この「あかさたな」もよくお客様を笑わせる芝居だった。
  昭和48年5月1日から6月30日迄の二ヶ月間芸術座(今のクリエ)の公演、評判も良く更に昭和51年1月に名古屋中日劇場を満員にしている。

  私の役は三木のり平演ずる大森鉄平家のお抱え車夫東六で五場面に出ている。

  山田五十鈴。水谷八重子。丹阿弥谷津子。一の宮あつ子。小鹿番出演で後は劇団・東宝現代劇である。

  作は小幡欣治演出は菊田一夫。小幡欣治。

  当時演劇雑誌「東宝」が発行されていて時にはその月に近い公演の演劇評論家(遠藤慎吾。杉山誠。戸板康二。)と菊田一夫先生による作品の合評会が掲載される。

  はばかりながら、その合評会の一部を転載しますが「(遠藤)  その他のワキ役も心得が出来てきて、車夫などイタについて来た。  (杉山)   ああ小林誠と今藤 紀生ね、あのへんもなかなかいい。(遠藤)   十年前の芸術座を考えたら大変な違いだ。
  (菊田一夫)  それはあなた、十年前はみんなズブの素人だもの、今の一期生、二期生なら、よその劇団にいて、十年か二十年やっているのに誰一人負けないね。 ただ年齢の若さはどうしょうもないけれど
(杉山)やっぱり芸術座の舞台というものがいいんだな。俳優が育って行くためには大変いい舞台だと言える。(遠藤)役者の演技の迫力が、細かいところまでじかにつたわってくるよさがあるしね。」

   これを読んでいると如何に菊田一夫先生が劇団・東宝現代劇を信頼してくださったがよくわかる。活動の場所を失った東宝現代劇を先生はあの世でどう思っていらっしゃるのか。

   東宝現代劇と言えばご婦人のお客様が多かった。如何にも身近に感ぜさせる文芸作品も多かった。

   一番思い出すのは三木のり平さんは台詞を覚えなかった。あらゆる所に台詞が書いて貼ってあった。この芝居の終わり頃の場面ではお弟子さんを銅像にして立たせて置いて台詞をたしかめていた。


 私の役は何時ものり平さんにくっついているのだが、不思議と台詞を聞かれなかった。ただあの狭い芸術座の舞台においての車の運転の信頼度は厚かったみたい。

  後に東映で映画化したとき私に出演オハが来た。それも後ほどに知ったのだか、東宝では勝手に断っていた。後からのり平さんのマネージャーのM氏が「何で小林さん出演を断ったんですか?」と聞かれ答えに戸惑った、知らない事だもの。
 その役は山城新伍がやっていた。