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大井神社大祭総合研究所

島田大祭? 帯祭? おヽいさんの祭ってなんだろう?
このブログは 『永く万人に愛され続ける大井神社大祭』を
目指して、知らない事を教え合う架空の研究所です。
ただ今、大祭に対する質問も受け付けております!(*´∀`*)

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三味線の杵屋五三郎先生

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↓前々回の前夜際(島田大祭)においでてくれました。


島田大祭・帯まつり 12日開幕前夜祭に190人で迫力の長唄

島田大祭の前夜祭で「元禄花見踊り」を華やかに披露する出演者ら=10日午後5時34分、島田市の島田市民会館で(山田英二撮影)  島田市で12日から14日まで開かれる日本三奇祭の一つ「第105回島田大祭・帯まつり」の前夜祭「長唄の夕べ」(中日新聞東海本社など後援)が10日、同市民会館ホールで開かれ、華やかな長唄と三味線、お囃子(はやし)の演奏で開催ムードを盛り上げた。  3年に一度開かれる大祭は、江戸時代から江戸の長唄の関係者らが参加するなど、長唄と縁が深い。長唄による前夜祭は9年ぶり4回目。社団法人長唄協会が協力し、鳥羽屋里長会長や杵屋喜三郎名誉会長、杵屋五三郎名誉顧問の人間国宝3人や傘下24流派の会員ら、全国から約190人が出演した。  これほど多数が一堂に会する長唄の演奏会は全国的にも珍しく、約140人が六段の山台で「元禄花見踊り」を演奏したほか「越後獅子」「勧進帳」なども披露。鳥羽屋会長ら人間国宝3人の対談も行われ、伝統の芸術が客席を魅了した。出演者のうち約60人は大祭にも参加する。 3年に一度 大名行列や鹿島踊り 3日にわたり豪華絢爛披露  島田市で12日に開幕する「第105回島田大祭・帯まつり」(島田大祭保存振興会主催、14日まで)は10日、同市中央町の市民会館ホールで前夜祭「長唄の夕べ」も催され、3年に一度の開催に向けて関係者が急ピッチで準備を進めている。 (佐藤隆)  大祭は、大井川の氾濫(はんらん)を鎮護する同市大井町の大井神社の祭神が、神輿(みこし)に乗って、同町に遷座する前に神社があった同市御仮屋町の御旅所に3年に一度、里帰りする神輿渡御が起源とされる。  渡御には警護に当たる大奴(おおやっこ)などの大名行列(県指定無形民俗文化財)や鹿島踊り(同)などが従ったとされ、1695(元禄8)年に第1回が催された。  初日と2日目は、中心街の各町で組織する一街から七街が、午前中から各街を回り、総勢約350人の大名行列や鹿島踊り、屋台踊りなどを披露。渡御が行われる最終日は、大名行列や鹿島踊り、神輿などの約550人が「御渡り」の行列を組んで、午前7時半に大井神社を出発。本通を経て御旅所を往復する。  大名行列の呼び物・大奴は、25人が帯を両脇の太刀に垂らし、左手に蛇の目傘を持って、ゆったり歩く。行列の中でも豪華絢爛
2007/10/11 00:00 【中日新聞】

長寿であり、結果を残されカッコイイですね。

ありがとうございました。

m(_ _)mクローバー
暴れ坊の大井川 瀬替えのおかげで一安心

というのは考えが甘し。

1590年の瀬替えのあと
1604年に島田宿、洪水で流されてますから

とういことで
2012年 9/24、牛尾山を420年ぶりに削り始めました。
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詳しくはコチラ(国土交通省)

この工事「大井川・平成の大改修」と呼ばれているようです。

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↑工事の進み具合

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↑昨日2/3の現場写真 金谷岸から南を向けて撮りました。
「バイバイ!牛尾山」って感じですね(^-^)

うん、あと数年で牛尾山はなくなります。

新東名で大井川を渡る時や川根へ行く時などありましたら、チョット気にかけてもいいですね。

近々必ず起こるといわれる「東海地震」
波上流の老朽化したダムが決壊して大量の水が流れ出ても

何事もなくseiそのまま海まで行っちゃってくれますように。

クローバー

野田山の大井神社跡地探検隊

↓今回の登山口は静大付属中学の北側
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島田宿が流された時は東海道(本通り)もなくなりました。
元島田に宿場を移したその時はこの道が東海道でした。

