまに思い出したようにやるテレビゲームは昔にクリアしたゲームだ。だから、

「A定でいいの?」
「お願いします」

マスターの奥さんの確認の言葉にも、いつも同じ言葉でかえす。
発見と発展のないなんとも退屈な生き方だなと祐平自身も思ったりするが、案外、同じことをするのは居心地がいい。二十歳を越えて間もない男にしてこの棺桶に片足突っ込んだ老人のような生活パターンはどうかと思うが、こうして、奥さんの確認終了と同時に本日のA定食が出てくるように。
ある意味、人生において貴重な時間を節約してるとも言える。だが、祐平にはその時間の貯蓄を注ぎ込むものがなかった。同じこと、の中にそれはないのである。

「相変わらず忙しそうだな、ちょっと小さくなったか?」

そこそこ忙しいお昼時の仕事をやり終えた小太りのマスターと祐平は薄暗い照明の店内で会話をする。なぜ薄暗いかと言うと、北向きな立地ということもあるが「きたねえもんを隠すためだ」とはマスターの談。決して雰囲気作りと言わないかわいいマスターだ。

「ええ、クリスマスを過ぎるまではこの調子ですよ」
この言葉を何回言ったかわからない。
「ねえ、大変」
倒置法を用いる奥さんの合いの手。
「やればいいのよ最近また、ほらあれ、目の上のたんこぶ、じゃなかった、メタボになってんだからあんたも」
「言うにことかいて目の上のたんこぶたあお前、誰に食わせてもらってんだって話だよな?」
マスターの問いかけに祐平がかえす暇なく、
「あらあらあらあら、誰があんたにメシを食わせてやってるのよ。あたしでしょ」
「そりゃお前、家庭のメシのことだろ」
「いつぽっくり逝っちゃうかわかんないんだからこんな体型じゃ。あたしだってこの店のメニューぐらい作れるんですからね」
「ばかやろう、それをお前、亭主に向かって言うかお前」
淡々と食事を取る祐平の口の中で唐揚げのジューシーな肉汁がはじけた。
「ねえ、この唐揚げだって肉に業務用のやつ使って揚げてるだけじゃないよ」
祐平の口元から少し肉汁が垂れた。
「ばかやろう、物事にはタイミングってやつがあるだろ」
その通りだ何もそれを今言わなくても、祐平は思った。
「この唐揚げひとつにしても、この、あの、なんだ、こんだけジューシーなもんにさせるタイミングってもんがあるんだ」
ああ、おれへの気遣いじゃなかったのか、祐平はそっと苦笑いを浮かべ、唐揚げと一緒に言葉を飲み込んだ。このマスターと奥さんのやりとりも、推して知るべし、だ。

ああ言えばこう言う夫婦のかけあいを聞きながら、祐平は思う。変な言い方だがこの夫妻はむやみやたらにおれをかわいがるな、と。祐平自身、自分は、特に仕事用に精神のスイッチを入れていないとき、まったく社交的な性格をしていないと認識している。夫婦が子供に恵まれなかったのかと思い訊いてみると、息子と娘がいる、という。ではおれと同じで、親子仲が悪いのかと当たり障りない質問から探ってみれば、そんなことはなさそうだ。子供らが不孝なのかと思えば息子は二浪して近くの国立大に受かったと嬉しそうにバカにする。娘は今デザインとかいうわけがわからねえもんの勉強をしていると誇らしげにバカにする。陰気で社交性のないいつも同じようなことを言う祐平を必要以上にかわいがる条件はないように思える。しかしまるで家族のようなこの扱い、祐平は不思議だったが、さすがになぜぼくをそれほど優遇するのですか、とは訊けない。そんなことを訊く奴は自意識過剰のナルシストか、竹を割ったようなバカか、インタビュアーだ。
食べ終えた祐平はたまにふられる話に適当に答え、適当なタイミングで席をあとにする。明日の仕事を思うと、何もする気が起きない。祐平は部屋に戻るとタバコを吸いぼんやりとして、「体よ休まれ」と念じながらテレビなどを観た。何か考えてしまうと自分が自分ではなくなってしまう気がした。