↓山(大井神社)へ向かう道の脇に
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↓小さな沢がある
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お参りをするために登山する際、この沢の水を
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(写真はイメージです)

↑お手水として利用しました。
それが由来でここの地名を「御手水ヶ谷:おちょうずがや」といいます。

↓茶畑の脇を登り始め
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↓進むにつれ 道がなくなっていく。
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そして、山頂に近づくと
↓島田のマチが見える所があったりする。
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頂上付近
↓何か手がかりになるものはないか探し始める。
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すると「とっくり」と「おちょこ」が山頂北側に落ちているのを発見。
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祠の台の石がないか探してみるが見つからない。

台座発見を諦め
「現大井神社」でいただいたお神酒とお清め塩をまいて全員でお参り。

そして記念撮影
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あらためて見ると
島田大祭実行委員
住職
名取
研究家
大奴
考古学者

とディープなメンバーですねシラー

そし~て、山の中腹で農作業をされている方から「この山頂の持ち主のお歳を召されたおばあさんに尋ねればわかるかもしれない」との情報を得ました。

その方の家を目指して下山開始。
↓降りは獣も通らないような険しいルート

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その手がかりになるおばあさんのお宅へ訪問するがあいにく留守。

という事で

今回は「とっくり&おちょこの時代鑑定」と「おばあさんおばあさん情報」待ちということで

探検は次回へつづく

↓あっ!これ今回の探検ルート
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なんか‥帰りルートは想像以上に道 ? が険しくて笑ってしまいましたにひひ

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 波 洪水に襲われた島田の民は山手方向へ避難しました。 ----

氏子と共に「大井神社おとめ座」も「野田山」へ(一時的に)遷座します。

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↓コチラが「野田山」~スクロールで拡大、ドラックで移動出来ます。



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野田山の大井神社‥ ↑ こんなイメージ

400年、時が過ぎているため、祠部分はないと思いますが

台座部分(石)が発見できればいいなあと期待しています。

大井神社の避難先は、過去に研究者や大井神社関係者が探しに行きましたが、未だに確定していません。

そこで えっ

明日 2013年 2/3 9:00

「島田宿・金谷宿史跡保存会」と「島田大祭史研究会」の合同チームでやま「野田山の大井神社跡地」を探しに行きます。

ご一緒されたい方は info5884ksk@yahoo.co.jp ←コチラへ連絡下さい。

歴史的発見を共有できるかもですよ(^ω^)

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本日、2/1

島田市内の小学校で

島田大祭史研究会会員による

島田大祭の授業がありました。

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児童の皆さんから「地元の祭りを詳しく知る事ができた。」と好評でした。

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大井川は急流川

両岸のまちや村で江戸時代の終わりまでに70回以上の被害が記録されています(大井川土地改良区)

特に慶長9年(1604)の水害は大きかった。
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外人この時、洪水で向谷の堤防が切れ、島田のほとんどの家と田畑が流される。

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あまりの水の勢いで大井神社にある重い石の灯篭が川尻(吉田町:大井川河口に位置する)まで流されたという
(現実的ではありませんが、それほど大きな水害だったとの解釈です:大井神社宮司さんの話)

そして、島田は川原のようになってしまった。

家や田を失った人々は、他の土地(島田市元島田)に移り住みました。

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せがえ【瀬替え】

新しく河道を掘削して、河川を付け替える工事。

400年前の大井川の瀬替えの話

新東名より北へ500m

当時の川流れは山に当たって西へ屈折。

その山を削って新しく直進する河道を作る。

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→→が瀬替え前の流れ

部が掘削箇所(潮山:別名 駿河山~現在は牛尾山)


時は天正(てんしょう)18年(1590)頃

この「瀬替え」
山内一豊が行なったという通説は誤りで
駿河国主「中村一氏:なかむら かずうじ」が正しいようです。(掛川誌稿)

彼は小田原征伐において羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。功により駿河国駿府14万石を拝領する(その年も1559年)

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名君が、暴れ川に苦しむ民を救うために行なったのでしょうか?

「東海道の目的は物流、人流よりも通信としてのライン(中央から地方への命令伝達のため)の意味合いが大きい(考古学者:大塚淑夫氏)」の説の通り、秀吉の命令により赴任後すぐに現牛尾山掘削工事を始めたんですかね。

稲まあ、目的は何にしろ我々土着の民は治水、田畑開拓など生活環境が向上したのですからハッピーエンドです。

(^ω^)

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せん‐ざ【遷座】とは神仏または天皇の座を他の場所に移すこと。

神社大井神社遷座の足あと

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今から1148年前

・貞観7年(865年)『授駿河国正六位上大井神社従五位下』(駿河国)正六位上(しょうろくいじょう)大井神社に従五位下(じゅごいげ)を授く)との記載があります。

・『駿河記』(1812年編纂)、『駿河志料』(1861年)によると、ある時現在の川根本町大沢村より流されて島田に祀られたとされています。

・はっきりと島田に鎮座の記録が残っているのは建治2年(1276年)

・慶長9年(1604年)7月の大洪水で、島田の街と共に大井神社は現在の元島田の野田山へお遷しされます。

・元和元年(西暦1615年)になり、島田の町も元の町並みに戻り、大井神社は現在の御仮屋町のお旅所(おたびしょ)の地にお遷しされました。

・その後、占いにより元禄2年(1689年)現在の御社地(大井町)にお遷しされました。

・元禄8年(1695年)から、元のご社地へ御神輿のお渡りが行われる。

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時計大井神社の歴史1148年を→1日(24時間)に凝縮してみます。

865年にはすでにどこかに存在していたわけですがこのタイミングを日付けが変わる午前0時

2013年の今を一日が終わる24時とすると‥

・0:00
奥大井に存在していた。
(平安時代)

・8:36
下島に祀られていた。
(鎌倉時代)

・15:27
大水のため野田山へ避難
(江戸時代)

・15:41
下島へ戻る

・17:14
現在の場所へ遷座

・17:21
元のお宮への里帰り(神輿渡御)始まる~つまり大井神社大祭

・24:00
現在に至る。


こうして見ると現在地に鎮座している時間は神社の歴史の中では28%位ですかね。

昔の事を知らない私たちは神社はずっとここにあったような錯覚を持ちます。

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私たちの祖先は

恵と畏れをもたらす大井川を神として敬ってきました。

その年代は記録のある865年より前だと考えても不自然ではないでしょう。

大井川の神様

大井神社‥ いつから存在してたんでしょうね

そして

25時、26時の大井神社と大井神社大祭はどんな風になっているのかな(o^-^)

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江戸の総鎮守「神田明神」

天下祭の研究会「神田倶楽部」

01/27は同会の新年会

遠州祭り研究会の皆さまにお誘いいただき
恥ずかしながら末席を汚してきました。

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島田、掛川、熊谷、寄居、川越、越生、加須、本庄、飯能、鴨川、佐倉、館山、石岡、笠間、青梅、八王子、麻布氷川

各地からお祭りの研究家たちが集い楽しいひと時をすごしました。
江戸時代に入ると、幕府は江戸を守るため、全国に関所を設置しました。

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大井神社大祭に招かれた吉住小三郎と関所の役人のやりとり‥

アメーバピグ(オカ松)三代目芳村伊十郎(二代目吉住小三郎) 寛政11年(1799年) - 嘉永7年(1854年)

 伊十郎が初めて島田の祭に呼ばれていくときに、箱根の関所で、「貴様は何の商売だ」と問いただされました。


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「私は長唄の唄うたいだ」と言ったところが、役人が長唄を知らなかったため、「それだけじゃわからぬからやってみせろ」と言われました。

そこで、「私は島田の祭にいくところで、ちょうど三味線弾きも一緒に連れておりますから、唄ってごらんに入れよう」といい関所でうたって聴かせました。

「なるほどおもしろいものだ、もう一つやってくれ」と役人がいうので、もう一つ唄うこととなりました。

唄い終わると、役人が「もういい、確かに唄うたいであることを認めたから通っていい」と言いました。

しかし今度は、伊十郎が承知しないのです。

「始めは唄うたいというものがわからないからやってみせろ、というからやってみせたのだが、二度目はあなた棣のほうでお頼みになったのだ。
頼まれてうたったので、これは私の商売ですから、ただで帰るわけにはいきません。たってお出しにならないというなら、これから小田原へ戻って訴える」というものだから、役人のほうが、どうもしようのないやつだというので、祝儀をだして通したということです。

(芸の心:吉住慈恭著より抜粋)

面白い話ですね。でも筋は通ってます(^-^)

当たり前ですが、当時江戸から歩いて島田までおいでてくれたって事ですよね。

有り難いと同時に、一流江戸芸人を招き寄せる大井神社大祭の力も大したもんです。

余談ですが、たしか‥彼(2代目)が島田でお金を借りた証文が現存しているとか。

どこにあるのかな?


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